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博士論文審査要旨

論文題目:言語的コミュニケーションと労働の弁証法:現代社会と人間の理解のために
著者:尾関 周二 (OZEKI, Shuji)
論文審査委員:嶋崎 隆、岩佐 茂、平子友長

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一 本論文の構成

 本論文は、人間のもっとも基本的な活動であり、社会形成にもかかわる「労働」と「言語的コミュニケーション」について、その両者の区別と内的連関を中心に、現代的な問題意識によってきわめて広範に解明しようとするものである。この意味で、本論文は新しい人間観や社会観を展望している。 本論文の構成は以下のとおりである。

序 論
第一章  言語的コミュニケーションと労働をめぐる思想の問題
第二章  労働と言語の起源における意識の生成
第三章  労働観と言語的コミュニケーション観の進化を求めて
第四章  労働と言語的コミュニケーションの疎外と解放
第五章  ハーバマスの「生活世界の内的植民地化」テーゼについて
第六章  「情報化社会」における言語的コミュニケーションと労働
第七章  言語の模写性と創造性について
第八章  〈認識〉へのアプローチ
第九章  〈文学〉へのアプローチ
第一〇章 〈教育〉へのアプローチ
第一一章 〈環境〉へのアプローチ
補 論  「情報化社会」における人間存在

あとがき

二 本論文の要旨

 「序論」では、現代における社会と人間のあり方にふくまれる原理的問題を考える場合、人間と自然の関係である「労働」と人間相互の関係を媒介する「言語的コミュニケーション」とがなぜ重要であるかが問題提起的に示される。前者については、エコロジー、フェミニズム、情報化などの現象によってその再検討が促されており、また後者については、「新コミュニケーション革命」のはなばなしい到来とともに「対話の喪失」という問題が発生しているといわれる。このさい著者は、上記の問題を考察するとき、ユルゲン・ハーバマスのコミュニケーション論における「システムによる生活世界の内的植民地化」という分析視角に注目するが、同時にハーバマスでは、労働と言語的コミュニケーションの内的な積極的つながりの面が弱いとあらかじめ指摘される。

 第一章では、現代社会における人間のあり方に触れながら、著者の理論的姿勢が問題提起的に描かれる。そこでは情報伝達的なコミュニケーションの見方と実存主義的な「交わり」的なコミュニケーションの見方との対立の構図を描きつつ、よりダイナミックに、「社会行為」としての言語的コミュニケーションがオースティンを利用することによって展開される。さらにここで、著者は労働とコミュニケーションの問題を関係づけるという視点から、「言語=労働起源説」という従来の見解を改善・進化させるという狙いによって、「社会性衝動(共同性欲求)」(エンゲルス)が、もっとも集団的な動物としての人類の進化に決定的であったという見解に与する。著者はこうして、言語は労働(原初的)とコミュニケーションの複雑な絡み合いから発生したという基本視座を設定する。言語を社会性や人間活動の視点からとらえようとする著者の問題意識によれば、さらにミードやチャン・デュク・タオらの見解を参照しつつ、「伝達」と「交わり」の二側面をもつ言語的コミュニケーションが、労働と並ぶ一種の実践の基本形態であると結論づけられる。ここでの著者の意図は、政治的、教育的などの実践が単に労働モデルによってはとらえられず、それがコミュニケーション的実践でもあるという視角からも考えられねばならないという点にある。この点で著者によると、労働の基本原理は、人間と自然との、つまり主体と客体との関係における「対象化」の活動であると定式化される。それはまた、「対象化」をとおしての自己確証と自己変革の活動である。それにたいし、言語的コミュニケーションとは、主体相互の「共同化」の活動であり、そのなかで相互の確証と自己変革もおこなわれるとされる。そのとき、労働場面で獲得される自由や満足と、コミュニケーションにおけるそれとは、基本的に異なると指摘される。以上が著者の基本視座であり、この論理が以後の展開に貫かれる。

