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博士論文審査要旨

論文題目:20 世紀転換期アメリカの動物表象と自然の形成 ―剥製・博物館・記念碑・映画―
著者:丸山 雄生 (MARUYAMA, Yuki)
論文審査委員:貴堂 嘉之、中野 聡、森村 敏己、安川 一

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Ⅰ.本論文の構成
 本研究は、アメリカ史像のエッセンスとして長らく主題であった「自然」について、動物表象を題材に新たな考察を加えた、きわめて独創的な文化史研究である。剥製術、博物館展示、記念碑、ドキュメンタリー映画などの視覚技術の進歩と結びつきながら、動物の表象がそれぞれどのように成り立ち、またそこに様々なアクター(人、技術と知識、人種やジェンダーをめぐる通念や慣習、商習慣や法など)がいかに関わっていたかを丹念に記述することを通じて、20世紀転換期アメリカの人と自然のあり方を問い直そうとした労作である。
 アメリカ研究の先行研究では、旧大陸とは異なる「原初的無垢」の自然の広がる場としてアメリカが捉えられ、その人から隔絶されたフロンティアである自然に人が触れた途端、自然は自然でなくなるという「ウィルダネスの悩み」と呼ばれるパラドクスが論じられてきた。19世紀末以降、フロンティアが消滅し、アメリカの産業化に伴い自然観が変化を余儀なくされると、一方では原始に憧れる反近代主義が、他方で自然の征服と搾取を欲望する帝国主義が生まれたとされる。本論文では、20世紀転換期の自然回帰において、この原理的に到達不可能なものとされていた自然のパラドクスから生まれた動物表象をテキストとして読み、そのアレゴリーとしての特徴を明らかにする。
本論文の章立ては以下の通りである。

序章 動物表象の歴史学に向けての予備的考察
 第1節 食べる動物と考える動物:フロンティア理論とアメリカの古典的自然観
 第2節 動物の主体性の回復:社会史から文化論的転回へ
 第3節 アレゴリーとしての動物
 第4節 ゾウの絞首刑:アレゴリーの一事例
  1.事件の発生から処刑まで
  2.コミュニティ内外の対立
  3.人種対立
  4.人と動物との対立
  5.暴力と死の記憶
 第5節 問題の所在と本論の構成

第1章 カール・エイクリーと剥製術の発展
 第1節 職業としての剥製術
 第2節 芸術としての剥製術
 第3節 科学としての剥製術
 第4節 芸術と科学の融合と衝突
 第5節 まとめ

第2章 改革の時代の動物
 第1節 アフリカン・ホール再考
 第2節 戦争と保存の技術
 第3節 アメリカのゴリラ(1):神話と新たな神話
 第4節 アメリカのゴリラ(2):進化論の視覚表象
 第5節 まとめ

第3章 未完のセオドア・ローズヴェルト・メモリアル-歴史としての動物
 第1節 メモリアルの発案、準備と各地での展開
 第2節 ライオン像の発案と挫折
 第3節 ファインアート委員会とワシントンの都市計画
 第4節 用地の決定と獲得の失敗
 第5節 ローズヴェルト島への移転
 第6節 まとめ

第4章 マーティン・ジョンソンとオサ・ジョンソンのアフリカ
 第1節 自然映画、動物映画、民族学映画
 第2節 「シンバ」の撮影と完成まで
 第3節 「シンバ」の撮影と完成まで
 第4節 ライオン・スピアリング
 第5節 僻地のドメスティシティ
 第6節 まとめ

