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博士論文審査要旨

論文題目:ウィリアム・ジェイムズの思想における自己の概念と自伝の倫理
著者:清水 由希江 (SHIMIZU, Yukie)
論文審査委員:中野 聡、大河内 泰樹、Claude Debru 、Jean-Charles Darmon

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Ⅰ 本論文の構成
 本論文はアメリカの心理学者・哲学者ウィリアム・ジェイムズ(William James, 1842-1910)の思想において、自然科学としての心理学を通じた認識論とジェイムズ自身が常に関心を持ち続けた「倫理への道徳的問い」が、どのような対話を通じて相互に深められていったのかを考察することを目的としている。方法としては、ジェイムズが心理学研究を通じて問い直した「自己」概念の枠組みを検討するとともに、そのためにジェイムズが用いた題材・資料となった様々な「自伝的テクスト」の使用方法を検討・考察することを通じて、ジェイムズの思想における「自伝」の倫理的意義を読み解いていく。そして、ジェイムズの心理学研究と哲学的考察における連続性を考察することによって、自然科学としての心理学研究が、哲学的自己論へと拡張され、認識論が倫理的性格をもつに至る思想形成の過程をたどろうとするものである。
なお本論文は、一橋大学大学院社会学研究科とパリ高等師範学校(École normale supérieure)の日仏学位論文共同指導協定に基づく研究指導をへて執筆・提出され、同協定に基づき両機関が選任した審査委員が合同で最終試験を実施したものである。また、パリ高等師範学校においてはフランス教育省の博士論文規定に従い上記審査委員に加えてDavid C. Lamberth教授(ハーバード大学神学部)およびFrédéric Worms教授(リール第3大学)より清水由希江氏の学位請求論文に対して事前レポートが提出された。一橋大学とパリ高等師範学校が合同で実施した最終試験において、審査委員はこれらの事前レポートを参考として参照したことをつけ加えておく。

 本論文(原文英語。仏語・日本語要旨がそれぞれパリ高等師範学校・一橋大学に提出された)の構成は以下の通りである。

序論
    
第1章 1860年代から1870年代はじめの日記・書簡:学びの旅と進化論への接近
1. 学びのオデッセイ
     2. 科学研究へのロマンスとためらい
3. 南北戦争、ボストン、兄弟
4. ハーバードへの帰還と進化論
5.ブラジルへの旅                    

第2章 アリス・ジェームズの日記:個人的な経験と書き記された生
    1. アリス・ジェームズの生涯と日記
    2. 自己について書くことの難しさ
3. 自我の統合をめぐる問題
4. ウィリアムへのアリスの反応
5. 個人的諸経験を語る時制の問題

第3章 ウィリアム・ジェームズにおける心理学と自我の意識論
1. 科学的客観性の要求と方法論上の問題
2. スペンサーの心の概念に対するジェイムズの批判
3. 主観的方法と意識の流れ
4. ダーウィン進化論と自我の意識論
5. 意識への注目

