博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:在日ブラジル人の移動形態および移住コミュニティが家族構成 変容に与える影響についての考察 -分散型居住地と集住型居住地の比較研究-
著者:ヤマグチ アナ エリーザ (YAMAGUCHI ANA ELISA)
論文審査委員:小井土 彰宏、町村 敬志、伊藤 るり

→論文要旨へ

本論文は、在日ブラジル人の抱える問題群を、その移動、居住、就労の実態に関して、量的および質的手法を用いて詳細に分析したうえで、家族内部の関係にまで及ぶ深い聞き取り調査に基づく事例分析により解明することに取り組んだ意欲作である。ヤマグチ氏は、
居住の空間的パターンが著しく異なる2つ都市を対象に、多数のブラジル人に質問用紙調査を実施し、男女の国際移動・国内移動の時空間パターンを分析し、単なる出稼ぎか定住化かといった二分法的理解を超えて、多様な移動類型を提起した上で、彼らの就業の実態を夫婦・世帯レベルで経験的に解明した。その一方で、本研究は日本での滞在・帰国の主観的計画、滞日の意味づけという主観的世界を徹底した個人あるいは家族のインタビューで掘り起し、帰国への意思と滞在の長期化という乖離の生み出すダイナミクスを描きだした。そして、その結果として頻繁な越境移動・国内移動と転職や勤務形態によって、夫婦をはじめとする家族の紐帯が弛緩し、別居、離婚、同棲などが頻発する家族の解体というべき状況が多発していくことを分析した。本研究は、在日ブラジル人の抱える問題を、ホスト社会日本との文化的差異による不適応が引き起こした現象に単純な帰属させるのではなく、その基底をなしている社会構造的原因とその影響下での家族の抱える多重的なものであることを解き明かすことに取り組んだ新たな学問的試みであるといいうる。

本論文の構成
序章 課題設定の背景 10
第1節 問題の所在 10
第2節 本論文の問題関心 10
第3節 研究課題と本論文構成 13
(1) 「家族構成の変容」 13
(2) 「移動形態」 14
(3) 「移住コミュニティ」 14
第4節 先行研究の検討 16
(1) 時系列的にみる在日ブラジル人の研究動向 16
(2) 移民と家族に関する先行研究 19
(3) 在日ブラジル人家族に関する先行研究 20
(4) ブラジルの家族に関する先行研究 21
(5) 移動形態に関する先行研究 21
第5節 研究方法 22
(1) 質問調査票 22
(2) 面接調査 24
第6節 調査対象地域の特徴 24
(1) N市の概要 24
(2) T市の概要 25
(3) 両市の特徴と比較の意義 25

第1章 研究調査方法について 26
第1節 研究調査票による移住コミュニティと家族分析との関係 26
第2節 研究調査方法 26
第3節 N市とT市における実態調査-2003年と2006年 27
第4節 本研究の質的データ―世帯分類 29
(1) N市における調査方法について 31
(2) T市における調査方法について 32
(3) 面接調査方法 32
(4) 面接調査対象家族の属性一覧 33

第2章 在日ブラジル人家族の移動形態に関する類型についての考察 36
第1節 問題の所在と課題 36
第2節 先行研究の検討 37
(1) 「リピーター型」移動 37
(2) 滞在の長期化-戦略の多様性 37
(3) 「定住化」論 38
第3節 ブラジル人の移動形態の類型化 41
第4節 「一時的もしくは短期型」滞在 44
(1) 「ターゲット・アーナー」タイプ 44
第5節 「リピーター型」移動 46
(1) 「計画的」なリピーター 47
(2) ライフステージ要因によるリピーター 49
(3) 外部要因によるリピーター 49
(4) なりゆき任せのリピーター 50
(5) 両国の社会に不適応なリピーター 51
第6節 「長期化型」滞在 51
(1) 自らの意志に反して作用する外部要因 52
(2) 消費願望による滞在長期化 53
(3) 計画通りの滞在長期化又は客観的な永住化 54
(4) ブラジルでの生活基盤の欠如による長期化 55
(5) 意図せざる結果としての滞在長期化 56
(6) なりゆき任せの来日による滞在長期化 56
第7節 「定住あるいは永住型」滞在 57
第8節 今後の移動形態について 59
第9節 結論 60

