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博士論文審査要旨

論文題目:自然の意味と制度―米国国立公園システムをめぐる価値の創造と組織の実践―
著者:寺崎 陽子 (TERASAKI, Yoko)
論文審査委員:足羽 與志子、御代川 貴久夫、岡崎 彰、加藤 泰史

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1、 論文の構成
 アメリカ合衆国は1872年、自然景観を公共の利益のために保護することを目的に世界で初めての国立公園(National Park)制度を策定した。世界で最初の国立公園、イエロー・ストーン国立公園の誕生である。以来、現在に至るまで同国の国立公園制度は400にも及ぶ保護地域や建造物を管理するまでに発展を続けている。本論文はアメリカ合衆国における国立公園を対象にすえ、同国が近代国家として編成される歴史のなかで、国立公園政策が形成されていった変遷に着目し、自然の意味や価値が生成される過程と国立公園という制度が編成される過程の両者の相互作用について、豊富な資料をもって詳細に分析し、論じたものである。
 本論文の主たる関心は、自然をめぐる価値の創造と共有に関するものであり、それがアメリカ国立公園局のような行政組織において実践されることにより、近代の合理性を形成し獲得していくプロセスの抽出と分析を行うことにある。著者はその作業の理論的支柱としてブルーノ・ラトゥールの近代化論とジョン・マイヤーらによる新制度派組織論をとりあげ、近代が形成されるなかで、自然の意味と自然に関する制度が相互につくりあげられていく国立公園というシステムを論じる。

 本論文は、序章から始まり、第1章 から第4章 、そして終章、 参考文献、あとがき、APPENDIX から成る。本論文の構成は以下のようである。


序章
1 はじめに
2 問題関心
2-1  近代と「二重の分離」
2-2  自然と人間の二元論と「単一の自然」
2-3  新制度派組織論
3 論文の構成

第1章 自然の価値と国立公園システムの誕生
1 はじめに
2 ソローと自然への憧れ
3 ミューアと自然保護運動
4 国立公園局の設立
5 まとめ

第2章 自然のシンボルと戦争
1 はじめに
2 不況とルーズベルト政権の発足
3 国立公園システムの改正
4 CCCと愛国の精神
5 国立公園とアメリカの文化
6 レッドウッドが語るもの
7 まとめ

第3章 ミッション66と官僚的組織の形成
1 はじめに
2 戦後における国立公園局の「ジレンマ」
3 ダイナソア国立記念物公園のエコパーク・ダム建設論争
4 エコパークからミッション66へ
5 ミッション66計画の立案とアイゼンハワー大統領
6 ミッション66からウィルダネス法へ
7 まとめ

第4章 物語の法則と組織
1 はじめに
2 インタープリテーション活動の形成プロセス
3 いくつもの「物語」をつくる方法
3-1 インタビュー1:自由の権利と「多様な視点」
3-2 インタビュー2:普遍的な自然の価値
4 国立公園のグローバル化に向けて

