博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:一九世紀前半の洋学と社会―田原藩家老渡辺崋山を事例に―
著者:酒井(矢森) 小映子 (SAKAI(YAMORI), Saeko)
論文審査委員:若尾 政希、渡辺 尚志、石居 人也、秋山 晋吾

→論文要旨へ

1.本論文の構成
 本論文は、三河国田原藩の家老渡辺崋山(1793~1841)の洋学研究を事例に、19世紀前半における洋学受容のあり方とその意義を、同時代の社会との関わりの中で明らかにしようとしたものである。

 本論文の構成は以下の通りである。
序章 本稿の課題と構成
 一.問題関心と研究史の整理
 二.本稿の構成
 表 渡辺崋山略年譜
第一章 渡辺崋山の思想形成過程を探る―崋山日記に関する一考察―
 はじめに
 一.『寓画堂日記』『崋山先生謾録』の分析
 二.『全楽堂日録』の分析
 おわりに
  日記記事表一 『寓画堂日記』記事
  『寓画堂日記』中引用・抜粋・聞書き記事
  日記記事表二 『崋山先生謾録』記事
  『崋山先生謾録』中引用・抜粋・聞書き記事
  日記記事表三 『全楽堂日録』記事
  『全楽堂日録』中引用・抜粋・聞書き記事
第二章 天保期田原藩における「藩」意識の諸相―家老渡辺崋山の凶荒対策を中心に―
 はじめに
 一.凶荒にあたる心得書―崋山の典拠と思想―
 二.参勤延期願い―藩主への諫言とその受容―
 三.家中の窮乏と訴え
 おわりに―二つの「藩」意識―
 表 崋山心得書と『荒政輯要』の条目比較
第三章 渡辺崋山と小関三英の洋学研究過程―一九世紀前半の洋学と社会―
 はじめに
 一.小関三英とはどんな人物だったのか
 二.崋山と三英の出会い―天保二年四月一六日―
 三.天保三年における転機―田原藩家老崋山と岸和田藩医三英へ―
 四.それぞれの変化―天保六年前後―
 おわりに
 表一 渡辺崋山洋学研究年表
 表二 小関三英・渡辺崋山年譜
 表三 小関三英書簡
第四章  崋山における「藩」と「国家」のゆくえ―一九世紀における藩認識と国家   認識・対外認識―
 はじめに
 一.「藩」認識の形成過程
 二.「天下」の「小藩」田原藩―対外的危機認識の時代―
 おわりに
 表 崋山洋学典拠
補論 松代藩士佐久間象山の殖産開発事業―松代藩地域研究の視点から―
 はじめに
 一.殖産開発事業をめぐる象山の要求と藩の対応
 二.三ヶ村利用掛の実態
 三.沓野騒動をめぐる象山・地域・郡奉行の動向
 おわりに
終章
 一.各章の内容整理
 二.渡辺崋山に見る一九世紀前半の洋学と社会
 三.今後の課題と展望

