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博士論文審査要旨

論文題目:日本の労働判例に見られる「就業規則による労働条件不利益変更法理」の迷走― 雇用関係ルールに関する社会学的考察 ―
著者:吉川 美由紀 (YOSHIKAWA, Miyuki)
論文審査委員:倉田 良樹、西野 史子、林 大樹、福田 泰雄

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1.本論文の構成

 本論文は現代日本の雇用関係のあり方を大きく規定している「就業規則による労働条件不利益変更に関する判例法理」について、高度経済成長期にまで遡り、この法理の形成に関わった主要裁判例の判断がどのような論理によって導出されてきたのかを考察している。高度成長期から現代にまで至る裁判例の経時的変化に関する社会学的な考察を通じて筆者が明らかにしたのは、裁判所の判断が労働法学の通説のなかで描かれているような明晰で一貫した論理によって導かれているわけではない、という事実である。筆者は「判例法理の迷走」という事実を示すことで、現代日本の雇用関係が当事者の行為を律することのできる明確なルールを欠いた不安定な状況にあることに警鐘を鳴らしている。本論文の各章の構成は以下のようになっている。

第1章:本論文の問題意識と研究課題
 1.1 問題意識
 1.2 研究課題
 1.3 本稿の構成

第2章:就業規則による労働条件の不利益変更ルールの全般的動向
 2.1 高度経済成長期
 2.2 第一次石油危機以降1980年代
 2.3 平成不況後の1990年代

第3章:賃金変更・人事考課ルール
 3.1 賃金変更ルール
 3.2 人事考課ルール

第4章:人事配置のルール
 4.1 配転ルール
   4.1.1 勤務地の変更ルール
   4.1.2 職務内容の変更ルール
 4.2 出向ルール
 4.3 転籍ルール
第5章 結論
 5.1 労働条件の「合意による変更」という原則
   5.1.1 配転
   5.1.2 出向
   5.1.3 転籍
 5.2 労働条件の「不利益変更の合理性」
   5.2.1 労働条件変更の必要性
   5.2.2 変更後の就業規則の内容の相当性
   5.2.3 労働組合等との交渉の状況

2.本論文の概要

 第1章では本論文の問題意識と研究課題が示されている。

 「1.1問題意識」では、筆者の研究が目指している究極的な目的が、現代日本の「雇用関係ルール」を社会学的な概念によって解明することにあることが述べられている。雇用関係ルールとは何か。筆者は、John R. Commons, Sumner H. Slichter, Friedrich A. Hayek, David Marsden, Hugh Collinsらの先行研究を参照しながら、雇用関係ルールに関する社会学的な概念規定を行っている。筆者によれば、雇用関係ルールとは不完備契約である雇用契約の安定的な履行を確保するために社会の様々なレベルで張り巡らされているルールの総体を意味する。雇用関係における取引対象である労働サービスは、時々刻々変化する曖昧な周辺部分を含んでいる。使用者と被用者にとって、将来起こりうる変動を全て考慮に入れた完全な契約を締結することはもともと不可能であり、 雇用契約に関する当事者間の合意は脆弱で毀れやすい「不完全な合意」であることを避けることはできない。雇用契約の不完全性は、当事者同士がその合意の脆弱性を承知したうえで暫時的に受け入れている、という意味での「意図的な不完全性」incomplete by design である。だからこそ、社会は不完備契約たる雇用契約の安定的な履行を確保するために、様々なルールを提供して、当事者相互の機会主義的な行為の応酬によって妨げられることのない安定した秩序を生成しようと試みてきたのである。雇用関係ルールには様々な種類のものがあるが、筆者はハイエクに従い、ルールがもたらす秩序の種類に応じて「自生的な秩序のルール」と「組織的な秩序のルール」という二つの種類に大別して整理している。筆者は現代日本の「雇用関係ルール」を①職場レベルの労働慣行・黙示の合意(=自生的な秩序のルール)、②企業レベルの労働協約・就業規則(自生的かつ組織的な秩序のルール)、③企業外の労働法令・裁判例(=組織的な秩序のルール)、という3つの階層に区分し、これを「雇用関係ルールの社会学的研究」を行うための基本的な概念枠組みとして提示している(図1)。

