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博士論文審査要旨

論文題目:ピエール・ブルデューにおける社会学的思考の生成
著者:磯 直樹 (ISO, Naoki)
論文審査委員:平子 友長、町村 敬志、中野 知律、多田 治

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I 本論文の構成

序論

第1章 ブルデューのアルジェリア経験と経験的研究への志向
1-1 ブルデューとアルジェリア戦争
1-2 アルジェリア戦争とフランス知識人
1-3 フィールドからの問い

第2章 60年代のブルデューにおける社会調査法の受容と実証主義批判
2-1 哲学と社会学のあいだ
2-2 ブルデューと量的調査
2-3 ブルデューと質的調査

第3章 基礎概念の萌芽
3-1 ハビトゥス概念の初期構想
3-2 初期の資本概念と界概念―66年の2つの論文から
3-3 『再生産』における理論と調査の統合の試み

第4章 70年代における3つの基礎概念の形成と認識論
4-1 『プラティク理論の素描』における「プラクセオロジー」
4-2 1970年代における3つの基礎概念の展開
4-3 ブルデューにおける理論と調査

第5章 ブルデューの「階級」分析
5-1 「階級」の定義と様々な階級分析
5-2 ブルデューにおける階級概念の模索―1966‐1976
5-3 『ディスタンクシオン』以降の「階級」分析
5-4 『ディスタンクシオン』における調査と方法