終章 結びにかえて
1 自然の解釈と理性
2 論文の課題

参考文献
あとがき
APPENDIX





2、本論文の要旨

本論文の各章の概要は以下のようである。
 序章では、本論文で著者が依拠するラトゥールの近代化論とマイヤーらの新制度派組織論をとりあげ、本論で論じる国立公園制度と自然の意味との相互形成過程を近代の思考方法および合理性の議論に結びつけるための論理的道筋を示す。著者はまず近代の思考実践は「純化の働き」にあり、その裏には常に「ハイブリッド(異種混交)」な状況を生み出すための「翻訳の働き」があるという、ラトゥールによる近代理解の枠組みを取り上げる。またマイヤーらにおいては、「制度」によって獲得された組織の正当性が、効率性の問題と衝突しないために、組織はその構造と実際の活動との間に「分離」を作り出し、穏やかに連結することで組織を矛盾による衝突から守り、組織の効率性、正当性が維持される、という「分離」の議論に注目する。
 著者は、近代には「人間と非人間」、あるいは「自然と文化」を分離し、媒介を排除する「純化の働き」という思考実践があり、その裏では「自然と文化」を混ぜ合わせる「翻訳の働き」、あるいはハイブリッドを生みだす実践があるという理解を確認する。そして新制度派組織論が用いる「分離」の概念は、ラトゥールのいう純化とハイブリディティの関係に相似することを指摘し、アメリカの国立公園制度の形成過程において国家建設の過程と相互に連関しながら、自然の純化とハイブリディティの生成、組織と分離の実践が行われてきたことを示す。そしてその結果、国立公園制度がじつはアメリカがたどってきた近代合理性の実践的産物であると論じる。
第1章「自然の価値と国立公園システムの誕生」では、19世紀中期にアメリカの自然思想の祖といわれているヘンリー・ソローのロマン主義的な自然思想が現れ、人々の思想に大きな影響を与える過程の分析から始め、1916年に国立公園の父と称されるジョン・ミューアの自然保護運動により国立公園局が内務省に設置され、世界初の国立公園が生まれるまでをたどる。そこで著者は、自然の美しさが神や人間の精神性、アメリカという土地の神秘性を示すというソローの思想に、人間が自然のなかで味わう身体的・精神的充足感が国民の健康や生活の質の改善につながるという功利性が加わって、自然が「公共の資源」としてアメリカ社会に認知されていくプロセスを提示する。そこでは、自然は人間をはるかに超える神秘そのものであるという信念と、自然は人間が支配し管理する事物だという観念とが巧みに使い分けられ、その結果として、「自然の美を護りながら、それを利用する」国立公園の誕生が可能となったと分析する。著者は、自然景観の保全と、国立公園をリクリエーションのためのプレイグラウンドとして利用するという背反する目的が国立公園局には当初より含まれていたことに注目し、国立公園局の設置そのものが「自然の保護と利用」という矛盾する目的を孕んだ制度化であったことを指摘する。
 第2章「自然のシンボルと戦争」 では、世界大恐慌から第二次世界大戦までを取り上げ、アメリカ政府が成年男子を対象に失業対策としてうちだした公共政策であるCivilian Conservation Corps(CCC)に、国立公園の森林での身体性をつうじた労働と肉体鍛錬によりナショナリズムを高揚させ、国威発揚を仕掛ける作用があったことを指摘し、CCC制度のなかに、自然が取り込まれていくプロセスを詳細に記述し、分析を行った。CCCは国立公園を「アメリカ的なもの」として称賛し、CCCに参加した青年たちは、愛国心を深めながら国家への奉仕に勤しみ、国家への忠誠を誓う軍隊へと育成された。この時期には国立公園に加え、州立公園も多く作られた。そして美化された自然は国家のシンボルとなり、自然公園はアメリカ国民にとっての身体的健全さの根源として、アメリカ文化の中心をかたどる存在として位置づけられた。著者は、第二次大戦末期に行われた原子爆弾投下にさいしては、自然が人間にとって超越的な摂理を表象するものとして位置づけられた結果、その自然の摂理を国家の精神とするアメリカを攻撃した日本を原子爆弾によって壊滅し、戦争を終焉へと導く道理も自然の摂理を守るための正しい行いである、という強力なレトリックが生まれたことも、あわせて指摘する。
