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博士論文審査要旨

論文題目:保護国期における愛国啓蒙運動と朝鮮地方社会
著者:小志戸前 宏茂 (KOSHITOMAE, Hiroshige)
論文審査委員:糟谷 憲一、坂元 ひろ子、佐藤 仁史、木村 元

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1.本論文の構成

 本論文は、朝鮮が保護国として日本の支配を受けた時期に、教育と実業の振興による実力養成を通じて国権=独立の回復をめざした愛国啓蒙運動が、当時の地方社会にどのように広がったのか、また地方社会の側からどのような反応を受けたのかを、具体的に明らかにしようとしたものである。愛国啓蒙運動の担い手である愛国啓蒙団体の地方支会の設置状況と活動状況、私立学校の設立、サントゥという髷を結っていた男性の断髪に対する反応に焦点を当てて分析し、愛国啓蒙運動の歴史的性格を考える上で重要な諸側面を明らかにした基礎的な研究である。
 その構成は次のとおりである。
序 章
第1章 愛国啓蒙運動の地方への拡大
第2章 愛国啓蒙団体支会の活動
第3章 学校と地方社会
第4章 断髪をめぐる諸相
終 章
参考文献

2.本論文の概要

 序論では、まず第1節「問題の所在」において、愛国啓蒙運動が地方に活動を拡げたことの朝鮮近代史上の重要性を指摘した上で、中央の本会(本部)の意図がどれだけ伝わったかという「上意下達」式分析ではなく、地方社会の変動の様相と関連づけて地方の側から愛国啓蒙運動を考察する必要性が表明される。
 第2節「先行研究の検討」では、(1)愛国啓蒙運動全般に関する研究、(2)地方における愛国啓蒙運動に関する研究に分けて、先行研究を検討している。(1)については、1970年代以降の研究が、愛国啓蒙運動の近代性を高く評価した姜在彦・田口容三らの研究(1970年代)→愛国啓蒙運動における帝国主義認識の甘さや日本への妥協的姿勢の存在を指摘して限界性を強調した金度亨・朴賛勝らの研究(1980~90年代の韓国における研究)→金度亨氏らの研究を受けて愛国啓蒙運動内部の思想潮流の類型化を試みた月脚達彦の研究(1990~2000年代)と展開してきたことが、簡潔に整理されている。(2)については、金度亨氏によって先鞭が付けられた愛国啓蒙団体の支会研究や地方の学校設立運動に関する研究が韓国において進展してきたことが指摘されている。その上で、筆者は、先行研究の問題点として、研究の中心が愛国啓蒙運動指導層の思想の分析に置かれ、愛国啓蒙運動実践の現場である地方の動向の分析が不足していることを指摘し、地方から中央をみる視点に立って運動の実態と意味を再検討する必要があると論じている。
 第3節「本論文の課題と方法」では、本論文の課題として、(1)地方を主体として愛国啓蒙運動を分析する、(2)愛国啓蒙運動における中央と地方の関係を明らかにする、(3)愛国啓蒙運動に対する地方社会内部の関係を明らかにする、の3点を設定する。そして、この3課題に応えるために、地方における私立学校設立運動の展開、愛国啓蒙運動において奨励された断髪、義兵との関係を中心に分析することを提示する。
第4節「本論文の構成」では各章の概要が提示され、第5節「史料について」では、主に使用する史料は、『大韓毎日申報』『皇城新聞』などの新聞、愛国啓蒙団体の機関誌、義兵関係史料、『旧韓国官報』『統監府文書』などの官公庁刊行資料であることが説明されている。
 第1章では、愛国啓蒙運動が地方に拡大していく様相を述べている。
 第1節「愛国啓蒙運動と愛国啓蒙団体」では、愛国啓蒙運動の中心を担った愛国啓蒙団体を、全国的規模の団体(大韓自強会・大韓協会)と学会(地方出身者がソウルで出身地方の教育振興を目的に設立した団体)とに区分して概観している。
 第2節「支会の設立」では、大韓自強会や学会の本会(本部)は支会(支部)の設置に消極的であったこと、支会の設置(府・郡単位)には本会の委員による視察を通じて、声望と知識ある者を中心になっていることの確認を要したことを、指摘している。
 第3節「支会の視察」では、大韓協会と2つの学会(畿湖興学会・西北学会)を例にとって、本会による支会の視察とそれによる講演会・討論会の開催、支会設立の認許などの活動を考察している。
 第4節「支会の分布」では、愛国啓蒙団体の支会が設置された府郡とその設置時期について悉皆調査をおこなって、一覧表を作成するとともに、支会のあったところを地図に表示している。この表と地図は、先行研究の遺漏を補った貴重な成果である。