 「1.2研究課題」では、本論文の研究課題が提示されるとともに、それが有する学術的な意義について説明されている。 筆者によれば、現代日本の雇用関係ルールは、裁判例を通じて就業規則による合意を根拠として、①賃金等の労働条件を不利益に変更できる経路を開いているだけではなく、②配置転換・出向・転籍などに関する使用者の人事権を広範に許容するものとなっている。判例法理にその根幹部分を委ねている日本の労働法制は、解雇に関して厳しい規制を課する一方で、労働条件の不利益変更に関しては、就業規則による合意を根拠に使用者に大きな裁量の余地を与えているのである。筆者は裁判例を検証することによって「就業規則による労働条件不利益変更」のルールがどのような社会的背景から、どのような論理に基づいて確立してきたのかを考察することを本論文の研究課題として設定している。
 ではこのような研究課題は日本の雇用関係研究にとってどのような意義を有するものであるのか。筆者によれば、前項で示された3つのレベルにまたがる現代日本の雇用関係ルールの階層構造において、企業レベルの労働協約・就業規則は組織的秩序のルールに支えられた自生的秩序のルールといった性格のルールである。日本では労働協約・就業規則は、職場レベルで生じる自生的な秩序のルールと法令や司法によって外から与えられる組織的な秩序のルールを整合的に調停する位置にあり、決定的に重要な役割を担っている。従って日本の雇用関係ルールの全体としての成り立ちを理解するには、このレベルのルールがどのように作動しているかを解明することが不可欠である。筆者は労働協約の適用率が高いとはいえない日本において、就業規則が果たしている役割には極めて大きなものがあるにもかかわらず、従来の雇用関係研究は、雇用関係ルールとしての就業規則の役割を解明する、という点で、充分な成果を上げることができなかったことを指摘している。そして本論文がこれまでの研究の空白を埋め合わせる、という点で大きな学術的意義を有するものであることが強調されている。

  続く2章、3章、4章では本論文の中心をなす社会学的な労働判例分析が行われている。そして2,3,4章での作業に基づく結論が第5章において示されている。

 第2章では就業規則による労働条件の不利益変更に関する基本的なルールが裁判例のなかでどのように確立されてきたのかについて、高度経済成長期にまで遡って検討されている。検討の対象として取り上げられているのは、最高裁による秋北バス事件(1968年)、大曲市農業協同組合事件(1988年)、第一小型ハイヤー事件(1992年)、第四銀行事件(1997年)、みちのく銀行事件(2000年)の判決である。
 第3章では、就業規則による労働条件の不利益変更に関する判例法理が、労働条件のカナメとも言うべき賃金という事項に関してどのように運用されるのかを明らかにするため、賃金変更に関連する裁判例(3.1)と人事考課ルールに関連する裁判例(3.2)を検討している。とくに平成不況期の1990年代以後に多くの企業で導入されるようになった成果主義人事制度による賃金切り下げの試みをめぐって争われた事件に着目し、3.1ではハクスイテック事件・大阪高裁判決(2001年)、ノイズ研究所事件・東京高裁判決(2006年)を取り上げ、3.2ではマッキャンエリクソン事件・東京高裁判決(2007年)を取り上げている。
 第4章では、賃金とならぶ労働条件の基本的な条項である配置転換に関連する裁判例を検討している。4.1.1では勤務地の変更を伴う配置転換に関する裁判例として、日本合成ゴム事件・津地裁判決(1970年)、新潟鉄工所事件・前橋地裁判決(1971年)、東亜石油事件・東京高裁判決(1976年)、東亜ペイント事件・最高裁判決(1986年)、帝国臓器製薬事件・最高裁判決(1999年)、ケンウッド事件・最高裁判決(2000年)、明示図書出版事件・東京地裁判決(2002年)、ネスレ日本事件・大阪高裁判決を取り上げている。4.1.2では、職務内容の変更を伴う配置転換に関する裁判例として、東亜石油事件・東京高裁判決(1976年、4.1.1項の事件と同一事件。この裁判では使用者の職種変更権についても争われている)、日産自動車村山工場事件・最高裁判決(1989年)、九州朝日放送事件・最高裁判決(1998年)、直源会相模原南病院解雇事件・東京高裁判決(1998年)、東京海上日動火災保険事件・東京地裁判決(2007年)が取り上げられている。4.2では、配置転換の延長にある施策としての出向に関する裁判例として、日立電子事件・東京地裁判決(1966年)、日東タイヤ事件・最高裁判決(1973年)、大日金属工業事件・岐阜地裁大垣支部判決(1975年)、セントラル硝子事件・山口地裁判決(1977年)、興和事件名古屋地裁判決(1980年)、JR東海出向事件大阪地裁判決(1987年)、ゴールドマリタイム事件・最高裁判決(1992年)、東海旅客鉄道出向命令事件・大阪地裁判決(1994年)、新日本製鐵(日鐵運輸第2事件)・最高裁判決(2003年)、日本レストランシステム事件・大阪高裁判決(2005年)が取り上げられている。4.3では、出向の延長にある施策としての転籍に関連する裁判例として、日立製作所横浜工場事件・最高裁判決(1973年)、ミロク製作所事件・高知地裁判決(1978年)、日立精機事件・東京高裁判決(1988年)、三和機材事件・東京地裁判決(1995年)、日本アイビーエム会社分割事件・最高裁判決(2010年)が取り上げられている。

