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博士論文審査要旨

論文題目:夫婦の権力関係変動のプロセス-「働くこと」をめぐる夫婦間相互行為に着目して-
著者:三具 淳子 (SANGU,Junko)
論文審査委員:木本喜美子・小林多寿子・山田哲也・舩橋惠子

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1.本論文の構成

 本論文は、夫婦関係研究に権力論を持ち込み、妻の夫への経済的依存がもたらす問題をえぐり出そうとした手堅い実証研究である。近年の家族社会学において光をあてられることが少ない夫婦の権力関係を正面に据え、「近代家族」論が積み残してきた課題への挑戦を企てた意欲的な論文として高い評価を与えることができる。
 本論文の構成は以下の通りである。

序章 いま夫婦に何が起こっているのか
 1.問題設定と枠組み
 2.「働くこと」をめぐる夫婦間相互行為を問うことの意義
  2.1 男女間の平等化に向けたもうひとつの役割シフト
  2.2 ミクロ・マクロのジェンダー・アレンジメントの結節点
  2.3 「近代家族」の矛盾との対峙
 3.本論文の構成

第1章 夫婦関係研究の到達点と課題    
 1.日本の家族研究における「近代家族」論のインパクトと残された課題
  1.1 欧米におけるモダン・ファミリー研究
  1.2 日本における「近代家族」の発見
  1.3 研究から取り残された「近代家族」の矛盾
  1.4 「近代家族」のゆらぎ
 2.夫婦関係研究における問題設定の偏り
2.1 夫婦関係研究は何を明らかにしてきたのか
2.2 平等化をめぐる議論:一方向的な役割シフト
2.3 家計分担
2.4 共働き研究
2.5 既婚女性の労働とストレス  
2.6 夫婦関係満足度
2.7 勢力関係研究
2.7.1 アメリカの家族研究の踏襲
2.7.2 「勢力関係研究」の特徴と限界
2.8 フェミニズムによる夫婦関係研究                                                             
  
第2章 注目する現実と分析の視点
1.1990年代以降の既婚女性の就労
2.夫婦における「経済的依存」の数値化:欧米の研究動向と日本における分析
2.1 妻の経済的自立への注目
2.2 「経済的依存」の理論動向
2.3 経済的依存の分析枠組み
2.4 「経済的依存度」分析が明らかにしたもの
3.勢力関係研究から権力関係研究へ
4.動態としての夫婦関係
 5.使用するデータ

第3章 既婚女性の経済的依存の実態
 1.いかにして既婚女性の経済的地位を把握するか
  1.1 世帯員収入の個別性の捨象
  1.2 「妻全体」の平均的収入の計測
  1.3 「共働き世帯」の析出
  1.4 個別の配偶関係へのアクセス
 2.「貢献度(寄与率)」から「依存度」へ
 3.日本における既存の試み
 4.日本における「経済的依存」の実態
 5.高まる妻への就業期待と追いつかない環境整備

第4章 仕事をもつことと夫婦関係に関する意識
1.夫婦関係と経済的自立
2.これまでの知見と本章の課題
3.データと変数
4.分析結果
4.1 仕事をもつことと夫婦の関係
4.2 年収が高いほど経済的自立を重視
4.3 高学歴ほど経済的自立を重視
4.4 ライフステージによって異なる意識
4.5 未婚で年齢が上がるほど経済的自立を重視
4.6 既婚女性の就業状況によるちがい
5.問題のありか

第5章 平等志向夫婦における妻の労働市場からの退出
1.課題と視点
1.1 「妻の就業」への着目
1.2 夫婦の権力関係研究における「妻の就業」の位置づけ
1.3 コムターの3つの権力
2.データ
2.1 対象
2.2 調査方法
3.分析結果
3.1 平等志向のもとでの妻の労働市場からの退出
3.2 権力作用の把握
3.2.1 「顕在的権力」の不在
3.2.2 「潜在的権力」の作用とマクロレベルにあるその規定要因
3.2.3 「目に見えない権力」による平等志向の侵食
3.3 「目に見えない権力」の規定要因
  3.3.1 ジェンダー・イデオロギー
  3.3.2 規定要因の複合性
 3.4 コムター理論の再考
4.妻の「自由な選択」を作り出すメカニズム

第6章 妻の離職と夫婦関係の変容
1.データと方法
2.分析結果
2.1 調査対象者の全体像
2.2 共働き夫婦から片働き夫婦への移行
2.2.1 意に反する離職        
2.2.2 望んだ専業主婦
2.2.3 夫との立場の違いの認識と新たな役割の受け入れ
2.2.4 分業体制の浸透
2.2.5 抑圧の顕在化と夫婦関係の悪化
2.2.6 共働き経験をもつがゆえの苦悩
2.2.7 育児休業中の妻と専業主婦のちがい
3.妻の権力経験と夫の無自覚
3.1 共働き時代との相違
3.2 親密性の基盤を失う妻

