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博士論文審査要旨

論文題目:マルクスの労働概念とエコロジー
著者:韓 立新 (HAN, Lixin)
論文審査委員:嶋崎隆、岩佐茂、御代川貴久夫、平子友長

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一 本論文の構成

 本論文は、ソ連・東欧の社会主義国家体制の崩壊という歴史的状況を踏まえて、マルクスの労働概念、さらにその自然観・技術観・経済観などと、エコロジー的な環境思想とを積極的に対話させ、そこで生ずる論点をきわめて詳細に解明し、問題点を指摘したものである。この点で、本論文は明確な問題意識によって支えられている。そこでは、マルクス主義思想の現代的展開を見るうえでも、他方、エコロジカルな環境思想の提起する問題を検討するうえでも、きわめて興味深い、またヴィヴィッドな主張が述べられている。

 本論文の構成は以下のとおりである。

凡例
序章 課題と方法
第一章 エコロジーからの挑戦
第二章 『経済学・哲学草稿』における自然と人間
第三章 物質代謝とエコロジー
第四章 対象化活動とエコロジー
第五章 玉野井とベントンの「労働過程」論批判
第六章「労働価値」説における自然の問題
補論一 中国における「実践的唯物論」
補論二 高清海の「実践哲学」
結論 自然主義と人間主義の統一
参考文献
後書き

二 本論文の要旨

 序章では、マルクス主義思想と、それを批判することの多いエコロジーの両者にかんして、近代社会批判やその超克のありかたというテーマにおいて相互に「同盟」を結べるはずだという展望に立って、エコロジカルな観点からマルクスの労働概念を中心に検討する必要性が指摘される。というのも、著者によれば、本来においてマルクスの唯物論思想はじつはかなりの程度エコロジカルであり、また、自然・人間・技術・生産力・労働過程・価値論などの論点の基底に労働概念が存在するからである。そしてまた、ここで付加するならば、問題を扱う著者の立場と方法は、マルクス『経済学・哲学草稿』で明示されており、その後もマルクス思想に貫かれている〈自然主義と人間主義の統一〉という構想である。

 第一章「エコロジーからの挑戦」では、それ自身さまざまな立場をふくむエコロジーの批判的主張が、幅広く、概略的に扱われる(スコリモフスキー、キャロリン・マーチャント、シュマッハー、ハーディン、マレイ・ブクチンら)。

 環境保護の思想と運動としてのエコロジーは、一般にデカルト主義・機械論的世界観・人間中心主義などへの批判という特徴をもち、近代文明を批判するのみならずマルクス主義をも批判の対象とする場合が多い。マルクス主義へのその批判の論点は、自然の無限性の想定、技術楽観主義、生産力主義、支配対象としての自然などであると著者はまとめる。だが他面、エコロジーのなかでもエコ・ソーシャリズムの立場は、マルクス主義とエコロジーを、つまり「赤」と「緑」を積極的に結合させようとする(ペッパー、パーソンズ、ゴルツら)。マルクス主義とも共通する彼らの主張の論点は、(1)資本主義への批判、(2)(穏健な)人間中心主義の擁護(自然の制御の承認をふくむ)である。以上のように、エコロジー思想を要領よくまとめつつ、著者はエコ・ソーシャリズムの問題点をも指摘して本章を終える。

