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博士論文審査要旨

論文題目:THE LINGUISTIC BEHAVIOR OF TURKISH CHILDREN IN JAPAN: A SOCIOLINGUISTIC STUDY
著者:ウナル ビラル (UNAL, Bilal)
論文審査委員:中島 由美、森村 敏己、久保 哲司、林 徹

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一、 本論文の構成

 本論文は、言語社会学におけるバイリンガル・多言語接触研究の中でとくに「言語切り替え(code switching、以下CSとする)」と言われる事象を取り扱い、在日トルコ人児童を対象に取得した独自のデータに基づいて、その言語行動を分析したものである。論文構成を以下に示す。
 
序論
要約
第一章 先行研究
1. 1 多言語使用
1. 2 コード切り替え
1. 3 発話
1. 4 CSの機能について
1. 5 トルコ語と日本語及びその母語話者の比較研究
第二章 研究方法
2. 1 本研究の対象者
2. 2 資料の収集
2. 3 資料収集の時間的流れ
2. 4  資料の文字化
2. 4. 1 文字化に関する情報
2. 5 資料整理
2. 5. 1 発話及び単語のリスト化
2. 5. 2 発話タギング
2. 5. 2. 1 発話者
2. 5. 2. 2 対話者
2. 5. 2. 3 言語
2. 5. 2. 4 基本言語 
2. 5. 2. 5 CSの種類
2. 5. 2. 6 環境
2. 5. 2. 7 話題
2. 5. 2. 8 注釈時間間隔
2. 5. 2. 9 語彙数
2. 5. 2. 10 参加者
2. 5. 2. 11 大人の存在
2. 5. 2. 12 グループ
2. 5. 2. 13 語彙タグ付け
2. 5. 2. 14 文法的範疇 
2. 5. 2. 15 文法的誤り  
2. 5. 2. 16 発話の目的
第三章 資料分析
3. 1 資料統計に関する予備的考察
3. 1. 1  総発話時間
3. 1. 2  調査日数とセッション
3. 1. 3  発話の平均、最長、最短時間間隔
3. 2 対象者の言語能力
3. 2. 1 東京グループ
3. 2. 2 横浜グループ
3. 2. 3 学校グループ
3. 3 発話時間間隔分析
3. 3. 1 各対象者に関する分析
3. 3. 2 各グループに関する分析
3. 3. 3 対話者(聞き手・相手)による発話の比率
3. 4 発話量分析
3. 4. 1 各グループに関する分析
3. 4. 2 各対象者に関する分析
3. 5 言語選択分析
3. 5. 1 グループの統計情報 
3. 5. 2 両親の言語的背景
3. 5. 3 環境による言語選択の比率
3. 5. 4 ある環境における参加者の仕組み
3. 5. 5 言語選択による個人差
3. 6 CS分析
3. 6. 1 発話内におけるCS
3. 6. 2 発話間におけるCS
3. 6. 3 相手及び環境によるCSの比率
3. 6. 4 CSの境界事例
3. 6. 5 環境によるCSの比率
3. 7 語彙分析
3. 7. 1 語彙選択
第四章 考察
文献目録
資料編:研究データ

二、本論文の概要

第一章では、バイリンガル研究に関する先行研究の精査を行っている。まず何より問題となるのは、「バイリンガル」と一口に言ってもその定義はさまざまでいまだ定見がないことにある。古くは構造主義言語学者Bloomfieldの「2言語を同等に使用する者」のような大まかな定義に始まり、さまざまな見方が提示されてきた。多言語併用の事例研究が発達するに従って、各言語の能力を細かく規定するなど、厳密な規定方法も登場する。筆者は各先行研究の論点を整理したうえで、ここではCSの出現に主眼があることでもあり、J.Macnamara(1967)による広めの解釈、「第二言語において4つの言語技能の内、少なくとも1つについて最低レベルの能力を持つ者」を基本線と定め、インフォーマントの言語能力にある程度の幅を認めて、「2つの言語の環境に接触し2つの言語を習得している」ことを二言語使用の条件とみなすことにしている。
そのうえでCSの定義の精査に入る。こちらもWeinreich(1953)による「二つの言語を交互に使用する習慣」といった初期の定義から検討を行い、Gumperz(1982)の、言語だけでなく方言などとの切り替えも視野に入れた新しい定義、即ち「同じ会話の流れにおいて異なる文法システム又はサブシステムに基づく発話が並列すること」を、自らの研究の基本路線とすることにした。
なおここで筆者は多言語併用を扱った事例研究のうち、とくに日本語が関係するものについて詳しく取り上げているが、トルコ語と日本語のバイリンガル児童を扱った研究は本研究がはじめてであることを明らかにしている。