第3章 在日ブラジル人家族の新たな移動形態に関する類型の試み―移民の「集団的錯覚」の視点から 61
第1節 問題の所在と課題 61
(1) 「永続的に続く一時的状態(provisory-permanent)」 62
第2節 「移民の世界」の構築メカニズム 63
第3節 移民の「集団的錯覚」とその構築 64
(1) 移民自身 64
(2) 受入国 68
(3) 送出国 69
第4節 「集団的錯覚」の結果と生活の操作 70
(1) 夢(帰国)の挫折と精神的苦痛 70
(2) 生活戦略とその影響 73
第5節 「集団的錯覚」と実際の帰国目的に関するデータ 76
(1) 今後の滞日予定年数と将来展望について 76
第6節 結論 79

第4章 在日ブラジル人家族と移住コミュニティの影響―分散型居住地と集住型居住地の比較 80
第1節 問題の所在と課題 80
第2節 N市およびT市の基本的な比較から 82
(1) N市について 83
(2) T市について 89
第3節 移住コミュニティN市と外国人登録者数-分散型居住地 91
(1) 全国の在日ブラジル人の動向 91
(2) 滋賀県の外国人の状況とブラジル国籍登録者数 94
(3) N市の外国人の状況とブラジル国籍登録者数 96
第4節 移住コミュニティT市と外国人登録者数―集住型居住地 99
(1) 愛知県の外国人の状況とブラジル国籍登録者数 99
(2) T市の外国人の状況とブラジル国籍登録者数 100
第5節 N市及びT市の地域的特徴とブラジル人家族 102
(1) N市について 102
(2) T市について 105
(3) メディアからみたN市及びT市 111
(4) ブラジル人居住者の視点からみるN市及びT市の移住コミュニティの比較 115
第6節 「時間」と移住コミュニティとの関係-T市について 118
(1) H団地での時系列的な変化 118
(2) H団地の「問題?」についての整理 122
(3) N市の居住形態の特徴とその形成 127
(4) 地域ごとの居住年数と日本での滞在年数 130
(5) 就労期間について 131
第7節 住居環境と家族構成変容について 133
(1) N市及びT市での居住形態について 133
(2) N市及びT市での居住者のブラジルでの出身地について 136
(3) N市のブラジル人居住地の形成過程-A業者の事例 137
第8節 結論 139

第5章 在日ブラジル人の家族構成の変容過程―形成と再統合のプロセス 141
第1節 問題の所在と課題 141
第2節 理論的背景 141
(1) 本研究における越境家族の位置づけ 141
(2) 調査方法 144
第3節 家族形成及び再統合の過程 144
(1) 家族形成過程及びその移動との関係 145
第4節 家族再統合過程とその移動との関係 152
(1) 段階的に移動した移民家族 154
(2) 家族単位の移民 156
(3) 分散型家族移民 157
第5節 移動先での世帯内構成 157
(1) 世帯内の人数 158
(2) 各世帯についての類型 159
第6節 多様化世帯の内部構成 162
(1) 「多様化世帯」の類型と特徴 162
第7節 結論 177

第6章 在日ブラジル人の家族構成の変容過程―解体と再構築のプロセス 178
第1節 問題の所在 178
(1) 本研究の位置づけ 180
第2節 家族解体プロセスと移動との関係 183
(1) 家族構成の変容過程-解体及び再構築についての事例研究モデル 184
(2) 家族再構築の要因―ジェンダー問題 186
(3) 再構築した家族の子どもの位置づけの問題 187
第3節 結論 189

第7章 家族構成の変容・移動形態・移住コミュニティの要因分析 190
第1節 家族構成変容の促進とその制約要因 190
(1) 個人的事情が家族に与える影響 190
(2) 移動する家族におけるジェンダー役割の変容 190
(3) 入管法改正の「血統主義」政策の理想と現実 192
(4) 入管法改正が作り出した夫婦間の権力関係 196
(5) 社会的抑制または統制システムの欠如 197
(6) 両国間の婚姻制度の差による家族構成の複雑さ 198
(7) 文化的及び宗教的背景が家族に与える影響 200
第2節 地域がもたらす移民コミュニティへの影響 202
(1) 移動先コミュニティの特徴が要因となる家族構成の複雑化 202
(2) ホスト社会の経済・労働事情がもたらす家族関係の複雑化 203
(3) 斡旋業者が作り出す家族構成 207
第3節 ブラジル人家族の移動形態における「客観的状況」と「主観的世界」に関する乖離及び矛盾 208
(1) 「客観的状況」の持続と「主観的世界」の維持が生み出す矛盾 208
第4節 「家族変容」プロセスについての事例研究 209
(1) ミランダ家-移動する家族におけるジェンダー役割の変容 211
(2) セソコ家-社会的抑制または統制システムの欠如 225
(3) サントス家-入管法改正が作り出した夫婦間の権力関係 251