 このように、2章、3章、4章では、就業規則による労働条件不利益変更に関連する主要な裁判例を高度経済成長期にまで遡って、実に36件にわたって検討するとともに、それぞれの事件の下級審判決や関連する事件の判決にも言及しながら、詳細な考察を行っている。個々の裁判において争われている争点を労働法の閉じた論理のなかだけで理解するのではなく、社会的なコンテキストにおいて理解するために、同時代の雇用関係の状況に関連する、多くの統計資料、政策文書、学術研究が参照されている。5章での結論はこれらの作業を踏まえて提出されている。本論文の2章以下の概要を以下に示そう。 

【就業規則による不利益変更法理の全般的動向について】
 秋北バス事件・最高裁判決は、①就業規則の法的性質と②就業規則の不利益変更の拘束力について、従来の判例や学説とは異なる独自の見解を示したものであり、本論文の研究課題に取り組むうえでの出発点となる重要な判例である。同判決は①就業規則の法的性質に関して、就業規則は合理的な労働条件を定めている限り、労働条件は就業規則によるという事実たる規範が成立しているものとして法規範性が認められると判示することによって、法規範説的な法理を打ち立てようとした、とされている。だが本章で明らかにされるように、秋北バス事件で示された法規範説的な立場は、その後の最高裁判決において維持されているわけではない。筆者はその後の裁判例をフォローして、就業規則の法的な性質についての解釈は、契約説的な方向に向けて緩やかな転換を示しながらも、契約の効果をどう解釈するのか、という点では個々の裁判において異なる解釈が示されており、確かな判例法理が鼎立された状態にあるとは言い難い状況にあることを指摘している。
 また、秋北バス事件・最高裁判決は②就業規則の不利益変更の拘束力に関しては、変更された就業規則条項が合理的なものであれば、それに反対する労働者をも例外的に拘束するとの見解を示し、就業規則の合理的変更ともいうべき法理を打ち出している。だがこの判決で示された合理的変更法理は、合理性判断の具体的基準を明確に示したわけではなく、この点はむしろ本章および第3章で取り上げる主要な裁判のなかで、精緻化されていくことになる。ちなみに第四銀行事件最高裁判決において確立されたとされる合理性判断の具体的基準は、①就業規則の変更によって労働者が被る不利益の程度、②使用者の側の変更の必要性の内容・程度、③変更後における就業規則の内容の相当性、④代償措置その他関連する他の労働条件の改善状況、⑤労働組合等との交渉の経緯、⑥他の労働組合、又は他の従業員の対応、⑦同種事項に関する我が国社会にける一般的状況、であり、これらの基準は、現在では労働契約法10条のなかに取り込まれてもいる。
 だが筆者の理解によれば、その後の裁判例においても踏襲され、実定法のなかにも取り込まれていった、合理的変更に関する「精緻化された」判断基準は、雇用関係の当事者の観点から見れば、必ずしも安定したルールを提供できるような内容とは言い難いものである。その根拠として筆者が指摘するのは次のような点である。
 まず、②労働条件変更の必要性については、判例法理によれば、賃金等の重要な労働条件の変更には「高度の必要性」が要求されるが、その必要性の程度を図る基準については、判例ごとに恣意的に設定されており、「通常の必要性」と比べて「高度の必要性」を認定する共通の尺度は提示されていない。また、③変更後の就業規則の内容の相当性については、みちのく銀行事件判決(2000年)において、最高裁は「相対的無効論」を採用し、事実上の判例変更を行ったことから、それ以降の裁判例においては、変更後の労働条件の相当性を判断する際、一定の代償措置又は経過措置によって不利益の緩和が図られているか否かが重要な判断要素となってきている。だが相対的無効論に含まれている少数者への配慮という側面については、その後の裁判においても踏襲されて、法理として確立されているわけではない。この点は、⑤労働組合等との交渉の経緯についての裁判所の判断を跡づけることによっても確認することができる。90年代に入ってから、第一小型ハイヤー事件(1992年)に続き、第四銀行事件(1997年)において、「変更後の就業規則の内容は労使間の利益調整がされた結果としての合理的なものであると一応推測することができる」と判示し、合理性判断の考慮要素のなかで、「多数組合との合意」を総合考慮の一要素としての位置付けを超えて、これを重視する傾向が現れていた。しかし、その後のみちのく銀行事件においては、合理性判断の要素として、これを特別に重視しないことを明言しており、他の考慮要素と並ぶ一つの要素として位置付け直しているように見受けられる。
こうした要素間の優先順位や相互関係については、依然として明らかにされていないのが実情である。また、労働条件変更の合理性判断は、「労働条件変更の必要性」と「変更の内容」(変更による不利益の程度と変更後の労働条件の内容の相当性)との比較衡量を基本として、労働組合等との交渉の状況、その他の就業規則の変更に係る事情等を加味して、総合判断がなされることが判例法理により確立しているものとされているが、それぞれの要素がどのような比重で考慮されるのかについても判然としない。

