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博士論文審査要旨

論文題目:18世紀後半パリのポリスと反王権的言動
著者:松本 礼子 (MATSUMOTO, Reiko)
論文審査委員:森村 敏己、山﨑 耕一、秋山 晋吾、阪西 紀子

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 1 本論文の構成
松本礼子氏の論文「18世紀後半パリのポリスと反王権的言動」は、近世パリの「ポリス」が具体的にどのように機能していたかを、国王に対する「悪しき言説」への対応を事例としながら具体的に分析することで、アンシャン・レジーム末期に顕著となった社会的・政治的変化に迫ろうとする力作である。
 本論文の構成は以下の通りである。

 序章
  第1節 問題意識と論文のテーマ
  第2節 先行研究の概観
  第3節 本論文の位置づけ
  第4節 史料解説「ポリス文書」

第1部 ポリスの世界
 第1章 近世ポリスの誕生
  第1節 警視総監
  第2節 警視
  第3節 捜査官
  第4節 スパイ
 第2章 ポリスによる人間・社会・ポリス
  第1節 ニコラ・ドラマール『ポリス論(1705-1738)』
  第2節 フランソワ=ジャック・ギヨテ『フランスのポリス改革に関する覚書(1749)』
  第3節 ジャン=バティスト=シャルル・ルメール『1770年パリのポリス(1770)』

第2部 反王権的言動
 第3章 国王に意見する人々
  第1節 ダミアン事件
  第2節 ダミアン事件の余波
 第4章 国王暗殺計画の偽告発
  第1節 ヴァレリー・ド・ブリュル事件
  第2節 ド・ラ・ショー事件
 第5章 外国との通信
  第1節 ジャン=バティスト・マナン事件
  第2節 ジャン=フランソワ・エロン事件