終章 総括と展望 264
第1節 本論文の展開―家族構成変容から政治的レベルへの展開 265
第2節 今後の課題として 266

参考文献 268
日本語の参考文献 268
洋書参考文献(著者名アルファベット順) 269
添付資料 270
N市で実施した調査票とその結果 270
T市で実施した調査票とその結果 296
あとがき 324
事項索引 325

本論文の要旨

 序章では、本論文を貫く基本的問題関心、分析における焦点が提示され、そしてこれらの背景としての多様な先行研究の批判的検討が行われたうえで、研究方法の概略が説明される。まず、在日ブラジル人の抱える問題について、日本における研究蓄積を検討し、その中での移動における「出稼ぎ」から「定住化」、さらに移民システムによる環流という捉え方のあいまいさを指摘した上で、移民家族についての考察の不十分さを指摘する。そのうえで、家族の資源戦略や移住家族の移動形態の議論を欧米の先行研究から吸収しつつ、ブラジルの家族社会学の成果を参照し、自らが目指す移民家族の内在的論理を十分な量的経験的データに基づいて分析する研究の必要性を提起する。そして、この課題を達成するため、①家族構成の変容(越境する家族の再統合変動プロセス)、②移動形態(移動を繰り返すリピーター型移動の作用、その背景としての主観的な帰国志向と客観的に見た場合の「定住化」傾向のかい離)、③移住コミュニティ(集住か分散か)の3つの焦点となる要因を設定し、この相互作用の中でブラジル人家族の解体と再構築現象を分析する枠組みを提示する。
 第1章では、調査方法が説明される。本研究は、N市とT市において数年にわたり現地調査を繰り返し、質問用紙に基づく予備調査を実施した上で、N市においては2002年10月からの7か月、T市においては2003年7月から6か月をかけて標準化した質問用紙に基づく本調査を実施し、N市で532票(330世帯)、T市524票(250世帯)での調査票を回収し、総計で1056票、580世帯のデータを収集した。データ収集は、機縁法(スノーボール式)ではなく、網羅的な戸別訪問による留め置きによる記入と回収時に内容確認を行うことで正確を期した。このサンプルから抽出されたブラジル人世帯を対象とした面接調査では、N市で31世帯、T市で45世帯の計76世帯を対象に長時間のインタビューを行い、就労、移動経験、そして家族の変化についての詳細な聴き取りが2008年まで繰り返された。この上で、質問調査法と質的面接法の対象の、男女、家族構成、エスニシティ、などの基礎情報が提示されている。
 第2章では、これまで提起されてきた在日ブラジル人移民の移動に関する様々な類型化の試みを、国際移民研究一般における移動類型と媒介しながら検討し、従来の「出稼ぎ型」対 「定住化」という二分法や短期・長期・永住といった区分の限界を指摘したうえで、リピーター型・環流型という越境移動の持続現象を把握するための相対的に新しい概念をも批判的に検討する。その結果、(1)一時的ないし短期型滞在、(2)リピーター型移動、(3)長期化型滞在、(4)定住または永住型滞在、の4つの類型に整理し、さらに(2)(3)の類型の移動の反復や滞在の長期化を引き起こす外生要因や移動主体自体の選択やその動機を社会学的な視点から吟味することで、さらに類型を細分化して移動の多様性を示し、質問用紙調査で獲得したデータ分析でその類型の存在を裏付けていく。