 第3章「ミッション66と官僚的組織の形成」では、第二次世界大戦後、未曾有の経済成長をむかえるなか、アメリカ政府が国立公園開発事業「ミッション66」という十カ年計画を実行し、公園組織の拡充にむけての再編成にいたるまでの模様の詳述と、その結果についての分析が行われる。戦後のアメリカでは豊かな消費社会を迎え中産階級が急成長したため、国立公園で休日を過ごす利用者が急増した。国立公園局はこの機会に国立公園制度ならびに公園の拡充と整備、景観保全を目的に1957年に10年計画「ミッション66」を制定した。しかし本計画は原生自然保護を目的に掲げながら、公園内の巨大な道路や近代的な建物の建設を含むため、自然保護団体から公園設立自体が自然破壊だという批判をあび、「自然を保護し利用する」という国家政策の意味と制度の矛盾が露呈されることになった。その後、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の出版が契機となり、新たな環境主義への国民の支持が広がっていくなか、1964年に原生自然の厳格な保護を定めるウィルダネス法が、自然保護団体のロビー活動によって制定され、国立公園局の自然への権限が制限されるようになった。この一連の動きについて著者は、国立公園局による制度の策定と組織構造の拡充は自然保護団体からは批判されるが、しかし一方では、新制度論によれば、これを契機に国立公園はアメリカの中産階級が必要とする文化と適合し、それによって制度的合理性、公共性の承認を得ることができ、また官僚的組織における「分離(decoupling)」という特徴が、矛盾する自然の価値と制度の間にギャップをつくり、矛盾を維持しながら全体を保つことが可能になったと指摘する。さらに、国立公園システムに中間消費社会の需要が押し寄せ、それに対応する国立公園局と自然保護団体とのあいだの亀裂が顕在化したことは、矛盾を解釈で埋めるハイブリッドの増幅が機能不全に至った結果であると論じる。
 第4章「物語の法則と組織」では、70年代の環境主義が継続せず、80年代にはいって新自由主義的潮流が徐々に支配的になるなか、国立公園制度が社会変化に制度として対応しつつ、同時に、一方では移民社会の台頭や多文化主義や価値の多様性の承認を求める大衆意識の高まりを受けながら自然の意味の解釈においても対応するという実践を、現在にいたるまで継続している様子について描き出す。著者は、フィールドワークで得たインタビュー資料などをもとに、多様な文化背景をもつ中間層は自然の価値や意味の理解も多様であることを指摘し、その多様な認識と解釈が、国立公園局の職員がビジターに対して行う自然についての解説業務の現場において、再編成、再生産されている実態を分析する。解説業務は細かなマニュアルに沿っておこなわれ、「ガイド」や「教師」ではなく「解釈者」としての訓練を受けた職員は、ビジターの価値の多様性を認めながらも、彼らに対して自然の知識伝達ではなく、自然の事象や事物の意味と関係性を解説し、実物や実体験を通して自然についての合理的な「理解」促す。著者はこの行為を国立公園のハイブリッド性が巧みに「切り分け」られ「純化」する働きであると論じる。
 終章では、本論文全体の要旨を短くまとめたあと、現在のアメリカの国立公園において、国内や世界から訪れるビジターに対して行われている職員によるインタープリテーションが、個人の自然への感覚や感性をも含むものとなっていることを、国立公園をめぐる意味と制度の相互生成過程における到達点として着目する。著者は、感じられるものはすべて説明できるとする理性への確信が、現代のアメリカの国立公園システムにより生成される自然の意味の主流になっていると指摘する。そして国立公園システムは、ラトゥールが提示した「二重の分離」によって、自然を超越的としながらも、自然をモノとして搾取するものであり、そしてそこに生じる矛盾は、本システムが多くの文化的ルールとしての制度を取り込み、それらと実践の間に「ギャップ」を持たせることができる官僚的組織によって、現在に至っては、より強固に覆われ保たれていると結論づける。