第7章 妻の再就職と夫婦関係の再編
 1.脱専業主婦への挑戦
  1.1 分業変更に対する夫の拒否と抵抗
  1.2 妻たちの戦略:あなたに迷惑はかけないから
  1.3 母親役割をベースにした再挑戦
   1.3.1 自転車の範囲内で
   1.3.2 三歳児神話の乗り越え
  1.4 再挑戦に必要な準備
  1.5 受け皿としての「学び」
1.6 再就職に向かう気持ちを支えたもの
 2.再就職が夫婦関係にもたらしたもの
  2.1 生活世界の広がりによる夫婦関係の相対化
  2.2 主観的対等性の回復
  2.3 夫のまなざしの変化
  2.4 夫婦関係再構築における二極化
 3.妻の再就職が意味するもの
  3.1 マクロレベル:合理的判断の名の下になされるジェンダーの再生産
  3.2 ミクロレベル:ジェンダー再編にむけた布石
  3.3 妻が望む夫との関係
   
終章 ジェンダー・アレンジメント変革への内なる挑戦 
 1.夫婦の権力関係の縦断的アプローチから見えてきたもの
 2.つくられた妻の「自由な選択」
 3.「働くこと」の意味
4.1990年代以降の夫婦が直面する課題

参考文献
初出論文
2.本論文の要旨

 序章では、妻の就業状況の変化が夫婦関係にもたらす問題を掘り起こそうとする問題意識のありか、およびそのための分析視角が明示されている。近年の家族社会学研究において、夫の家事・育児参加に関する膨大な研究蓄積に比して、夫婦間の生産労働の平等分担に関する研究が取り上げられてこなかったことに著者は根本的な疑問を呈している。男女間の生産労働への参加における非対称こそが「近代家族」の矛盾であり、これと正面から向き合う必要性を主張するのである。そのために「働くこと」を、アンバランスなジェンダー・アレンジメントのミクロレベルとマクロレベルをつなぐ結節点として位置づけ、夫婦の権力論を主要な理論枠組みとして用いて、「働くこと」をめぐる夫婦間の相互行為に着目する意義が指摘される。
 第1章では、夫婦関係研究の到達点と課題が提示される。まず日本における「近代家族」論は、それに先立つ家族研究における集団論的アプローチや制度的アプローチにパラダイムシフトを迫り、分析単位を個人に置くとともに、家族と外部システムとの連関を問うという点で多大な影響力を及ぼしてきた。だが、近代家族のもつ根源的矛盾、すなわちそれが前提とする自立した個人が平等な立場で愛情によって結ばれて結婚生活を開始するにもかかわらず、結婚後は性役割によって男性が生産労働へ、女性が再生産労働へと振り分けられ、結果として妻が夫の扶養下におかれるという問題を十分に掘り下げてきていないと主張する。本論文の主題とかかわる夫婦関係研究においても、妻の稼得役割が看過され、男性の家事・育児参加という役割にはアクセルを踏み、女性の家計分担という役割シフトにはブレーキを踏むという偏りがみられ、性役割がもたらす矛盾に踏み込んだ実証研究がいまだなされていないと批判する。
 第2章ではまず、現代日本の女性労働の量的トレンドを見据えた場合、本論文が解明しようとする課題の重要性が増していると主張する。その根拠は、女性の就業継続を絶つ契機が結婚から出産へと変化し、新婚期の共働きから第一子出産による片働きへの移行を経験するカップルの増大傾向を見るならば、夫婦の権力関係の変動プロセスを正面に据えて解明していくことを欠かすことができない点に求められている。
 そのさい、結婚における不平等な現実を可視化させるために、夫婦間で一方が他方にどの程度経済的に依存しているかを数値化してとらえる方法の有効性に着目する。この「経済的依存」にかかわる理論とその実証的解明については、欧米における先行研究の蓄積がある。それらの研究のレビューを通じて「経済的依存」への着目が、それによって生じる夫婦間の権力関係をクローズアップするうえで要をなすと指摘する。個人レベルだけでなく社会というマクロレベルの権力を視野に入れ、そこでの相互の連関関係がいかなるメカニズムによって織りなされているかを、具体的な事例分析から明らかにすることが本論文の課題として据えられる。しかも夫婦関係の時間的次元、すなわち長年にわたる夫婦という関係が作り出す軌跡に、多種類のデータから迫っていく必要性が指摘される。
 第3章では、日本における妻の夫への「経済的依存」の実態がとりあげられている。日本の公式統計にはこれを確認しうる厳密なデータがないことから、「消費生活に関するパネル調査」(家計経済研究所)の個票データ(1500人)による1993年から1997年にいたるデータ分析がなされている。これを用いるのは、個別カップル内の夫と妻の収入の把握が1万円単位でなされていることによる。その結果、日本は他の先進国と比して妻の夫への「経済的依存度」がかなり高いこと、またこの5年の間ほぼ横ばいとなっていること、その原因として妻が「パート・アルバイト」という就業状態にあることが明らかにされる。1990年代は、マジョリティにおける専業主婦世帯から共働き世帯への移行期として位置づけることができるが、出産もしくは夫の転勤を契機として、リスクを意識しつつも妻たちがいったんは離職に追い込まれ、やがて再就職を模索した時代であることが浮き彫りにされている。