【配置転換について】
 配転については、第一に、使用者に労働契約上、配転命令の権限があるか否か、すなわち、使用者に労働条件の変更権を付与するとする労働者の合意があるか否か、第二に、そうした変更権が使用者に付与されているとしても、その行使が権利濫用となっていないかどうかの二つの観点から審査されてきた。この二つの観点は、第一章で展開した雇用契約における合意の不完全性(瑕疵、脆弱性、毀れやすさ)にともなって発生する当事者間の紛争に対して労働法がどう対処していくのか、という問題と深く関わっている。
第一の観点に関しては、裁判所は東亜ペイント事件・最高裁判決(1986年)以降、就業規則上の配転命令条項が存在し、それが制度として適正に運用されているという実態があれば、配転命令権について労働者の合意があったものと判断し、使用者の配転命令権を広範に認めていくようになる。一方、使用者と労働者の間で、個別の特約という形で職種や勤務地を限定する何らかの明示的な合意が認められるときには、この合意は就業規則よりも当該労働者に有利な労働条件を定めるものとして、就業規則より優先して労働契約の内容を画定することになるものとされている。しかし、職種や勤務地の限定に関する黙示の合意については、裁判所はこれを容易には認めない傾向にある。例えば、異職種配転の場合における職種限定の合意について、日産自動車村山工場事件・東京高裁判決(1987年)は、当該職種「以外の職種には一切就かせないという趣旨の職種限定の合意が明示又は黙示に成立」していない限り、職種限定の合意は認められないと判示し、機械工として採用され、20年間機械工として勤務してきた労働者の職種限定に関する黙示の合意の成立を否定した。このように裁判所は、職種限定の合意認定については、そのハードルを極めて高く設定して極めて慎重な姿勢をとっており、特に解雇回避措置を目的とした配転については、職種限定等の合意を容易には認めず、就業規則上の包括的配転命令条項と配転慣行の存在を根拠として使用者の職種変更権を広く認めていくのが裁判例の傾向となっている。
しかし、こうした裁判傾向に対し、直源会相模原南病院(解雇)事件・東京高裁判決(1998年)や東京海上日動火災保険事件・東京地裁判決(2007年)のように、一定の要件を付しつつも、契約締結後の企業側の事情変更を「例外的な事態」として認める手法をとり、日産自動車村山工場事件・東京高裁判決とは異なる枠組みをもって判断を下した裁判例も登場している。特に、東京海上日動火災保険事件は、職種限定の合意と就業規則上の配転命令条項が併存する事案である。従来から、職種限定の合意が認められる場合には、使用者は、原則として、労働者の同意がない限り、他職種への配転を命じることはできないものとされてきたのに対し、東京地裁判決では、労働契約の継続的性質に着目して、職種が限定されていたとしても、「他職種への配転を命ずるについて正当な理由があるとの特段の事情が認められる場合」には、使用者に職種変更権を認めることが「当事者の合理的意思に合致する」と判示している。職種限定の合意がある場合でも、一定の要件の下で使用者の職種変更権を認めることで、使用者の人事権をこれまでよりも広く容認しているのである。
以上のように、職種変更を伴う配転命令の効力の判断枠組みは、必ずしも一義的に定着しているわけではない。判例法理は未だ斉一性を欠いており、予測可能性は極めて低いものといえる。さらには、一般に使用者と労働者の間で職種や勤務地を限定する合意が認められるときには、就業規則より個別特約を優先させる判断が維持されているものの、雇用調整目的で行われた配転に関する裁判例においては、解雇による雇用調整を回避するための配転が大規模に展開された社会・経済情勢とそれを「時代の一般的趨勢」として受容してきた社会的認知を踏まえ、雇用保障のためには、職種変更を伴う配転はやむを得ないものとする価値判断がなされ、裁判所は、特に、職種や勤務地の限定に関する黙示の合意については、これを容易には認めない傾向にある。
第二の観点である、配転命令の権利濫用の判断については、使用者の配転命令権をかなり広範に認めるのが裁判例の趨勢となるに伴い、配転命令の効力を権利濫用の当否により判断していく傾向がみられる。特に、雇用維持を目的とする配転については、使用者の配転命令権をかなり広範に認めた上で、権利濫用の判断において、労使の実質的な利益衡量を行っている。また、権利濫用の判断基準については、東亜ペイント事件・最高裁判決において、業務上の必要性の程度と配転により被る労働者の不利益との比較衡量により決定するという判断枠組みが確立され、「業務上の必要性」の程度については「企業の合理的運営に寄与する」程度の必要性で足りるとしながら、「労働者の不利益」の程度については、「労働者に通常甘受すべき程度を著しく超える不利益」という判断基準が示され、転勤や単身赴任、遠隔地配転による育児困難等の家庭の事情は、労働者が通常甘受すべき程度のものとみなされるに至っている。これに対し、平成不況期以降の裁判例においては、使用者による配慮措置を配転の有効性判断において考慮する裁判例が増加し、また、こうした配慮義務を「信義則上の義務」として位置付け、転勤命令の業務上の必要性と労働者が被る家庭生活上の不利益との新たな調整の視点として提示した裁判例も登場している。
以上のことから、配転による労働条件の不利益変更に関する法的紛争が今後どのように決着されるのかについては、これまでの裁判例で蓄積されてきた法的な推論や思考様式を基に推測する以外にはない状況にある。