 第4章 宗教の科学と自伝の利用
1. 宗教の科学と信じる意志
2. 感情の文学的起源としての自伝
3. 宗教的経験の分類

結論

主要参考文献
索引

Ⅱ 本論文の概要
まず序論で、筆者は次のように述べる。進化論により科学的認識のパラダイムが変容しつつあった時代に、ジェイムズはC.ダーウィンの自然選択説を受容して、アメリカにおける実験心理学を主導しながら『心理学原理』(1890)を完成させた。その一方、ジェイムズは自然科学としての心理学の領域では扱うことが困難な精神現象や道徳の問題に関心を深め、その考察は『宗教経験の諸相』(1902)などの作品に結実した。このように生理学、心理学、哲学、宗教など異なる領域を越境しつつ議論を積み重ねたジェイムズにおいて一貫していたのが、第一人称による経験を記述する自伝的テクストを題材としたことであった。晩年の多元的宇宙論・根本的経験論において形而上学的議論として新たに経験論が論じ直されるまで、ジェイムズの一貫した関心は個々人の経験に向けられていたのである。  
 筆者によれば、「私」を記述する方法は、今日では、伝統的な自伝のようにひとつの物語に統合することが困難であり、また統合されることに抵抗する多様な語りのかたちが存在すると理解されている。これに対して、一人称によって語られる形式の近代的「自伝」の営みが、かつて道徳実践としてみなされてきたのは、たとえば自らの出自や生涯の変遷をたどり、私のアイデンティティを確認することで道徳的主体を確立していく物語としてそれが理解されてきたからであった。これに対してジェイムズは個人の経験への関心を探求するにあたって、(1)ジェイムズが「人間の記録(documents humains)」と呼ぶ資料としての自伝、(2)観察者、分析者の主観の位置づけを明確化する「主観的方法」としての自伝、(3)主観的方法の実践として用いられるジェイムズ自身の自伝的テキストの3つの各アスペクトを相互に関連させあった。その結果、彼自身の生涯の研究史と思考の経過は、「自己」を論じながら自ら「自己」の多元性を映し出し、証明することにもなった。ここにジェイムズにおける自伝の倫理探求の現代的意義があると筆者は強調する。このような観点から本論文は、19・20世紀転換期を生きた一心理学者の思想のなかで、認識論と道徳的観点が実践のなかで結びつくことを明らかにする。またそのことを通じて、自伝を書くこと・読むことをめぐる自伝の倫理の考察が可能になると、筆者は主張する。
 第1章は、ジェイムズの心理学者・哲学者への歩みを準備した青年期の歩みを考察している。まず注目するのが、1860年代にヨーロッパへ教育のために一家で留学したジェイムズの旅を通じた自己形成がいかに主観への問いを深めたのかという問題である。さらにその後ジェイムズは、アメリカに戻り創造論を支持する地質・古生物学者のL.アガシが主導したアメリカの自然史教育を受けながら、C.ダーウィンの『種の起源』(1859)の出版によるハーバードでの進化論争のなかで生物学を学んだことによって、進化論を受容していった。とりわけアガシが率いたブラジル調査探検に参加したジェイムズは、自然史のフィールド・ワークにおいて科学者のまなざしが対象を制御しまた抑圧的に扱うという矛盾を経験した。このことは、いかにして自然を記述することができるのかという問い、そして対象としての自然が経験によって認識される以上、いかに経験を記述できるのかという認識論的問題へとジェイムズが思考を進める契機となったと、筆者は指摘する。
 同章後半で筆者は南北戦争に注目する。ヨーロッパから帰国してまもないジェイムズ家は、R.W.エマソンらと交流を取り戻しながら、奴隷制廃止を唱えるニューイングランドの社会へと戻りつつ、南北戦争を経験した。ジェイムズ家の兄弟のうち年少の二人だけが従軍し、長兄ウィリアムとその弟で小説家となるヘンリーは戦場を経験することはなかった。しかし、直接・間接を問わずアメリカ社会そして一人ひとりの個人の生に大きな衝撃を与えた南北戦争の体験は、L.メナンドが指摘したように、アメリカの哲学としてのプラグマティズムの形成において決定的な影響を与えることになった。ジェイムズにとっても、戦争の大義がもたらした悲惨な結果は、進化論による自然史のパラダイム変革とならんで、哲学における経験の概念そのものをジェイムズが問い直し、理想や真理を検証する方法の探求へと導くうえで重要な意味をもったと筆者は主張する。
