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博士論文審査要旨

論文題目:教育専門職による拡張的学習活動-スコットランドのカリキュラム改革-
著者:森川 由美 (MORIKAWA, Yumi)
論文審査委員:ジョナサン ルイス、中田 康彦、関 啓子、鈴木 直文

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1 本論文の構成
 本論文は、2010年8月から実施されているスコットランドの学校カリキュラム改革に関する教育政策実施過程及び教員による学習行動を調査・分析する。この改革は従来の改革と異なり、カリキュラム内容の詳細が教員に任せられる。そこで、本論部は政策関係者および教員の聞き取り調査に基づき、新カリキュラムが求める学習が拡張的学習を可能にする学習である、と論じる。さらに、教育政策実施過程としての新カリキュラム実施が教員を含めた教育専門職で形成される実践共同体における拡張的学習へ向かいつつある、と論じる。
 本論文の目次は以下の通りである。

序章 1
0.1. 問題の所在 1
0.2. 先行研究の整理 4
0.3. 本論文の課題 7
0.4. 本論文の意義 10
0.5. 研究の対象と方法 11
0.6. 本論文の構成 13

第1章 拡張的学習の知識像と分析理論 15
1.1. 拡張的学習論と「卓越へのカリキュラム」 16
1.2. 構成主義・社会的構成主義と(社会的)構築主義の考察 24
1.3. 拡張的学習において形成される「知識」 31
1.4. 活動理論の発展――ヴィゴツキーからエンゲストロームへ 36
1.5. 活動理論における矛盾 40
1.6. 小括 41

第2章 スコットランドの学校教育をめぐる歴史と文化 44
2.1. イングランドと異なる教育制度 45
2.2. スコットランド教育の伝統と教育価値 53
2.3. CfE以前のスコットランドの学校カリキュラム 70
2.4. 小括 77

第3章 教育政策組織の制度的変容 84
3.1. 「参加」による伝統的価値観の文脈変化 85
3.2. 教育行政の多元化 90
3.3. CfE実施に関わる主要教育政策組織 94
3.4. 小括 102

第4章 CfE実施過程における教育専門職の学習活動 106
4.1. フィールドワークの方法と対象 107
4.2. CfE実施実践共同体における第一と第二の矛盾 110
4.3. CfE実施実践共同体における小型実践共同体 124
4.4 カリキュラム実施における教員による学習の変化の意味 137
4.5. 小括 144