3、本論文の成果と問題点

 まず、第一に評価すべきてんは、米国の現代社会を対象に近代化を正面から論じる本論は、そのスタイルおよび理論において文化人類学的研究として新しい分野を果敢に開拓する卓越した論考であると同時に、19世紀末から現在までのアメリカ合衆国の国立公園制度形成の歴史についての優れた論考となっていることである。なかでも史資料および文献資料はその豊富さ、緻密さ、的確さにおいて群を抜いており、本論を展開するための充実した資料的基盤となっていることは高く評価できる。寺崎氏は学部卒業論文にソローについての日米を中心とした文献検索とその分類を行って以来、粘り強い資料収集を米国中心に継続し、修士論文から博士論文へと一貫して本論のテーマを追求してきた。米国の国立公園局での長期にわたる参与観察、実際の国立公園での活動参加等のフィールドワーク等による一次資料にも支えられ、本論は高い実証性に富む論考となっており、本領域の研究としての学術的貢献は大きい。
 第二の成果は、本論が国立公園制度の変遷の経過だけでなく、国立公園システムが形成される過程において、自然の意味も、例えば国家の精神的象徴やアメリカ文化の中核、あるいは大衆の健全なリクリエーションの場というように、あるいはまた矛盾する自然の多重的意味をも包摂しながら変遷する経過にも注目し、意味と制度の変遷過程の相互作用を具体的な実践のなかで論じることに成功しているてんである。「意味と制度」が近代化の過程で相互に規定しあいながら生成される、というテーマは社会科学、あるいは文化人類学において最も重要な中心的課題の一つである。この大きな課題に理論と実証の両アプローチをもって正面から取組む本論は、アメリカの国立公園システム、あるいは自然の意味と制度、という豊かな学術的鉱脈を掘りあて、さらに深く掘り下げることに挑む優れた論考となっている。
 近代化論、そのなかでも感覚と合理性の二元論に挑む長期的な構想力が最終章で示されているが、そこに現れている著者の先見性についても高く評価できる。本論文はこの研究を確実に展開できる著者の研究蓄積と資質、潜在力を示すものであり、骨太で正攻法的な本研究は、今後豊かに展開し続ける高い可能性を強く感じさせる。
 第三の成果は、上記の制度と意味の相互生成について論じるさいに、近代化を「非人間/人間」あるいは「自然/文化」の二分法と「純化」と「解釈(翻訳)」の二分法の二重の分離でとらえるラトゥールの一部の理論と、組織が実践において十全に機能するためには組織と実践の間に「分離」「ギャップ」を必要とするという新制度論のマイヤーの理論を本論の理論的主軸に置いたことである。両論は、それぞれに異なる社会学/人類学研究の文脈で語られることが通常となっている理論である。しかし、本論は、国立公園をめぐる意味と制度の相互生成の理論化において両理論を両輪に置いて論じ、さらに両論の接合点を見いだすという、従来にない革新的な取組みを行っており、この着眼点は極めて独創的である。確かにこの試みには論理の飛躍や矛盾はないわけではないが、それを上回る展開性、新規性が散見できる。これらの二つの理論を自分のテーマ、問題意識、論じたいことがらに対して当てはめるべく、できる限りの論理力を動員し、独自の再整理を行ったことは、理論を「かなり限定的に参照したに過ぎない」と本人は自ら反省しているが、ラトゥールやマイヤーの理論を取り上げること自体を目的とした論文が散見される昨今、この理論的なチャレンジは極めて高く評価できる。