【出向について】
 出向に係る裁判例においても、配転と同様、第一に、使用者に労働契約上、出向命令の権限があるか否か、すなわち、使用者に労働条件の変更権を付与するとする労働者の合意があるか否か、第二に、その行使が権利濫用となっていないかどうかの二つの観点から審査されてきた。裁判所は、出向については、配転とは一線を画し、雇傭契約の一身専属性等を根拠として、使用者が一方的には出向を命じえず、原則として、労働者の同意が必要であるとする、配転とは異なる法理を打ち出している。
しかし、出向が解雇を回避するための有効な手段として認識され、通常の人事管理の一環として定着していくに伴い、同意の態様については、出向時における個別的同意でなくとも、就業規則上の出向命令条項や採用時における個別労働者の包括的同意による「事前の包括的同意」であれば、それを根拠として、出向命令権を認容する傾向がみられるようになっている。しかし、出向の場合、出向労働者と出向元企業との間に労働関係が維持されるとはいえ、勤務先の変更に伴い、賃金・労働条件などの面で不利益が生じる可能性が大きいことから、出向規程等に出向先の労働条件等が整備され、労働者に不利益が生じないよう十分な配慮がなされている場合でなければ、「事前の包括的同意」があったものとは認めないのが裁判例の趨勢となっている。
また、出向命令の法的根拠について、初めて最高裁が自らの判断を示した新日本製鐵(日鐵運輸第2)事件・最高裁判決(2003年)は、就業規則上の出向命令条項や労働協約上の出向先の労働条件に関する詳細な規定の存在等の諸事情を総合的に勘案して、使用者は労働者の個別的同意なしに出向を命じる権利を有すると結論づけており、この点については、判例法理として確立したものとされている。このように裁判所は、出向命令権についても、当事者間の合意に基づく労働契約にその根拠を求め、労働者と使用者との間にどのような合意が成立しているのかについて、「当事者の合理的意思」解釈を行っている。
 第二の観点である権利濫用の判断については、配転と同様に、就業規則上の出向命令条項等による「事前の包括的同意」を根拠に、出向命令権を肯定する裁判例が増加するに伴い、出向命令の効力を権利濫用の当否により判断していく傾向がみられる。また、その具体的な判断基準については、新日本製鐵(日鐵運輸第2)事件・最高裁判決(2003年)が、出向命令の業務上の必要性と出向者の労働条件上および生活上の不利益とを比較衡量して判断するという枠組みを確立させ、具体的な判断要素として、①出向命令の業務上の必要性、②出向対象者の人選基準の合理性、③出向によって労働者が受ける生活関係、労働条件等の不利益の程度、④出向に係る手続の相当性を挙げたものの、これらの要素については、本判決以降の下級審裁判例において必ずしも踏襲されているとは言い難く、本最高裁判決が判断要素を定式化したとまでは言えない。
 このように、配転の場合と同様に、出向にともなう労働条件の不利益変更に関する法的紛争も、今後どのように決着されるのかについて予測不能であって、これまでの裁判例で蓄積されてきた法的な推論や思考様式をもとに推測する以外にはない状況にある。