 第二章は、以上の問題設定にもとづき、意識の生成とかかわらせて、労働と言語の起源を探究しようとする。動物が人間へと進化しようとする段階にあって、労働の役割が大きいものであったのと同様に、その労働が人間的な労働へと完成されるためには、言語的コミュニケーションが不可欠であると著者は主張する。労働形態の変化を中心としたセミョーノフの人類進化論、道具の加工からその生産の問題を論点とするチャンの議論、チャンとは対比的な、人間関係の形成におけるミードの相互身ぶり論、さらにまた、サル社会のコミュニケーション、幼児のコミュニケーション欲求など、きわめて豊富な論点を紹介・検討するなかで、著者は以下のような見解を強調する。つまり従来、言語の起源が、おもに労働過程を中心として、知的な意味での情報伝達や認知能力の形成に関連づけて考察されてきたのにたいし、それだけでなく、著者は人間が社会性を深く欲求する共同存在であるという点を強調する。この意味では、「知・情・意」の三側面の全体が考慮されねばならず、意識論としては、表象的意識、共同的意識、規範的意識の三様態が重要である。

 第三章において著者は、以上に考察した人間労働と言語的コミュニケーションとの「起源における内的連関」をふまえつつ、両者の原理的な連関の考察に向かい、第一章で定式化した基本命題を次のように補足・改善している。すなわち人間労働は、それが共同的・社会的であることにおいて主体―主体関係における<共同化>の契機をふくみ、言語的コミュニケーションも言語記号体系による<対象化>の契機をふくむ。したがって<対象化>と<共同化>の両契機は、人間労働と言語的コミュニケーション双方を貫く契機として再把握されなければならない。そこで基本命題は、「本源的には、労働は、主体―客体関係における<共同化>をともなう<対象化活動>であり、他方、言語的コミュニケーションは、主体―主体関係における<対象化>をともなう<共同化活動>である」と再定式化される。

 ハーバマスは、『コミュニケーション的行為の理論』において、「目的合理的行為」(ないし「戦略的行為」)「コミュニケーション的行為」「規範的行為」「演劇的行為」という四つの行為類型を区別している。さらにハーバマスは、オースティンに由来する「発語内行為」と「発語媒介行為」の区別を、それぞれ「了解志向的行為」と「成果志向的行為」として再把握する。「了解志向的行為」と「成果志向的行為」の対立はまた、「コミュニケーション的行為」と「目的合理的行為」との対立として、さらには「生活世界」と「システム」との対立として展開されていく。

 著者は、以上のハーバマスの行為類型論を継承しつつ、著者独自のコミュニケーション類型論を、1認知的コミュニケーション、2規範的コミュニケーション、3共同的コミュニケーションに分類し、それらを意識の三様態<表象的意識、規範的意識、共同的意識>に対応させている。さらに第四類型として、上記の三類型それ自身を反省し、その妥当性を検討する、4メタ・コミュニケーションを付加している。またハーバマスによって行為の四類型のひとつに挙げられた「戦略的行為」は、コミュニケーションの疎外の類型として別次元に位置づけるべきことが提唱されている。

 著者がハーバマスを批判するのは、以下の点についてである。第一にハーバマスは、労働を単に「目的合理的行為」の一形態と把握したことによって、稀少財の獲得を目指す経済活動一般を「労働」と規定し、ここに人間と自然との物質代謝過程を「媒介、規制、制御」する労働の、経済活動一般には解消しえない独自の意義を把握することができなかった。第二にハーバマスは、「対象化活動」が単に「目的合理的行為」には解消されず、対象における人間の自己確証と自己変革の契機をふくむことを、正しく評価できなかった。そのためハーバマスは、労働の疎外およびそれからの解放という問題を十分に主題化することができなかった。