 終章
 参考文献一覧

 
2 本論文の概要
序章ではまず、近世において「ポリス」とは都市の統治全般に関わる広い概念であったことが確認されたうえで、制度史的な観点からではなく、実際の事件への対応を通じてポリスの実態と機能を明らかにするという本論の目的が示される。その際に具体的な事例として著者が取り上げるのが反王権的言動、いわゆる国王に対する「悪しき言説」である。反王権的言動は絶対王政の基盤を揺るがすものとしてポリスにとって深刻な問題であったと同時に、18世紀後半の民衆の「世論」、より具体的には当時の人々の権力観や国王観といった問題にポリス文書から迫ることができるという点でも、重要なテーマであるとされる。
次いで著者はポリスに関する研究史を概観したうえで、近年の研究が「統治の技法」に関わる知の体系化とそれに伴うポリス業務の専門化という観点を重視するあまり、ポリスが担っていた抑圧的側面の分析が不十分である点を批判し、その意味でも反王権的言動に対するポリスの具体的な対応を問うことは、ポリスが果たした抑圧機能にあらためて光を当てるとともに、民衆と王権とが対峙する様を具体的に解明することに貢献するとしている。
第1部では、具体的な事件の検討に先立ち、パリ警視総監職が設置された1667年から革命に至るまでのポリスの制度と理念が明らかにされる。
まず第1章において近世ポリス機構の概略が示される。組織の中心となる警視総監をはじめ、警視、捜査官、さらにはスパイが担った職務と機能が明らかにされ、そのうえで著者はこうした組織がどのような理念に沿って運営されていたのかを第2章で論じる。その際、著者が分析対象とするのが、警視ニコラ・ドラマールの『ポリス論』(1705-1738)、マレショセ隊員フランソワ=ジャック・ギヨテの『フランスのポリス改革に関する覚書』(1749)、オーストリアにおけるポリス再編を意図したマリア・テレジアの要請を受けて警視総監サルティーヌが警視ジャン=バティスト=シャルル・ルメールに作成させた『1770年パリのポリス』(1770)である。これら3点の作品は18世紀に数多く執筆されたポリス論の中でもとりわけ包括的にポリスの理念・役割・自己認識を論じたものだとされる。
近世フランスにおけるポリスを語る際には必ずといってよいほど言及されながらも、本格的な分析はほとんど行われていない大著『ポリス論』において、ドラマールはポリスの役割を「人間をその生において享受しうる最も完全な幸福へと導き」、「公共善を実現する」ことに求め、そのために実際に監督すべき具体的領域を、宗教、習俗、衛生、食糧、道路、公共の治安と安寧、自由学芸、商業、製造業と工芸、家内使用人・肉体労働者、貧民の11項目にわたって列挙し、その詳細について検討している。ドラマールの記述にはポリスという概念の広がりと組織としてのポリスが担うべき領域の多様性がよく現れているが、著者によれば、ドラマールのポリス観は、1667年のパリ警視総監職新設時の勅令が示した原則に沿い、良き社会秩序を維持し続けるために都市の日常生活に継続的・多面的に介入しようとするポリスの性格を明瞭に示すものであるとされる。
一方、ギヨテの『フランスのポリス改革に関する覚書』は「よき秩序の維持」というポリスの基本的な目的を掲げながらも、それを実現するための条件として住民に関する「知識」を重視する。具体的には、住民一人一人を監視体制の網の目の下に置くことで秩序を維持しようとする点にギヨテのポリス論の特質があるとされる。彼は「空間と人口の細分化」を提唱し、街区担当官と呼ばれるポストを設け、彼らが20家屋を一単位とする狭い区域を管轄し、そこに住む全ての住人の情報を常に把握することを求める。そのうえでカード化されたそれらの情報を一元的に管理する中央管理システムを構築することを提案するのである。家屋用カードと個人用カードとに区別され、週に2度更新されるカードには家主・家屋・個人に関する様々な情報が書き込まれ、「住民登録票」として住民の管理とそれに基づく秩序維持に活用される。またギヨテは大量のカードを集中管理するための機械まで考案している。ギヨテのこうした構想は研究者たちによって「まったくの空想上のアイディア」とされてきたが、著者によれば実際に幾人かのポリス担当官は、もちろんギヨテが提唱したほど徹底したものではないにせよ、独自の情報整理システムを考案し、実践していたという。そしてギヨテとこれらのポリス担当官はいずれも犯罪への迅速な対応および犯罪の予防という目的意識を共有しており、彼らのアイディアと実践は当時のポリスの理念に沿ったものだったと著者は主張する。