 第5節「地方官を通じた拡大」では、愛国啓蒙団体が地方官などの協力を得て地方における活動の拡大を図った様相を検討している。その結果、(1)学会側からの機関誌の普及や代金回収に対する観察使(道の長官)や郡守(郡長)・郡主事(郡職員)への協力依頼、観察使・郡守の「賛成員」(賛同会員)への就任依頼を行っている事例、(2)観察使が学会に寄付をしたり、学会の維持に関して郡守へ訓示を出したり、支会の総会に参加した事例、(3)郡守が支会の総会・討論会などに参加している事例、が丹念に明らかにされている。以上は地方官の協力を得た側面の指摘であるが、愛国啓蒙団体の会員と地方官や地方公職者とが重なっている面があったことも指摘されている。それは、(1)愛国啓蒙団体の会員が郡守に任命されている事例、(2)日本の主導で進められた徴税制度改革のために設置された諮問機関である「地方委員会」の委員に愛国啓蒙団体の会員が任命されている事例があることである。愛国啓蒙運動の参加者が郡守や地方委員に任命されていることは、彼らが中央や地方の権力に近づける可能性を持つものであったことを示していると、筆者は論じている。
 第2章では、愛国啓蒙団体の地方支会の具体的な活動とそれに対する本会の対応を検討している。
 第1節「教育振興」では、支会が学校の設立などの教育振興に取り組んだ事例を提示している。
 第2節「支会の活動状況」では、まず、活動状況が比較的詳細に分かる支会として、大韓協会の利原・慶州・晋州・端川・安東支会の活動状況を跡づけている。利原支会は学校関係者を中心に設立されたこと、慶州支会は貿易会社の活動と結びついていたこと、晋州支会は警察署・財務署の使隷(下級職員)による市場での恣意的な金品徴収への抗議活動を展開したこと、端川支会では学校設立をめぐって郡守と対立したこと、安東支会は解散と再設立を経験したことなどを指摘して、支会ごとに多様な特徴が見られたことを示している。ついで、反日武装闘争である義兵との関係について扱い、大韓協会本会の中心人物である尹孝定らの義兵鎮圧論を確認したあと、地方支会の対応を検討している。それによれば、大韓協会の木浦支会・大邱支会などは鎮圧論を主張し、大韓協会の端川支会・晋州支会は義兵に「帰順」を働きかけるなど、義兵とは対立する立場に立つ支会が多かったが、大韓協会鏡城支会のように会員が義兵に協力した支会もあった。
第3節「本会の対応」では、支会のさまざま活動に対する本会の対応ぶりを検討している。本会は支会に活動報告書の提出を求め、支会が地方官憲と交渉する際の規則を定めることによって支会と官憲との衝突の回避を図り、資金面の管理も図るなど、統制に努めたことが指摘されている。しかし、統制しきれるものではなく、1909年9月に起きた大韓協会と親日団体である一進会との提携の動きに対しては、多くの支会から反対が表明されたことも指摘されている。
第3章では、愛国啓蒙運動のなかで進められた学校の設立が、地方社会にどのように迎えられたのかを検討している。
 第1節「地方社会の私立学校の設立熱」では、愛国啓蒙運動の時期には、郡守や地方有力者が積極的に学校を設立し、私立学校設立熱が高まっていたことを指摘している。
 第2節「統監府の私立学校統制政策」では、保護国支配を担った日本の統監府の私立学校に対する認識と韓国政府の学部(文部省に相当)を通じて実施した統制・再編政策を検討している。筆者は以下のように論じている。統監府は私立学校を独立運動の温床とみなして危険視する一方、資金の問題で維持困難な学校を整理・再編することを図った。この意向を受けて、学部は1908年以降、「私立学校令」以下の統制政策を推進した。こうした状況を受けて、五学会(西北学会・畿湖興学会・関東学会・湖南学会・嶠南教育会)は1910年2月頃から合同で協議をおこない、学部と学校維持の交渉をおこない、1面(面は行政村)当たり1学校設立を主張したが、7月には学部の主張する1郡当たり2~3校の普通学校設立の案に押し切られた。
 第3節「地方社会と学校」では、学校が多くの問題を抱えたことと関連づけて、地方社会では学校をめぐって、設立反対を含むさまざまな動きがあったことを明らかにしている。筆者はまず、新聞の論説などに依拠して、学校の設立目的は実力を養成して将来の独立に備えるというよりは「競争心」「名誉心」でなされた事例もあること、財源などの基礎も弱くて運営が困難で、授業内容も不完全で、教師も不足していたと論じている。その上で、学校の財源確保をめぐって、地域内の共有財産の使用をめぐる争いが起きた事例、学校設立のために集められた資金を郡守などが私消した事例、有力者が資金拠出を拒む事例などを挙げて、地方社会内部の対立の様相を明らかにしている。