 第四章において著者は、労働の疎外と対比させて言語的コミュニケーションの疎外を考察している。著者はまず、言語的コミュニケーションの疎外を強引に「労働の疎外」へと還元するフェルッチョ・ロッシィ=ランディ、それを物象化論として把握したジャン- ジョゼフ・グーを批判したのち、ハーバマスの「歪められたコミュニケーション」論を肯定的に紹介している。ついで著者は、『ミル評注』『ドイツ・イデオロギー』『経済学批判要綱』におけるマルクスの「交通 Verkehr」概念がすでに言語的コミュニケーションをもふくむ概念であり、近代市民社会における「交通」が、一方では言語による人間相互の理性的コミュニケーションの地平を切り開くとともに、他方で商品交換社会における言語の功利主義的利用により、言語的コミュニケーションを「欺き」と「命令」に象徴されるものへと変質させること、言語的コミュニケーションの疎外と労働の疎外とは貨幣を媒介として内的に連関していることの指摘をはじめ、言語的コミュニケーションの疎外についての深い考察がすでに展開されていることを詳細に検討している。そして「必然性の国」「自由の国」の両世界における解放を「自由人のアソシアシオン」において構想したマルクスが、労働の解放のみでなく、労働からの解放としての言語的コミュニケーションの実現を展望したことの意義を高く評価している。

 第五章において著者は、ハーバマス『コミュニケーション的行為の理論』における「システムによる生活世界の内的植民地化」の論理が、・一面的でプリミティヴなマルクス批判にとどまっている点、・システムの肥大化から生活世界を防衛することのみが強調され、システム内部における労働の解放やそのためのシステムにたいする民主的統制の問題を積極的に展開しない点を批判しつつも、それが現代社会における生活世界の危機を解明するためのひとつの有効な方法でありうると評価している。

 第六章は、前章までに展開した理論的考察を「情報化社会」の分析に適用し、これによって著者の理論の射程と有効性を検証しようとした意欲的な章である。著者はまず、コンピュータを「記号操作(処理)機械」として把握し、それが観念そのものを操作する「思考機械」ではないことを強調しつつ、他方で、労働手段の制御に言語記号体系が深く関わっており、コンピュータが言語的コミュニケーションと生産的労働との結合の新しい質と段階を作りだしたことに注意を促している。著者はまた、「コンピュータ化」の進展が、たとえば、重度の障害者に人間的コミュニケーションの新たな可能性を与えるなど人間のコミュニケーション能力を高め、民衆の国際的な連帯などをも可能にする反面、元来「伝達的」「規範的」「交わり的」の三契機を包括するコミュニケーションを情報伝達的コミュニケーションに一面化することによって、人間の対人的コミュニケーション能力を縮小し、とりわけそれが資本や政治的支配のための技術として利用されることによって「システムによる生活世界の内的植民地化」を推進するという両義的性格をつねにもつことを、多面的に考察している。さらに著者は、以上の情報化を背景として、「人間機械論」とそれに反発する「人間狂気論」などの人間観が登場していることを批判的に分析する。

 第七章は、言語観において両極をなしているカッシーラーの「言語創造性説」とヴィトゲンシュタインの「言語模写説」とを検討して、それぞれの一面性をのり超え、両者を統合しようとする。カッシーラーにおいては、言語についての模写説が批判され、言語の創造性が主張されている。彼は、精神のあらゆる機能に共通するものをシンボル形式として特徴づけ、その代表的なものが言語であるとみなすのである。カントが感覚の多様を直観形式とカテゴリーによって秩序づけようとしたように、言語には、対象を秩序づける能動的・創造的機能があるというのが、カッシーラーの主張である。それにたいして、ヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』において、言語は事実の創造者ではなく、事実の模写であることを主張した。彼においては、それが可能である根拠が事実の論理形式と言語の論理形式との同一性にあるとされるとともに、対象(単一の事物)は名指されるだけであるから、その対象の結合であるとされる「事実」のみが模写されることになる。著者は、名指し、模写、論理形式などにかかわる問題を検討するなかで、言語の模写性と創造性とを統一させる必要を確認する。

 第八、九、一〇、一一章の四章は、労働と言語的コミュニケーションとの内的連関を重視する著者の立場から、認識論、文学論、教育論、環境哲学にアプローチしようとしたものである。とくに、第九章以下では、C・P・スノーが提起した「二つの文化」にも言及しながら、科学的文化と文学的文化との分裂の事態を労働と言語的コミュニケーションの統合によってのり超える方向が展望されている。

