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博士論文審査要旨

論文題目:ベトナムにおける農村の市場経済化と合作社―農産物の生産・流通における個人的ネットワークの役割 ―
著者:設楽 澄子 (SHITARA, Sumiko)
論文審査委員:浅見 靖仁、児玉谷 史朗、中野 聡、佐藤仁史

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1 本論文の構成
 本論文は、ハノイ近郊の2つの農村での綿密なフィールドワークに基づいて、ドイモイ下ベトナムにおける合作社の実態を明らかにし、合作社間に見られる市場経済への適応能力の違いについて考察したものである。政府公認の正規の機関である合作社がもつ社会的信頼という利点を活かしながらも、農民たちがそれぞれの個人的ネットワークを活用して、合作社や行政村のような正規の組織の枠組みを超えて、自由に商取引を行うことを容認できるかどうかが、合作社の市場経済への適応能力を大きく左右すると本論文は主張する。
 本論文の目次は以下の通りである。

はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
1.問題の所在・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
2.本論文の諸前提・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
3.論文の構成・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7

第1章 先行研究の整理と本論の課題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
1.問題設定-農民の組織化をめぐって・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
2.合作社に関する議論 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
3.本論文の目的と方法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18

第2章 安全野菜プロジェクトの概要とその展開 ・・・・・・・・・・・・・・・・・23
1.紅河デルタの農業生産・流通条件-希少な土地、多大な労働力 ・・・・・・・・・23
2.安全野菜プロジェクトの概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
3.ヴァンノイ社における安全野菜プロジェクトの展開 ・・・・・・・・・・・・・・34
4.ヴァンドゥック社における安全野菜プロジェクトの展開 ・・・・・・・・・・・・47
5.小括 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51

第3章 新型合作社の個人的ネットワークと安全野菜の生産・流通構造
    -ヴァンノイ社における新型合作社「成功」要因の検証 ・・・・・・・・・・52
はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52
1.ヴァンノイ社およびダム村における新型合作社・有限責任会社の設立状況 ・・・・53
2.新型合作社主任のリーダーシップと社会関係-小規模合作社乱立の要因 ・・・・・59
3.新型合作社の事業と経営 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・70
4.組織を支えるネットワーク-安全野菜の生産・流通構造 ・・・・・・・・・・・・80
5.小括:ヴァンノイ社における新型合作社の特徴と成功要因 ・・・・・・・・・・・94

第4章 旧型合作社の組織・制度と村落の個人的ネットワーク
    -ヴァンドゥック社における安全野菜契約栽培 ・・・・・・・・・・・・・・96
はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・96
1.旧型合作社による安全野菜契約栽培の展開 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・96
2.ヴァンドゥック社の農業サービス合作社・・・・・・・・・・・・・・・・・・・107
3.私営商人による野菜流通・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・112
4.小括:合作社による生産物販路開拓「失敗」の要因・・・・・・・・・・・・・・119

第5章 まとめと展望・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・121
1.まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・121
2.合作社および農村開発に関する政策的インプリケーション・・・・・・・・・・・122
3.本論文の独自性と意義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・124

略称一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・126
参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・127