 第4節「学校をめぐる葛藤の様相」では、第3節と一部重なるところもあるが、(1)学校設立の経費が郡内の住民に割り当てられることによる負担増の問題、(2)儒林(儒学者)の学校設立への反対、(3)学校設立に反対する郡守も存在したことを挙げて、学校設立をめぐって地方社会内部にさまざまな葛藤が生じていたことを、具体的に明らかにしている。なお、本節の末尾で、学校設立反対論は、新学問は「夷学」「倭学」で、旧学問は「正学」であるという理由によるものであったことが、指摘されている。
 第4章では、保護国期に断髪がどのような目的で提起され、どのようにおこなわれたのか、地方社会においてどのように受け止められたのかを、検討している。
本章の「はじめに」では、近代朝鮮、特に保護国期における断髪に関する先行研究を整理している。劉香織の研究は、日本が朝鮮の断髪を主導しているとするが、朝鮮人の断髪に対する態度の分析が不十分であり、月脚達彦の研究は、断髪を衛生政策との関係から分析し、「近代性」の浸透を重視し、断髪の拡がりに注目しているが、地方における断髪反対の動きもともに分析してこそ、全体像を提示することができる、と筆者は論じている。
第1節「断髪令と初期義兵」では、1895年末に金弘集政権が甲午改革の一環として実施した断髪令とそれに反対して衛正斥邪論者の両班が義兵(初期義兵)を起こしたことを扱っている。筆者は、義兵の敵が日本であったことや、日本と繋がっていると見られていた警察が断髪を強行したことによって、髪型を守ることが「小日本」化を防ぎ、韓国を支配下に置こうとする日本へ抵抗するという意味が加わったと言えると論じている。
第2節「大韓帝国と断髪」では、1902年に軍部と警務庁官吏等に断髪が命ぜられたこと、1904年に外部の勅任官・奏任官に断髪が命ぜられたことを、指摘している。
 第3節「保護国期における断髪」では、まず、保護条約締結後における断髪の動きを明らかにしている。それは、(1)1905年末から1906年にかけて官吏に対して断髪の命令が2回下されているが、大きく注目されるようになったのは、1907年の純宗即位に際して、自らが断髪し、臣下にも断髪の命令を下してからである、(2)純宗の断髪には統監府と李完用内閣からの二重の圧力があったと考えられる、(3)その後は断髪が国家の方針となり、下級官吏にも断髪が命ぜられ、ソウルでは官吏以外にも断髪が勧められたこと、などの点である。ついで、筆者は愛国啓蒙運動における断髪の議論を検討し、純宗の断髪後には、皇帝が断髪したのだから、臣下は断髪しなければならないという認識が強まっていることを確認している。
 第4節「地方における断髪」では、保護国期の地方における断髪推進の動きを跡づけている。それによれば、断髪は、観察使や府尹・郡守などの地方官を中心に進められ、道の観察使―府尹・郡守―面長・里長(里は自然村落であるマウルをいくつかまとめた行政単位)という行政ルートを通じて住民に断髪の指示を出された。また1909年に純宗の地方巡幸の際に、皇帝の断髪を見て断髪した者が少なからずあったこと、学校を舞台にして学生・生徒などの断髪が進んだことも明らかにされている。
第5節「断髪への反対」では、断髪を進める動きに対して、消極的であったり、反対したりした事例が、地方官の間にも、学校関係者や学生の家族の間にも、有力者である地方委員の間にもあったことを明らかにしている。また、断髪者が義兵の襲撃対象とされたことも、断髪をしない要因となったことを指摘している。
 第6節「断髪のもうひとつの論理」は、学校において断髪が集団でおこなわれたことの意味を分析し、それは断指・刺股と同じく伝統的な決意・団結の仕方との関連が強く見られると論じている。
終章では、第1章~第4章の各章を要約して、序章で設定した課題に対する結論を述べた上で(第1節「結論」)、残された課題を提示している(第2節「課題」)。
 筆者の結論は、(1)支会の活動は地方ごとに大きな差異があり、本会の意図とは異なる活動をする支会に対して本会は統制を図ったが、成功したとはいえなかった、(2)地方内部では学校や断髪などをめぐって葛藤や亀裂が生まれていたが、その最大の原因は、保護国化を受け入れるにせよ反対するにせよ、突如として地方にまで新たな文物が入ってきたことにより、変化が迫られたことにあった、というものである。
 また、残された課題としては、(1)地方社会と愛国啓蒙運動の関係について、地方ごとの差異が現れる原因、資金問題や地方経済のあり方の分析を含めて、いっそう踏み込んだ考察をおこなうこと、(2)地方における一進会との関係について十分な考察をおこなうこと、(3)「併合」後の愛国啓蒙団体についての考察、を掲げている。