次に『1770年パリのポリス』において著者ルメールはモンテスキューを引用しながら、ポリスの特質は日々生じる事柄に対して迅速・柔軟に対処することで、秩序に生じたほころび・亀裂をその都度修復していくことにあるとしている。司法が法に則り、逆に言えば法という規範に拘束されながら起きてしまった犯罪を裁くのとは違い、ポリスの役割は日常的な違反を取り締まり、処罰することで犯罪を予防し、再犯に対する警告を発することにある。このため厳罰を科すことはポリスの本質にそぐわない。このようにルメールは司法とポリスの役割を区別したうえで、煩雑な手続きを必要とする正式な裁判とは異なり、封印王状の一種である国王命令によって被疑者を即座に拘束・投獄できることが、ポリスに必要な機動性を保証していると評価する。さらに警視や捜査官のそれぞれの担当地区で生じた出来事に関する情報の収集・整理がポリスの迅速で正確な行動を支えていると述べる。ここにギヨテと共通するポリス観を見出すのは容易であろう。
人々に幸福な生活を保障し、良き秩序を維持するというポリスの目的はこれらの作品全てに共通している。また、こうした目的を達成するために住民の日常生活を絶えず監視し、これに介入することの必要性も3人のポリス論者に共有されている。一方、徹底した情報の収集と管理の重要性およびポリスに求められる迅速性と柔軟性の認識は時代を下るにつれて強まっている。著者は同時代のポリス担当官自身によるポリス観を以上のように整理した上で、第2部においては実際に生じた反王権的言動に対するポリスの対応を検証する。
まず第3章において取り上げられるのは、ダミアン事件とその余波である。ルイ15世暗殺未遂という衝撃的なこの事件は、高等法院で裁かれた第一級の大逆罪であり、ポリスが担当する領域におさまるものでは到底ないが、この事件が生み出した多くの反王権的言動はポリスの行動原理を分析する上で恰好の対象であると著者はいう。この意味で、ダミアン事件の検討はいわばそれに続く諸事件を理解するために不可欠な作業だとされる。
国王にナイフを突き立てるという大胆な犯行に及んだダミアンは、長年家内奉公人として働いてきた、その意味では平凡な民衆の一人である。尋問を受けたダミアンは犯行の動機は「宗教」であると答えているが、その背景には1750年代に生じていたジャンセニスム問題および国制・租税をめぐる王権と高等法院との対立と、そこから生じた社会的・政治的緊張があった。ダミアンは、ジャンセニストへの弾圧を強行するパリ大司教を初めとする聖職者たちの行動を阻止せず、高等法院の建言を聞き入れようともしない国王に自らの誤りを知らしめるために襲撃したというのである。彼の言う「宗教」とはジャンセニスム問題とそれに伴う終油の秘蹟拒否をめぐる混乱を指していた。一方、王権側は国王襲撃という恐るべき犯罪がダミアンのような一庶民により単独で計画されたとは思えず、国王暗殺を彼に吹き込んだ黒幕あるいは共犯者がいるに違いないと考えた。しかし、度重なる尋問にもかかわらず陰謀の確証を得ることはできなかった。その間にも世間ではダミアンの犯行動機や黒幕をめぐる噂や勝手な推測が広まっていった。そこで王権はこうした噂に終止符を打つ必要に迫られるが、その際、民衆のひとりに過ぎないダミアンが、神の代理人であり国民から無条件に敬愛されているはずの国王の政策に不満を募らせた挙げ句に犯行に及んだという解釈は、絶対王政の理論からは到底容認できないものだった。そのため王権はダミアンを「狂人」とするしかなく、政府はダミアンの犯行動機は狂気であるとした公式見解を流布させ、事件から政治的な意味合いを消し去ろうとする。国王の権威を危険にさらす言動をめぐり、既存の秩序への影響を最低限に食い止めようとするこうした操作は、こののち反王権的言動によりポリスに逮捕された人々に対する措置においても共通して見られるものだと著者は指摘する。