2.本論文の要旨
 洋学とは、「(南)蛮学」「蘭学」も含め、日本の近世における西洋学術及び西洋事情の研究をさす。その内容は幅広く、前提となる語学はもちろんのこと、医学・天文学といった自然科学や、暦法、砲術などの諸技術、さらには世界地理や教育、法学、歴史といった人文社会系の知識など、多岐にわたる。幕府の対外政策のもと、洋学は内外情勢の変動をきっかけにして、ときに権力によって利用され、ときに弾圧の対象となったが、近世を通じて洋学の研究は続けられ、各地の村々にいたるまで、時代的・地域的特性をもちながら普及していった。
 洋学を対象とした歴史研究(洋学史研究)は、戦前から行われているが、画期となるのは、1937年からの洋学論争であった。この論争は、近世封建社会における洋学の歴史的意義を問うもので、著名な洋学者の先端的思想や幕府・藩の史料を素材に、封建制批判の面を重視する見解(羽仁五郎・高橋磌一・遠山茂樹ら)と、封建制補強の面を重視する見解(伊東多三郎・沼田次郎ら)が対立した。この論争に対し1980年代に入ると、田崎哲郎が、在村蘭方医の広汎な存在を主張して「在村の蘭学」という新たな視角を提起し、従来の洋学史研究の枠組みそのものを問い直した。以後、さまざまな地域の実証的研究によって洋学の実態は明らかにされつつあるが、その反面で、研究は専門化・細分化しており、洋学の歴史的な意義がみえなくなってきている。
 このような問題意識から、著者は、洋学の歴史的意義を問うためには、いわゆる「洋学者」の学問内容や実態の解明だけでなく、さまざまレベルで洋学に関わった人々の思想形成過程も対象とする必要がある、と指摘する。なぜなら自らとは異質な西洋の文化・学問を受容し研究する過程では、その主体の社会的立場やそれまでに形成されてきた思想や通念と何らかの切り結びを伴うと考えられるからである。その局面に注目することで、洋学の社会的・歴史的意味も見えてくるはずだと考えた著者が本論文で取り上げたのは、渡辺崋山である。
 崋山は、譜代の小藩田原藩(石高1万2千石)の江戸詰家老として天保飢饉における凶荒対策や藩政改革に取り組み、また卓越した絵師として活躍する一方で、小関三英らに翻訳を依頼し洋学を研究、蛮社の獄で弾圧され、切腹した人物である。著者は、序章で、上述の問題意識を披瀝し、藩政や社会への関心・問題意識が強く、藩の内外に多様なネットワークをもつ崋山は、その課題を検討するための恰好の素材だと述べる。
第一章では、崋山の諸日記を詳細に分析し、たとえば、崋山がいつ誰とあったのか、どんな書物を読んだのか等々、崋山の活動のデータ化を行っている。20代はじめの日記『寓画堂日記』(文化12〈1815〉)と『崋山先生謾録』(文化13〈1816〉)で最も頻繁に登場する記事は、絵画と交際に関するものであり、崋山の旺盛な好奇心と江戸における文化・学問的ネットワークの活況を生き生きと伝えている。それに対し15年後の『全楽堂日録』(文政13〈1830〉~天保4〈1833〉)では、「藩政」と「洋学」に関連する記事が増加する。ここから、著者は、崋山の関心と問題意識の変化を読み取り、「なぜ崋山は藩政と洋学を志向するようになったのか」、「そうした崋山の思想形成はどのような歴史的意義を有するのか」という、新たな問題を提起している。
第二章では、「藩政」に深く関わる崋山に着目する。具体的には、天保の大飢饉への対応として田原藩家老崋山が提案した凶荒対策を分析し、崋山の藩政思想を論じ、あわせて「藩日記」を分析して藩政機構における崋山の位置を明らかにしている。江戸に生れ育った崋山は、強烈な治者意識をもって、中国の農書・救荒書に依拠して凶荒対策を練り、国許に指示している。一方国許では、中小姓らが実際に窮民救済にあたっていたが、近国での民衆蜂起(加茂一揆)への危機意識から、一揆が起きたときに即座に対応(鎮圧)できるように、困窮する家臣への拝借金を藩に願っていた。江戸の崋山と国許との対立は、従来、「改革派対守旧派」の図式で理解されてきたが、「藩」そのものが内包していた二つの意識(すなわち治者意識と「御家」意識と)の乖離から考えるべきだと、著者は指摘している。
 第三章では、崋山の「洋学」の受容に着目する。崋山の洋学研究の過程と目的を、洋学者小関三英と比較することによって、考察している。崋山は、当初は知的好奇心により洋学に接近したが、その後は目的意識により関心分野を変化させていった。語学のできない崋山の洋学研究は、洋学者とのネットワークに依存するものであったという。それに対し、三英の場合は、政治・社会を含む「西洋」総体への関心は一貫しており、一方で研究スタイルは当初は一人だけで行うものであった(「孤然」)が、崋山らとの出会いを通じて「朋友」と「議論」するものへと、学問の方法論が変化したことを指摘した。
 第四章では、洋学研究によって世界的・国家的視野を育んだ崋山の「藩」認識を問題にする。「小藩」を否定的文脈で語っていた崋山が、「小藩」は、「武」「徳」で大藩の手本、「天下のため」になるという肯定的な文脈で語るように変化していたことを指摘する。そしてその背景に、崋山のヨーロッパ認識や国家認識があると、著者は述べる。
 補論では、崋山と同じく洋学を研究し藩政に携わった松代藩士佐久間象山に注目し、彼が主導した殖産開発事業を分析した。藩史料に基づき象山と周囲の人々の意識・行動を追跡することにより、従来とは異質な国家認識をもつ藩士の出現と、それに伴う藩政機構や地域社会との摩擦の様相を明らかにした。
 終章では、①藩認識との関係、②江戸の社会・ネットワークとの関係、③ヨーロッパとの関係に焦点をあわせて、「一九世紀前半の洋学と社会」について整理するとともに、残された課題を指摘した。