 第二章は本研究の方法の詳述に充てられている。本研究は日本在住トルコ人児童の言語行動の音声記録、ならびに映像記録をもとの資料としたものである。日本在住トルコ人は首都圏にまとまった居住区があるわけではないので、長期間の観察を可能にするため在日トルコ人社会によって運営されている「学校」―学童保育的な役割を担う施設―を調査場所とし、運営者および保護者の了解を得て2009年に記録を開始した。当初取得した音声のみの記録は2009年度に提出された修士論文の基礎資料として活用されているが、その際の反省点などを活かし、発話相手や発話状況確認のため映像による記録を新たに収集することにした。また修士研究で対象とした調査場所に加え、新たに調査場所を開拓し、男女両方の児童の記録を得ることができたことは大きい。2011年までの計21日間の観察により、17時間分を越える基礎データが蓄積された。対象とした児童は計21名となっている。
 次に、このようにして収集された資料をどのように言語行動分析のためのデータとしたか、その方法が詳述される。まず基礎資料をコーパスとするための基本設計の第一歩として、「発話」という単位を設定した。本研究の特異な点は児童の自由な言語行動を記録したことにあるが、それだけに、記録された言語資料は完全文であることは稀である。しかしCSの発現を量的に観察するためにも、なんらかの単位によって全体の会話を区切る必要があるので、発話者の一定以上の沈黙や他の話者による割り込みなどをポイントとして、「発話」という単位を設定することにした。ちなみに同様の単位設定は、自由会話を扱う談話研究ではしばしば採られる方法である。なお、基礎資料の文字化に際しては、言語アーカイビングソフトとして定評のあるELANを活用した。この作業により得られたデータは、計21,284発話となった。
単位区切りを完了したあと、各発話の分析のためにさまざまなタグ付けを実行した。タグ付けはコーパス研究を活用するための重要なプロセスであるが、資料の性格上特定言語の形態素解析が適用できないだけでなく、通常のテキストコーパスとは異なる観点からの設定が必要であった。検討の結果、発話者・相手・使用言語・環境・目的・長さ・語彙数・グループ、の8つのタグ情報を主要タグとして設定した。このうち「環境」は、対象施設で行うトルコ語の授業や、遊び時間、ランチタイムなどの別を指し、「グループ」は、データ収集を行った二つのグループの別を指している。アーカイビングソフトの活用によって発話の持続時間がミリ秒単位で計測でき、語彙数のカウントなども容易になったため、言語行動の量的観察における実証性が増したことは大きい。また映像記録により修士研究では実現できなかった発話の「相手」もある程度特定することができたので、これをタグに加えている。
 本章は研究方法の詳述のために充てられてはいるが、各タグの必要性や問題点を検討するために、得られたデータの例とともに分析も踏み込んで示されており、出現したCSの概要が明らかになっている。調査対象グループによっては学習活動などで英語が用いられたり、児童の中にはインターナショナル・スクールで英語による教育を受けている子もいるため、CSはトルコ語・日本語間だけでなく、英語も含めた3言語の間で起こっている。

 第三章は、データの分析プロセスとその結果の詳述に充てられている。分析の前に、上記先行研究の精査においても問題となった、CS研究で議論のあるバイリンガル児童の各言語の能力についてどう扱うべきかについての検討が行われる。筆者は各児童の両親や教師への聞き取り調査を実施したほか、児童に対しては英語・日本語・トルコ語の能力試験を実施し、各児童の能力の大凡を見極めているが、これは児童ごとの言語行動分析に際し、必要な情報を提供することになるものである。
こうしてコーパスのタグ情報をもとに、発話時間・発話量、言語選択等について分析を施したうえで、CSが実際に起こったケースごとの詳細な観察に進む。児童の言語行動を決める要因は何なのか、CSは実際どのように起こるものなのか、筆者は個々の事例、ひとりひとりの児童の行動をつぶさに分析し、次のような知見を得た。言語選択量から見ると、上記で確認した言語能力は確かに各児童の使用言語を左右しているが、さらに属性の似た子供同士を比べてみると、母親の母語が何語かという点も無視できない。これは対象が8歳以下の児童であることを考えると当然と思われるが、それならば子供たちの言語運用は母親の母語という要素によって一元的に決まるかと言うと、言語行動が行われる場所の影響も重要であることがわかった。子供たちは能力の程度にかかわらず、各「環境」にとってどの言語が基本言語であるのかを敏感に感じ取って対応しているのであった。
コーパスのタグ情報ごとの分析はいずれも興味深い事例を浮かび上がらせているが、量的な側面からCS出現の状況が確認できたことは大きい。たとえばCS出現件数の多い児童について、話し相手による出現率の違いを求めたところ、明確な差が浮かび上がった。その状況を精査すると、子供どうしで言語を基準とした「戦略的CS」と言えるような言語行動が起きていることがわかる。これは日本語能力の高い児童が、さまざまな能力の複数の児童と行動している場合でも、あえて日本語を使うことで自分の話し相手を明確にしようとしたり、日本語能力の低い児童を会話から排除しようとしたりする事例から明らかになったものである。
語彙分析ではとくに人称代名詞についてのCSに興味深い事例が見られた。例えば学習に際して英語が主に使用される調査場所では、英語も加えた3言語の間でCSが起こり、動詞や一般の名詞などは発話内で自由に切り替えが起きるが、人称代名詞に注目してみるとトルコ語と日本語の間にのみ切り替えが発生し、英語との間では起こっていない。こうした事例の存在は、トルコ語と日本語の類型論上の共通性や、両者で人称代名詞省略が可能であることなど、言語特性と密接に関わっている可能性がある。他にもいずれかの言語の名詞や動詞に接続する接尾辞のみがトルコ語もしくは日本語に切り替わる事例も含め、言語学的に重要な知見につながるものであることは疑いない。