ダミアン事件以後、ポリスは反王権的言動への取り締まりを強化する。そこで網にかかった多くの反王権的言動はダミアン事件が生み出したものであると同時に、取り締まり強化ゆえに顕在化したという側面も持つが、第2節では、そうした「悪しき言説」への対応に第1部で検討されたポリスの特質が反映されているかどうかが問われる。国王への謁見を執拗に求めたために逮捕されたルフェーヴルという人物は租税法院の執達吏であったが、彼もまた聖職者と大臣を批判し、国王は彼らではなく高等法院の建言に耳と傾けるべきであると主張した。ルフェーヴルに関してもその主張の政治性ゆえに王権は黒幕の存在を疑うが、ここでも彼は自分の考えは読書と勉強の結果であると答えている。さらにルフェーヴルは「考える自由」、「行動する自由」は何ものにも妨げられるべきではないとさえ言い張るのである。彼がいかに国王への忠誠を誓おうとも、こうした主張は王権が臣民に求める忠誠とはかけ離れたものであり、絶対王政の原理に反する危険なものだった。ルフェーヴルを裁判にかけることなく国王命令によって秘密裏に逮捕・投獄したポリスは、ダミアンの場合と同じく、ルフェーヴルのこうした大胆な言動の原因は精神の錯乱だとの解釈を取る。やがて彼は兄の嘆願によって釈放されるが、その嘆願書もルフェーヴルが精神錯乱の状態にあったことを認めた上で、現在では理性を回復しているので釈放して欲しいという論理を展開している。つまり、絶対的服従を要求できる権利をもつ国王に対する一介の庶民による批判・諫言が正当なものであるはずはなく、それはまさに狂気の沙汰でなければならなかったのである。王権を批判し、政策に介入しようとする人々の動機を狂気・妄想と見るポリスのこうした態度は、デリヴィエという人物への対応にも共通して見られるという。著者によれば、彼らはいずれも国王に対して建言を行うという行為は「良き臣民」の務めだと認識していた。絶対的服従を求める王権と彼らとの間には、「良き臣民」の理解をめぐって大きな溝が生じていたのである。
ダミアン事件は別としてここで取り上げた事件は、いずれも裁判という司法手続きを取らず、国王命令に基づきポリスによって密かに、そして迅速に処理された。続く第4章ではこのように通常の裁判を避け、「司法外」の措置を選択することの意味が検討される。
ダミアン事件の後、架空の国王暗殺計画を告発するという事件が続発する。動機は個人的な怨恨や報奨金など様々であり、ポリスもこうした告発の多くが虚偽であることは十分に承知していたが、国王の安全にかかわる事柄である以上、放置することは許されなかった。もちろん告発が虚偽であった場合、告発者には厳しい処分が下された。神聖な国王に危害が加えられる可能性という、絶対王政においては存在することさえ許されない脅威を顕在化させることは、王権に対する反抗と見なされたのである。興味深いことに、架空の国王暗殺計画の告発という同じ性格の事件であっても、その処理の仕方は状況によって様々であった。著者はこうした違いに、司法とは異なるポリス独自の機能を見出す。ルイ15世暗殺計画に関わる会話を耳にしたと言い張り、外務卿に面会を求めたヴァレリー・ド・ブリュルの場合、虚偽の告発だけでなく、貴族身分の詐称も問題となった。貴族身分の詐称は本来なら司法の手に委ねられるべき罪だが、彼女は司法を一切介することなく、国王命令の形でブリュッセルへの追放が決まる。ポリスが迅速にこうした処置を決めた理由は「悪の伝播」への危惧であったと著者は主張する。裁判になれば事件は公になる。反国王的言説が周知のものとなること自体が類似の悪を広めると考えるポリスにとって、ブリュルは速やかに、かつ密かに処分されるべき対象だったのである。ブリュルに限らず、警視総監のイニシアティブで出される国王命令によって逮捕された人々が司法によって裁かれることは稀であり、多くは施療院などに閉じ込められた。ポリスは「悪しき言説」が周囲に影響を及ぼす前に、彼らを社会から隔離しようとしたのである。著者はここに犯罪を取り締まるだけでなく、犯罪の広がりを「予防」することを自らの任務とするポリスの姿勢が現れているという。ところが、同じく虚偽の告発を行った近衛兵ド・ラ・ショーには全く異なる処分が下された。血まみれで倒れているところを発見され、国王暗殺を企む男たちに襲われたと主張したド・ラ・ショーだったが、ほどなく彼の供述は報奨金目当ての虚偽だと判明した。ブリュルと異なるのは彼が正式に裁判にかけられ、絞首刑に処されたことである。こうした違いが生じた理由を著者はド・ラ・ショー事件がその発生直後から世間に知れ渡り、多くの噂や推測を生み出してしまっていた点に求める。