 第2章で筆者は、ジェイムズ家のなかで、あまり注目されることのなかった妹アリス(Alice James, 1848-1892)が残した日記に注目し、その読解を通じてジェイムズの心理学研究の伝記的側面について考察を進める。アリスは、当時の診断でヒステリーとされ、原因不明の体調不良を長年患った(最終的には肺がんで死去した)。晩年のおよそ3年間にわたって密かに書かれた日記には、ジェイムズ家の会話が育んだ彼女自身の世界観をもとに病床の日常生活が見つめられている。J.ストラウスの伝記研究に代表されるアリスについての先行研究では、フェミニスト的な読解により、家父長的な家族や医師・患者という立場がもたらす権力関係に抗うものとしてアリスの世界観が論じられる傾向がある。そのなかでとりわけ心理学者・医師の兄ウィリアムには厳しい批判的視線が向けられてきた。本論文は、アリスとウィリアムが一方で重要な対話者でもあったことを示したうえで、アリスの自己意識を分析している。そして、アリスの自己記述と兄の心理学における自己論との共通性、通時的記述を欠いたアリスの日記から浮かび上がる独特の認識世界、そして心理学史におけるジェイムズの位置づけを検討することで、両者の関係を、より複雑で豊かな示唆に富んだ思想的営為として把握できると筆者は主張する。さらにアリスによる自己の多元性や「自己の自己に対する関係性」についての記述を分析することで、他者のまなざしに対する自己防衛的で巧みな態度を、周囲との権力関係からだけでなく、よりアリス自身の主体的な営みとして理解できることを筆者は示している。
 第3章では、まずイギリス経験論における自己の概念がジェイムズの心理学においてどのようにに検討され、その結果として「思考の流れ」・「意識の流れ」が概念化されたのかを論じる。ダーウィン進化論の受容以後、ジェイムズの認識論的問いを深める契機となったのは、H.スペンサーの思想とりわけ「世界を写す鏡」としての受動的な「心の概念」であった。ジェイムズによれば、スペンサーの受動的な「心の概念」には、心的事象を所与の事実として客観的な対象と見なす実証主義の立場が映し出されている。しかし、心が自然のなかにあるならば、ダーウィンが個体の自発的変異を考えたように、心はむしろ自発性を有し固有の関心を持つと考えられる。ジェイムズはこの信念あるいは確信をもとにして、実験心理学のなかで心の能動性ならびに受動性を観察し、その結果、心は外的刺激を生じる対象が不在であっても内的にその対象の観念を想起されるだけで自動的に生理的反応を引き起こしうること(ideo-motor action)を示し、心理学史において「心の独立性」を示す生理学的発見も成し遂げることになる。
 同章後半はダーウィン進化論の自然選択説とジェイムズの自己意識論との関係を論ずる。ジェイムズによれば、心は身体経験をその一部とし、また、心と脳の関係において心は脳に機能的に依存している。ジェイムズの心理学はダーウィンの自然選択説に大きな影響を受けたが、ダーウィン自身は脳については機械論的な見方にとどまっていた。ジェイムズが心に対して自然選択説を適用する観点は、意識現象を自然選択説により説明した初期プラグマティストのC.ライトによる議論の影響が大きい。しかしその影響を受けながら、ジェイムズの「関心」の概念の探求は、さらに「注意」の概念へと発展していった。ダーウィンの自然選択説には、「維持する力」と「作り出す力」の二つの別の過程があるとされる。後者は盲目的な過程であり偶然性をもつものであり、ダーウィンは二つのプロセスを分けてかつ、後者についてはその原因を問わずにおいたことをジェイムズは評価した。そのうえで自然選択説を心に適用するにあたっては、心の自発性のなかに後者の偶然性をも読み込むのである。したがって、「注意」という一般的に有意な意識と理解される心のはたらきは、心身の依存関係ゆえに精神のみにとどまらず同時に身体化されており、それ故に自然選択説を考慮するならば、単に能動的なだけでなく、派生的であったり受動的であったりする。むしろ「注意」の大部分、あるいは「注意」を含む「意志」の大部分を非有意的なものとしてジェイムズは論じた。以上からジェイムズにおいて、自己意識は、意志的なものだけではない次元を取り込み、自己の統一という哲学上の理念を否定しつつ、常に変化し続ける多元的なものとして記述されるに至ったと筆者は主張する。
