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博士論文審査要旨

論文題目:原子爆弾による惨禍と苦しみの意味をめぐる制度と体験者—広島市行政・日本政府・社会運動・被爆者—
著者:根本 雅也 (NEMOTO, Masaya)
論文審査委員:足羽 與志子、岡崎 彰、町村 敬志、濱谷 正晴

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1、 論文の構成
  1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。本論は、この人類にとって未経験の圧倒的で原体験的暴力に対して、被爆者である個人、各諸団体の組織、広島市および日本国政府の制度が峙し、この暴力を受け止め、意味付けを行い、経験知として位置づけていく過程と、さらにその過程において形成された制度と諸関係について、詳細な分析を行い、論じたものである。
 本論文は、原爆投下以来、原爆に関係することがらに関わる各アクター(広島市行政、日本政府、社会運動、被爆者等)が行ってきた活動や行為を、それぞれが原爆経験の「意味」を追求してきた活動であるとしてとらえる。そして主として広島市行政の変遷に主軸をおきながら、各アクターが行う意味の追求が相互に影響を及ぼし合い、さらには各アクターの存在理由をも新たに確立させていくさまを描き出した。そこでは、主要な出来事の記述を通じて、関係性が構築される過程および、政治の空間、記憶の空間としての広島ができあがっていく過程の詳細な分析がなされている。著者の主たる論点は、アクター間の関係性が、従来の研究で指摘されてきたような支配/被支配という対立的な権力関係にあるだけでなく、状況によっては、相互補完、協調、依存の関係も含まれた多様なものであることの指摘につきる。
 本論文は、序章および、第I部、第II 部、終章からなる。第I部には、第一章から第四章、第II 部には、第五章から第六章が含まれる。本論文の構成は以下のようである。



目次
              
序章
第Ⅰ部 制度による意味の探求と体験者への接近 
第一章 原子爆弾と平和――占領体制と日本政府への協調(1945年~1950年代前半)
1. 戦後日本と占領政策――平和という国家像と保守体制の構築
2. 原子爆弾と平和――平和に関する記念行事の開催
3. 広島平和記念都市建設法の制定をめぐる市行政・国家・GHQの関係
4. 平和記念都市の建設と広島市民の間に生まれた齟齬
5. 平和をめぐる広島市行政と共産党系の社会運動の争い
第二章 核兵器の禁止と原子力の平和利用――全国的な社会運動と日本政府への協調
1. 原水爆禁止署名運動の発生
2. 原水爆禁止運動の全国的展開――核兵器反対と原子爆弾の被害者
3. 核兵器禁止を掲げる市行政――原水爆禁止運動への協調
4. 「原子力の平和利用」を掲げる市行政――日本政府への協調
第三章 原子爆弾がもたらした惨禍の「原体験」と地域の独自性――全国的な社会運動からの離脱と広島の社会運動との協調(1950年代後半~1960年代前半)
1. 原水爆禁止運動における亀裂――日本原水協への政党介入と運動の混乱
2. 広島の原水禁運動による独自性の主張と行動
3. 第九回原水爆禁止世界大会をめぐる混乱と広島の人びとの反応
4. 原水爆禁止運動の分裂とその帰結――広島県原水協の分裂
第四章 広島市という都市の使命と独自の施策の展開――自律性の強調と被爆者への接近
1.  原水禁運動分裂後の社会運動と広島市行政の台頭――「原体験」の記録と継承の試み
2. 広島市行政による平和と核兵器禁止に関する政策の展開
3. 広島市行政による被爆者対策の促進と日本政府との関係性

第Ⅱ部 意味をめぐる制度と体験者の響き合う関係 
第五章 語り部活動の形成過程――原子爆弾による惨禍の経験の意味をめぐる広島市行政と被爆者の反響(1960年代後半~1980年代)
1. 原子爆弾による惨禍の意味と市行政による「被爆体験の継承」の試み(1960年代後半)
2. 教職員組合による平和教育と被爆者に関する学習(1960年代後半~1970年代)
3. 語り部活動の誕生――市行政による意味に対する被爆者の共鳴
4. 広島市行政と語り部活動――語り部活動に対する市行政の共鳴