 第3章では、移動の客観的なパターンを超えて、日本への移住、滞在、ブラジルへの帰国という一連の移動がどの様に主観的に移民によって意味づけられているかについて分析が試みられる。従来の日本のブラジル人移住研究が、移住者自身の付与する複雑で矛盾に満ちた意味を把握しなかったことを批判しながら、客観的には長期化しながらも帰国を強く望むという矛盾に満ちた状況を、ブラジル人研究者ヴィアナの提起した「永続的に続く一時的状態」というキーコンセプトを手がかりに検討し、さらにアルジェリア出身のフランス移民研究者アブデルマルク・サイヤードらの集団的錯覚の概念を導入することで、集合レベルで帰国を志向するブラジル人の主観的な意味世界が、客観的には長期滞在し日本に拠点が移行していく現実の過程と乖離してくという事実を指摘した。しかも、この両者の乖離は、帰国を志向することや本国の絆を維持することが、かえって最終的帰国を困難にするというパラドクスをはらんでおり、さらにこのような意識と現実の乖離が子供の成長と教育の場所を日本・ブラジルのいずれにするのかという家族の生活戦略を不明確にして、子供の将来の計画に非一貫性を生み出すもととなっていることを、インタビューデータの分析によって解明していく。   
 第4章では、移住者家族の社会的文脈としての地域と移住コミュニティについて考察が進められる。まず、対象都市、滋賀県N市と愛知県T市における、外国人国別登録数など基礎的人口・産業統計に基づく比較を試み、就業構造での高い製造業比率、急激なブラジル人の増加などの共通項の確認の上で、産業構造でのN市の高い電子部品工業比率に対してT市の非常に高い自動車製造関連産業の比率など、両市の対照的性格を素描する。そのうえで、両市におけるブラジル人の居住の空間構造的なパターンが著しく異なり、N市では市内の多数の地区に散在する一方、T市ではH団地とその周辺に集中する特徴的なパターンを示し、そこでのブラジル人入居者率がしばしば過半を占め、時に7割を超えたことを明らかにする。加えて、このH団地を中心とするブラジル人に対する社会的イメージが、どのように推移したかを代表的地方新聞でのブラジル人の報道について、時系列的なコンテンツ分析を通してその争点の生成を明らかにした。これらの前提の上で、団地で発生する住民との摩擦について分析を行い、いわゆるブラジル人がつくる「団地問題」の要因となる社会的コンテキストの差による誤解の構造を分析していく。典型的な地域問題としての清掃の共同作業への忌避についての対立も実はブラジルの社会的分業構造での清掃の意味や常態化した長時間労働という文脈でとらえるべき点を指摘していく。その上で、両市における居住空間パターンの差が、N市が請負業者・労働派遣業者による新規ブラジル人の獲得と彼らの社員寮への囲い込みの戦略による統制の帰結であるのに対し、T市が産業労働者向けの大規模な団地を前提とした居住圏の形成によってブラジル人自身が直接公団・県や民間アパート大家から賃貸するという居住者として対照的な環境を作り出していることを明らかにしている。
 第5章では、移動と適応過程を通してのブラジル人家族の形成と変容が分析される。第1に、家族の定義と範囲についての家族研究の中での議論を検討したうえで、ブラジル社会において民法改正により事実婚などの様々な関係が法律婚に近い権利を保障され、家族の多様な形態を生み出す一つの契機となったことを指摘する。次に、調査票データに基づいて、移住の中での家族関係の変動が検討され、男性が単身先行移住するターゲット・アーナーといわれるものに女性・子供がこれに続くことで再統合されるというモデル化された移動パターンとは異なる例が多く、結婚後夫婦ともに日本で就労し出稼ぎ収入の最大化を図るという移動パターンが多数存在することを指摘し、これを筆者は「家族ターゲット・アーナー」という概念で表現する。このような移動形態、そして家族がより広範な社会関係に埋め込まれる程度が低い事実、住居の選択可能性などの諸要因により、単身・夫婦・核家族以外の多様な家族形態(核家族以外の親族包含、事実婚でその他親族の包含、片親と他の成員、等)を細かく整理類型化するとともに、計量化し、それらがN市では24%、T市では実に44%に達することを明らかにし、ブラジル人コミュニティの中での家族の複雑化と錯綜した社会関係を摘出した。