 第二章「『経済学・哲学草稿』における自然と人間」では、あらためてマルクスの思想がいかなるものかを、初発的にその自然観・人間観にそくして展開される。

 著者はマルクス主義が自然進化の大前提を承認する唯物論であることを指摘しつつ、人間-自然関係について、(1)人間は自然の一部である、(2)人間は活動的な自然存在である、(3)人間は受苦的(leidend )なるがゆえに情熱的(leidenschaftlich)である、(4)自然はいわば人間の非有機的身体である、などの論点をマルクスから抽出する。そうした自然存在としての人間が大前提となって対象化活動としての労働がおこなわれる。こうした論点は、マルクスの思想がじつはかなりの程度エコロジカルなものとして再解釈されるという主張の布石となっている。ここには上記の〈自然主義と人間主義の統一〉という構想が具体化されているが、この構想は本章第三節で、あらためて詳論されている。著者によれば、この構想がエコロジー思想に重要な示唆を与え、そこで議論されてきた一方の自然中心主義(physiocentrism)-人間も自然の一部である-や生命中心主義(biocentrism )と、他方の極端な人間中心主義(anthropocentrism)-自然を人間のための手段と見る-との争いに大きな展望を与えるものとなっている。

 第三章「『物質代謝』とエコロジー」は、エコロジカルな視点から、さらにマルクス労働概念の中核にあり、しかも頻繁に議論されてきた物質代謝(質料転換Stoffwechsel)概念-「人間が自然とのあいだの物質代謝を自分自身の行為によって媒介・規制・統制する」(『資本論』)-を検討しようとする。

 著者は当該テーマにかんするアルフレート・シュミット、吉田文和、椎名重明らの研究状況を紹介・検討しつつ、この物質代謝概念をとくに、人間と自然のあいだの生理学的物質代謝の意味と、労働過程としての物質代謝の意味の二重構造においてとらえようとする。さらに著者は、資本主義生産が人間と土地とのあいだの物質代謝を攪乱するなどのマルクスの指摘を説明しつつ、このマルクスの構想がエコロジカルな視点から大きな意味をもつことを、森田桐郎、岩佐茂らのエコロジー的発想を紹介しつつ展開する。もちろんこの指摘はリサイクル社会の構想につながり、エコロジスト玉野井芳郎はマルクスの物質代謝概念を高く評価しているのである。

 第四章「対象化活動とエコロジー」では、さらにマルクス労働概念が別の側面から検討される。というのも、マルクス労働概念はそもそも、物質代謝としてエコロジカルともいうべき人間-自然の循環過程の側面をもつとともに、人間主体の本質力の対象化(Vergegenstandlichung)による目的実現という別の側面をもち、この両側面の不可分の統一であるからだ。そしてこの側面こそ、エコロジストから人間中心的で近代主義的として厳しく批判されてきている。著者はここで、対象化を非対象化(Entgegenstandlichung)との統一においてとらえる従来の議論を主体・客体の弁証法という観点から検討しつつ、労働における対象化活動を、(1)使用価値としての自然、(2)自然の変形、(3)目的意識の実現という論点にまとめる。著者はこうした側面がある意味で人間中心的であることを認め、ここでナッシュ、レオポルド、パスモアらのエコロジカルな見解を検討する。著者はリン・ホワイトに反論するパスモアの「スチュアード精神と自然への協力」という環境倫理の構想や、パーソンズの「自然の支配」と「自然の制御」の区別に注目しつつ、マルクスやエンゲルスの自然観は資本主義的な搾取対象としてのそれではなく、生態系とのバランスが前提されているという。だが同時に著者は、パーソンズ、グルントマンらには自然主義の側面が弱いと指摘する。さらに著者は、ここで技術批判の領域にまで踏み込み、武田一博、グルントマンらのマルクス批判を検討する。結論として著者は、技術=悪という図式を批判しつつも、グローバルな環境問題、社会主義での環境破壊などにかんして、マルクス技術論は、シューマッハーのような「中間技術」などの構想を積極的に打ち出してはいないと指摘する。