第六章 語り部であること――意味をめぐる制度と被爆者個人の協和音と不協和音
1. 原子爆弾よる惨禍の経験とそれを伝えることに対する制度的な意味(1970年代~2011)
2. 制度的な意味に対する被爆者個人の共鳴――制度と被爆者が奏でる協和音
3. 制度的な意味と個人的な経験の不協和音

終章 まとめと今後の課題
参考資料
参考文献


2、 本論文の要旨

本論文の各章の概要は以下のようである。
 序章では、本論の目的、対象、先行研究の整理と問題点および、本論で行ったフィールド調査等についての紹介を行う。本論の目的は、原子爆弾によって広島が被った惨禍に対して、組織や個人が意味を求めよとする過程および意味の変遷、そして両者の関係性を明らかにするところにある、と著者は言明する。本論は主として2007年からの合計15ヶ月、著者が広島市に滞在して行ったフィールワークによる調査資料および文献研究に基づくものである。
 第Ⅰ部では、戦後の復興において、広島市行政が世界で初めて原子爆弾が投下された市として市の在り方を模索するなかで、徐々に日本政府や社会運動とは別の行動原理をとりはじめ、結果として被爆者を最重要視し、世界平和都市として独自の存在意義をもつに至った過程を明らかにした。
 第Ⅱ部では、70年代後半から本格化する語り部活動の記述と分析により、広島市と被爆者の関係性およびその重層性について明らかにした。そこでは主として平和教育とそのなかから生まれた語り部運動について焦点をあて、被爆者が語り部として語る内容と、被爆者の自分史の内容もあわせて詳細に記述し、制度と個人の関係について解釈を加えた。
 まず、第一章では、著者は占領期(1951年まで)の広島に焦点を当て、広島市行政が都市の復興のために、終戦翌年の「平和復興祭」の実施や広島平和記念都市建設法の制定を介して、GHQや日本政府の見解を慮りながら、「原子爆弾が戦争を終結させ、将来的な戦争を抑制し、平和を導いた」と、強調していく過程を丹念に辿った。日本政府およびGHQに協調関係を築き復興支援を得るために、広島の多大な犠牲こそが平和がもたらしたと意味付けた広島市は、自らを「平和都市」と宣言することで復興への立脚点を探った。GHQおよび日本政府は市の見解に賛同し、広島市の復興に特別予算を当てそれに答え、市も国際的な平和運動を起こす兆しを見せた。しかしそのいっぽうでは、市の眼中には被爆者である市民の救済はなく、市民から批判の声があがったことを著者は指摘する。
 第二章は、1950年代半ばにおいて、広島市行政が原子爆弾の積極的な解釈として、「核兵器反対」を掲げるいっぽうでは、「原子力の平和利用」の両方を掲げていく過程を詳細に検討している。第五福竜丸被爆を契機に杉並区から全国に広がった原水爆禁止署名運動は、ビキニの核兵器被害を広島、長崎に続く国民的被爆経験と位置づけ核兵器反対を訴えた。それに同調した広島市は原爆経験地として独自性を保持しながら、初めて核兵器反対を掲げた。著者はこの運動により広島の原爆経験が「全国民」の経験として共有されるに至ったと指摘する。しかしその一方では、広島市は米国政府の指導により日本政府が推進を開始した「原子力の平和利用」を市の方針として掲げたことにも注目する。著者は、原子力の平和利用の積極的な支持表明は、市や被爆者の開明性、近代性、そして自らの否定的な経験を乗り越えようとする未来性を示したい意志の表明でもあり、核兵器反対と矛盾せず、原子力の利用の正当化を強めたとして、広島市が早い段階から核の理解の二重性を受容していたことを指摘する。