第6章 ブルデューの問題設定と反省性
6-1 カント美学批判の構図
6-2 『実践感覚』と反省性の試み
6-3 『ホモ・アカデミクス』と反省性の実践

結論


Ⅱ 本論文の要旨

序論においては、20世紀後半の社会学史において問題とされてきた理論と調査(経験的研究)の関係について基本的な論点が確認されつつ、社会学思想史上の主要な理論家としての評価を確立したピエール・ブルデューが、独自の方法で理論と調査の統合を試みたことが指摘される。著者はブルデューの社会学的営為を支えた社会的背景と彼自身の問題関心を明らかにすることで、問題設定をブルデューにおける社会学的思考の生成へと限定する。さらに、著者は社会学史における理論と調査をめぐる論争の中にブルデューを位置づけるべく、ブルデューの社会学一般ではなく、ブルデューにおける理論と調査の統合の試みに焦点を当てる。本論文においてはしたがって、ブルデューにおける「理論」とはどのようなものか、そして、彼はどのように理論と調査を統合したのかという問いが探求される。
このような問いは、次のような二つの観点から考察される。その一つは、ハビトゥス、資本、界という三つの基礎概念に焦点を合わせ、これらの概念の展開を追うことでブルデューの社会学的思考の生成過程を追うことである。もう一つの観点とは、ブルデューの問題設定に着目し、ブルデュー自身の問題関心が彼の社会学的思考の生成をどう支えたのかを考察することである。そもそも、理論と調査をつなげるのは何のためなのか、ブルデューにとって社会学とは何の意味があるものかという問いに答えるために、ブルデューの問題設定と社会学的思考の関係について考察される。
第1章では、社会学者としてのブルデューにとって決定的な意味を持つことになる彼のアルジェリア経験について、①アルジェリアに赴いてアルジェリア社会に関心を抱くようになった経緯、②当時のブルデューが関心を抱いていたアルジェリア戦争へのフランス知識人の関わり方、③ブルデューが自らアルジェリアで調査をしながら培っていった社会学的思考の萌芽、これら三つの観点から考察される。
ブルデューは、高等師範学校で哲学を学び、高校で教鞭を取ったあと、兵役によって強制的にアルジェリアに行かされることになった。彼はアルジェリア戦争の悲惨な現実を目の当たりにするとともに、アルジェリア社会に関心を抱くようになる。ヌシやサヤドなどの研究協力者を得て、彼はアルジェリア研究を開始する。彼は初めての単行本『アルジェリアの社会学』を1958年に著すが、その背景には、フランスの左翼知識人が皮相な知識でアルジェリアを語っていたことを彼が問題視していたことがあった。ブルデューがアルジェリアに関して危険だと考えていた言説は特にサルトルとファノンのものであったが、それがなぜかといえば、単に彼らの事実認識に誤謬があったからではなかった。それだけでなく、彼らはアルジェリアの民衆と価値観や物事の捉え方を共有していないにもかかわらず、彼ら自身の素朴な実感に頼ってアルジェリアの民衆を代表しているかのような物言いをしていたこと、これをブルデューは問題にしていた。ブルデューは十ページ前後の論稿という形でもアルジェリア論を公刊していくが、このような仕事により、ブルデューはアルジェリア戦争をめぐる代表的知識人と見なされるようになる。
 アルジェリア戦争期のブルデューの仕事の中心にあった研究成果は、サヤドとの共著『デラシヌマン』にまとめられている。この著作の副題は「アルジェリアにおける伝統的農業の危機」である。本書では、植民地期アルジェリアにおいてフランス当局の行った強制移住政策などの政策が、いかにアルジェリアの農民から土地と労働だけでなく文化を奪い、彼らを「根こぎ」にしたのかが綿密な質的・量的調査の成果を経て考察されている。この著作はブルデューがアルジェリアの現実と向き合った成果であり、背景にはサルトルやファノンへの批判があった。ブルデューはアルジェリア戦争期の一連の経験を通じ、社会学と民族学(人類学)を本格的に開始するようになる。 
第2章では、1960年代においてブルデューが哲学者としてではなく社会学者として自己規定するようになった過程について考察されている。ブルデューは1960年にフランスに戻り、レイモン・アロンの助手となったのをきっかけに、制度上は社会学者としてのキャリアを歩むようになる。60年代を通じてブルデューはいくつもの社会調査に従事するが、自らを社会学者として認めるには時間がかかった。それは彼の元々の専攻であった哲学に高い威信が与えられていたからであったが、レヴィ=ストロースらによって人類学を中心とする社会科学の威信が高められていくにつれ、彼は名実ともに社会学者となっていく。60年代のブルデューの社会学的業績は、理論研究よりも調査研究が中心であった。彼は統計学者との共同研究を通じて量的調査を学び、アルジェリアと故郷のベアルン地方でのフィールドワークと民族学(人類学)を通じて質的調査を学んでいった。このような社会調査の経験と並行して理論的考察は重ねられていった。ブルデューはカッシーラーやレヴィ=ストロースの構造人類学の影響のもと、量的方法においても実体論的思考ではなく関係論的思考を志向するようになる。彼はまた、統計学自体は社会調査の量的方法として積極的に受け入れつつも、認識論としての実証主義は受け入れなかった。一方で、アドルノのような理論偏向の実証主義批判に対しても、ブルデューは批判的であった。ブルデューによれば、理論主義も実証主義も誤りなのである。
第3章では、60年代のブルデューにおける理論的考察の軌跡について、ハビトゥスや資本などの基礎概念に焦点を当てて考察されている。彼の基礎概念は、いずれも60年代半ばから独自の意味で用いられるようになったが、60年代の時点ではまだ構想途上の段階にあった。資本概念はまだ十分に練られておらず、文化資本概念は定義もされずに用いられていた。界概念は、まだハビトゥスや資本との理論的な接点が見出されていなかった。彼は基礎概念を独自に展開させつつ、理論と調査の統合を模索していく。その過渡期の代表作が1970年に公刊されたパスロンとの共著『再生産』である。この著作において彼らは記述形式を工夫しながら理論と調査の統合を試みるが、この時点ではその試みの困難が目立つ形になっている。
