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博士論文審査要旨

論文題目:イランにおける列強支配と民主派抵抗の闘争史―第二次大戦期~冷戦期の石油国有化問題を中心に―
著者:タキデ モハマッド (TAKIDEH, Mohammad)
論文審査委員:多田 治、吉田 裕、福富 満久、中野 聡

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I 本論文の構成

序論
1.問題意識
2.先行研究と本研究の位置付けおよび独自性

第1章 英米ソ三者間関係の変貌とイランの主体性の獲得
第1節 第二次世界大戦中におけるイラン占領
第2節 占領下のイランにおける諸勢力の登場と内外の力関係の推移
第3節 米英ソの政策に対するナショナリスト議員の抵抗とイラン北西地域の危機
第4節 アゼルバイジャンおよびクルディスタン地方の危機に対する英米の対応およびイランの国内政策
第5節 冷戦の起因となったイランからのソ連軍撤退
第6節 AIOCへと転化したソ連・イラン間紛争の解消

第2章 石油国有化法制定に至るイランの反帝国主義・反独裁主義運動
第1節 AIOCに対するイラン社会勢力の反発と「外見的立憲制」回復への挑戦
第2節 「外見的立憲制」の強化への奔走とナショナリスト議員の抵抗
第3節 「追加契約」の締結に至るサエッド政権とAIOCとの秘密交渉
第4節 国民戦線の結成と石油問題をめぐる闘争の激化
第5節 将軍政権ミッションの挫折と石油国有化法の制定

第3章 イギリスの対イラン植民地主義的政策とモサデク政権樹立
第1節 イラン石油国有化政策に英米間の見解の相違
第2節 イランへの軍事介入の正当化を目指したイギリス側の謀略
第3節 モサデク政権樹立に至るイギリスのイラン内政干渉
第4節 モサデク政権に至る複雑な権力闘争と石油国有化施策法の制定

第4章 石油国有化の中に現れた英・米・イラン三者間における権力争いとその結末
第1節 石油国有化実行への動きとイギリスの反応
第2節 石油紛争をめぐる英・米・イ三者間闘争の鮮明化
第3節 イランの石油国有化の実施とそれに対する列強の脅威
第4節 石油国有化の実施と列強の脅威
第5節 経済的圧力と帝国主義のイラン国内要因の形成
第6節 新帝国主義成立の一環としてのモサデク政権転覆

第5章 冷戦期におけるイラン民主主義崩壊の再考察
第1節 バクダード条約の成立経緯とその内部における権力闘争
第2節 イランのバグダード条約機構への加盟
第3節 バグダード条約機構の戦略におけるイランの重要性
第4節 北防衛線決壊の危機とイラン
第5節 バグダード条約の政策上の矛盾とイランの主体性の剥奪