終章 結論
年譜
史料・文献解題

Ⅱ.本論文の要旨

 序章では「動物表象の歴史学に向けての予備的考察」として、第1節で動物の歴史的・文化的研究のための理論の整理が行われ、本論で扱われる動物が、人により描かれ、語られ、何らかの操作が加えられた非実在のイメージで、意味論の世界にいる動物であることが示される。非-人間的存在としての動物を「見る」経験が、20世紀転換期の新しい視覚技術の登場のなかで、いかにアメリカ人に影響を与え、自然を語るナラティブが変化したのかを検証する筆者の問題関心が提示される。また、研究史の整理として、戦後のアメリカ研究においていかに「自然」がそのアメリカ像の核心として論じられてきたのかが、フロンティア理論や古典的な自然観(旧世界の堕落から切り離された処女地としてのアメリカ)の研究史などとともに紹介され、第2節では近年の新しい研究潮流として、文化論的転回以降の人間と自然、動物研究が詳述される。第3節では、これらの研究史を踏まえた上で、本論文の分析のキーワードとなる「アレゴリーとしての動物」という概念が紹介され、第4節ではその具体例としてあるゾウの絞首刑のケースが取りあげられる。第5節では、上記の分析枠組みに関する整理の上で、本論が注目するカール・エイクリー(1章)、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン(2章)、セオドア・ローズヴェルト(3章)、マーティン・ジョンソンとオサ・ジョンソン(4章)という考察対象を、それぞれ「芸術家ナチュラリスト」、「科学者ナチュラリスト」、「スポーツマン・ナチュラリスト」、「商人ナチュラリスト」と4つに分類して、科学への関心を代表させ議論することが示され、本論の構成が述べられる。
 第1章では、アメリカ自然史博物館のアフリカン・ホール(1936年公開)の展示で名を馳せた剥製技師カール・エイクリーを取りあげた。博物館研究においても研究史のほとんどない剥製術に注目してその技術的革新の過程を描き、その動きが専門教育を受けずに集った剥製技師らにより開始され、その博物館の外部で始まった革新が博物館へと持ち込まれたことを指摘する。また、博物館において剥製技師として専門家としての地位を得ると、彼らはその技術を長期間の保存という当初の目的以上に、美的価値を持つ芸術として位置づけるようになり、その「芸術家ナチュラリスト」としての立ち位置が、やがて、自然の正確な再現という次元ではなく、より自由な美的創造物へと移行していったことで、科学者ナチュラリストとの衝突を招いた。こうして、展示をめぐりアメリカの商品文化と芸術と科学が境界上でせめぎ合う様が描かれる。
 第2章では、構想されてから紆余曲折があり公開までに長い年月がかかったアフリカン・ホールと「完璧な動物」を求め続けたエイクリーの活動を20世紀初頭のアメリカの「改革の時代」の社会文化的文脈において考察する。従来の研究では、博物館や保存運動をビクトリア文化の残滓や反近代主義の心性として理解してきたが、ここでは自然史博物館そのものが近代化し、公教育との連携を強めるなど、社会改革の推進者としての顔を持ち始めた点に注目する。また第一次世界大戦の結果、完璧さに奉仕するはずの技術が兵器製造に転用されたことなど、戦争が博物館の存在理由に大きなインパクトを与えたことが明かされる。また、アメリカを席捲した進化論の影響を受けエイクリーが関心を持つことになったゴリラに関する考察が後半にあり、ゾウとともにアフリカン・ホールに展示されたゴリラ・グループに関して三つの読解が示される。彼はゴリラをおとなしく友好的な人間の近縁種として再定義したが、それは従来の凶暴なゴリラ像の脱神話化ばかりでなく、自立した強さを備えた男らしい家父長としての新たな神話化の側面もあった。しかし、そうした行為は社会進化論が示した人種秩序からの逸脱であり、そうした矛盾した立場は彼の彫刻「さなぎ」に端的に示されていた。
 第3章では、「スポーツマン・ナチュラリスト」の代表格であるセオドア・ローズヴェルトを取りあげ、彼の死後始まった記念碑(セオドア・ローズヴェルト・メモリアル)建設運動を追い、その顕彰を目指す運動内部の対立を明らかにする。当初あった、エイクリーによるライオン像建設の構想がなぜ実現しなかったのかを検証して、ローズヴェルトの公的な記憶のポリティクスが考察され、革新主義期の保全の思想と保護の思想の対立、人と自然の関係の変化の諸相が明らかにされる。
 本論最後の第4章では、探検家で映画制作者のマーティン・ジョンソンとオサ・ジョンソン夫妻を「商人ナチュラリスト」として取りあげた。彼らは、アメリカ自然史博物館と契約して、アフリカの野生動物を教育用ドキュメンタリーとして撮るプロジェクトを立ち上げるが、これ自体は不完全に終わり、1928年に公開される劇映画「シンバ」となった。この映画は映画史やメディア・スタディーズで論じられてきたが、本章では博物館研究、とくにアメリカ自然史博物館内部の議論をふまえつつ、博物館が映画の活用を考えたのは、資金調達と観客の増加、また教育効果を見込んでのことだったこと、つまり動物と自然の商品化が当初から織り込み済みであったことを明かす。また完成した「シンバ」の一貫性のない折衷性を生み出した原因は、自然を重視する一方で観察する主体に無関心であった博物館の側にあると筆者は指摘する。筆者は、女性でありながら探検家のオサ・ジョンソンが、同時に被写体としてカメラの前に立ち観客に眼差される客体であった二重性に注目し、その一人称と三人称、人間と自然、人間と動物、ホームと外国の境界にまたがっていた点を指摘する。
 終章では、本論部分の各章を総括した上で、四種類のナチュラリストの自然観を比較し、その共通点ともに、看過しがたい相違点を指摘する。オズボーンらがローズヴェルトと共有していたのは、「テディ・ベア的家父長制」、社会進化論、優生学などであったが、これらは科学的な客観性と両立しえず、博物館の学術部門との間に齟齬を生むことになった。エイクリーが自称した芸術家ナチュラリストは、自然に完璧さを求める理想主義者であったが、それは科学者ナチュラリストとは相容れなかった。結論部で、筆者はこれらナチュラリストに通底していたのは、審美的価値に基づく自然と実用性に供される自然の対立で、その意味で動物のアレゴリーは革新主義の産物であり、自然がそもそも幻想であり、根源的に不可能なものだとしたら、動物の表象はその倒錯を永続化したと論じる。