 第八章で考察されているのは、人間の認識活動一般である。この章では、ある問題を考察する場合に、対立する見解を批判的に吟味しながら、それぞれの肯定的側面を統合しつつ、自らの積極的な見解を提示しようとする著者の研究態度を根拠づける議論が展開されている。まず著者は、概念と意味との関係を問うことから議論をおこなう。「概念」はおもに認識活動にかかわり、「意味」は主として言語活動にかかわる。もちろん、両者は相互浸透しており、判然と区別されるものではないが、両者の微妙な性格の違いが見落とされてきたというのが、著者の問題提起である。著者は、バークレーやヘーゲルらに言及しながら、一般的表象には言語活動にかかわるシンボル的一般的表象(=言語的意味)と認識活動にかかわる抽象的一般的表象(=概念)とがあることを指摘したうえで、対象の真理性にかかわる認識活動が言語体系を通じて、いわば「共同体成員共通の『眼』」でもっておこなわれることを強調する。認識活動におけるこの「相互主観的諸前提」を重視する観点から、真理の基準も、「主体-客体関係における<対応>実現」と「主体-主体関係における<合意>実現」としての二つの契機をあわせもつものとしてとらえるべきことを提唱する。

 第九章の文学論は、作者と作品創造が、また読者と作品の関係が主体-客体関係であるとしても、その根底には、作者(主体)と読者(主体)との言語的コミュニーケションの観点があることを論じたものである。文学は、作者による作品創造の観点からすれば、作者の感情・情緒や価値意識の表現であるとともに、現実認識の表現でもある。著者は、文学を「意味の生産」や「自分」とかかわらせて論じている戸坂潤を参照にしつつ、作者が表現する文学言語は、「<自分>の観点より意味づけられた、個性的な一般的・共同的表象」にもとづいており、そのかぎりで言語的コミュニケーションを前提にしている、と主張する。また、読者が文学作品を読むことは、社会や生活について知識や情報を得るだけではなく、作者の主張や信念による行為的な働きを受け、感動や共感をとおして、作者の個性的人格に触れる点で、そこには、作者との間接的なコミュニケーションがあることが主張される。

 第一〇章の教育論は、教育活動を主体-客体関係である労働モデルでとらえようとしてきた一部の議論にたいして、主体-主体関係で教育を理解すべきであることを論じたものである。著者は、教師と生徒(学習者)との関係を主体-客体関係で理解する松浦良充や、「垂直的な<主体-主体関係>」としてとらえようとする池谷壽夫の所説に批判的に言及しながら、教師-生徒の関係は、知識(情報)伝達側面とともに、行為遂行(社会規範)的側面や交わり(人格共感)的側面をもあわせもった教育的コミュニケーションとして理解されるべきであると主張する。そのうえで、知識の伝達についても、主体-客体関係は教師と生徒とのあいだにあるのではなく、人類文化をわがものとしようとする生徒と人類文化とのあいだにあり、それを媒介にした知識の伝達としての主体(教師)-主体(生徒)関係が成立すると主張されている。

 第一一章の環境理論は、エコ文化的側面から労働とコミュニケーションの脱近代的なあり方を探ろうとしたものである。著者は、一方で、ハーバマスがコミュニケーション的視点から生活世界の再生産を問題にしていたのにたいして、エコ労働的視点をあらたに導入して、生活世界は労働的にも再生産されるものであることを主張する。そのさい、重視されるべきなのは、単に「目的合理性」にもとづく近代的労働ではなく、農業労働を中心に、「生態学的合理性」にもとづくエコ労働なのである。他方で、人間-自然関係を考察するさいには、コミュニケーション的視点の必要性が主張される。この視点は、人間と動植物とのあいだに成立するコミュニケーション的側面に注目するものであって、自然を擬人化することでも、自然を権利の主体としてとらえることでもない。著者は、ハーバマスの生活世界論の一面性やエコロジー思想の問題提起の検討をとおして、労働とコミュニケーションとの脱近代的なあり方にもとづく共同社会の実現の方向を展望しようとする。

