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博士論文審査要旨

論文題目:企業城下町の形成と日本的経営
著者:松石 泰彦 (MATSUISHI,Yasuhiko)
論文審査委員:渡辺尚志・石居人也・高柳友彦

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一、本論文の構成

 本論文は、「企業城下町」と一般的に呼ばれる産業都市の典型例として岩手県釜石町(1937年以降、釜石市)を取り上げ、そこにおける企業城下町の形成史を、日本的経営論の諸論点を意識しつつ解明したものであり、その構成は以下のとおりである。

はしがき

第1章 企業城下町への視角
 1 企業城下町とは何か
 2 企業城下町をめぐる論点
 3 企業城下町・釜石への視線

第2章 釜石製鉄所の変遷
 1 明治以前
 2 創成期―官営~田中製鉄時代
 3 戦前の拡大期―三井鉱山~日本製鉄時代
 4 戦後の拡大と合理化―富士製鉄時代
 5 釜石製鉄所の縮小~現在まで

第3章 戦前期釜石町の様相と産業構造
 1 戦間期の町勢推移
 2 産業構造の推移
 3 製鉄所と水産業
 4 戦前の釜石における政治動向

第4章 戦間期釜石製鉄所における労働者
 1 製鉄所労働者の呼称と種類
 2 鉱夫と職工
 3 職工の状況
 4 請負人と請負人夫
 5 八幡製鉄所との比較
 6 釜石製鉄所労働者の特色

第5章 1919年釜石労働争議の過程とその特質
 1 争議直前の情勢
 2 同盟会支部設立と18項目の要求の提出
 3 「三大要求」回答日までの動向
 4 鉱業所の回答と騒擾
 5 争議の終焉
 6 1919年釜石労働争議の特色について

第6章 釜石製鉄所真道会の組織と機能
 1 工場委員会の歴史的位置
 2 真道会の設立とその組織の変遷
 3 真道会の議題と機能
 4 真道会の運営資金と収支
 5 釜石製鉄所真道会の特色

第7章 企業城下町形成における工場委員会の役割
 1 工場委員会と地域
 2 真道会の福利厚生機能と地域
 3 真道会と地域社会
 4 企業城下町における工場委員会の対地域機能

第8章 補論 戦後釜石の産業構造と企業間関係の展開
 1 企業城下町における長期的取引
 2 戦後の釜石市と釜石製鉄所
 3 戦後の製鉄所をめぐる企業間関係
 4 戦後釜石における長期的取引の展開