 第4章では、『心理学原理』の完成を経て自然科学としての心理学の可能性と限界をみたジェイムズが、心理学の成果を用いて「宗教」と「科学」の接点を再検討した『宗教経験の諸相』をとりあげた。ジェイムズは心霊現象を含めたより広範な心理現象への関心を抱きつづけながら、信仰による経験について「宗教の科学」の可能性を模索した。ここでジェイムズは様々な宗教経験の記録をとりあげ、再読し、再記述を試みることによって、個人の信仰によって救いをもたらす宗教を、ひろく議論可能なものとなる科学の対象として分析した。その際、ジェイムズが用いた「人間の記録」と呼ばれる自伝的テクストは、「極端な事例」であると同時に「範型」となって読み継がれてきたものである。そしてジェイムズは、個々の宗教経験に固有な心理学的コンテクストを与えることにより、宗教の教義的理解や宗教経験への医学的唯物論の存在論的議論ではなく、宗教が個人の生にたいしてもつ価値を論じた。このコンテクストを与える作業──再記述──を通じてジェイムズは、宗教感情もまた他の感情・情動と同様にひとつの感情であると理解して心理学的説明を与え、信仰が個人に与える動力発生的な生物学的な意義を読み解き、宗教を「自然の構成物」としてとらえた。同時に、信仰状態が可能にする神的なものとのつながりをもつ自己を描き出すことで、意識的自己は「より広大な自己」に接続されているという心理学的事実を導き出した。このようにジェイムズの宗教論は、宗教感情の独自性をさぐりつつ、その成果を再び心理学へと往還させ、さらなる探求を促すもので、両者の相互関係は多元論へと導かれていったと筆者は主張する。
 また、宗教経験の分析においてジェイムズは宗教経験のタイプを「健やかな心」と「病める魂」と分類した。この分類はドイツの心理学者・教育学者のJ.F.ヘルバルトによる「統覚(apperception)」および分類集合「類化集合(appercerciving mass)」の概念に従って行われたが、そこに示されているのは、経験を記述した著者の個々人のコンテクスト化をたどる再記述のプロセスである。それはまた、一見すると例外的に扱われる宗教経験を自らの経験と結び付けて理解するひとつの道筋を読者に示す方法でもある。そこでは、自伝的テクスト内における著者個人の統覚と分析者としてのジェイムズの統覚、さらにジェイムズの読者のそれが重なりあう。さらに宗教経験の語りが道徳を議論するものである以上、その認識論は倫理的性格を有するようになる。その意味でジェイムズの宗教経験の研究は、自伝的テクストがいかなる倫理的関係のなかにあるかを示唆するものであり、またそれゆえに、ジェイムズ自身は多元主義の立場をより明確していくことになったと筆者は主張する。
 結論で筆者は次のように述べる。以上の認識論と倫理・道徳的関心の重なり合いは、ジェイムズの根本的経験論へと発展してゆく。第一に、ジェイムズは概念的に知ることや表象によって知るといった間接経験と、自身をとりまく環境のなかでの感覚世界における直接経験とのあいだに決定的な相違をみない。孤独な信仰における宗教経験のように間接経験と思われるものが生き生きとした経験をもたらし、逆に感覚的経験であっても、理念や規則によって制度化された行動がもたらすものは、色褪せ形骸化したものにもなりうるからだ。第二に、経験は通時的な観点によって積み重ねられるわけではない。ジェイムズは、経験世界はモザイク状に形成されると理解する。そのような経験世界のなかでは個々の経験を共有するという課題は、必ずしも同一の出来事を同時に体験したり、自己の経験から他者の経験を類推したりするのではなく、各経験のコンテクストを共有することにある。以上をふまえるならば、ジェイムズが論じた純粋経験の概念とは、主客未分な経験として経験の素となる状態を想定することで、経験がつねに新たな意味づけとその機会へと開かれているという事実を描き出そうとしたものと捉えることができる。そしてジェイムズに従って個人の経験が他の文脈との関連におかれていることを前提に自伝をみるとき、自伝の道徳的意義はただ私自身が望まれる道徳主体となり得たか否かによって見いだされるのではないことが明らかになる。自伝は、自伝として経験を語る者も、またその自伝によりその経験へと関係づけられる読者も、協同の作業を通じてある経験に同様に関係づけられているがゆえに倫理を要請する。この関係性がなすものは、ジェイムズがやがて「存在の作業場」と呼ぶものである。
 このようにジェイムズは、自伝的テクストの読解を通じて経験を論じ、読解・分析のための方法から認識論を問い直し、さらにその認識論を形而上学的に発展することで、純粋経験の世界の多元性を描き出した。この多元論には、したがって心理学者・哲学者としてのジェイムズ自身の道徳実践が含まれている。以上から本論文は、ジェイムズの思想は、自伝的テクストと自伝的方法を通じての自らの思考を進めていったプロセスであり、そこにこの三つのアスペクトが絡み合う自伝の倫理が模索されると同時に実践されてもいたことを示したのであったと筆者は結論する。
 