警視総監サルティーヌに宛てた手紙の中で宮内卿サン・フロランタンは、事件がこれだけ公のものとなってしまった以上、もはや思いのままに処理することは不可能だと語っているのである。「悪」の存在が知られる前に秘密裏に処理するというポリス特有の方法に頼ることができなくなった状況で、次善の策と考えられたのが、裁判によってド・ラ・ショーを裁き、判決内容を公表することで、いわば公認の「真実の物語」を流布させ、無数の噂や推測を封じることであった。ダミアン事件でも、ダミアンを狂人とすることで事件から政治的意味を一切剥奪する語りが多くのパンフレットによって広められた。同様の操作は他の多くの事件においても行われていたという。著者はここに秩序に生じた亀裂を状況に応じて柔軟に修復しようとするポリスの特質を見い出す。同時に、「悪しき言説」の普及に対するこれほどの警戒心から、「公共」や「世論」といったものの影響力の拡大をポリスが敏感に感じ取っていた可能性を示唆する。
第5章では、七年戦争の最中、敵国との内通という第一級の大逆罪を犯した人々を対象としながら、彼らの国王観、臣民観、社会観が分析される。君主制の転覆計画という驚くべき「陰謀」を知らせる手紙を多くの政府要人に送りつけ、無視されると今度は敵国であるプロイセン国王にこの「陰謀」を告げたために逮捕されたマナンは、国家に関する自らの見解を政府に役立ててもらうため、ありもしない「陰謀」を告発することで大臣たちの注意を引こうとしたのだと自白する。国事は国王の専権事項であるという絶対王政のイデオロギー、臣民は自らの身分に相応しい役割を全うすることで国家に貢献すべきであるとする身分制の基本原理に照らして、一介の平民にすぎないマナンが国事に関して私見を述べ、政治に介入しようとしたことはおよそ許されることではなかった。しかし、マナン自身は自らの行動を「国王への尊敬」に基づく「良き臣民としての義務」だと主張するのである。偉大な統治者とは「平民の意見をも軽んじること」のない「誰にとっても近づくことが容易な」存在であるとするマナンの議論は、実は伝統的な国王観に立脚するものでもあった。国王の可視性は臣民を王権に結びつける重要な絆として理解されていたのである。ポリスもこうした国王観を否定しているわけではないが、マナンは王に近づくために偽りの告発を繰り返し、相手にされなかった腹いせから敵国の君主に接近しようとしたのであり、こうした行動はポリスにとって、国王に近づく権利といった伝統的概念で正当化できるものではなかった。著者によればマナンとポリスの間には国王と臣民の関係をめぐる解釈において大きな溝が存在したのである。結局マナンもまた「狂人」として20年間に渡ってバスティーユに幽閉される。
一方、軍事情報にかかわる図面をプロイセン国王に売却しようとした罪で逮捕された製図技師エロンは、弁明の中で自分を「判断力に欠け」「頭に血が上った」人間であり、それが今回のような行動の原因だと主張するのである。絶対王政のイデオロギーを維持するため、反王権的言動の動機を狂気に求め、そこから政治的意味を剥奪するという方針をポリスはとっていたわけだが、ここでは犯罪者自らがそのロジックを弁明のために利用しているのである。そのうえで彼は獄中で「有用なアイデア」を記した多くの覚書を執筆し、どうにかそれを国家のために役立てて欲しいと嘆願し始める。当然ながら無視された彼は自伝を執筆し、そこにおいて自身の努力と才能への自負、それを評価しようとしない人々への恨みを書き連ね、外国に内通したのも自分の才能に相応しい評価を得るためだったと語る。社会的評価の基準として有用性を重視する風潮は18世紀半ばから強まり、やがてメリトクラシーと呼ばれる傾向に結びついていくが、エロンの議論がこうした風潮に沿ったものであることは間違いない。しかし、ここでもエロンの行動はポリスが容認しうる範囲を逸脱するものだった。そのためエロンもまた「狂人」としてビセートル施療院で19年という長い年月を過ごすことになる。
終章ではこれまでの議論を整理した後に、1760年代後半からポリスが反王権的言動を狂気という枠組みで説明することに躊躇いを見せ始めたことが指摘される。この躊躇いは1770年代以降徐々に顕著となり、同時にポリス特有の迅速で秘密裏の処置を支えていた国王命令に対する批判が高まっていくことが指摘される。そこに著者は、王権に対する批判が狂人の所行ではなく、批判精神を持つ「市民」による権利の行使へと変化していく兆しを指摘して本論を終える。


