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博士論文審査要旨

論文題目:近世後期における地域指導者層の学問受容―宮負定雄を中心に―
著者:小田 真裕 (ODA, Masahiro)
論文審査委員:若尾 政希、渡辺 尚志、石居 人也、池 亨

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1.本論文の構成
 日本の近世のなかでも、18世紀後半から19世紀半ばにかけての時期は、研究史上、「内憂外患」の時代の始まりとか、維新変革の起点というように、位置づけられてきた時代である。近世後期という時代は、18世紀半ばまでの、国内秩序も国際秩序も安定していた「泰平の世」とは確かに異なる時代であった。本論文は、この時代を生きた民衆に焦点を合わせて、民衆の思想形成過程を実証的に明らかにしようとした意欲的な論考である。
 本論文の主役は、民衆のなかでも上層に位置し、地域の指導者的役割を担ったみやおい宮負さだお定雄である。定雄は、寛政9年(1797)に下総国香取郡松沢村(現千葉県旭市〈旧干潟町〉)に生まれ、安政5年(1858)に同地で没した人物である。まさに近世後期の困難な時代を定雄は、―あるときは村の名主として、またあるときは江戸の平田篤胤の塾であるいぶきのや気吹舎から出版され大ベストセラーとなった一枚刷りの『草木撰種録』の作者として、さらにあるときには、気吹舎のパトロンとなり私財を注ぎ込んだ人物として―生き抜いた。本論文は、この人物の生涯に渡る思想形成・変容の過程を、彼が学んだ学問と、彼を取り巻く人々との影響関係とに着目して検討したものである。
 本論文の構成は以下の通りである。
序章
一 「地域」への着目
二 「地域指導者層」の捉え方
三 「学問受容」の捉え方
四 本論文の構成
第一部 宮負定雄の思想
第一章 気吹舎門人研究の方法―宮負定雄研究を手掛かりに―
はじめに
一 宮負定雄はどう取り上げられてきたか?
二 平田国学研究の現在
おわりに
第二章 宮負定雄の生涯
はじめに
一 松沢村と宮負家
二 宮負定雄の生涯―出生から名主退役まで―
三 宮負定雄の生涯―名主退役から死去まで―
おわりに
第三章 「民家」の学問―『民家要術』の形成過程―
はじめに
一 『民家要術』の諸本
二 『民家要術』の成立―『民家要術 下巻』―
三 気吹舎への持参―天保二年本―
四 「民家学」の形成―天保四年本―
おわりに
第四章 「農師」への志向―『農業要集』から『農事窮理考』へ―
はじめに
一 『農業要集』
二 名主在任時の農業論
三 『農事窮理考』の形成
おわりに
第五章 幽界への眼差し―宮負定雄と金杉貞俊―
はじめに
一 気吹舎における『神界物語』
二 弘化・嘉永年間の宮負定雄
三 安政年間の宮負定雄
おわりに
第二部 宇井包教・金杉貞俊の思想
第六章 松沢村熊野神社神主宇井包教の思想
はじめに
一 気吹舎への入門
二 大原幽学への入門
三 平田国学への復帰
おわりに
第七章 下総万力村金杉貞俊の思想形成
はじめに
一 万力村と金杉家
二 幼少期からの学び
三 自著の執筆
四 天保年間以降の学び―「医書」「軍談縁起」を中心に―
五 宮負定雄との交流―「神祇古道 家相」を中心に―
おわりに
第八章 金杉貞俊の飢饉認識―「ききん餓饉書」に着目して―
はじめに
一 天保飢饉以前の意識
二 天保四年の意識―『餓饉憂之事』―
三 天保八年の意識―『心の鏡 かまどの種』―
四 最晩年の「餓饉書」―『餓饉ばなし追加』―
おわりに
終章
一 宮負定雄という人物
二 東総の「地域指導者層」
三 平田国学の捉え方
四 「村長」の学問