第三章は、1950年代末から1960年代前半にかけての原水禁運動の政治イデオロギーの違いにより生じた分裂混迷と分裂、そしてその結果として広島市が地域の独自性を強調し始めた経過に焦点をあてる。著者は、広島市が政治イデオロギーを巡って分裂した日本原水協を批判し、市独自の活動(例えば、原爆ドームの保存運動や「平和公園」建設など)により原子爆弾による惨禍の「原体験」的属性を強調し、人道主義的な立場を見出すにいたった過程を述べる。筆者は、広島市行政が全国的な社会運動を参考としつつも、被爆地として広島の地域社会運動との連動を深めたことに注目し、広島市が惨禍の「原体験」を国民的な経験としてではなく、被爆地自らの財として広島市の政治空間、歴史空間に取り戻して行った契機を指摘する。
第四章では、1960年代後半から1970年代前半において、広島市行政が地域の運動とも距離を置き、市独自の「使命」として、原子爆弾の惨禍の伝承と核兵器反対に取り組む過程を詳述する。広島市はNHK広島支局らが始めた「被爆地図復元」運動を市の事業として引き受け、「広島平和文化センター」を作り、被爆者の立場を重視する政策に舵をきった。この方向性は、激しい学生運動や社会運動が平和公園を象徴的闘争の場とすることを禁じ、平和公園を被爆者や遺族を中心とした個人が死者を慰撫し、平和を願う「祈りの場」として定めた、広島市の姿勢に明瞭に伺える。この方向性は、市行政が被爆者や遺族との結びつきを強化し、日本政府に対し被爆者援護の推進を強く求めていく姿勢にもつうじていくと、筆者は論じる。
第五章では、広島市行政が原爆体験の集合的継承を目指し平和教育に取り組んだことにより、被爆者は平和教育の現場においての体験の語り手という役割を求められていったことに焦点をあてる。とくに全国に先駆けて東京都葛飾区の中学が広島に修学旅行を行い、そこで被爆者が体験を語り、学生にもまた被爆者にも重要な学習の場になったという出来事を通じて、平和教育として修学旅行において広島訪問を行う学校が増え、被爆者も学生の反応に刺激をうけ、自らの語り部としての役割、さらには被爆という経験の新たな意味を見いだして行った過程を、著者は丹念に記述する。著者は市の支援により、語り部が組織化し、相互間でネットワークを組んだことなどをあげ、市行政と被爆者が相補的に事業を行ってきたことを強調する。
 第六章では、語り部活動に参加する被爆者の語りの内容と、広島市が支援事業として期待する語り部活動の意義の間に、同調と乖離、連続性と不連続性があることを著者は指摘する。1980年代以降語り部活動が多岐にわたって展開しはじめると、市行政は、「被爆者が苦しみや憎しみを乗り越えて、平和や核兵器廃絶のために、人類に対する教訓として体験を語ることに意味がある」と次第に主張するようになった。しかし、語り部活動に参加する被爆者は一方ではたしかにこれに共鳴し、自身の体験や苦しみの意味を市の意義付けに同調させ、自身の思考や行動を練り上げていったが、他方では制度的な意味には含まれていない、「被爆者個人が内に秘める悔悟や怒りの感情や死者との対話の継続」という語りも抱き続けていることを、著者は指摘する。そして、制度と体験者の間には、原爆の意味をめぐる協調だけではなく、齟齬やズレという対立も存在していると論じる。
 終章では、改めて本論の目的と論証作業を要約したうえで、学術的意義および本論の問題点、今後の課題についてまとめている。