結論

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Ⅱ 本論文の概要

筆者は本論文において、第二次大戦期~冷戦期のイランにおける石油国有化問題をめぐる政治過程に焦点を当て、英米ソとイランの民主派勢力の権力闘争のプロセスを詳細に記述し、独自の分析・考察を行っている。
序論では、その前段階の時期として19世紀後半以降、イランの民主化運動が英露による一連の帝国主義的介入によって抑えられてきたプロセスをたどり、本論で扱う時代の民主化政策において、列強勢力の排除が主要課題となっていく歴史的前提を整理している。
また筆者は、第二次大戦後のイラン・ナショナリズムに対する英米の政策を扱った先行研究の諸説が、いずれもイラン一国の共産主義阻止という限定的な視点にとどまっていたと批判する。対して筆者は、イラン・ナショナリズムにまつわる英米間の対立を、新旧帝国主義に基づく世界秩序をめぐるヘゲモニー争いの一環であったととらえ、より広いグローバルな視点から、イランの民主化をめぐる政治・社会過程の分析を行う立場を示した。
第1章ではまず、第二次世界大戦期に連合国軍がイランを占領したことで、イラン内部に政治諸勢力が分立したことが詳述される。親ソのトゥーデ党、親英のエラーデイェ・メリー党、モサデクをリーダー格とするナショナリスト議員たちであり、特にイラン・ナショナリズム勢力の登場は、画期的な動きであった。彼らは少数派ながら、国民世論を基礎にして、イランをめぐる英米ソ間の協調関係の構築を阻止し、むしろ三国を相互に対立・牽制させながら、独自の主体的な政策を展開していく。
他方、国外勢力としてはアメリカが入ってきたことで、英ソとイランの従来の力関係にも変化がもたらされる。アメリカは、経済・金融・軍隊・警察というイランの重要な部門で勢力を拡張すると同時に、英ソの動きを牽制し、両国の旧帝国主義政策への回帰に歯止めをかけた。その結果、イギリス従属的な「外見的立憲制」も弱体化されていくが、イラン・ナショナリスト勢力はこの流れに乗じたのであった。
1940年代前半、連合国軍の占領下のイランでは、石油利権をめぐる英米ソの競争が活発化していた。モサデクは、外国諸勢力に利権を与えないことで均衡を確保する「否定的均衡政策」をとるべきだと主張し、「外国への石油利権譲渡禁止法」を議会で可決させた。これは、外国への利権譲渡を拒否することで、大国の影響力を弱めることをねらいとし、独裁体制を伴う従属経済体制から、民主主義に基づく独立経済体制への転換を模索したものであった。これが、石油資源国有化法を制定する基盤となり、イラン南部における既存のイギリス石油会社AIOCを国有化する出発点にもなった。
利権要求を拒否されたソ連は、イラン駐屯中の赤軍を利用し、親ソ派によるイラン北西地方の分離活動を支援し、混乱に乗じて利権を獲得しようとした。イラン政府はアメリカの支持を受けつつ、ソ連の内政干渉を、創設後まもない国際連合に提訴した。これが第二次大戦後の米ソ対立、東西冷戦の発端にもなった。
第2章では、南部石油においてイランの利権回復を追求したナショナリズム勢力と、「外見的立憲制」の修復を画策したイラン国王・イギリス側との衝突が、いかにして石油産業国有化法の制定にたどりついたか、そのプロセスを詳述している。それを通じて、少数派のナショナリスト議員たちがどのように「外見的立憲制」を克服し、石油国有化法の可決を導く社会勢力の統合、議会戦略をどう展開したのかを、細かく明らかにしている。
第二次世界大戦中、連合国軍による軍事占領への反発から、イラン社会では反帝国主義、反独裁主義の機運が高まっていた。宗教・政治のリーダーたちは、こうした流れを活用して諸運動を立ち上げようと尽力した。南部油田地帯では、AIOC(Anglo-Iranian Oil Company)のイラン人労働者たちが、労働条件の改善を求めてデモを実施した。このデモを契機にイラン初の労働法が制定され、AIOCにも適用された。
だがイギリスは、イラン・ナショナリズムの勢力に対して自らの植民地的利益、特にAIOCの権益を保持するため、国王レザーと連携していた。アメリカ勢力の拡大に貢献したカワーム首相が更迭された後、親英派ハキミーが首相に任命された。議員の半数を国王が選出できる上院が議会に創設され、政府と議会を独裁王制に包摂することに成功し、国王とイギリスの権力を増大させる「外見的立憲制」への回帰の動きが徹底されたのである。
ハキミーを受け継いだハジール政権は、AIOCと秘密交渉を行い、ナショナリズム勢力の介入を受けない形で、「イラン利権回復法」を実施する準備を進めていたが、少数派議員の猛烈な批判を浴び、ハジールは辞任を余儀なくされる。