あとがき―企業城下町の今後に向けて

二、本論文の概要

 第1章では、企業城下町および釜石製鉄所についての先行研究が整理され、以下のように課題が設定される。企業城下町においては、企業内で経営家族主義的な労使関係が典型的に展開されるという点、そしてそれが企業内にとどまらず地域との関係にも影響するという点、さらに企業間関係としての長期的取引関係が典型的に成立している点などに示されるように、そこにみられる諸特質は日本的経営論における諸論点と密接に関連している。しかし、従来は、企業城下町の成立過程に注目して、その関連を解明した研究は少なかった。したがって、釜石を事例に、企業城下町の形成過程と、そこに展開した日本的経営の諸要素の源流とを明らかにしていくことは重要な課題であり、本論文はそれを追究するものである。
 第2章では、釜石製鉄所の概要とその歴史的変遷について、以下のように述べられている。岩手県北上山地南部は鉄鉱石の埋蔵量が豊富で、古代・中世からたたら製鉄が行われてきた。幕末には、南部藩士によって、高炉による製鉄が行われた。1878年(明治11)には、官営製鉄所の操業が開始された。1887年(明治20)には、東京の鉄商・田中長兵衛が製鉄所設備の払い下げを受けて、釜石鉱山田中製鉄所を設立した。1924年(大正13)には、第一次世界大戦後の不況のもと、製鉄所は三井鉱山に売却された。1934年(昭和9)には、釜石鉱山は官営八幡製鉄所などと合併して、日本製鉄株式会社(日鉄)釜石製鉄所となった。第二次世界大戦後の1948年(昭和23)、GHQの指令によって日鉄は解体され、釜石製鉄所は富士製鉄釜石製鉄所となった。1955年(昭和30)以降1970年代前半にかけての高度成長期には生産量が急増し、生産はピークを迎えた。1970年(昭和45)には、富士製鉄と八幡製鉄が再び合同して新日本製鉄株式会社(新日鉄)となったため、釜石製鉄所は新日鉄釜石製鉄所となった。しかし、オイルショック以降生産量は低迷し、1989年(平成元)には高炉を停止して今日に至っている。
 第3章では、釜石製鉄所が立地する釜石町の、大正~昭和初期における町勢と産業構造が検討されている。この時期、釜石町の人口は製鉄所の発展と軌を一にして増加していった。しかし、1924(大正13)~26年には、水産業を中心とする第一次産業の生産額が第二次産業の生産額を上回っており、そこから釜石町が当初から単線的に、製鉄所のみに依存する企業城下町になっていったわけではなかったことがわかる。この時期には、町内に製鉄所に批判的な勢力も一定程度存在していた。そうした批判勢力との軋轢・葛藤を経て、1930年代に入ると、製鉄所を中心とした企業城下町・釜石が確立していったのである。
 第4章では、1920年代を中心とする時期の釜石製鉄所に、どのような種類の現業労働者がおり、それがどのように変化していったのかを整理して、そこにみられる特質を以下のように述べている。釜石製鉄所の現業労働者は、製鉄所が直接雇用する職工と、請負人によって徴募される請負人夫に大別される。そして、製鉄所の経営側は、職工層については工場委員会(真道会)における経営家族主義を媒介に、労使協調体制のなかに組み込んでいく一方、請負人夫層については実質的には定常的・固定的労働力としつつも、職工層とは明確に区別し、安価な労働力として利用していった。同一の労働現場において、このような二重構造・格差構造が定着していったのである。
 第5章では、1919年(大正8)冬に勃発した大規模な労働争議を取り上げて、先行研究を批判的に再検討しながら、争議の全過程を再構成している。1919年には、生産量は急増していたが、労働者数は減少傾向にあった。合理化が進み、労働者1人当たりの仕事量が増えていたのである。また、この時期、物価は急上昇していた。したがって、労働者のなかでは、人員削減への不安とともに、仕事の増加に見合った給与増額を求める気運が高まっており、それが争議の背景となっていた。この争議で、大日本鉱山労働同盟会釜石支部(以下、同盟会)支部長として労働者側において中心的役割を担ったのは、当の労働者ではなく、地元の知識人・荒木田忠太郎であった。また、同盟会はあくまで製鉄所に直接雇用される職工の組織であり、間接雇用の請負人夫層は参加していなかった。こうした点に、この運動の脆弱性が看取される。そして、この争議を契機に、翌1920年(大正9)には工場委員会=真道会が発足した。
 第6章では、1920年(大正9)2月につくられた真道会という労使協調団体について分析している。真道会は、福利厚生と共済事業を主要な機能とし、職工を中心に編成された、会社の諮問機関であった。こうした点から、真道会は、この時期全国的に組織された工場委員会の一事例であるといえる。真道会は、福利厚生を柱に、企業内融和のための経営家族主義実現を目指しており、その手段として購買部・社宅・付属病院等を位置付けていた。そして、懇談という曖昧で協調的な方法を用いて、職工を企業内に取り込んでいったのである。すなわち、真道会においては、発足当初から形式的には議事制がとられていた一方で、実態的には正式な議題よりも懇談のほうが重要な意味をもっていた。その点からすると、一般的に工場委員会の実態や本質を検討する際には、表面にあらわれた正式な議題の分類やその数量的把握以外に、懇談の内容まで含めた全体的な議事内容を把握することが重要だといえる。
 第7章では、真道会と釜石の地域社会との関係の検討から、以下のような主張がなされている。真道会の重要な機能であった購買部・社宅・付属病院等は、従業員の消費・生活を地域から分断する役割を果たしていた。すなわち、購買部・社宅・付属病院等を利用できることは職工たちの特権だったのであり、職工たちは社宅に住み、生活物資を購買部で購入し、病気や怪我のときには付属病院で治療を受けることによって、地域社会から一定程度乖離した生活を送っていたのである。一方、真道会は、釜石町の町議会議員選挙の際には、会として候補者を擁立し、選挙運動を行い、毎回議員を町議会に送り込んでいた。その際には、労使協調体制のもとで、職員(ホワイトカラー)側・職工側双方から同等に候補者を擁立しており、候補者の決定は懇談という曖昧で協調的な方法によって行われていた。ここにも、きわめて経営家族主義的な側面をみてとれる。さらに、真道会は、寄付金などを通じて、地域との融和を図る役割を果たしていた。このように、本来、企業内の労使協調・融和組織である真道会が、地域との関わりにおいても重要な役割を担っていたのである。すなわち、釜石という典型的な地方企業城下町においては、工場委員会たる真道会が、製鉄所・従業員と地域との間を隔てる一方で、両者の緩衝材ともなるという、両面の機能を果たしていたといえる。
 第8章では、第二次世界大戦後の釜石における、製鉄所と地元企業との長期的取引関係について検討し、以下の点を指摘している。釜石製鉄所は、高度成長期に発展し、その後衰退したが、そうした変動にもかかわらず、釜石の産業構造は製鉄所を中心とした鉄鋼業への圧倒的集中・依存体質から脱却することができなかった。そして、そこにおける地元企業は、全体としてみれば、あくまで製鉄所からの外注を主とした労務提供的な役割に終始していた。そこには、分業関係を起点に、地元企業が技術や情報の蓄積を進めて成長していく可能性はほとんど存在しなかった。しかし、そこには今一つ、製鉄所と鉄鋼関連大手企業の釜石支社・出張所との長期的取引関係も存在した。そこでは、長期的取引関係を結ぶ双方の企業にとって、経済的合理性やメリットが存在した。このような長期的取引関係における二重構造の存在が、企業城下町・釜石の特色だといえる。