 第四に、アメリカの国立公園の制度史を基軸に描く本論は、それをとりまく政治、文化、社会の状況についてもひろく目配りをしているため、随所に興味深い新たな発見や洞察があり、アメリカ研究としても、また研究の分野を問わない学際的研究としても豊かな貢献を果たしている。例えば、不況対策がそのまま国防軍、予備軍の養成や自然を使ったナショナリズム形成に役立ったというCCC制度の位置づけと役割の指摘、自然の摂理を守るアメリカというレトリックが超越的自然という理解を使いながら原爆投下を倫理的に正当化していったという指摘、さらに国立公園が「教養ある大衆」のリクリエーションの場となっていく現象から米国の中間層の質的変化や大量消費社会の問題の指摘、さらには、現在の国立公園がビジターへのインタープリテーションというサービスを通じて、「多様な自然の意味」を認め、受容しながらもなおかつ自然への「感情」までも、「受容」という純化作用をもって「合理性」に閉じ込めて行くという、近代のシステムの指摘などは鋭い社会科学的洞察である。
 第五に、環境倫理学においては、英米系、特にアメリカの環境倫理学の議論・コンセプトの「具体的背景」を独自の観点から展開したものとして十分に評価できる。しかも著者がそれを具体的制度との関連の中で論じえたことは、逆に言えばアメリカの環境倫理学の議論が実際にはアメリカ固有の具体的文脈に相当程度に依存していることを指摘するものでもあり、その意味において本論で展開されている議論は豊かな方向性を孕んでいると評価できる。それは、たとえばフレイザーやバトラーの問題設定・問題分析が実際のところはアメリカ固有の文脈に相当程度に依存しているにもかかわらず、両者がそれらを過度に普遍化することに対しての、ヨーロッパからの批判の観点とも類似しているといえよう。
 最後に、文化人類学は非西欧社会を学問的伝統として研究してきたが、所与の「第三世界」「未開」「野生」性に依拠し、フィールドワークのみを経験主義的実証性の根拠とすることについては、人類学は昨今厳しい自己批判を行っている。その批判のうえに、いわゆる「異郷」に行かずに、ホーム、あるいは西欧近代社会においての現象や出来事を研究対象とし、歴史的文献調査から実際のアクション・リサーチ的フィールドワークなどの多様な手法をもっての新しい人類学研究が試みられている。本論は、そのなかでもさらに、近代化論、制度と意味の相互形成、理性と感覚等の社会科学に共通して論じられる大きな枠を提示し論じた、極めて先駆的な人類学研究である。そのてんにおいて、著者は優れて自覚的であり、レヴィ=ストロースは人類学とは「世界と私とに共通の理法の覆いを一挙に剥ぎ取って見せる」学問であるとし、未開社会を対象にして「人間の精神について普遍的に妥当する事実」を探求したのに対して、ラトゥールはその「覆い」が何であるかを克明に記し、近代とされる社会を解体した、と著者は捉える。そのラトゥールの純化と解釈の理論を引き寄せ、「米国国立公園システムをめぐる価値の創造と組織の実践」を研究テーマに、自然をめぐる「意味」と「制度」のダイナミズムの過程を論ずる本論は、新しい人類学の領野のフロンティアとして果敢かつ秀逸な論考である。