だが、1949年2月のパフラヴィー国王暗殺未遂事件を機に、政府は厳戒令を敷き、メディア規制法を制定し、議会少数派のリーダーを逮捕するなどして、ナショナリスト議員の政治的基盤を弱体化させた。独裁的権限を強めた国王のもとで、サエッド政権はAIOCと交渉し、イラン国民が不服としていた1933年利権契約を見直さず、追加契約を結んだ。
これに対してモサデクら反対派は結託して国民戦線を組織し、大規模なデモやストライキで世論に訴えかけ、国民の自由を束縛する選挙干渉・戒厳令・プレス規制の解除を促した。大国の権益と自らの権限の強化を図るラズマーラ首相に対し、国民戦線は強力に抵抗して、AIOCを含むイラン全土の石油産業の国有化を提案し、議会多数派や国民世論の支持を受け、石油国有化法案を可決させたのである。
第3章では、石油国有化を阻止しようとしたイギリスの政治的・軍事的戦略の挫折の過程を描写し、モサデク政権の樹立に至るまでの権力闘争を明らかにしている。
国有化法案の可決を止められなかったイギリスとAIOCは、今度はその実行を阻止して利権を保とうとした。だが、国民戦線の議員を通して民主化の機運が高まっていた状況では、独裁王制を通じての従来型の内政干渉だけでは、もはや困難になっていた。そこでイギリスは軍事介入という策を講じ、イギリス側のマスコミもこれに賛同する論調をとる。
しかしアメリカからすれば、旧植民地主義へ回帰する恐れのあるイギリスの軍事介入には、賛同しがたい面があった。ヨーロッパ列強の勢力を衰退させつつ、共産主義の拡大を阻止しながら、自らの主導で戦後世界秩序を構築することが、アメリカの立場であった。
こうしたアメリカとイギリスの立場・利害の不一致は、石油国有化によって政治的・経済的自立を目指したモサデクらにとって、民主政権を樹立するチャンスにもなった。モサデクらは、政権交代と議会解散をもくろむイギリスの謀略を見抜き、むしろそれを逆手に取って、英米や国王と妥協せずに石油国有化を進め、AIOCから利権を奪回する方向を示すことで、国民の利益に供する民主化をアピールし、政権を獲得できたのである。
第4章ではモサデク政権において、石油国有化をめぐって英・米・イラン三者が闘争するなかで、新旧帝国主義が入れ代わってアメリカが優位に立ち、モサデク政権転覆クーデターに至るまでを、詳しく明らかにしている。
1951年、首相に任命されたモサデクは石油国有化の実施準備を始めた。対してイギリスはAIOC を保持するべく、軍事介入によるアバダン占領、国際司法裁判所・国連安保理への提訴、イラン石油のボイコットによる経済制裁など、多岐にわたる圧力をかけた。
他方でアメリカは、自国企業に危機をもたらすイランの全面的石油国有化にも、旧植民地主義勢力の復活と(ソ連も復権することで)共産主義拡大のリスクを伴うイギリスの軍事的介入にも、反対であった。トルーマン政権は両者の間に立ち、相互の譲歩を求めていたが、モサデク首相が石油国有化法を実施し、イラン・イギリス関係がさらに緊迫してくると、次第に中立的な立場を離れ、新帝国主義的な政策を推し進めていくようになる。
アメリカはイランの石油国有化を権利上認めたが、それはイランの石油資源のコントロールを見通していたからであった。アメリカ政府は自国企業と連携して、国有化実施後のイランへの経済制裁の布石を敷き、モサデクの政策をアメリカに同調させようとした。
英米はイランの国家主権の尊重を装いながらも、石油国有化政策で自国の権益が脅かされる展開までは認めようとしなかった。石油国有化を通しての自立を求めるイランの政界・社会では、英米の一連の内政干渉への反発と、モサデク政権への支持が高まった。
AIOCの国有化をめぐって、AIOC寄りのジャクソン委員会とイラン政府の交渉は決裂した。だがそもそも、ジャクソン委員会の交渉は、イギリス勢力の縮小とともに、アメリカ企業の石油秩序を基準として、紛争の中道的解決を目指したものであった。こうした石油紛争の解決策は、結局はアメリカの国際政策に合致した形で、英・米・イラン三国間の闘争を、アメリカに優位な方向へと収斂させていくのである。アメリカはイギリスとともに石油カルテルを利用し、経済制裁によってモサデクを降伏させようとした。
他方で、モサデク内閣を弱体化させる国内要因もあった。列強と利益を共有する王制支配階層と貴族階級、親ソのトゥーデ党である。外国勢力はこれらと連携し、モサデク政権を不安定化させた。加えて、国民戦線内部にも反モサデク勢力が現れた。彼らはもともと共通のイデオロギーをもたず、列強に抵抗する共通の目的から結集したため、石油国有化の後、組織内部の対立が顕著となってきていた。