 第五章「玉野井とベントンの『労働過程』論批判」は、上記の労働概念から出発して、さらにマルクス労働過程論全体への批判を取り上げる。「生命系のエコノミー」や「広義の経済学」を説く玉野井のマルクス批判は、著者のまとめでは、(1)エントロピー概念の欠如、(2)狭隘な土地概念、(3)農業の軽視の三点にしぼられる。またテッド・ベントンのマルクス労働過程論批判は、その技術楽観主義批判、生産力主義批判などの論点をともないつつ、マルクスのいう労働過程が、「第一次的労働過程」であり「環境規制」的とされる農業労働ではなく、「製造的・変形的労働」である工業労働を中心としているというものである。著者はこれらの厳しい批判を丁寧に吟味し、ここで是々非々の態度をとる。著者は玉野井とベントンの批判から、(1)マルクスの労働過程論では、自然や土地が人間のための「仕事場」「原料の貯蔵庫」「労働手段の根源的な武器庫」となっている、(2)労働過程が工業生産をモデルとし、農業のエコロジカルな意義を十分に尊重していない、という二点を取り出す。著者は第一の点にたいしては、第二章で述べた、マルクスの自然主義的側面(自然の根源性など)のなかにエコロジカルな要素があると反論し、第二の点にかんしては、マルクスは農業の特殊性を意識はしていたが、そのエコロジカルな側面を強調していなかったと述べる。

 第六章「『労働価値』説における自然問題」では、マルクス経済学の原理である労働価値説が、ハンス・イムラー、シューマッハー、呉向紅らの厳しい批判にいかに対応できるかが吟味される。フィジオクラシーを擁護してマルクスの詳細な批判をおこなったイムラーによれば、彼の労働価値説には、価値形成にさいしての自然の生産性の消失という問題があり、これは反エコロジー的であるという。イムラー『経済学は自然をどうとらえてきたか』という興味深い著作は一定の注目を浴びてきたが、ここに難問が潜んでいることも事実である。著者はイムラーの批判を四点にわたって丁寧に分析し、そこにある労働価値説批判の是非を吟味する。

 マルクスでは、抽象的人間労働と並んで、抽象的なかたちでであれ自然が残されていない、などの彼の批判には、そもそもマルクス経済学への誤解があるとしつつも、著者は、労働生産性にたいし、自然の生産性が認められないことは不当であるという彼の批判を重視する。というのも一般に、マルクスの労働価値説を、将来社会にも妥当する積極的な理論と見る解釈も、それを単に資本制社会の疎外された論理と見るエコロジカルな解釈も、ともに自然が価値形成に関わらないと考えるからである(服部健二のまとめ)。だが著者はマルクスにそくし、自然の落流が超過利潤を形成するなどの例を挙げ、自然は「自然的生産能因」として価値形成に間接的に関与すると指摘する。服部はイムラーにも注目するが、その把握は不十分なものにとどまる。著者は以上の議論をさらに進展させて、環境経済学からの自然に価格を付けるべきだという見解をも紹介しつつ、それを疑問視している。問題のむずかしさゆえに、著者はこれ以上議論をしていないが、その慎重な分析は有益であろう。

 それでは、上記のマルクス思想はそれ自身として哲学的にいかなるものとして規定されるか。それは、環境問題にも一定程度対応できるはずのものであり、〈自然主義と人間主義の統一〉という構想にも合致するものであろう。それを扱うのが、補論一「中国における『実践的唯物論』」および補論二「高清海の『実践哲学』」である。これは中国で一九八〇年代以降に生じたマルクス主義哲学の基本性格をめぐる論争から生じてきており、著者もまた依拠する「実践的唯物論」とはそのなかのひとつの傾向である。この傾向は従来のいわゆるマルクス・レーニン主義哲学ないし弁証法的唯物論にたいする反発から生じてきており、人間主体と客体的世界を統一する実践概念を世界観の機軸におく。著者はここで、「旧哲学体系」の問題点を衝くとともに、新しく興隆した実践的唯物論の問題点をも解明しようとする。そしてその欠陥のひとつに、自然の自立的運動や自然史的過程の把握の希薄さがあるという。だが、この視点こそ唯物論の大前提となるものであり、エコロジーを基本的に許容する思想となる。高清海の「実践哲学」はスターリン、エンゲルス、レーニンらの哲学の限界をラディカルに批判しつつ、そこに無批判な「存在論」が前提されていると指摘する。だが著者は、この立場を一方で評価しながらも、彼が唯物論と観念論を超える「実践哲学」を主張してしまう点に疑問を呈する。たしかに著者のいままでの主張からすれば、こうした立場は不十分なものとなるといえるだろう。