【転籍について】
 転籍は、法的には、現労働契約の合意解約と新労働契約の締結(解約型)、または民法625条1項に基づく労働契約上の使用者の地位の譲渡(譲渡型)という二つの法律行為から成るものと解されているが、いずれの場合にも労働者本人の同意(当事者間の合意)が必要とされている。このため、転籍についても、出向と同様に同意の態様が問題とされてきたが、裁判所は、就業規則や労働協約上の転籍に関する一般的な規定をもって、労働者が使用者に対し「事前の包括的同意」を与えているとは解しておらず、労働者による、その都度の個別的同意が必要とするのが裁判所のほぼ一貫した姿勢であるといえる。
しかし、会社分割制度の導入に伴い、2000年に制定された労働契約承継法は、従来、原則として、労働者の同意を前提としていた転籍について、分社手続のなかで、一定の労働者については本人の同意を不要とし、当然に新会社に承継されるものとした。このように企業再編の法制度改革によって、本人の同意を要しない転籍が法律上認められ、従来の労働法理を覆しており、日本アイビーエム会社分割事件・最高裁判決(2010年)に見られるように、 転籍についても、使用者の人事権を拡大する方向で新たな展開が生じている。

3.本論文の成果と課題

 本論文の第一の成果は、日本の雇用関係ルールの中枢に位置する「就業規則による労働条件不利益変更法理」に着目して36にも及ぶ主要判例を取り上げ、高度経済成長期以来今日に至るまでの動向を丹念に跡づけたことである。とくに4章において配置転換・出向・転籍の施策に関わる判例法理の変遷を時系列的に描出した作業は出色の内容となっている。日本の雇用慣行の中長期的な変動過程と並行して、解雇権に関して厳しい制約を課すことの引き替えで、労働条件の不利益変更を伴う配置・出向・転籍に関しては経営者の人事権を次第により広い範囲で許容していくという判例法理の流れを跡づけるとともに、裁判所の判断が必ずしも一貫した論理によって貫かれてきたわけではなく、迷走と呼ばれるべきものであったことを明確に示すことができた点は、本論文の大きな成果であったと言えよう。
 本論文の第二の成果は、これまでもっぱら労働法学者の手に委ねられてきた労働判例を主要な研究対象として設定し、法学者とは異なる観点から批判的な考察を行うことで、独自の知見を獲得したという点にある。法学者による微に入り細を穿った判例評釈が、ともすれば、実定法の論理のなかに内閉してしまい、裁判官の判断を実定法の論理で正当化することを自己目的化し、ついには判例擁護論に陥ってしまう傾向があるのに対して、筆者が試みているのは、法的規範を雇用関係ルールの一要素として相対化する視点に立ち、ルールとしての判例法理の意味を雇用関係の具体的なコンテキストのなかにおいて批判的に評価することであった。本論文の結論は、労働法学の側からは容易に受け入れられないものであるかも知れないが、この論文がきっかけとなって、法学と社会学との間に建設的な対話の道が開かれていくような展開を期待したい。
 本論文の第三の成果は、日本の雇用関係研究において、これまで充分な考察が行われてこなかった就業規則が果たしている独自の役割に注目し、雇用関係における就業規則の意義は何か、という問いの重要性を示したことである。もちろん本論文はルールとしての就業規則そのものの内容を本格的に研究するようなものではなかった。本研究が明らかにしたのは、就業規則が持つ法的な意味の重さ、とりわけ、労働条件の不利益変更をめぐる法的紛争において、就業規則によって労働条件の変更可能性を事前に合意していること(していないこと)が裁判の帰趨を大きく左右している、ということである。一見すると無意味な空文として読み飛ばされてしまいかねない就業規則の抽象的な文言が、雇用関係における法的な権利紛争・利益紛争の行方を決してしまうほど重要な役割を果たしている、ということを本研究は示しているのである。本研究の問題関心を引き継いで、さらに本格的な就業規則研究が行われることが切望される。