Ⅲ 本論文の成果と問題点

パリ高等師範学校と一橋大学に提出された本論文は、19・20世紀転換期のアメリカにおいて──自然科学としての心理学、臨床心理学、精神分析、進化生物学、そして倫理の交差する地点において──人間の経験と認識をめぐって展開したウィリアム・ジェイムズの巨大な思想的営為がはたしてどのように可能であったのかという問いに、「自伝の倫理」というキーワードをたずさえて果敢に挑戦した作品である。本論文に示された視点と方法は、ジェイムズの著作それ自体がそうであるように、本論文が真の意味で文理融合の学際研究であることを示している。そしてまた本論文は、日本の哲学・アメリカ研究の学徒としてアメリカ思想をフランス高等師範学校における複合領域・文理融合の博士課程で研究したことが決して偶然ではなく、ウィリアム・ジェイムズという研究対象に対して最も挑戦的なやり方で取り組んだ結果であったと納得させる内容となっていることを高く評価できるものである。
 4章構成からなる本論文は、ウィリアム・ジェイムズ自身の伝記的研究を含む第1章、妹アリスの日記を独特の観点からジェイムズ論のなかに位置づけた第2章、議論の核心ともなる心理学と自己意識論をめぐる第3章、『宗教経験の諸相』の核心に「自伝の利用」という観点から迫った第4章というように、前半と後半あるいは4章それぞれが異なった領域・主題を異なった方法で扱っている。しかしそれらは実のところ一貫する仕方で、形成されつつある自己についての開放的理論を一貫して論じている。その主張の核心は、前進的に生ある自己とともにつくられつつある「思考」を有する自己を定めるのは、その動揺と遭遇を含めて常に経験であるということであり、また、経験と思考を主体から切り離さず、思考の主体と経験の対象をも切り離すこともせず、なお開かれた多様な仕方でそれらを包括して捉えることを「自伝の倫理」の中心的課題として捉えるということである。各章は、いずれも、これまでの重厚な先行研究の蓄積を的確に参照しつつ、ウィリアム・ジェイムズ(およびアリス・ジェイムズ)による1次文献から先行研究には見られない独創的な視点や文脈を析出することにより各章の論点を説得力豊かに主張している。またエクリチュールを多元的な経験・多元的な自己との関係性のなかでどう捉えるかという問題が各章を縦軸で貫く構成となっており、ニュアンスに富んだ細部の扱いも含めて、筆者の書き手としての手腕は高く評価される。
 しかしながら本研究においては、次のような課題も残されている。思想的営為が経験と内面の往還の産物であることは本論文自体の主題であるが、それだけに経験が内面へと一方向に帰納される記述に関しては、因果の類推や史料批判について慎重さが求められる。本論文はその大半の記述においてこの点について繊細な配慮がなされていることが認められるが、なお、たとえば南北戦争とプラグマティズムの関係をジェイムズのエクリチュールにおいてどう捉えるかという問題についてはより慎重で的確な言及が必要だったと思われる。同様に第2章のアリス・ジェイムズ研究は、ジェンダー論を乗り越えた分析や、ウィリアムにおける自伝のテクスト論への重大な示唆という点で、その内容自体は高く評価できる一方、ウィリアム・ジェイムズの思想的営為との直接的な相関の立証という点では弱いところがあり、全四章のなかで構成的にもやや浮いた印象が否めない。とりわけアリスとウィリアムの思想における最も重要なリンケージのひとつは「経験世界がモザイク状に構成される」という視点にかかわると思われる。この点がより説得的に論証されることが望まれよう。このほか、「宗教経験の諸相」においてジェイムズが「宗教科学」を単なる科学の一分野を超えて哲学として成立させようとしていたのではないか、あるいはジェイムズの生涯の思想的営為を心理学から哲学に焦点が遷移したと見るか、それとも双方への関心が生涯を一貫していたと見るかなど、今日ジェイムズ研究において論点となっている諸点について、より踏み込んだ言及があることが望ましかったかと思われる。
 もちろん、これらの諸点は本論文の学位論文としての水準を損なうものではなく、清水由希江氏自身が十分に自覚しており、近い将来の研究において補われ克服されていくことが十分に期待できるものである。

Ⅳ. 結論

 審査員一同は、上記のような評価と、2013年9月14日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2013年9月25日

 2013年9月14日、学位請求論文提出者清水由希江氏の論文についての最終試験を行った。試験においては審査委員が、提出論文「ウィリアム・ジェイムズの思想における自己の概念と自伝の倫理」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、清水由希江氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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