3.本論文の成果と問題点
 洋学者をどのように規定するかによるが、オランダ語などの語学ができなかった渡辺崋山は十全な意味では洋学者ではないかも知れない。だが、小関三英ら西洋書を自由に読みこなし得る本格的な洋学者と交遊し、彼らに翻訳してもらったり、すでに翻訳された書物を読んで洋学を学んだ崋山のような人物に光を当てることによって、著者は「一九世紀前半の洋学と社会」のありようが見えてくると考える。「洋学の歴史的意義を問うためには、いわゆる「洋学者」の学問内容や実態の解明だけでなく、さまざまなレベルで洋学に関わった人々の思想形成過程も対象とする必要がある。なぜなら自らとは異質な西洋の文化・学問を受容し研究する過程では、その主体の社会的立場やそれまで形成されてきた意識・思想・通念と何らかの切り結びを伴うと考えられるからだ。その局面に注目することで、洋学の社会的・歴史的意味も見えてくるはずである」、という著者の問題意識と分析視角は的確である。こうした研究視角を打ち出した点が、本論文の第一の成果である。
 第二の成果は、渡辺崋山の基礎史料の徹底的な分析から研究を立ち上げた点である。従来の思想史研究では、その思想家が執筆した作品の分析に終始しがちであったが、著者は、書簡・日記・紀行文・手控といった細々とした史料を徹底的に読み込みデータ化した。こうした基礎的作業により、崋山の思想形成の過程に迫ることができたのである。
 第三に、崋山が洋学研究において、「国家」(日本)意識と「藩」意識を共に高揚させていたことを明らかにした。崋山は洋学によって世界情勢を知り、国家レベルの対外的危機意識を募らせる。しかし崋山にとって洋学による「国家」への視野の拡大は、「藩」という枠組みからの脱却ではなかったことを、崋山の思想形成に即して解明した点は重要である。
 第四に、崋山の洋学研究の背景に、江戸の文化・学問的ネットワークが存在していたことを指摘した点も重要である。通詞や洋学者らによる洋学の発達、塾や書物による普及、そして対外情勢を受けた社会的な問題関心や蘭癖趣味の風潮の中で、19世紀前半の江戸では洋学に関する情報が流通するネットワークが形成されていた。崋山はこうしたネットワークを通じて洋学者と出会い、情報を得て、洋学研究の場を広げていったのである。
 第五に、著者がオランダ語の解読能力を駆使して、オランダ語で書かれた原典と、洋学者による翻訳書とを比較する研究を開始したことも、本論文の成果としてあげておきたい。日本の洋学史研究は、日本の史料・文献だけで研究してきた段階から飛躍して、新しい段階に入ったと言えるであろう。
以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不十分な点がないわけではない。著者は、崋山に即して、「国家」意識と「藩」意識の共生の可能性や、ヨーロッパ=「小国」認識がもつ意味を検討しているが、崋山のそうした意識や認識が19世紀という時代のなかでどのような意味をもっていたのか、どのような位置を占めていたのか、を考察していく必要があろう。もちろんそうした点は著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のように審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、矢森小映子氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2013年2月13日

 2013年1月9日、学位論文提出者矢森小映子氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「一九世紀前半の洋学と社会―田原藩家老渡辺崋山を事例に―」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、矢森小映子氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は矢森小映子氏が、一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

このページの一番上へ