3.本論文の成果と問題点

 本論文の第1の成果は、愛国啓蒙運動が地方社会において、どう受け止められたのかについて、学校設立、断髪をめぐって地方社会に生じた対立と葛藤の様相を中心にして具体的に提示したことである。日本における愛国啓蒙運動研究が思想面に中心をおいて、実践面についての検討が弱い状態にあったが、地方における支会(支部)の活動とそれに対する地方社会の多様な反応を描き出すことによって、愛国啓蒙運動の実態に即した把握に向けて一歩前進を遂げたと評価できる。
 第2の成果は、愛国啓蒙運動の組織面に関わる問題の一つである、本会と支会との関係について分析し、本会の統制から逸脱する支会があったことを具体的に明らかにし、中央の本会が地方の支会を統制しきれたのではない、愛国啓蒙団体の組織構造はいくぶん緩やかなものであったことを提示したことである。
 第3の成果は、支会の分布、地方委員と愛国啓蒙団体会員や愛国啓蒙運動との関係に関して、先行研究よりもいっそう詳細な検討をおこなうことができたことである。この点でも第2の点と同様に、愛国啓蒙運動の組織面に関する把握を前進させたと評価できることである。
 第4の成果は、支会の活動やそれに対する地方社会の反応を検討するための史料は、現状では主に新聞や愛国啓蒙団体機関誌に拠るしかないが、筆者はその範囲で可能な限りの関係史料を収集し、検討して、実証的水準を確保していることである。とくに、これまで利用されてこなかった『大韓民報』や地方新聞(『慶南日報』)を活用したことは、高く評価できる。
 本論文の問題点は、第1に、地方支会の組織化と活動、学校設立運動とそれへの地方社会の反応、断髪の推進とそれへの地方社会の反応の順に分析を行っているが、これらの3点がどのような関連を有しているのか、地方における愛国啓蒙運動は全体としてどのように把握されるのかが、鮮明ではないことである。そして、このことは、愛国啓蒙運動の「近代性」や歴史的に果たした役割を筆者がどう評価しているかが不鮮明になっていることに繋がっている。
第2に、学校設立や断髪に関する検討をした章に顕著であるが、日本の保護国支配との関係の把握に関心を集中しており、同時代の中国における改革の動向や改革思想との関係、比較については言及がないことである。日本との関係だけに閉じることなく、より広い視野に立った検討をおこなうことが望まれる。
 第3に、学校設立に関しては、私立学校における教育内容の検討が弱く、また当時の学校教育制度全体のなかにどのように位置づけられるかの検討も不足しており、これらの点での改善を必要とすることである。
 しかし、以上の点は、本人も自覚しており、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した大きな成果を損なうものではない。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究の前進に寄与するに足る成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2013年2月13日

 2013年1月30日、学位論文提出者小志戸前宏茂氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「保護国期における愛国啓蒙運動と朝鮮地方社会」に基づき、審査委員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、小志戸前宏茂氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は小志戸前宏茂氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。

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