3、 本論文の成果と問題点

 まず、第一に評価すべき点は、本論文が、原爆投下という人類史上おそらくもっとも私たちが「ことばを失」い、あらゆる表現、解釈も許さず、あるいは人間らしさのすべての属性までをもはぎ取るような「原体験」について、正面から取り組み、終戦直後から今にいたるまで、様々なアクターが存在意義や時代背景を反映させながら、その原体験が「語りうる」そして「語るべき」ものとなっていく過程を、地道で周到な調査によって明らかにしたことである。著者はこの過程を、各アクターが原子爆弾投下という暴力の「意味」を探求する過程として議論の中心におき、本論全体でそれを描ききろうと試みた。この点において、本論は極めて真摯で誠実、かつ著者の渾身の力をこめた論考として高く評価できる。
 本論は史資料、研究論文等の文献資料だけなく、広島に1年半に渡って滞在しての長期フィールドワーク調査に基づいている。激しい暴力を経験した被災地での調査は、たとえ広島のようにすでに出来事から70年近くが過ぎ、非経験者が人口のほとんどをしめるようになった都市空間であっても、その経験が都市そのものを形作っている場合は容易なことではない。アレックス・ヒントンの指摘を引用するまでもなく、たとえば南京虐殺の場であった南京での調査、ナチスによる強制収容所の所在地での調査、カンボジアの虐殺現場での調査の困難さを考えれば容易に想像がつくであろう。その地がもつ文化的、歴史的磁場(インパクト)の強さに加えて、こうした実質的な調査の難しさから、綿密なフィールドワークを旨とする人類学においてすらも、広島の原爆経験を対象にした従来の内外の研究は、そのほとんどが論じ方を予め定めたうえでの極めて限定的なインタヴュー調査と資料調査による、象徴論的分析にとどまっている。こうした研究に対して、本論は著者が広島に滞在し、本格的な人類学的フィールドワークを行い、事象の全体像をできるだけ忠実に現場の状況に即して捉えようと試みた、初めての論考である。この点は高く評価できる。
 第二に評価すべき点は、本論が主たるアクターとして、個人、団体組織、広島市行政、国家と幅広く想定し、そのなかでも特に個人と広島市行政の関係に注目しながら、戦後から近年にかけて、相互の関係の変化を複合的に捉えることを試みたところにある。本論の主要な論点は、著者も繰り返し主張しているように、アクター間の関係が必ずしも、支配/被支配の対立関係に収斂するのではなく、制度の制定や実施の作業において「対立もすれば協調もする」、あるいは「相互に響き合う」関係性を築き上げるということにつきる。本論は、全体の流れを変化させたいくつかの出来事に焦点を当てながら、アクターそれぞれが多様な関係性のなかから、原爆の暴力の意味の位置づけを探求する過程をより忠実に描ききることを試みた。本論は出来事の記録や被爆者の記憶の再構築にとどまらず、先行研究を参照しながら、原爆の「意味」が多様なアクターによって作られて行く過程を分析する理論的視点の構築につとめたものであり、かつリアリティから離れることを許さない、実証的論考となっている。その意味においては、広島、長崎における原爆による惨禍についての社会科学的研究として、これまでの研究蓄積への貢献は大きい。
 第三に評価すべきところは、とくに第I部において、広島市行政の通史的な記述を通して、広島という都市の政治空間が、原子爆弾とそれをめぐる社会過程がもたらす文化的な磁場によって、強く縛られてきたことを明確に描き出すことに一定程度の成功をおさめていることである。I部においては、政治的立場の衝突を含め、事態の成り行きをできるだけ価値判断を排して丹念に調査し、詳細に記述することによって、かなり公平な記録となっている。とくに「原水爆禁止運動」や「平和公園の聖域化」、そして「佐藤首相の式典参列」等にまつわる様々な出来事・意見の記述は今後の多様な解釈を可能にする開かれた資料となっている。「市行政」という一枚岩的な「都市政治」像によって、本論文は一定程度その分析に説得性をもたすことができているといえよう。市行政通史に陥いることを避けられたのは、こうした広島市がもつ強い文化的磁場の存在ゆえともいえよう。本論の興味深い点は、それにもかかわらず、「文化的磁場」というレトリカルな言葉を使うことを禁欲的に節制し、著者自信の明確な戦略ではないにせよ、それへの代替として各アクターが「意味をさぐる」その行為としてとらえたことである。「意味」の問題については、確かに以下で述べるようにその使用や説得性の是非については疑問がないわけではないが、著者が新しい理論的領野を開こうとする意志が読み取れる論文であることは確かである。この点において、今後さらに視点を発展させ、対象をより明確に分析しうる豊かな可能性を含んでいる。