アメリカとイギリスにモサデク政権転覆の口実を与えたのは、共産主義のトゥーデ党の存在であった。両国はイラン国民の共産主義への危機感を利用し、モサデクの支持基盤を崩しにかかった。モサデク支持のトゥーデ党員を装ったデモ隊を目の当たりにして、国民のモサデク支持は低下した。そこへ軍事クーデターを起こされ、モサデクは失脚に至る。
第5章では、モサデク政権とその後のクーデターの時期、冷戦の文脈で中東集団防衛条約機構=バグダード条約がアメリカのグローバルな反共政策のもとで設立され、そこにイランが組み込まれることで、主体性を剥奪されていったプロセスをたどっている。
バグダード条約は冷戦期、ヨーロッパ~東南アジア~極東にかけて対ソ封じ込め政策を完成させる防波堤として、NATO、SEATO、日米安保をつなげる条約であった。同時に、中東諸国を資本主義陣営に編入させ、ソ連と隔絶させる側面を持ち合わせていた。条約機構は、共産主義世界に対して北防衛線を設置するというアメリカの目的に即して設置された面が大きい。一方、現地諸国はそれによって、当初期待した経済発展と自国防衛を達成できなかった。むしろ条約によって、新旧帝国主義の闘争や東西間冷戦の影響にさらされ、アメリカの国際政策に適合するような形へ、社会・政治の構造を組み換えられた。
イランは地政学的に要衝を占め、石油埋蔵量の点からも重要な戦略的地域であった。そのため第二次大戦中は連合国軍に占領されたが、大戦後は冷戦の文脈で、イランの戦略的重要性が高まった。ペルシア湾岸の産油国の支配は、米ソの双方に大きな意味をもった。
アメリカは共産主義の拡張を阻止するため、世界の経済的困窮を利用し、外国援助を自らの対外政策の基軸として採択していた。しかし、モサデク政権は経済援助を必要としたにも関わらず、中立と独立を損なうとして、アメリカの援助と要求を拒否したのである。
モサデクの非同盟政策は、ソ連の干渉も止めていたため、トルーマン政権では共産主義の防波堤と考えられた。だがアイゼンハワー政権がニュールック政策に基づいて対ソ積極行動をとると、北防衛線の設置が重視され、イランのバグダード条約加盟が必須と考えられた。モサデク政権はクーデターによって打倒され、傀儡的独裁政権が樹立された。アメリカはイラン石油に介入する布石を敷き、反共的な防衛同盟の条件をととのえた。イランはこうしてモサデクの「否定的均衡政策」から脱し、西側との同盟を選択するに至った。
だが、バグダード条約の反共的な防衛線は、イラン北部のソ連に隣接する境界ではなく、イラン南部に設置された。条約の集団防衛の理念に反し、実際にはイラン領土の大部分が無防備とされた。またパキスタンのような同盟地域でも、アメリカは共産主義と無関係の紛争には無関心であった。条約は、アメリカの対ソ冷戦の手段に使われたのである。
アメリカはイランによって中東地域のバランスを確保できたが、それは傀儡政権を通してイラン国民の主体性を剥奪し、非民主的政治、軍事的従属、経済的搾取の安定した構造を確立することで実現された。その構造においては、クーデター直後に設立されたテヘラン軍事司令部と、それが改組され諜報機関となったSAVAKも、反体制勢力の弾圧やイスラエルとの協調という点で、決定的な役割を果たしていた。
イランにおけるアメリカの政策は、自らに従属した独裁王制下で、民主主義と独立というイラン国民の要求を奪いとりながら進められた。これが後に、1979年のイランイスラム革命と、その後のイラン・中東とアメリカの諸問題の源泉にもなっていくのである。
結論で筆者は、これまでの本論を概括的に整理したうえで、イランの政治・社会を掘り下げた本研究の知見から、今日の国際関係・国際政治の研究潮流に関して、特にハンチントンとネグリ&ハートに代表される思想的立場の限界について言及した。
ハンチントンは、西洋と非西洋、特にイスラム世界との対立を、文化の問題に還元して論じているが、本論文が明らかにしたのは、現在まで尾を引くイランとアメリカの対立は、文化を持ち出す以前に政治経済的な要因で充分に説明できる、ということであった。
またネグリ&ハートにおいて、第二次大戦後の政治と経済の分離、国際機関による帝国主義と〈帝国〉の架橋、もはや特定の国家が世界の主権を掌握しえないことの指摘は、本研究の知見からすれば不完全であると指摘される。今日のイランの核開発問題に鑑みても、いまだにアメリカという国家が実質的な主導権を握り、国連が中立を装いながらも、アメリカの戦略に従属した状況が続いていることを示唆して、本論は完結する。