終章 153
5.1. 本論文の成果 153
5.2. 本論文の意義 157
5.3. 残された課題 159

引用・参照一覧 160
付録 質問項目リスト 168
付録 聞き取り調査同意書 175

2 本論文の概要
 スコットランドでは新カリキュラム「卓越へのカリキュラム(Curriculum for Excellence: CfE)」が導入された。そのほかの英語圏でもCfEと同じような「カリキュラムの新種」とみなされる学校カリキュラムが広がっている。これらのカリキュラムの特徴は、教科横断と形成的評価を重視し、中央教育行政府は内容を細かく規定せずにその意図を提示するだけで、教員が専門能力を発揮して各学校のニーズに即した内容へ適応させて実践することが求められることにある。
 本論文の鍵的な概念は、エンゲストロームにより提示された拡張的学習と、レイブとウェンガーにより提示された実践共同体である。本論文は教員の「集団的パースペクティヴ」に重点をおくが、このパースペクティヴの土台になる価値観が「平等主義」「民主主義」「個人主義」「実力主義」である、と専攻文献に基づいて論じる。この「集団的パースペクティヴ」が教科分断型カリキュラムの下では「教科パースペクティヴ」になっていたが、新カリキュラムが教科横断型の教育を前提にしている。また、カリキュラム改革に伴う試験制度の改革も政府によって発表されるが、試験制度の詳細がまだ固まらないという状況もある。したがって、従来の教育に対する考え方が揺らいでいるなか、新しいカリキュラムをどのように実施すれば、生徒及び教員自身が評価されるかが分からない教員が多い、という状況が生じている。すなわち、教員が何を学習するかを自分たちで決めなくてはならない状況にいる。これは、「あてはめる学習」ではなく「創りだす学習」である、そして矛盾を原動力にする拡張的学習の典型的な状況と言っても良いであろう。
 第1章では、拡張的学習を中心に、論文の理論的な枠組みを展開する。ベイトソンの学習の分類、拡張的学習が基盤としている社会的構成主義の知識観など、エンゲストロームの拡張的学習の土台になった諸理論をまとめる。ヴィゴツキーの「最近接発達領域」と「現在発達領域」を紹介し、前者から後者への転換が拡張的学習で形成される知識に対する社会構成主義の視点であると指摘する。また、ドラッカーの「知識社会」とベックの「リスク社会」および「個人化」を検討しながら、拡張的学習で形成される知識が現代社会において必要な理由を考察する。
 第2章では、上述の教育に関する価値観の背景にある歴史と、現在の教育制度及び教育政策決定プロセスをまとめる。McPherson & RaabとMcCroneの研究に基づいて、「平等主義」「民主主義」「個人主義」「実力主義」に基づいたスコットランド教育の卓越性という神話がなぜ浮上し、そしてどのように再生されたかを説明する。1960年代から導入された改革によって、この「神話」の根拠が破壊されたが、神話に基づいた教科パースペクティヴの影響が最近の改革で揺らぎ始めた、と論じる。
 第3章ではより具体的に、スコットランドの教育制度に関連している組織の役割を紹介しながら、1999年以降の教育行政の多元化及び教育政策の多様化を明確にする。各機関のスタッフなどの聞き取り調査を通じて、各機関の役割がかなり流動であることを明確にする。また、上述の価値観に関して、教科パースペクティヴがカバーしない「民主主義」と「平等主義」という伝統的価値が新カリキュラムで重視される「名誉の等価性」「参加」「包摂」によって新たな意味を獲得しようとしていると論じる。
 第4章では、(CfE)の実施(2010年8月)直後における教育専門職による学習活動について、フィールドワークによって得たデータに基づいて検討した。観察した学習活動には、教員、教育政策担当者および研究者が参加していた。また、フォーカーク市とアバディーン市において、地方教育行政当局への聞き取りは行い、両市の中等学校の教員にも聞き取りを行った。そこで、スコットランドのこれまでのカリキュラム実施過程は教員の個人学習であったが、CfE実施過程においては、同僚教員や教育専門職と協同で行う学習活動が増加していることを明確にする。一方、教科専門性の高い中等教員にとって、教科パースペクティヴから抜け出すことは容易ではないことも明らかにする。

3 本論文の成果と問題点
本論文の成果は以下のようにまとめられる。
(1) 研究成果の一つは、スコットランドにおけるカリキュラム改革の展開を、教育専門職の学習活動という側面から考察し、教員に拡張的学習が芽生える過程を明らかにしたことである。現在の教育改革を、スコットランド教育史の延長上に位置づけ、教育をめぐる伝統的な価値観の変化を整理し、その上で、教育専門職者を対象とした質的調査を行い、彼・彼女たちが拡張的学習に向いつつあるさまを描くことに成功した。学習が文化伝統の継承でなく、文化の変容にかかわる際に、拡張的学習理論がよく援用されるが、筆者は、エンゲストロームの拡張的学習理論に学びつつ、スコットランドの教育専門職者においてこれまでにはなかった主体的な学習形態(拡張的学習)が、カリキュラム改革(「卓越へのカリキュラム」)の実施に対応して、生まれつつあることを実証した。

(2) 日本における比較教育研究では英国研究の蓄積は豊かだが、そのほとんどがイングランドにおける教育の改革と実態についての研究であり、スコットランドについての研究は極めて手薄である。本論文は、スコットランドの教育史を遡り、教育史の基底に長老派の価値観を位置づけ、長期波動の教育の物語を描くとともに、現在のスコットランドの教育をめぐり、制度改革について具に叙述し、教育政策組織の模様などを詳細に明らかにした。教育の制度と改革をめぐる、イングランドとの相違点に注意を払い、教育の優越性をめぐるスコットランドとイングランドとの相克の歴史が言及され、現在のスコットランドの教育改革が説得力豊に描かれている。日本におけるスコットランド教育研究の発展に、本論文は疑いなく貢献している。