三 本論文の成果と問題点

 その成果の第一は、本論文が「マルクスの労働概念とエコロジー」というテーマのもとでマルクス主義に関心をもつ側にたいしても、またエコロジーに関心をもつ側にたいしてもきわめて重大で、しかもヴィヴィッドな理論展開をおこなった点にある。しかもその素材の扱いにかんしていえば、マルクス主義一般ではなく、マルクスそのものの思想が問題とされており、他面、日本内外の多数のエコロジカルな思想家・経済学者たちが検討にかけられている。環境問題の思想という側面から、当該テーマにかんし、これほどまでに詳細にまた多面的に解明されたということは、本論文の大きなオリジナリティである。しかも本論文の論調は、おそらくマルクス主義・社会主義を重視する立場にも、またエコロジストたちにも一般に、第一級の問題提起とみなされることであろう。第二の成果はその叙述の形式に関係する。マルクスの主張やエコロジストたちの主張などにかんして、各章にわたってきわめて多くの錯綜した論点が登場するが、それを列挙などのかたちで明快に総括し、自分自身の主張もそうした論点に合わせてできるだけ明確に打ち出している点は、大きなメリットであり、この意味で当該分野で発生した論点や問題点が鮮やかなかたちで整理されている。この意味で、錯綜した主張から丁寧にその論点や問題点を取り出す手法に著者の特長がある。こうして、本論文の内容は、著者のこうした叙述形式によっていっそうの説得性を増したといえよう。第三の成果は、本論文を支える原理でもあり方法でもあり、とくに第二章第三節や「結論」で詳論される〈自然主義と人間主義の統一〉という弁証法的構想の提示である。この構想はマルクス『経済学・哲学草稿』にそくしてかならずしも十分に煮詰められているわけではないが、雄大で魅力的な構想であり、著者が多様な環境思想を考察するうえで導きの糸となっている。たとえば、この構想は、人間労働が物質代謝という自然的循環の側面と、自然素材にたいする目的実現という人間的側面との統一に具体化されており、また、環境思想の大きな論点である、自然中心主義や生命中心主義と極端な人間中心主義との対立を、内在的に止揚できる論理を提供している。

 本論文の問題点でもあり、また将来の課題としてほしい点としては、第一に、環境思想の側面だけでなく、環境問題を扱うときは、さらに環境科学や生態学などの自然科学の成果をきちんと踏まえて展開すべきだということがある。そのことは、ここでは前提とされているにとどまる。マルクス主義にそくしても、エンゲルスの弁証法的自然観を環境問題に関連して再検討するという発想もないわけではないので、もうすこし具体的な自然界の循環のありかた(地球生態系における大気・熱・水・炭素などの循環や食物連鎖など)の事実記述を導入したほうがよかったと思う。第二に、環境問題を研究する以上、これは緊急を要する大問題であり、中国などの現実の環境問題や環境政策などのありかたへとつなげていけば、さらにその理論も説得的になっただろうという指摘がなされた。以上の点にかんしては、著者も自分のテーマ設定の限界をよく自覚しており、これからさらに現実的な問題にまで延長していきたいと考えている。以上の点は今後の課題と考えられるだろう。

 上記の成果と問題点を踏まえ、審査委員会は、本論文の価値を積極的に評価し、韓立新氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2000年2月14日

 2000年1月28日、学位論文提出者韓立新氏の試験をおこなった。試験においては、提出論文『マルクスの労働概念とエコロジー』にもとづき、審査員から疑問点などにかんして逐一説明を求めたのにたいし、韓氏は、全体として適切な説明をおこなった。
 専攻学術について、審査員一同は、韓氏が学位を授与されるのに必要な学力を有するものと認定した。

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