 第6章では、5章で示した家族の複雑な状況とその計量的な把握を踏まえて、家族解体(family disorganization)をキーコンセプトとして、ブラジル人家族の現状がより内在的に分析される。筆者は、このコンセプトと法律的な離婚との差を論じる中で、在日ブラジル人を制約する法律上の離婚を行うことを困難にする制約(カトリック国ブラジルでの法的手続きの煩瑣さ、国外での費用、信頼できる弁護士の少なさ、等)をあげ、事実上婚姻関係が解体しながら形式上継続する背景を示す。このような制度的な制約と、家族の繰り返される移動や長期の越境的別居生活のストレス、夫婦両方の長時間労働、居住環境が作用しあい、夫婦の別居、元夫婦の其々が他の異性との同居・事実婚化、子供世代の事実婚、別居、別の相手との同居、など複雑で入り組んだ家族構造が次々と生まれることが説明される。
 第7章では、5章・6章を踏まえて、具体的な家族関係の変動の事例が詳細な複数時点での聴き取りに基づいて内在的に分析されていく。まず、在日ブラジル人家族関係の変動を規定する要因として、①移住家族の中でのジェンダー役割と日本労働市場におけるジェンダー分業、②入管法上の血統主義原則とその結果として、エスニックな非日系人配偶者を含む夫婦間での権力関係、③ブラジル人コミュニティ内部での社会的制御システムの欠如、④ ③の中でのカトリック教会の持つ機能の重要性とその影響下での正式離婚の社会的難しさ、等をあげて分析の前提とする。そのうえで、a)ブラジル人の就労における長時間労働の常態化が夫婦ともに重圧となっていること、b) 「日系人」夫婦といってもその多くは非日系人との婚姻であり、さらにその「日系人」配偶者の親自体が片親のみ日系人というエスニックな混交化が進行している実態を指摘する。以上の前提の上で、家族のライフヒストリーな事実を詳細な聞き取りに基づき分析し、その中で家族の構成員一人一人の移動経験、就労形態・家族形成、事業の挫折を丹念に時系列的に整理して提示していく。この作業の上に、三つの家族が選ばれ、夫婦の別居、配偶者以外との別居、法的婚姻関係が継続しながらも他の相手との同居や事実婚の成立といった家族関係を複雑化するイヴェントが繰り返され、複数の家族がこのようなプロセスを通じて、同時多発的に解体し、事実婚を通じて再編成されていくことを描きだす。このような文脈の中で、同時に親たちが子供の教育のために帰国してのポルトガル語での社会化、日本でのポルトガル語学校での教育、日本の公教育といった選択肢の中で必ずしも一貫した戦略を立てえず、これを受けた子供たちも、日本への不適応、両親の不和(家族の解体状況)のストレス、自らにとっては未知の国である親の母国ブラジルでの困難な体験、といった複合的な困難に直面しているという状況を示した。
 終章では、序章で提示された家族形成過程、移動形態、移住コミュニティという要因により家族変容を分析する枠組みに基づいて、三者の相互作用が在日ブラジル人コミュニティの抱える問題としての家族解体の現状を生み出すことを総括的に議論した。その上で、この解決が大きな社会的課題であることが主張され、問題がブラジル側にも越境的に広がるのを受けて、NGOやブラジル政府が遅れながらも取り組み始めている事実を指摘し、日本政府の側のこの課題への取り組みの必要性が示唆され、論文が結ばれる。