2.本論文の要旨
 序章では、本論文のタイトル「近世後期における地域指導者層の学問受容」に込められた著者の含意が説明されている。まず最初に、「地域」に視点をおいた歴史研究(地域史研究)をしていきたいという著者の姿勢が提示される。続いて、従来の日本近世の地域社会論で提起されている中間層論(公共性の体現や行政能力の獲得を評価する見解)を継承しつつも、村役人層以外にも地域社会の成り立ちに役割を果たした人びとが存在したとして、地域社会の成り立ちを担った、あるいは担うべきとされた存在を「地域指導者層」と呼び、その歴史的位置を明らかにすべきだとする。その上で、著者は、地域指導者層が地域社会の成り立ちを担う能力を身につけたり、その方法を学ぶために、学問を受容していったとみなす。宮負定雄を篤胤門下の国学者(平田国学者)と規定するに止まり、その内容を吟味してこなかった先行研究を批判し、定雄やその周辺の者たちがいかなる知識や情報を求めていったのか、その学問受容のあり方を具体的に解明すべきだと著者は主張している。
 本論文は、第一部「宮負定雄の思想」、第二部「宇井包教・金杉貞俊の思想」の、二部構成となっている。
 第一章では、宮負定雄と平田国学、それぞれの研究史を整理し、本論文で解決すべき課題を提示している。まず前者については、その行動、思想形成・変容の過程をより具体的に明らかにするとともに、地域の人びとが彼をどう見ていたのかを通時的に押さえる必要があることを指摘する。一方、平田国学については、地域社会や気吹舎で展開した学問の総体を把握した上でその位置付けを考える必要があることを指摘する。
 第二章では、宮負定雄の生涯を、その学問受容の変化、気吹舎、松沢村との関係等を踏まえて、七つの時期に区分して叙述できると指摘した。
 第三章では、名主在任時の定雄の思想を、『民家要術』諸本の異同に着目して検討した。もとは松沢村の村民への読み聞かせに用いる書物として定雄が執筆した『民家要術』であったが、出版を想定した書物へと性格を大きく変化させていることを明らかにした。気吹舎での校閲を経た天保 4年(1833)本では情報量が激増し、文人評判記や談義本を模した形式になっていることを指摘している。
 第四章は、定雄の主著である『農業要集』(文政 9年(1826)出版)と、同書の改訂版である『農事窮理考』(安政 2年(1855)自序、未刊)という、執筆時期に30年の開きがある二つの農書を詳細に比較し、そこから定雄の思索の跡を探っていこうとするものである。両農書は、農書執筆の根底にある課題意識や撰種重視の農業論などは共通しているが、後者では新たに農民を指導する「農師」の設置を提言していることが分かった。定雄が「農師」のあり方を自身の行動の指針にしていたことを指摘した。
 第五章では、弘化・嘉永年間(1840年代後半~1850年代初め)の定雄が此の世とは異なる「幽界」に強い関心を持つようになっていくのであるが、定雄の幽界への関心の強まりが、「農師」への志向や農業研究の方向性と密接な関係にあったことを明らかにした。
 第二部では、「宇井包教・金杉貞俊の思想」と題して、定雄と同じ地域(東総地域)に住んだ二人の人物の思想形成に焦点をあわせる。
 第六章では、松沢村の鎮守熊野神社の神主であるうい宇井かね包のり教(寛政11〈1799〉~万延元〈1860〉)―平田篤胤門人であっただけでなく大原幽学門人にもなった―の思想形成過程を分析し、彼と松沢村や周辺村落の地域指導者層が、地域社会の状況に関する認識や課題意識を共有していたことを指摘した。
 第七章では、定雄と縁戚関係にある万力村(現千葉県旭市〈旧干潟町〉)の百姓かなすぎ金杉さだ貞とし俊(天明元〈1781〉~文久元〈1861〉)の思想形成・変容過程を分析した。「地方」に関する知識を重視していた貞俊が、親族の死去を契機として医薬に関する知識への関心を強め、天保飢饉以降は飢饉に関する書物を読んで「ききん餓饉書」執筆に活かしていったことを明らかにした。
 第八章では、金杉貞俊が子孫に書き残した「餓饉書」に着目して、貞俊の飢饉認識がどのように変化していったのか、解明した。
 終章では、以上の成果を、①宮負定雄という人物、②東総の「地域指導者層」、③平田国学の捉え方、④「村長」の学問、という4つの論点に即して整理した。

3.本論文の成果と問題点
 宮負定雄・宇井包教・金杉貞俊は、当代一流の思想家でも、また支配者たる領主層でもない。いずれも村落に居住する一民衆である。著者は、御子孫宅に通い続けることによって見せていただいた史料や、千葉県史の編纂事業で掘り起こされた史料等を使って、近世後期の東総地域に生きた民衆の思想形成の過程を解明しようとした。本論文を、民衆思想史研究上の一つの達成として、位置づけることができよう。
 第二に、「地域指導者層」という研究視角を提起したことも重要である。村役人でも神職でも百姓でも、その属性の違いを越えて、「地域社会の成り立ち」を担うべきだという意識を持つ者がいる。そうした意識を持った者たちを「地域指導者層」と定義するのである。これまでの近世史研究では「中間層」という概念が使われてきているが、両者の関係を含め、今後大きな議論となっていくであろう。
第三に、「学問受容」という研究視角の提起も重要である。本論文では、宮負定雄・宇井包教・金杉貞俊が、それぞれの仕方で学問と向き合い学問を受容していったことを明らかにしている。これは、これまでの研究で行われてきた、国学・儒学・蘭学・洋学といった個別学問の受容史研究に対して、異議を申し立てるものである。地域社会における学問の展開を検討する際に、何が学ぶべき学問と考えられ、なぜその学問が求められたのかを明らかにしていく必要があるという著者の問題提起は新鮮である。
 第四に、本論文の歴史叙述を通して、日本近世史における天保という時代の画期性が打ち出されたことにも注目しておきたい。いわば天保期論を提起したものと、本論文を評価することができる。とりわけ天保飢饉のインパクトは、その時代を生きたすべての人びとに大きな影響を与えたのであるが、宮負定雄ら地域指導者層も変わっていかざるを得なかったのである。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不満な点がないわけではない。著者は、地域の民衆に着目しているが、地域民衆、とりわけ松沢村の村人がなぜ、いったんは支持した定雄から離れていったのか、について本論文では論証していない。おそらくこれは同時期にこの東総地域を拠点に村落振興運動を行った大原幽学とその門人たち(定雄の父定賢や宇井包教らも門人となる)の動向と無関係ではなかろう。定雄の「村方政事改革」が具体的にどのようなものであるか、それが大原幽学らの村落改革とどう関わるのか、については、本論文では論述されていない。もちろんそうした問題点は著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のように審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、小田真裕氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2014年2月12日

 2013年12月26日、学位論文提出者小田真裕氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「近世後期における地域指導者層の学問受容―宮負定雄を中心に―」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、小田真裕氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は小田真裕氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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