3 本論文の成果と問題点
本論文の成果としてまず強調すべきは、具体的な事件とそれに対するポリスの対応を分析した結果、社会に生じる亀裂をその都度修復するために迅速かつ柔軟な処置を取ることがポリス最大の特徴であったことを明らかにした点である。封印王状による素早い逮捕・投獄、裁判によらない秘密裏の処分により、事件が公となる前に悪しき言説の存在自体を覆い隠し、闇に葬ることで「悪」の伝播を未然に防ごうとする姿勢、および、やむを得ず裁判沙汰となった場合には事件に対する「正しい」解釈を提示することで秩序の速やかな回復を図ろうとする柔軟性がポリスの基本的な行動原理であることを実証的に示したことは、18世紀パリのポリス理解に大いに貢献したと評価できる。また、事件の分析に先立ち、代表的なポリス論の検討を行うことで、そうしたポリスの実践がポリス自身による自己認識に沿ったものであることを証明した点も重要な成果である。
第二の成果は、実際に逮捕された人々の証言、弁明、主張を詳細に検討することで、高等法院と王権との政治的対立や知識人を中心とした新たなソシアビリテの成立といった観点に基づく「世論」観からは距離を置き、反王権的言動をより日常に密着した水準で捉えることに成功した点である。それにより、国民の間に絶対王政や身分制のイデオロギーとは相容れない価値観が台頭しつつあったことが説得的に示され、そうした変化に直面したポリスの対応を通じて、国王政府とパリ市民との間に生じ始めた国王観・権力観のズレや、両者の間における緊張の高まりが明らかとなった。
第三に史料調査の充実ぶりを指摘しておくべきであろう。上述のような成果は、バスティーユ文書やジョリ・ド・フルーリ・コレクションといった史料の丹念な分析に立脚している。自ら語ることのほとんどない一般民衆の国王観を知るうえで、ポリスのよって摘発された人々の調書が重要な史料であることは言うまでもないが、とりわけ裁判を経ない事件を分析するためにバスティーユ文書に着目し、活用するという手法は本論文の水準を高める上で極めて有効であったと評価できる。
一方、指摘すべき課題も残されている。ひとつは著者が分析対象とする「民衆」という概念の曖昧さである。著者は、ミシェル・ド・セルトーを引きつつ、この概念を社会経済史的な意味ではなく、支配的な文化への対峙の仕方という文化的な側面に注目しながら用いるとしており、そのためか「平民」「市井の人々」などと言い換える場合もあるが、ハーバーマスが定義した「公衆」という枠組みからこぼれ落ちる人々を指すという意味での「民衆」との関係が明確ではなく、披統治者という漠然とした概念との差異も十分に理論化されているとは言い難い。
次に、ポリスが摘発する反王権的言動が向けられる対象や理念についても、著者は王権、政府、国王、絶対王政、身分制など多くの概念を用いているが、それぞれの概念の定義が必ずしも明確ではない。たとえば、王権批判と言っても、国王を取り巻く大臣に批判の矛先が向かい、国王自身は免罪されるといういわば伝統的なパターンと、国王その人に不満が向けられる場合とでは意味が異なるのであり、こうした点についてはもう少し丁寧な説明が求められるだろう。
しかし、こうした問題点はあくまで今後の課題として認識しておくべき点であり、本論文の学問的水準を損なうものではない。

4 結論
審査員一同は、上記のような評価と、2013年5月22日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大であると判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2013年6月12日

 2013年5月22日、学位請求論文提出者松本礼子氏の論文についての最終試験を行った。試験においては審査委員が、提出論文「18世紀後半パリのポリスと反王権的言動」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、松本礼子氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は松本礼子氏が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した

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