 「補論」では、第六章にひきつづき、「情報化社会」や電子メディアにまつわる最先端のテーマについて果敢に取り組みがなされる。著者はそこで、ハーバマスやマルクス、さらにまたボルター、オングらの斬新な議論を交えつつ、印刷テキストを超える「ハイパーテキスト」、従来の文字の文化からの「声の文化」の回復などの議論を検討する。精神を記号体系に還元するようなボルターの見解を「精神の物象化」と批判しつつ、著者は、グローバル化したこの新しいコミュニケーション空間がエコロジー的な意識を忘れないかぎりで、個人と共同体の関係の形成に積極的に働く可能性を示唆している。なぜこの留保が必要かというと、ヴァーチャルな共同空間の創造は、それだけでは自然生態系の現実空間や身近な「地域コミュニティ」を忘却する虞れがあるからである。

  三 本論文の成果と問題点

 本論文の成果の第一は、その主張が依拠する知見の豊かさに存する。つまりそれは、人間の二大基本活動である労働と言語的コミュニケーションにかんして、とくにその両者の区別や関連という問題を展開するために、単に哲学のみならず、言語学、経済学、人類学、サル学、心理学、教育学、文学、情報化社会論など、驚くほど広範にかつ精力的に諸分野の知識を活用した点にある。このなかで著者は、その対話的姿勢をおおいに発揮し、現代社会に生きる人間のあり方と方向性を同様に幅広い視野で、説得的に提起することができた。

 成果の第二は、新しい理論的な問題構成の提起にかかわることである。つまりそれは、人間のあり方や社会形成について、労働をモデルとして考えようとする従来の傾向のなかで、労働と言語的コミュニケーションという二大活動を分析の視座にすえて、粘り強く理論展開した点にある。その展開を有効にしたのは、一方でハーバマスとの執拗なまでの批判的対話であり、他方で主体-客体の弁証法と主体-主体の弁証法などの理論的分析装置であるといえる。

 成果の第三は、その理論的生産性にかかわることである。つまりそれは、以上の問題意識と理論設定によって、著者は多方面の具体的分野にかかわる問題にたいし、新しい視点から光をあてた点にある。たとえばそれは、情報化社会、認識活動、文学、教育、環境などの多様な分野であって、著者の問題意識と理論構成がもつ射程距離の広さと有効性がここで十分に発揮されている。

 著者の理論的営みの問題点としてあげられるのは、まず第一に、ハーバマスに注目したあまり、それにやや影響されすぎた面があることで、主体-客体関係の労働と主体-主体関係の言語的コミュニケーションとは、さらに「システム」と「生活世界」とは、より複雑にからんだかたちで究明されるべきと考えられる。それから第二に、驚くほど広範な分野を紹介・検討したあまり、ともすると著者自身の体系的な展開が見えづらくなるという点である。しかし著者は、第一点についていえば、ハーバーマスについてその不十分性を正当にもしばしば指摘しているし、第二点にかんしては、著者の対話的姿勢はむしろおおいに評価されるべきものと思われる。

 上記の成果と問題点を踏まえ、審査委員会は、本論文の価値を積極的に評価し、尾関周二氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

1999年11月4日

 一九九九年一〇月一八日、学位論文提出者尾関周二氏の試験および学力認定をおこなった。
 試験においては、提出論文『言語的コミュニケーションと労働の弁証法』にもとづき、審査員から疑問点などにかんして逐一説明を求めたのにたいして、尾関周二氏は、全体として適切な説明をおこなった。また、本学学位規定四条二項の実施にかんする内規に従い、外国語の学力認定をおこなったが、尾関周二氏は、十分な外国語能力を備えていることを立証した。
 専攻学術について、審査員一同は、尾関周二氏が学位を授与されるのに必要な学力を有するものと認定した。

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