 他方、本論文には課題として以下のような点が指摘できる。
 第一点は、本論が制度と人びととの間の動態的な関係性を探り、分析することを目的としているにも関わらず、制度についてはほぼ「広島市行政」に限定されており、広島市の行政通史とも読み取れるようなI部の内容であり、さらに、関係性の議論においても、被爆者(人々)と広島市行政の関係性の分析が論文全体を占めているのは問題である。著者も気づいているように、被爆者と国家の関係、あるいは、広島市行政と国家政策の関係、さらには関連諸団体との関係等、それぞれのアクターの関係等は、戦後の歴史のなかで主要なモメントを作り上げてきており、こうした動態的な関係性に射程を広げ、考察、彫琢していってこそ、はじめて制度と意味の関係を論じることの有効性が主張されうるはずである。なお、付け加えれば、戦後における広島市政の分析においても、主として歴代市長の発言や行為に代弁される「市行政」という形で一枚岩的に描き出していることは、記述の厚みを重視することをめざす人類学的研究としては、やや素朴にすぎる印象を与える。
 第二点は、著者は論文全体にわたって、アクター間の関係性が「対立もすれば協調もする」、あるいは「相互に響き合う」関係であると、なんどもくりかえし指摘し確認するが、それ以上の関係性、例えば、対立、競合、協同、調整、妥協、啓発作用などについての具体的に深めた分析が行われておらず、 アクターとしての経験、感覚、記憶、忘却、想像の複雑さも充分に掘り下げて描かれているとはいえない。著者は、先行研究を支配・被支配の対立関係的な議論として単純化してとらえ、それに対する反論という形に全体の議論を収斂させることで、確かに、広島市の行政・法・制度に対して被爆者市民は常に対峙していたわけではないことは明らかにしたが、上記の問題はこの前提と枠組みに固執するために、いっそう見えにくくなっている。その結果、分析の掘り下げが不足であるだけではなく、本質が同じとはいえない問題を無理矢理に同一枠組みで論じさせてしまうために、問題の理解にゆがみが生じることさえ起きてしまっている。例えば、本論の第IIで示される語り部と市行政の関係においては、著者は相互の共鳴を指摘したうえで、齟齬やズレが生じることを指摘しているが、「被爆者の苦悩」は極めて個人の内面的問題、人間の本質的な在り方を巡る問題に近く、それを「制度による意味と個人の間の不協和音」が原因の所在源であるようにもっていく結論には、かなりの違和感が残る。今後、問題の本質と所在を見極め、その構造をときあかすような取り組みが必要とされよう。
 第三点は、議論の中心として「意味」と「制度」をもってきた果敢な取り組みは評価できるが、先行研究の理論的検証および批判、本論文が切り込んでいく理論的アプローチの検討や精査がほとんどなされていないため、意味と制度の概念的次元での議論がおおよそ単純化されてしまい、それが直接的に「原爆の意味」と「広島市の行政」という具体的な事実関係の実証的記述にすり替わっている感が強い。「意味」と「制度」の関係論は、現代の人類学がいわゆる「未開社会」に対象を限定していた時代から自らを解き放ち、現代社会全体を論じる起点にもなりうる可能性をもつ議論であるので、本論が広島の原爆体験を扱った本論であるだけに、残念である。本論が今後、この理論的領域においてより意識的な研究展開に結びついて行くことを期待したい。
 著者はこれらの問題に対して著者も今後の課題として自覚的であり、本論の最終章においてもそれについて率直に言及している。したがって、これらの問題は本論の成果を損なうものではなく、今後の研究により発展的に解決されるであることが期待できる。


4、 審査員一同は、上記のような評価と、2013年1月23日の口述試験の結果にもとづき、審査員一同は本論文が社会学研究科に寄与しうる十分な成果をあげたものであり、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しいと判断した。

最終試験の結果の要旨

2013年2月13日

 2013年1月23日、学位請求論文提出者 根本雅也氏の論文についての最終試験を行った。試験においては審査委員が、提出論文「原子爆弾による惨禍と苦しみの意味をめぐる制度と体験者 —広島市行政・日本政府・社会運動・被爆者—」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、根本雅也氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は根本雅也氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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