本論文の成果と問題点

本論文の成果は多様なものがあるが、次の5点が特に重要と考えられる。

 本論文の第1の成果は、従来の在日ブラジル人の実証研究が、単一のブラジル人集住地を主な調査対象として設定し、そこでの量的・質的調査に終始してきたのに対し、2つの性格の異なる居住地域を比較対照しながら、長期的に調査を繰り返することで、地域によるブラジル人コミュニティの特徴の差異を浮き彫りにしたことにある。これまでの先行研究では、愛知県、群馬県などの大規模な集住をしている地域で、特に特定地区に集住している都市(「集住型居住地」とよぶ)を主な対象として分析されてきたのに対し、本研究では、相対的に小規模のブラジル人居住都市で、かつ地域内で分散的に居住する特徴をもった「分散型居住地」も調査対象として選ばれ 集住型都市と分散型都市が、初めて体系的に比較されたことが本研究の大きな特徴である。これを通して、分散型居住地がブラジルからの初めての国際移住のゲートウェイとしての機能をより強く持つのに対して、集住型のT市は商店などの発達したエスニック・インフラ、公団・県営等の集合住宅が国内の他の居住地帯よりブラジル人を国内移動により引きつけた第二段階以降の居住地都市の役割があることを示した。また、この結果として分散型では居住をはじめとして派遣業者などによるブラジル人の生活管理がより徹底しており、これに対して後者ではブラジル人移住者の居住などの自律性が高く、このことにより、両地域の家族の形態にも差が生じ、集住型での著しい家族形態の多様化が進行していることを明らかにした。以上によって、都市間の差が多段階的移動上の位置と地域の空間構成を媒介として家族のレベルに影響を与える可能性を提起したことは、この分野への大きな貢献といえるだろう。
 第2に、在日ブラジル人である筆者が自ら収集した調査票データを正確かつ詳細に分析することで、彼らのこれまで知られてこなかった移動・就労・家族構成の諸側面を解明した点にある。日本人研究者による在日ブラジル人の先行研究でも、調査票に基づく量的手法による実態分析は行われてきた。しかし、その多くは日本語で質問用紙を作成した後、調査の実際の質を規定するポルトガル語への翻訳、現地での調査票の配布を翻訳者・業者等への委託によって来た。これに対し、ヤマグチ氏は、母語であるポルトガル語の質問用紙の表現を入念に検討し、また研究者本人と信頼できる調査補助者の計2名のみで、両市において網羅的に個別訪問をすることで、質問用紙を配布するとともに、回収段階でも戸別訪問により空欄や記載が不明確な項目を口頭で確認しながら受け取ることで、回収率を高め、回答内容の正確さを期していった。この結果としての、N市532名、T市524名、合計1056名からの回収データは、質量ともに他に例を見ないものであるだけでなく、家族内の夫婦をはじめとする複数の回答をした世帯が、両市で各々266世帯、340世帯にも上る点も特筆に値する。これに加えて、世帯レベルでのインタビューに基づく質的調査を、N市で31世帯、T市で45世帯実施し、しかも一時点だけでない例も多数含まれていることも評価できる。さらに、過去23年にわたる地方主要市の紙面データを収集しコンテンツ・アナリシスを行うことで分析し、ブラジル人の内在的状況に加えてこれを取り巻くマジョリティ住民の眼差しの分析により研究の複眼化も企図した。このような質的・量的調査法を併用し、またを側面補強するタイプの異なるデータを導入することは、社会調査上のあるべき方法とはいえ、それを正攻法で諸側面の間のバランスをとって実践することは困難を極め、これを成し遂げたことは高く評価しうる。
 精度の高い量的データを駆使することで、本論文は、①高い反復性を持つブラジル人の移動の時系列的パターン、②夫婦合算で1日20時間以上の労働をするものが25%に上る長時間労働実態とその負の影響、③日系人というエスニックなカテゴリーでありながら、実際には非日系配偶者との間の婚姻が約65%を占めるとともに、本人が日系人の場合も両親とも日系人の比率は60%を下回り、エスニックな混交化が内実として進行していること、といった重要な事実を少数の事例からの推論ではなく、計量的な根拠をもって提示した。このことはこの分野において大きな実証的貢献であるといえるだろう。
 第3に、本研究は、単なる事実の積み重ねによる実証的分析であるだけではなく、ブラジル人の内面的世界に切り込み、彼ら自らが置かれた状況をどのように構成して理解するかを、特にその集合的な意識の水準にまで立ち入って分析し、その客観的状況との乖離を指摘するばかりではなく、そのこと自体が様々な社会過程を引き起こしていくことを解明したところに大きな分析視点としての価値がある。例えば、本国への内面的志向の結果、親族へのかなりの送金を義務とみなされ却って皮肉にも帰国が延期される点や、自らが帰国するはずという集合的錯覚が、子供たちを高額のブラジル人学校で教育させる結果となり、支出の増大により、逆に彼らの帰国準備の蓄積を遅らせ滞在の長期化を引き起こす、といった様々な興味深いパラドクスの指摘は、単に在日ブラジル人移民のおかれた研究に貢献するだけでなく、新たな着眼点により移民研究一般の発展にも貢献するものといえる。  
 第4に、ヤマグチ氏は、母語であるポルトガル語の能力を駆使し、概念の持つニュアンスの多義性を配慮するとともに、ブラジル人の背景にある出身社会の文脈を考慮に入れることで、これまで見逃されてきたブラジル人たちの行動の背景にある様々な問題を提起した。たとえば、①自治会活動一般への消極性は、自治会という言葉からブラジルの文脈でイメージされる機能が日本と著しく異なるという事実、②週末の共同清掃作業への忌避が、彼らの長時間労働の結果であると同時に、社会的分業構造の中で清掃労働の置かれる価値づけの差に起因することを指摘し、日本社会からの一方的な眼差しでは理解できない問題の諸側面に光を当てるのに貢献している。
 第5に、家族が経験した複雑な変容過程を、世帯の複数の成員から聞き取り、夫・妻・子供のそれぞれのアクターの視点から複眼的立体的に解明したことは貴重な貢献といえるであろう。特に、家族の解体過程というプライヴェートな領域での変化について、時系列的に夫婦それぞれの視点から配偶者の行動への評価と反応を聞きだすことに成功し、これを通して、移住戦略の挫折、夫婦間の相互不信の構造とその背景、この中で子供のたちの葛藤がこれまでにない具体性をもって分析されていることは、特に今も深刻なブラジル人の青少年問題を今後考察していく際に重要な参照事例を提供していると評価できる。