Ⅲ 本論文の成果と問題点

本論文の成果は、主に以下の三点にまとめられる。
第一に、第二次大戦期~冷戦期イランにおいて、英米ソの介入とイランの民主派の抵抗がせめぎあう闘争プロセスの実相を、英・米・イランの外交文書、イラン議会の議事録、米・英・伊・イラン・エジプトの新聞・雑誌記事など、膨大な一次資料を手がかりに、実証的・具体的に明らかにしたことである。多様な利害・謀略・取引・情報統制が複雑に展開し、客観的認識の困難な政治的現実に対して、筆者は論文全体にわたり、一次資料を読み解いて事実の裏づけをとり、緻密に論を進める姿勢を一貫させた。ペルシア語・英語・日本語を駆使し、複数の言語で並行して資料読解と論文執筆を進めた作業は、筆者の卓越した言語能力を生かした結果であり、先行研究の知見を大幅に刷新する成果をもたらした。
第二に、1940~50年代の石油国有化やモサデク政権の興亡という、イラン国内の特定の時期・イシューに照準を定める中で、英米の新旧帝国主義とソ連の共産主義がいかに複雑にからみあい、互いの利権や勢力を保持・強化するためにいかに対立・牽制し、協調していったのかを、イラン政治のリアルな実相に具体的に読みとり、明らかにしたことである。多くの先行研究はアメリカのイラン介入の理由を、共産主義の拡張阻止に求めていたが、共産主義はむしろ、米英がモサデク政権転覆クーデターを正当化する手段として利用された点を明らかにしたのも、本研究の貴重な成果である。
第三に、第二次大戦を契機にイギリスからアメリカへ、イランにおける列強勢力の覇権がシフトしていく中で、アメリカが英ソの旧帝国主義の解除を掲げて介入してきたことが、モサデクら国内のイラン・ナショナリズム勢力からすれば、民主化運動のチャンスにもなりえたことを指摘し、その主体的・能動的なプロセスをアクチュアルに記述したことである。これまでのイランに対する見方や研究そのものが、西洋側の視点・関心に著しく偏り、日本もその制約内にあることを鑑みれば、イラン人の立場を描いたイラン研究として独自の知見を提示した本研究は、西洋中心主義を脱する布石の一つになりうるであろう。
しかし本論文には、次のような問題点も見出される。
第一に、一次資料を使って事実の流れの細かい検証に徹したために、一本調子の記述に終始しがちとなった点である。個々の事実がどういう意味や背景をもつのか、また先行研究との兼ね合いで、独自の問題意識・分析視角・資料を採ることで、こういう新しい知見を引き出せるということを、膨大な事実に語らしめる形だけでなく、自らの言葉で構成・説明・考察を立体的・多面的に練り上げ、論として読者にわかりやすく伝える工夫をしてもらいたかった。そうした箇所も一部にはあったが、全体として考察に厚みが求められた。
第二に、イギリスとアメリカの新旧帝国主義によるイラン支配に特に重点を置いたため、外からのアクターに論点が集中しがちとなり、国内の社会的・政治的・宗教的・民族的諸勢力の配置関係や多様性が、充分に具体的に描写・分析できていないように思われることである。特に、モサデクら議会少数派の動きはよく描かれているが、他のアクター、多数派の保守層、親英の王制支配階層、親ソのトゥーデ党、親米の傀儡政権などが、どういう利害のもとに何を求めて動いたのか、個々の立場も具体的に掘り下げればなおよかった。
第三に、英米によるイラン国民の主体性・民主主義の剥奪という一貫した視点・主張のあり方が、やや一面的で固定的にとどまる感を免れないことである。例えば、アメリカの世界戦略に意識を置くなら、フィリピンなど他地域での政権打倒の例のように、横に拡げて比較参照できればなおよかった。他方、アメリカの帝国的支配をイランの一時代やイシューに特化して見たのなら、結論のハンチントンやネグリらの一般的な批判も、本研究の時代のイランに即した具体的な先行研究批判の方が、より妥当であったようにも思われる。
とはいえこれらの問題点は、本論文の高い水準とすぐれた研究成果を損なうものではなく、筆者自身も充分に自覚しているため、今後の研究によって克服し、さらに知見を発展させていくことが期待される。


Ⅳ 結論
審査員一同は、上記のような評価と、2013年7月17日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与しうる成果を充分に挙げたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2013年9月25日

2013年7月17日、学位論文提出者タキデ・モハマッド氏の論文について最終試験をおこなった。試験において、提出論文『イランにおける列強支配と民主派抵抗の闘争史―第二次大戦期~冷戦期の石油国有化問題を中心に―』に関する疑問点について、審査委員が逐一説明を求めたのに対して、タキデ氏はいずれも適切な説明を与えた。よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により、一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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