 第4章では、2000年代にはいってから共働き世帯の増加傾向が強まっている点に注目し、夫婦の対等な関係と女性の働き方との関わりをめぐって、女性のもつ意識実態を考察している。「女性とキャリアに関する調査」(2011年、日本女子大学現代女性キャリア研究所、5155人)を用いた分析から浮上したのは、「夫婦が対等な関係を築くことができるかどうかは働き方に関係しない」との考えに、過半数以上が賛同しないという事実である。同じ傾向が既婚女性においても看取され、賛同しない人の2分の1強が夫婦の対等な関係が収入と関わりがあると考え、2分の1強が収入ではなく仕事をしているということ自体に関わりがあると考えていた。このことは、夫婦間の対等な関係を望む多くの人々にとって、その実現を阻む問題が存在していることを示唆するものであると指摘している。
 第5章以下は、夫婦関係の時間的変化をめぐるリアルな実相を捉えようとしている。第5章では、夫婦関係における変化の始まりとして、共働き夫婦が第1子の出産を契機に片働きへと移行するプロセスに作用する権力関係を、著者自身によるインタビュー調査(「出産後の就業に関するカップル調査」、2005年、1~4ヶ月後に第1子出産を控えた夫婦23組、ただし夫婦別々に調査を実施)にもとづくデータ分析から提示している。そこで明らかにされたのは、妻の就業断念に働くのは、夫からの指示というようなミクロレベルの規定要因ではなく、マクロレベルにある社会制度等を規定要因とする「潜在的権力」(対立が表面化するのを回避させるように作用する権力)であったという点である。さらにジェンダー・イデオロギー、および収入の多い夫が市場に残り、家事スキルの高い妻が家事・育児を担当するという合理主義的判断を規定要因とする「目に見えない権力」(不満を顕在化させないように働く権力)の作用が抽出されている。このことは、「顕在的権力」によって夫婦関係を悪化させることなく、妻の「自由な選択」として労働市場からの退出や育休の取得という重要な決定が、きわめて平穏裡になされることを意味するものであると指摘する。
 第6章では学卒後も働き続け、出産や夫の転勤などを契機に退職した経験をもち、さらにその後、さまざまなかたちで職を得た女性たちへの調査データ(日本女子大学現代女性キャリア研究所「女性のセカンドチャンスと夫婦関係調査」2009年:25人、「セカンドチャンスと資格取得に関する調査」2009年:130人)をもとにしている(前者のインタビュー調査は著者による)。ここでの焦点は、夫が稼得責任者となる片働き夫婦、すなわち性役割に従った夫婦への移行によって、いかなる夫婦関係が経験されることになるのかという点におかれる。事例分析を通じて、妻が職業を手放すことによって、夫婦関係における権力基盤となるリソースが剥奪され、夫との対等感を喪失するという経験が明らかにされている。この経験は自分自身への誇りの喪失を意味するものでもあった。こうした喪失感と後悔の念を妻が感じているにもかかわらず、夫が無理解であることで、夫婦関係への失望が生まれ、夫婦間の親密性を危機にさらすことにつながると指摘する。
 第7章では、第6章と同一データを用いて、調査対象者たちが再就職をどのようなプロセスを通じて選びとっていったのか、その帰結としての夫婦関係が分析される。再就職への熱意を強くいだく彼女たちの脱専業主婦への挑戦は、夫が「働くのはいいけれど、協力は一切できない」という事例に代表されるように、夫側からの分業変更の拒否と抵抗に直面し、自ら家事と仕事の二重労働を引き受けることによって実現したことが明らかにされている。しかもすでに受容している母親役割に抵触しないかたちが周到に追求されている。そのための資格取得をステップとした事例も少なくない。こうした多難な再就職への挑戦を果たした妻たちは、主観的ではあれ、夫婦間の対等性を回復したと感じるとともに、妻の収入がもたらされるがゆえの夫の態度の変化を認めていると指摘する。以上から、妻の再就職を通じて、夫婦関係がダイナミックに再構築されていると結論づけている。
終章では、本論文のまとめと今後の課題が述べられる。第一に、妻の就業行動には重層的な権力関係が作用しており、表向きの「自由な選択」は実際には、男女非対称なジェンダー・アレンジメントを存続させることに荷担する働きをしていると指摘する。第二に就業の断念を通じて妻たちが経験するのは、共働き時代に感じることができた夫との対等感の崩壊であった。こうして「近代家族」の矛盾そのものに直面した妻たちは、だからこそ再就職を希求し、夫との対等性を確保するための基盤(収入と多様な社会関係)を獲得せざるをえなかったと指摘する。第三に、こうして再生産労働との二重労働をもあえてうけいれて再就職へといたったことを、「近代家族」への回収にすぎないとするのは一面的な把握であり、「近代家族」の矛盾に気づいた妻たちが「働くこと」に付与した意味とそれにもとづく行動によって、家族の深部に不可逆的な変化を起こしつつあることをみるべきだと指摘する。最後に、本論文が依拠したデータの多くが、都市部の、しかも相対的高階層のものである点を自覚し、既婚女性が「働くこと」が所属階層差や地域差に応じて異なるため、より広い対象について検討することを今後の課題としている。