ブルデューの主要な概念と認識論は70年代にさらに発展させられ、1979年の『ディスタンクシオン』や1980年の『実践感覚』において一つの到達点に達する。第4章では、3つの基礎概念(ハビトゥス・資本・界)と認識論について検討しながら、このような過程が論じられている。認識論に関しては、1972年に刊行された『プラティク理論の素描』における「理論的知識の三形態」の議論が重要である。「三形態」とは、「現象学的」、「客観主義的」、「プラクセオロジー」であり、ブルデューが採用する立場は三つ目のものである。これは、主観にナイーブに迫るのでもなく、客観主義で満足するのでもなく、客観化しようとする主体自体を客観化することで、科学的認識をさらに発展させようとする試みである。 同書においてはまた、ハビトゥス概念に関する体系的な考察がなされ、「配置」と「傾向」を同時に意味する「ディスポジション」、その諸々の体系としてハビトゥス概念は定式化される。界概念は、1971年のヴェーバー論において独自の定義が与えられ、相対的に自律的で独自の規則を有する闘争の空間として定式化されるようになる。この界概念は71年以降、徐々に資本概念と結びつけて考えられるようになっていく。
ハビトゥス、資本、界などのブルデューにおける基礎概念は、彼によって「開かれた概念」と呼ばれている。それは、概念には体系的定義以外にいかなる定義もないこと、概念は体系的な仕方で経験的に活用されるように構想されていることをたえず思い起こさせておくやり方である。ハビトゥス、資本、界のような概念は、孤立した状態ではなく、それらがつくりあげる理論体系の内部でのみ定義できるが、経験的研究に開かれた概念として構想されているのが「開かれた概念」である。このような独自の概念観が、彼の理論を支えている。
ブルデューにとって重視されるのは、理論の抽象度や現実性よりも理論そのもののを批判的に検討できる理論の優越性であり、理論による理論の理論的批判こそが認識論的切断の条件の一つであるとされている。 ブルデューは、このような理論観に依りながら、社会学的実践における理論の重要性を繰り返し主張する。データや情報にナイーブに接近する経験主義ないしは実証主義は、理論によって克服されねばならないのである。ブルデューが研究の手続きにおいて重視する「対象の構成」とは、対象にアプローチする方法の選択と技術的な手続き全体における理論の関わりを意味している。我流社会学と手を切って対象と向き合うには、自らの一連の研究プロセスを対象化できる理論を備え、その理論をも対象化しなければいけないのである。ブルデューにおける理論とは、基本的に経験的研究に活用されるものを想定している。「調査なき理論」を生み出すのは社会的対立であり、広義の政治であるというのがブルデューの考え方である。
第5章では、ブルデューの「階級」分析について考察されている。ブルデューの社会学において、階級分析は重要な位置付けにある。しかしながら、ブルデューによれば「社会階級」なるものは実在しない。実在するのは社会空間であり、差異の空間であるという。階級分析を行いつつも「社会階級」の実在を否定するという、この一見分かりにくい論理構造によってブルデューの「階級」分析は構成されている。ブルデューにおける「階級」分析とは、社会空間論のことでもある。そのアプローチには、大別するならば2種類のものがある。一つは、ブルデュー的な意味での資本の種類と多寡によって分類された階級である。もう一つは、ハビトゥスの主観性の部分に着目した意識としての階級である。すなわち、一方では社会空間における客観的な位置の特定を行い、もう一方ではその位置によって条件付けられた主観性を分析するための道具立てとして、ブルデューの「階級」分析は構想されている。このような分析方法は1960年代から模索され、1979年の『ディスタンクシオン』において完成させられた。
第6章では、60年代以降のブルデューが何を問題にすることで独自の社会学思想を創りあげてきたのかが総括されている。『ディスタンクシオン』においてはカント美学批判が問題設定として冒頭に掲げられているが、ブルデューにとって美学は常に重要な検討対象であった。ブルデューがなぜ美学にこだわったかといえば、それは彼が60年代から70年代にかけてのフランス哲学における美学の位置づけに敏感であったからである。彼が美学を扱う方法はしかし、社会学的であった。そして、60年代には理論枠組みの不備によって十分に出来なかった分析が、70年代における理論的展開を経て可能になる。その成果の一つが、『ディスタンクシオン』である。
ブルデューがもともと『ディスタンクシオン』の結論にしようと思っていた階級論は、『実践感覚』第9章の「主観的なものの客観性」へと移される。一方で、『ディスタンクシオン』の結論になっているのは「諸階級と諸分類」と題された章である。これら2つの結論からは、『ディスタンクシオン』と『実践感覚』の接点を見出すことができる。ブルデューが『実践感覚』で明らかにしようとしたのは、「集団、とくに血統を基礎にする単位というものは、規則性と制定された制約の客観的現実性の中に存在すると同時に、表象の中に、さらにはまた、表象を変えることによって現実を変えようとする、駆け引き、交渉、虚仮威しなどのあらゆる戦略の中にも存在する」ということであった。こうして、ブルデューは血統を基礎にした集団に関する研究から抽出した論理を、現代社会における人間集団としての階級にも適用できることを『実践感覚』で示そうと試みたのであった。
ブルデューは60年代から社会学の実践における反省性の重要性を繰り返し説き、この反省性については『実践感覚』においても考察されている。このような反省性の実践の一つの到達点であるとブルデュー自身が述べているのが、1984年の『ホモ・アカデミクス』である。反省性を十分に実践できていなかった60年代から繰り返されているように、ブルデューにおいて反省性とは科学の相対化のためにあるのではなく、科学をより科学的にするためにある。ブルデューにおいて、反省性の実践として大学世界を科学的に分析することは、社会学者にこそ要請されるものであると同時に社会学にこそ可能なことなのである。それがなぜかといえば、科学は諸々の社会的条件の上に成立するからであり、科学的知識の生産を社会事象として捉える必要があるからである。
 以上の6章までの考察から明らかにされたことは、一つにはブルデューにおける理論と調査の統合の試みにおいて3つの基礎概念が肝要であったということであるが、同時に、その試みは反省性を伴う構想であったということである。ブルデューにおける社会学的思考の生成過程において要請され続けたもの、それが次第に反省性という概念として明確されていき、『ホモ・アカデミクス』において具現化するのである。反省性は、理論と調査を結んで科学的研究をより科学的にするために要請される。理論と調査は別もので対立しやすいという前提から出発し、両者を架橋しようと試みる立場があるが、ブルデューはそのような前提に立つこと自体を拒否する。『ディスタンクシオン』以降のブルデューにおいては理論と調査は融合され、両者の区分は便宜上のものでしかなくなる。反省性をめぐる考察はこの先にあり、理論と調査の統合を前提にして、『ホモ・アカデミクス』以降のブルデューにおいて新たな探求課題となるのである。