 このような成果を上げた本論文ではあるが、同時にいくつかの問題点を持っており、特に指摘おくべきものには以下の3点があると考えられる。

 第1に、第7章で展開される家族の事例分析はこれまでにない詳細なものであり、家族関係の微細な部分にまで及ぶものだが、この結果として実際のインタビュー数に比べその数が限られ、またその二都市の間で集住型に偏っているという点で一定の限界があるといえる。質問用紙調査により、全体的傾向は捉えられているにせよ、この点は特に今後専門書として公刊する過程で改善すべき第一の課題と考えられる。
 第2に、本研究は家族変容の過程分析を一つの焦点としており、ジェンダー関係についても言及されているが、これらの分析においては具体的な観察に基づく事実発見が先行し、分析に先立つ家族・世帯の概念的規定が十分にされていないことや、理論的枠組みの考察に弱さが指摘できる。移住過程におけるジェンダーの変容に関する先行研究を参照しつつも、事例分析においては詳細な発見点の描写が優先しがちである。家族社会学・ジェンダー研究における理論的な先行研究を渉猟した上で、基礎的な家族、世帯概念の徹底した検討を行い、その上でこのミクロ・レベルの分析用具をさらに整備することが望まれる。事例検討の過程では、移住家族に関する家族社会学、ジェンダー研究にとって貴重な示唆を与える点が提供されているだけに、今後の研究においては、分析用具をより体系的に整備の上、今回分析の俎上に載せられなかった諸事例も含めて再検討を行うことが強く求められる。
 第3に、本研究の基軸となる量的調査は、2002-3年の期間に行われ、調査後提出までに10年が経過している。質的なインタビュー調査はこれに続いて2008年まで継続されている。大規模な調査票のデータの整理分析や質的な調査のインタビューの記録化や分析に時間を要したとはいえ、全体として現状分析研究としてはかなりの時間的落差が生じたことは調査結果のこの研究分野や社会へのフィードバックの遅れから言って惜しむべき点といえる。しかし、その反面、現時点からすると、在日ブラジル人数が最大で移動が最も活発な時期の貴重な記録として、今後の研究の前提となりうる大きな意義を持つものと考える。

 これらの諸点は著者も十分認識しており、今後の研究においてさらに深く考察されていくものと確信する。よって審査員一同は、本論文が当該分野の研究に十分に寄与したと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。
 

最終試験の結果の要旨

2014年2月12日

 2013年12月16日、学位論文提出者ヤマグチ・アナ・エリーザ氏の論文について最終試験を行った。試験においては、「在日ブラジル人の移動形態および移住コミュニティが家族構成変容に与える影響についての考察――分散型居住地と集住型居住地の比較研究――」に関する疑問点について審査員から説明を求めたのに対して、ヤマグチ・アナ・エリーザ氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

このページの一番上へ