2 本論文の概要
 1996年の合作社法制定によって、合作社は、社会主義的集団農業の執行機関ではなく、市場経済下の協同組合として法的に位置づけられ、その性格と役割を大きく変化させた。現在のベトナムには、農業生産には直接関与しなくなったものの、管轄地域の農民をほぼ全員社員とし、集団農業時代に行っていた水利の管理や種子の配布、さらには冠婚葬祭などの際の互助サービスなどを継続して行う「旧型合作社」と、96年の合作社法制定後に新たに設立され、当該地域の農民の一部のみを社員とし、農産物の生産や流通など、単一の事業のみを行う「新型合作社」が併存している。
 本論文は、長期間にわたるフィールドワークによって、合作社に参加している農民、あるいはその周辺にいながら合作社には参加しない農民たちが、市場経済化にどのように対応しているかを詳細に調べ上げることによって、新旧合作社の市場経済への対応能力の違いを先行研究とは異なる視点から分析している。
 第1章では、先行研究の整理を行い、本論文と先行研究の違いを明らかにしている。先行研究が、新旧合作社の組織構成の違いや村落共同体との関係、あるいは幹部のリーダーシップの質に着目して、合作社間の市場経済への適応能力の違いを説明してきたのに対し、本論文は、合作社間の市場適応能力の違いをより深く理解するためには、合作社の社員となっている個々の農民の経済活動にも焦点をあて、彼らがどのように販路を開拓・維持し、また取引費用の削減に努力しているかをフィールドワークによって実証的に検証する必要があると主張する。
 第2章では、フィールドワークが行われた2つの行政村と、そこにある合作社の概要が示され、またどちらの行政村でも栽培されている「安全野菜」についても説明している。フィールドワークが行われた2つの村はどちらも首都ハノイから10数キロの距離にある近郊農村であり、野菜栽培が以前から盛んである。ベトナム政府は、深刻化する残留農薬問題への対応として、1990年代半ばに低農薬で栽培された野菜を認定する制度を導入したが、この制度によって認定された野菜が「安全野菜」である。調査となった2つの村のうちヴァンノイでは、新型合作社による安全野菜の栽培や販売が順調に拡大してきた。もう1つの村であるヴァンドゥックでも安全野菜の栽培や販売が行われてきているが、旧型合作社が安全野菜の販路の開拓に成功しておらず、成果はあまりあがっていない。
 ヴァンノイについては第3章で、ヴァンドゥックについては第4章で、合作社や農民たちによる安全野菜の栽培や販売への取り組みやその成果、直面している問題などが、豊富な実証的データに基づいて詳述されている。ベトナムの農村部の私的ネットワークとしては、従来は、ゾンホと呼ばれる伝統的な父系親族集団などが重視されることが多かったが、ヴァンノイにおいても、ヴァンドゥックにおいても、そうした伝統的な血縁的、地縁的ネットワークだけではなく、母方の親族や配偶者の親族、小学校時代の同級生のネットワークや、継続的な相対取引によって徐々に形成されたネットワークなど、無数の私的ネットワークが多層的に複雑に広がっていることも、数多くの具体的な事例を示しながら、明らかにしている。
 その上で、最終章である第5章で、ヴァンノイとヴァンドゥックでの調査結果の総括を行い、規模の小さな新型合作社が、社員数においても資産額においても、はるかに大きな旧型合作社よりも、経済的な成功を収めることができているのは、新型合作社が、個々の農民がそれぞれの私的ネットワークを駆使して、自由に販路を開拓することを奨励していることによるところが大きいと主張する。利用可能な私的ネットワークは、個々の農民によって異なっているため、画一的な方法で販路の拡大を図るよりも、個々の農民の自主性を最大限に活かして、彼らが持つ私的ネットワークを有効に活用する方が、成果があがる可能性が大きいというのである。第5章では、こうした考察に基づいて、ベトナム政府が現在進めようとしている、組織の大規模化による生産と流通の統合は、むしろ近郊農業の発展を阻害する可能性が高いと指摘し、政府による支援は、サイズの大きな旧型合作社の事業拡大や、大企業の農産物流通分野への進出に対してではなく、個々の農民や零細商人の活動にこそ向けられるべきであるという政策提言も行っている。

3 本論文の成果と問題点 
 本論文の成果は以下のようにまとめられる。
 第一に、北部ベトナムの2つの村落で、長期間にわたって綿密なフィールドワークを行い、市場経済移行後の北部ベトナム農村における野菜の栽培や流通をめぐる人間関係を詳細に描き出したことである。本論文が行った詳細な記述は、高い資料的価値を持つものであり、今後のベトナム農村研究に少なからぬ寄与をするものだと思われる。
 例えば、1996年に制定された合作社法では、合作社の社員は出資金を出し合うこととされており、先行研究の多くは、十分な実態調査をしないまま、社員は全員出資金を出しているものとして議論を行ってきたが、本論文は、ヴァンノイにある13の新型合作社での詳細な聞き取り調査によって社員の大半が出資金を出していないことを明らかにした上で、新型合作社の創設者と、あとから参加した社員との人間関係について緻密な分析を行っている。
 また、先行研究の多くが、合作社に関する法令や規約に書かれている文言から、新型合作社においても執行部が一般の社員に対して強い権限を有していると論じているのに対し、本論文は、ヴァンノイの新型合作社が行っている野菜の栽培や販売のさまざまな過程における意思決定が実際にどのように行われているかを詳細に検討し、新型合作社においては、野菜の生産や販売に関しては、執行部の権限は非常に弱いことを明らかにしている。
 合作社の収支についても、先行研究の多くは合作社の公式の帳簿に書かれている数字に基づいて分析を行っているのに対し、本論文は、帳簿に載らない取引の額についての推計も行っている。ベトナムには日本の消費税に似た付加価値税があり、正規に商取引を行うと付加価値分について納税の義務が生じる。しかし取引を正規のものとしないと正式なインボイスを発行したり、受領したりできないため、公式の帳簿にそれらの売り上げや支出を記載することができなくなってしまう。零細農民や小規模合作社は、付加価値税の納税義務を回避するために、正規のインボイスを発行せずに取引することが多い。設楽氏は、長年のフィールドワークによって農民たちとの間に信頼関係を築くことができており、聞き取り調査によって、正規の帳簿に載らない取引についても、かなり詳細なデータを収集し、多くの新型合作社において、正規の帳簿に載らない売り上げが、帳簿上の売り上げの4倍以上はあるという推計を行っている。