Ⅲ 本論文の成果と問題点

 本論文の第一の意義は、ハビトゥス、界、資本というブルデュー社会学理論の基礎概念について、それらの概念が最初に登場してから、『ディスタンクシオン』(1979年)『実践感覚』(1980年)において理論的に統合され、最終的な意味内容が確定するまでの概念形成史を、ブルデューの文献に即して丹念に追跡し、再構成した点にある。
 本論文の第二の意義は、上記の諸概念の形成史が、理論と調査の関係という統一的な観点から考察されており、ブルデューの社会学理論形成史の中で調査の果たした重要な役割が示されていることである。ブルデューにとって社会学の諸概念は「開かれた概念」として存在しており、それらは理論と調査との間を絶えず往復する運動の中で練り上げられていったことを、著者は強調している。
 本論文の第三の意義は、ブルデュー社会学理論における反省性の契機の重要性が示されていることである。ブルデューは社会学理論の科学性を担保するためには、「客観化する主体を客観化する」こと、すなわち「対象を構成する」社会学者自身の知識界の中での位置およびそこから無意識的に形成される特定の観点・枠組みに対して絶えず反省することを要求した。ブルデューが社会学における調査を重視しつつも、調査の中にしばしば持ち込まれる実証主義的前提に対しては一貫的に批判的であったことが示されている。
 総括的にいえば、本論文はブルデュー社会学の理論的研究としては、これまで日本で発表されたブルデュー研究の水準を超える内容を示しており、本論文の最大の意義もここにある。
 しかし本論文には、次のような問題点も見出される。
 第一の問題点は、著者がこれまで日本に紹介されてこなかった多くの二次文献(主としてフランス語文献)を紹介したことの功績は高く評価されるべきものであるが、著者がそこから引き出してくる内容は、日本のブルデュー研究者の中ですでに共有されている論点が多かったように思われることである。ブルデュー社会学理論研究の新しい地平を切り開くべく、ブルデュー理論の解釈の点でも著者独自の見解をもう少し積極的にうち出してほしかったように思う。
 第二の問題点は、ブルデュー社会学が1990年代以降、特に「政治と科学の関係」「理論の反省性」の問題をめぐって大きな変容をとげたことが指摘されつつも、その変容の内容・方向性については示されていないことである。本論文においては、『ディスタンクシオン』(1979年)『実践感覚』(1980年)『ホモ・アカデミクス』(1984年)以降のブルデュー社会学理論の展開については、今後の課題として残されている。
 第三の問題点は、ブルデュー社会学における「調査的なもの」が内包している多義性、豊かさ、広がり、問題性について主題的に考察されていないことである。本論文において著者は、理論と調査の不断の往復運動の中でブルデュー社会学の基本概念が形成されていったことを繰り返し強調しているが、理論の発展に寄与した調査の内容紹介は少なくかつ
抽象的である。
とはいえ、これらの問題点は本論文の高い水準と優れた研究成果を損なうものではなく、また著者自身が十分に自覚するものであるため、今後の研究によって克服されることが期待される。

Ⅳ 結論
審査員一同は、上記のような評価と、2013年1月18日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2013年2月13日

2013年1月18日、学位論文提出者磯直樹氏の論文について最終試験をおこなった。試験において、提出論文『ピエール・ブルデューにおける社会学的思考の生成』に関する疑問点について審査委員が逐一説明を求めたのにたいして、磯氏はいずれも適切な説明を与えた。よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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