(3) 教育改革に関する先進的取り組みの事例研究として、スコットランドにおけるCurriculum for Excellenceについて詳細な調査を行った研究として評価できる。その際、「拡張的学習」を分析概念とし、教育の直接的な現場である学校内に生じる変化ではなく、そこから教員間、教員・行政担当者間の相互作用へと学習の場がスピルオーバーする現象について、豊富な質的データに基づいて詳細に描き出している。母語ではない英語で、数ヶ月という時間制約にも関わらず、詳細なフィールドワークを丁寧に遂行したことは高く評価できる。
 また、政策実施過程を政策理念が政策形成機関から学校現場に伝達される一方向的過程ととらえるのではなく、教育行政機関と学校教員という異なる立場の関係者を政策アクターとして位置づけ、双方による双発的創成のプロセスだと把握している。
 政策過程論において形成・実施を連続的過程として把握すること自体は珍しいことではない。しかし形成された政策がどう実施されるかという順序は自明のこととされ、実施過程に関しては、形成された政策がどのように実施される/されないか、あるいはどのように変容されるか、という点に焦点化されてきた。
 本論文では、新しいカリキュラムの導入を、カリキュラムが完成されたパッケージとして伝達され、教員は咀嚼・吸収する受容過程と位置づけるのではなく、教育行政機関をもまきこんだ拡張的学習過程ととらえることによって、実施過程そのものが形成を担っていることを明らかにした。これが政策過程分析に「拡張的学習」という概念を適用したことによる成果の一つである。
 本論文は、活動理論の適用可能性を、従来の活動理論研究がもっぱら想定していたような認知科学の領域・ミクロレベルの対人関係から、メゾレベルの政策過程にまで拡張した。このことは政策過程分析のみならず、活動理論研究にとっても大きな貢献をもたらしたといえるだろう。

他方、本論文の問題点としては、以下のような点があげられる。
(1) 鍵概念の定義が曖昧なままアドホックに適用されている印象がある。例えば、使用価値と交換価値が並立することによる矛盾状況をダブルバインドと定義しながら、適用に当たっては「教員の裁量の大きさ」と「曖昧さ」の対立をダブルバインドと呼ぶ。しかし、この場合のそれぞれが使用価値・交換価値のいずれに該当するのかについての問いに、明確な回答は得られなかった。
 
 (2)スコットランドの伝統的な教育は、長老派の価値観にもとづくもので、その価値観は4つの要素(「平等主義」「民主主義」「個人主義」「実力主義」)からなるとされ、それら要素の関係のあり方、結び付き方の変化の考察を介して、スコットランドの教育改革史の特徴が析出される。筆者は、「教員の教科パースペクティヴが形成される土台の教育価値は、この4つの伝統的価値観に基づいている」とするが、4つの価値観のかかわり方の変化には大きな注意を払うものの、4つの価値観そのものについては、先行研究に依拠し、長老派の価値観によるとして、それ以上深入りすることはしない。そのため、教育改革の展開をめぐる解釈はややもすると図式的な感じを与えてしまう。4つの価値観について、思想史的研究をもう少し丁寧に行なえば、人々の心への価値観の着床過程にふれることができ、スコットランドの人々の教育の心性を幾分かは掬い上げ、図式的な印象を払拭できたのではないだろうか。
 
 ただし、こうした問題点は、森川氏自身もすでに自覚しており、今後の課題として、さらに研究を進めて行くことが期待される。またこれらの問題点は、本論文の価値を著しく大きく損なうものではない。
以上のことから、審査員一同は、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しい業績であると判定した。

最終試験の結果の要旨

2013年2月13日

 2012年12月14日、学位論文提出者森川由美氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「教育専門職による拡張的学習活動-スコットランドのカリキュラム改革-」についての審査員の質疑に対し、森川由美氏は十分な説明をもって答えた。
 よって審査委員会は、森川由美氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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