 他方、本論文には課題として以下のようなてんが指摘できる。
 まず、本論の構成はまず始めに理論を提示し、その後に続く章で出来事や事例を記述し分析した後、最初に提示した理論を使って解説し、それと同時に理論の正当性、汎用性を実証するという構造となっている。そのため研究対象であるアメリカの国立公園および自然保護や自然観等を直接的に扱った先行研究や、環境人類学、環境倫理学、米国近代史等の分野における同傾向の研究テーマに関する先行研究についての紹介や議論、またそのなかでの本論文の位置づけが十分にされているとは言い難い。序章の理論に直結しないと著者が考える他の諸問題点については、注や参照で触れるに留まっているところが残念である。今後はそれらも含んだもっと包括的な研究への展開を期待したい。
 第二に、1980年代の新自由主義下で公園制度と自然の意味が大きく変容したにもかかわらず、その記述と分析が欠落しているため、第3章と第4章の連続性が薄くなっているてんは残念である。論文全体の構造からいえば、その第3章から第4章の間にその議論がはいるべきであったと思われる。それがないために第4章で現代の公園局の職員の「インタープリター」としての機能の分析に移ることは、国立公園史としても、また理論としても唐突感があることは否めない。ラトゥールが理論において使用する「解釈」「翻訳」という概念、またマイヤーが円滑な事業の遂行のために制度と実践の間にあると認める「ギャップ」「分離」という概念との接点として、「インタープリテーション」という概念への傾注は正鵠を射たものである。しかし、概念的な十分な説明がないため、国立公園の職員の仕事としての「インタープリテーション」という名称や機能と同一次元で重ね合わす議論は偶然性以外の根拠がしめされておらず、やや議論に無理があることが残念である。理論としての「インタープリテーション」と、職員がビジターにおこなう「インタープリテーション」を連続させる分析と議論が示されれば、まさにアメリカの現代の国立公園が機能不全に陥っていること、あるいは不整合も予定調和の理性に含み込んだ完全なる「近代化」の結果として理論化できる可能性があったと思われる。
 第三に、環境倫理学的観点からの議論の整理というてんでは必ずしも十分ではなく、たとえば英米圏の環境倫理学においてパスモアによって70年代に導入された「保全」と「保存」との概念的区別を参照すれば、本論は内容的にはこの概念的区別についての具体的事例の批判的分析という側面も持つので、議論の整理も可能となり、より明確な主張になりえたと思われる。とくに質疑応答においてこの指摘に対して的確に理解していることが示されているため、そのてんは惜しまれる。独力で「二重性」「二枚舌」の問題や「自然の価値」の問題にアプローチできたのは評価すべきだが、前者にしても現在の英米系の環境プラグマティズムの立場からさらに考察できていれば、おそらく著者自身が事態を把握しながらも十分に整理しきれなかった問題についても一定程度の明確な分析が可能になったと思われる。後者に関しても今後、クレプスの『自然倫理学』の価値論の議論に依拠することで明確な分析ができたかと惜しまれる。とりわけ後者に関してはクレプスの価値論的分析と同様な理解を質疑応答の中で示していただけに残念である。今後、単著として書き直すさいには再考が望まれる。
 第四には、もし本論をより人類学的研究として位置づけるのであれば、日本をはじめとする「自然観」の比較研究によって、米国での自然の意味のありかたを位置づけるという作業があればより説得力をましたように思われる。「自然」に対しての意味付けが、キリスト教思想や社会における定番としてのソローから始めたため、アメリカでの自然の意味の探求がかなり限定的、定式的にならざるをえなかったと推測する。例えば、国立公園前史として西部開拓から始まって宇宙開発に至るまでの「フロンティア」に対するアメリカ特有のこだわりが、「自然」に対する態度に影響していることも問題化できたであろう。「フロンティア」という概念は、西欧的な歴史深度や歴史主義がそもそもない米国に特有な神話的概念だという議論があることも射程にいれ、その志向性を本論が最初から含んでいれば、著者がみずから自然を近代化論の枠に閉じ込めるという自己撞着的な結果に陥る危険性を避けることが可能であり、また「歴史的」あるいは「宇宙論的」「神話的」深度のある論考として展開できるであろう。
 最後に少し欲を言えば、著者が今後の研究の展開として示唆するように、アメリカの国立公園制度がアジア等の発展途上国に輸出されることの研究と議論につなぐためには、本論に統計資料等を使用した森林や景観の保護における国立公園制度の効果についての客観的評価が含まれていればより有用であったかと思われる。
 
 以上、著者はこれらの問題に対して今後の課題として自覚的であり、本論の最終章においてもそれについて率直に言及しており、また質疑応答においても本人が認めている。したがって、これらの問題は本論の成果を損なうものではなく、今後の研究により発展的に解決されるであることが期待できる。


2、 審査員一同は、上記のような評価と、2013年10月16日の口述試験の結果にもとづき、審
査員一同は本論文が社会学研究科に寄与しうる十分な成果をあげたものであり、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しいと判断した。

最終試験の結果の要旨

2013年11月13日

 2013年10月16日、学位請求論文提出者 寺崎陽子 氏の論文についての最終試験を行った。試験においては審査委員が、提出論文「自然の意味と制度―米国国立公園システムをめぐる価値の創造と組織の実践―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、寺崎陽子氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は寺崎陽子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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