三、本論文の成果と問題点

 本論文には、以下のような意義がある。
 第一は、企業城下町の特質を、日本的経営論における諸論点―労使協調主義・経営家族主義・企業間の長期的取引関係等―と関連づけて論じた点である。その結果、企業城下町における中核的企業―本論文の場合は釜石製鉄所―において、日本的経営の諸特質が典型的なかたちで表れていることが明らかにされた。企業とその従業員が限定された地域内で緊密な関係を取り結ぶという企業城下町のありようが、日本的経営を生み出していったプロセスを、成立史的に跡づけた意義は大きいといえる。
 第二は、釜石製鉄所において労使協調体制を担った組織である真道会が果たした機能を、企業内のみならず、釜石町という地域社会との関わりにおいて検討した点である。従来の研究においては、真道会のような労使協調組織については、主に企業内における役割が注目されてきたが、著者は、真道会が、労働者と地域を分断する役割を果たすとともに、その分断を埋めるために、地域への寄付金等の地域融和策を実施していたことを明らかにした。企業城下町でも中核的企業の労働者ではない住民は多数いたわけであるから、企業内部の特質をおさえたうえで、それと地域社会との関係を問う著者の視角は重要である。
 第三に、従来から日本的経営の特質の一つとされてきた長期的取引の内実について、釜石製鉄所の事例に即して具体的に明らかにした点があげられる。釜石においても、製鉄所と地元企業との間に長期的取引関係がみられたが、そこでは地元企業はもっぱら単純労務作業を提供するにとどまり、地元企業が独自に発展していくための技術蓄積はみられなかった。それが、オイルショック以降の釜石製鉄所の経営縮小にともなって、釜石市全体の地盤沈下をもたらすことにつながった。こうした長期的取引の特質と、それが企業城下町に与えた影響を解明した点が、第三の意義である。
 第四の意義は、企業城下町における中核的企業と第一次産業―釜石の場合は水産業―との関連を明らかにしたことである。従来、この両者は対立的に捉えられることが多かった。確かに、釜石においても対立的側面はみられたが、他方で、水産業関係者が漁船建造・港湾整備などで製鉄所に依存しており、製鉄所との共存を望む傾向もみられた。こうした両者の複雑かつ多面的な関係を具体的に明らかにした点は重要である。
 本論文は以上の積極的意義を有するものであるが、同時にいくつかの残された課題や問題点も存在する。
 第一に、著者が企業と地域社会の関係に注目したことは重要であるが、そこで著者の描く地域社会像がやや漠然としているという問題がある。当然のことながら、地域社会には、利害を異にする多様な住民が存在する。また、地域社会のあり方は、時代によって可変的なものである。そうした多様性をもち、かつ時代とともに変化する地域社会の内実をさらに深く捉え、そのうえで企業との関係を追究していくことが課題となろう。
 第二に、本論文では、従来の日本的経営論において論じられてきた諸論点のうちの何を批判し革新したのかが、必ずしも明示的に述べられていない。1910~30年代を中心に、企業城下町と日本的経営の形成過程を具体的に跡づけた意義は大きいのだが、ひるがえってそこから今日の研究状況に対してどのような大きな論点を提起しうるかが、著者の今後の課題となろう。
 しかし、以上の問題点は著者も十分自覚するところであり、しかも本書が達成した成果からみれば大きな欠陥とはいえない。
 よって、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2013年2月13日

2013年1月23日、学位請求論文提出者、松石泰彦氏の論文について最終試験を行った。試験において、審査委員が提出論文「企業城下町の形成と日本的経営」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、松石泰彦氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮し、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに値するものと判断する。

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