3.本論文の成果と問題点

 本論文は、従来の家族社会学研究において妻が生産領域で「働くこと」がもたらす意味、さらには夫婦の権力関係を解明しようとする問題意識が希薄であっただけでなく、ジェンダー視点からの「近代家族」論が大きなインパクトを与えたにもかかわらず、なお、上記の問題への切り込みが不十分であることを問題としている。丹念な先行研究の検討を経たこうした問題提起はきわめて説得的であり、本論文は研究史上の欠落を埋め合わせるとともに、「近代家族」の根源的矛盾に挑む研究方向を今後より喚起する上で大きな役割を果たすものであるという点から、高く評価することができる。
 しかもこうした視点を具体化させるべく、欧米の先行研究に手がかりを探り、「経済的従属」「権力関係」論を導入し、多種類の日本のデータを駆使することによって夫婦間権力関係に実証的に迫ることに成功している。そのさい、一時点の横断的なデータのみならず、時間的次元をとりこみ、個々のカップルにおける夫婦関係の動態的な変容過程に迫ろうとした試みは、本論文のユニーク、かつ優れた着眼点である。これを生かした分析を通じて、既存の夫婦権力論が夫から妻へという一方向的な権力行使を前提に組み立てられてきたのに対し、妻の側からの、対等化を求めての失地回復という動きをも射程にとりこんでの夫婦間権力関係の変容過程を描ききったことは、今後の夫婦関係研究にとって特に大きな貢献とみなしうるだろう。最後に、第6章、第7章における分析は、これまで明らかにされなかった既婚女性の就業中断-主婦・母親業への専念-再就職への動きとその後という、一連の過程がリアリティに富んだかたちで描かれており、資料的価値が高いことも付け加えておきたい。
その一方で本論文は、次のような課題を残している。そのひとつは、個々のカップルの通時的データが存在しないために多種類の調査データ分析を積み重ねているが、それぞれのデータの性格に規定され、データごとの分析と記述において一定のギャップが生じざるを得なかった点である。記述方法のいっそうの工夫によって克服される可能性があるだろう。もうひとつは、キーワードとして用いられる「平等」「対等」「純粋な関係性」「親密性」「状況のカテゴリー」等、既存のカテゴリーをとりこんで分析するさいに、著者自身の概念規定を明確にして記述した方がより説得的な論理展開になったのではないかと思われる。さらに、用いられたデータが全体として高階層に傾いている点について著者も自覚的に注意深く記述しているが、本論文で扱った調査対象により限定を加えた方が、「格差社会」論が意識されざるを得ない今日的状況において、本論文の意義がよりクリアになったのではないかと考えられる。
もとより以上の問題点は著者自身が自覚しているところであり、今後の研究において克服が期待されうるものと判断する。よって審査員一同は、本論文が当該分野の研究に十分に寄与したと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2013年5月15日

 2013年4月26日(金)、学位請求論文提出者、三具淳子氏の論文について、最終試験を行った。試験においては、『夫婦の権力関係変動のプロセス-「働くこと」をめぐる夫婦間相互行為に着目して-』に関する疑問点に対する審査員からの質問に対して、三具氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに値するものと判断する。

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