 次に本論文に残された課題を指摘しておこう。
 第一には第一章で提示された「合意」に関連する主要概念が二章以下の判例研究において必ずしも充分に活用されていない、という点を指摘しなければならない。本論文の第一章では、就業規則の不利益変更法理において重要な判断要素となっている「合意による変更」という原則に関連する重要な予備的考察が行われている。筆者は雇用契約における「合意の不完全性」(合意の瑕疵、脆弱性、毀れやすさ)と「意図された不完全性」という二つの概念を用いた雇用契約に関する理論的な考察を行い、そこでは雇用契約に関する学際理論の可能性を示唆する有力な議論が展開されている。ところがこれらの概念は二章以下の判例分析のなかで充分に使いこなされているとは言い難い。一章で示された予備的な考察には近年日本で盛んに行われるようになっている、雇用関係に関する「法と経済学」Law and Economicsの学際研究に対抗しうる「法と社会学」Law and Sociologyという学際研究のフロンティアを築く貴重な視点が含まれていただけに、二章以下の判例研究にこれらの概念が充分に活かされなかったのは残念な点である。
 第二には、本論文の結論として示されている判例法理の「迷走」という表現には、現代日本の雇用関係において労働者が直面している深刻なリスク状況を鑑みた場合、評価として踏み込み不足という印象も残る。筆者は雇用関係や司法の現状を社会科学的に研究するうえで、イデオロギー的な批判は控えたいという禁欲的な姿勢を貫き、そのような姿勢を維持するために労働法の「改悪」、「右傾化」といった評価からは一線を画そうとしたのだと思われる。だが、例えば司法に関する政治学的な研究などの成果も踏まえ、司法が迷走した原因を司法の外側から社会科学的に探るような視点も必要だったのではないだろうか。
 とはいえ、こうした問題点については、筆者も充分に自覚しており、今後の研究によって克服されていくことが期待されるものであり、本研究の成果を大きく損なうものとは言えない。

4.結論

 審査委員一同は、上記のような評価に基づき、本論文が当該分野の研究に寄与するところ大なるものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2013年2月13日

 2013年1月9日、学位論文提出者、吉川美由紀氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文『日本の労働判例に見られる「就業規則による労働条件不利益変更法理」の迷走:雇用関係ルールに関する社会学的考察』に関する疑問点について、審査委員から逐一説明を求めたのに対して、吉川美由紀氏はいずれも充分な説明を与えた。よって審査委員一同は、一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定した。

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