三、本論文の成果と問題点

単一言語社会の代表とされてきた我が国においても、近年海外出身の居住者が増えつつある。在住者の中には家族を伴って来日し、比較的長期間、場合によっては半永住的に居住するものも多くなっている。そのようなケースでは第二世代の子弟が母語や英語などによる教育と並行して日本の教育を受けており、日本語を習得して日本人児童と交わる機会も増えている。多言語接触によってもたらされる言語干渉やその結果生じる言語変化は、社会言語学的研究の材料として注目されるが、我が国においても研究の材料が増えるにつれて、バイリンガル児童を対象とした研究などが見られるようになった。しかしながら従来の研究は研究者自らの子供を対象にするなど、限定された範囲のものが多く、その結果得られた知見をどの程度一般化できるのかについては、疑問も多い。そうした中、筆者は修士研究以来日本語とトルコ語双方を話す児童の言語行動に注目し、実証的に取り組んできた。本論文のとくに注目すべき点は次のようにまとめられよう。

1)トルコ語と日本語の間の言語切り替えを扱ったはじめての研究成果であり、社会言語学的な知見を得るものとして多大な貢献が期待できる。
2)トルコ語と日本語の言語類型上の共通性により、言語学的観点からも成果が注目される。
3)本研究の基礎を成すデータは、録音音声およびビデオ撮影によって得られた、児童の実際の言語行動の記録から成っており、データそのものが貴重な価値を持つものである

本研究の優れた点は、まず何よりもその詳細なデータにあると言ってよい。17時間という資料の総量自体は決して大量とは言えない規模であるが、目まぐるしくテーマや言語が切り替わる子供たちの会話の文字化は困難を極め、PCを活用したソフトの助けをもっていしても膨大な時間と労力が必要となった。登場する各言語について第三者の判断を仰ぐなどしてデータの厳密化・客観化を図ったが、それでも特定できなかった部分もある。しかし、だからこそ「戦略的CS」のような事例も含めた児童間の活発で自由な言語行動を、分析可能なテキスト・データに構成し、コーパス構築にまで到達したことには大きな意義がある。また、CSの社会言語学的視点からの分析にとっては、各児童のさまざまな属性を把握した上で、個別事例を解析していく必要がある。いずれの事例も示唆するところの多いものであるが、解析に際し実証性・客観性に対する配慮を常に失わない筆者の研究への熱意は敬服に値する。
このようにその独創性においても、また学界への貢献度についても優れた成果となった本論文であるが、その貴重なデータを十分に分析し尽くしたとは言えない。また、分析結果の一般化によるCS理論の構築というより高度な段階までは、まだまだ課題が多いことも否めない。しかしながら修士研究から出発して長期にわたる地道な研究作業を忍耐強く継続し、さまざまな困難を乗り越えてきた筆者であれば、将来において必ずやさらなる前進を果たすと確信するものである。

最終試験の結果の要旨

2013年2月13日

 2013年1月21日、学位請求論文提出者、ウナル・ビラル氏の論文について最終試験を行った。試験において、審査委員が提出論文「THE LINGUISTIC BEHAVIOR OF TURKISH CHILDREN IN JAPAN: A SOCIOLINGUISTIC STUDY(邦題:日本在住トルコ人児童の言語行動 ―社会言語学的視点より―)」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、ウナル・ビラル氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮し、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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