 第二に評価すべき点は、ただ単に細かな事実を調べ上げたというだけではなく、ベトナムの零細農民たちは伝統的な血縁・地縁関係以外のネットワークをあまりもっておらず、それらの伝統的なネットワークに頼るだけでは、市場経済化に十分対応できないであろうという従来からのステレオタイプな見方に対し、かなりの個人差はあるものの、現在のベトナムの農民の多くは、伝統的なネットワーク以外にも多様な個人的ネットワークを持っており、それらの個人的ネットワークを利用して市場経済化にしたたかに対応している者も少なくないことを実証的に明らかにし、ベトナム北部の都市近郊農村における市場経済化が農民たちに与える影響について、新たな視点を提供したことである。しかも、成功例だけでなく、失敗例も研究対象としたことにより、零細農民のもつ適応能力を過度に評価することなく、彼らのもつ潜在能力が発揮されるための条件についても考察を行い、それに基づいて政策提言も行っている。
 実証的な研究の蓄積の少ない、ベトナムの近郊農村における野菜の栽培及び販売について、長年にわたる丹念なフィールドワークに基づいて、詳細な記述と分析を行い、しかもそれらの複雑な事象を一定の観点から整理し、先行研究とは異なる視点をしっかりと打ち出し、政策提言をも行った本論文は、十分な評価に値するといえよう。

他方、本論文の問題点としては、以下のような点があげられる。
第一に、議論のほとんどが2つの行政村での調査結果のみに基づいて展開されており、その2つの行政村で見られた現象が、ベトナムの農村部全体、あるいは北部ベトナムの近郊農村全体においてどの程度一般的に見られるのかについて、必ずしも十分な考察が行われていない点が挙げられる。マクロデータも使用して、2つの行政村での調査結果がどの程度、他の村や省でも共通してみられるものであるかについての考察が行われていれば、本論文の主張をさらに説得力のあるものにできたと思われる。また、本論文では、低農薬野菜というやや特殊な農産物の栽培と販売を行っている農村を事例研究としているが、低農薬野菜以外の農作物についても、本論文で展開された議論が適用されうるかどうかについての考察も十分に行われていない。本論文では主に失敗例として扱われているヴァンドゥックにおいても、キャベツや白菜など比較的日持ちのする野菜の収穫・販売量はヴァンノイ以上に増えており、個人的なネットワークを活用する小規模の新型合作社の優位性は、すべての農作物について見られるものなのかどうか多少疑念が残る。
第二に、個人的ネットワークの多様性を強調するあまり、ベトナムの農村部における社会結合の歴史的な変化や集団間の関係の変化についての言及が少なく、野菜の栽培と販売の分野における変化を、地域社会の変容の全体像の中に位置づけることが必ずしも十分に行われていない点が挙げられる。また論文冒頭の問題設定について論じた箇所では、ベトナムだけではなく、他のアジア諸国の農村部における社会結合のあり方にも言及していたにもかかわらず、論文のまとめの部分ではベトナムについての考察に終始し、本論文で行った議論の理論的一般化が十分に行われていなかったことも惜しまれる。
ただし、こうした問題点は、設楽氏自身もすでに自覚しており、今後の課題として、さらに研究を進めて行くことが期待される。またこれらの問題点は、本論文の価値を著しく大きく損なうものではない。
以上のことから、審査員一同は、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しい業績であると判定した。

最終試験の結果の要旨

2012年11月14日

 2012年10月17日、学位論文提出者設楽澄子氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「ベトナムにおける農村の市場経済化と合作社-農産物の生産・流通における個人的ネットワークの役割-」についての審査員の質疑に対し、設楽澄子氏は十分な説明をもって答えた。
 よって審査委員会は、設楽澄子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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