Ⅲ.本論文の成果と問題点
 本論文の主要な成果としては、以下の諸点をあげることができる。
 第一に、本論文は20世紀転換期の動物表象というきわめてユニークなテーマを取りあげ、同時代の剥製術が果たした歴史的役割を解明するなど、アメリカ史及びアメリカ研究に動物表象を切り口にした新たな研究の可能性を拓いた点が評価できる。古典的なアメリカ研究では、自画像のエッセンスとして原初的無垢の「自然」が常に語られ、それがフロンティアの消滅後、大きな変容を余儀なくされたことが論じられる。しかし、こうした議論において自然は本来的に場所的な概念として提示されており、またその自然に動物は不在であった点を考えれば、著者が動物という非言語的な存在を取り上げ、多声的な自然を描いたことには大きな意義がある。
第二に、動物表象を分析する上で著者は「アレゴリーとしての動物」という概念を提案し、剥製、博物館、映画などの分析を通して、その有効性を検証した。動物の表象は、紋切り型のステレオタイプにはおさまらない、複雑で矛盾を内包するものだった。記号の意味生成の過程に注目するこの手法は、文字資料以外の視覚イメージを用いる歴史研究に新しい視座を加える。さらに、そうした表象の製作手法や経緯を考えることは、作品に込められた作者の意図と観客による受容のずれを浮かび上がらせ、歴史学における客観性の問題に新たな問いを投げかけるものとなる。
 第三に、本論文はアメリカ自然史博物館で活躍した剥製技師やパトロン、キュレーター、ドキュメンタリー映画制作者らが主たる考察の対象となっており、この博物館の成立・発展過程を明らかにした博物館研究の成果としても評価することができる。50枚もの動物表象や博物館に関連した図版を掲載するとともに、史料としても自然史博物館やシカゴのフィールド博物館所蔵の個人ペーパーを用い、とりわけカール・エイクリーに関する徹底した調査は秀逸であった。歴史研究の視座からも博物館展示をめぐる内部の対立や方針決定の過程等がこれら史料から明らかにされており興味深い。
 第四に、アメリカ史の革新主義研究としての成果である。これまでも革新主義の核心的問題として自然が論じられてきたが、本論では自然の理解をより深化させるために、ナチュラリストを四つのタイプに分けその立場の違いを明らかにして、より多面的な理解を可能にした点が評価できる。
 本論文では、こうした独創的な優れた成果が生み出された一方で、以下のような問題点も指摘することができる。第一に、本書はこれまでのアメリカ研究において議論されてきた「自然」観の再検討の作業を動物に着目して検証するというオリジナルな視座を示しながら、結論部においては、ややその豊富な成果を十分に論じ切れていない点がある。せっかく動物の視覚表象という未開拓のアプローチを採用したのであるから、これに関する方法論的意義を結論でさらに展開してもよかったし、分析のキーワードになっている「アレゴリー」の考察も同様である。また、本書で明らかにされたアメリカ自然史博物館が、動物だけではなく人類学部門で人間の展示をしていたことなども議論に組み入れることができれば、人間と動物の関係史をさらに一歩深めることができたのではないか。また同博物館が他国の自然史博物館と比較した場合、どのような異同があるのか、本論の主題からはそれるが、比較の視座からの考察も気になるところである。とはいえ、こうした問題点や今後の課題については著者も十分自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。


Ⅳ.結論
 審査員一同は、上記のような評価と、2013年6月27日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したことを認め、丸山雄生氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2013年7月10日

 2013年6月27日、学位請求論文提出者丸山雄生氏の論文について最終試験を行なった。試験においては、提出論文「20世紀転換期アメリカの動物表象と自然の形成-剥製・博物館・記念碑・映画-」についての審査員の質疑に対し、丸山雄生氏はいずれも十分な説明をもって答えた。よって、審査員一同は、丸山雄生氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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