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博士論文審査要旨

論文題目:日本農村社会における協同関係の変容と展開 ― 高度経済成長気以降を中心に ―
著者:陸 麗君 (LU, Lijun)
論文審査委員:山本 武利、村田 光二、町村 敬志

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一.本論文の構成

 本論文は以下のように構成されている。

序章 高度経済成長期以降日本の農村社会研究の課題
  第一節 日本農村の社会関係をめぐる従来の研究
  第二節 協同関係の変容に関する視点:問題の設定

第・部 農業生産局面における協同関係とその変容
 第一章 地方都市近郊農村の「機械共同利用」をめぐる協同関係の展開
      -長野県松本市笹賀地区中二子集落の事例-
 第二章 水田単作農村における協同関係の展開とその諸問題
      -山形県東田川郡羽黒町細谷集落の事例-

第・部 農村生活局面における協同関係とその変容
 第三章 地方都市近郊農村の混住化と協同関係の変容
      -中二子集落の事例-
 第四章 東北地方水田単作農村における協同関係の変容
      -細谷集落の事例-
 第五章 個人を単位とする協同関係の出現
      -細谷集落における展開の様相を事例として-

終章 協同関係の変容過程とその現状

おわりに


二.本論文の要旨

 序章の第一節で筆者は、農村の社会関係をめぐる先行研究を三つの段階に分けて批判的に紹介・検討する。第一に社会関係の結合基盤を歴史的に把握しようとする立場として、有賀喜左衛門の「家連合」理論や鈴木榮太郎の「自然村」理論がある。両者は今も農村社会への基本的視点を提示し続けているものの、時代と対象の制約ゆえに、前者は家を越える村落レベルの社会関係を、また後者は村落内における家の自立性がもたらすダイナミクスを、それぞれ十分に対象化し得ていない。第二に、村落共同体を対象に「個」と「集団」の相克を描く系譜があり、それは「個」の自立に対する共同体の抑制的側面を強調する福武直らと、「個」の連帯の契機としての面を強調する共同体復権説(色川大吉ら)とに分けられる。両者は社会関係のダイナミクスを対象化しようとしているものの、それぞれ理想主義に走る傾向があり、現実に即した「個」と「共同性」の関係の変容を捉えきっていない。そして第三に、農村の社会関係の中核的基盤を実証的に明らかにしようとする研究があるが、これらは農業生産局面(細谷昂ら)、或いは農村生活局面(松岡昌則)を一方的に重視する傾向が強く、両者の相互関係の重要性が十分に捉えられていない。

 こうした問題整理に基づき、序章第二節において、本論文の分析枠組みが示される。ここで筆者はまず、鍵概念として「協同関係」を提示し、それを「個別的に充足できない農業生産・農村生活局面の共通課題を解決するために、形成される協力・連帯関係」と定義する。その上で、戦後日本農村の近代化過程において、農業生産・農村生活の両局面の共通課題が相互に関係し合いながらいかに変容を遂げたか、そしてこれら共通課題へ対処するための関係形成の基盤がいかに変化したか、この二つの問いを組み合わせながら、協同関係の変容段階に関する仮説を示す。第一段階「高拘束性の協同関係の存続」、第二段階「高拘束性の協同関係の衰退」、第三段階「低拘束性の協同関係の形成」の区別がその骨子である。そして以下では、農業生産・農村生活両局面の違いと相互の連関を踏まえながら、性格の異なる二地点を事例に、以上の仮説が克明に検証される。

 第・部は、一九六〇年代から現在にいたる生産面での協同関係の変化を二つの事例調査から解明しようとする。まず第一章は、長野県松本市笹賀地区中二子集落を対象とした調査結果である。地方中堅都市の近郊農村のこの集落には、同姓組の血縁、庚申信仰の講集団や隣組といった地縁の結合単位がある。一九六〇年代末までは、田植えを中心に稲刈り、苗代づくりなどで「ユイ」が実施されていた。同姓、近隣、友人関係などの単位の組合わせから成る「ユイ」は、金銭をともなわない労働力の協同・互恵的関係を基本としていた。

 ところが、一九七〇年代前半には、米の生産調整、工場の農村地域への進出などで、兼業農家が急増し、「ユイ」の実施が困難となった。代って動力田植機が普及し、機械の共同利用をめぐって協同関係が形成された。中二子では主として同姓関係で機械の共同購入がなされたため、部落全体の協同関係は弱まった。しかし高価な機械の購入、維持のために、そのグループ内では、「ユイ」におとらぬこまごまとした取りきめが必要であった。七〇年代後半になると、機械の個別所有化が顕著となり、機械利用の共同関係は弱まった。兼業化の一層の進行がその関係を崩壊させる最大の原因であった。

 一九八〇年代以降は、大型田植機の利用者組合が部落範囲で結成されている。この組合への参加は自由であるが、組合数は増加傾向にある。利用者は組合に金を払って派遣されたオペレーターに農作業を代行してもらう仕組みである。補助金制度と農業機械への過剰投資の回避がこの組合結成を促した。

 なお、米の生産調整以降、米以外の作物ごとの生産活動を支えるための「そ菜」部会とか「きのこ」部会といった各種部会が結成され、この機能集団が栽培技術や販売ルートなどで情報交換や研究を行っている側面も指摘されている。

 第二章は、山形県田川郡羽黒町細谷集落を対象とした調査結果である。庄内平野の東南に位置するこの集落は大規模水田単作の稲作集落である。ここでも血縁、地縁が結合単位である。一九六〇年代から七〇年代初頭にかけては、水稲集団栽培がなされていた。一九六三年の集団栽培実施以前は、田植え、稲刈りなど農繁期の人手不足の解消策として、主に臨時雇用の方法がとられていた。「ユイ」が実施されなかったのは、大規模経営であったためである。ところが農村に滞留していた二三男が流出して臨時雇用が難しくなった。そこで集落全体で労働力を調節する形で、集落ぐるみの共同田植えが一九六三年からはじまった。しかしこの協同関係は約二年で崩れ、一九七〇年代末にかけては、集落ぐるみの機械共同利用が展開された。これには農協の集団営農の指導が大きな役割を果たした。大型農業機械(トラクター)を部落単位で導入し、その資金は農協が貸付けた。営農集団の実行組合が協同関係の中核となった。一九八〇年代になると、通年の農外兼業がふえた。部落内企業としての建設業や鶴岡市の工業団地の発展が兼業先を提供した。そのため、共同利用が休日に集中し、メンバー間の競合状態が強まった。トラクターの共同利用が衰退し、代って小範囲の機械共同利用グループが形成された。そこでは、「気のあった友達」や親戚関係の協同関係が多かった。

 一九九〇年代に入ると、兼業農家が農作業を大規模専業農家に委託するケースが目立ってきた。高価なコンバインを購入するより、田植え、稲刈り、乾燥を委託した方が、投資効率がよいとの判断が生れたためである。さらには、経営の全面的な委託も、高齢化、後継者問題などから少数ながら現れている。受託する農家では、企業ビジネスの感覚で経営拡大を模索している。それでも大部分の農家は米価の推移や機械投資の回収など経営問題を勘案しながら、個別経営を続けている。

 第・部では、農村生活局面における協同関係とその変容過程が、各調査地の事例にもとづき詳述されている。

 第三章の第一節では、中二子集落での村落レベルの協同関係が、「町会」とよばれる自治組織の活動を通じて考察される。町会では伝統的に、田植え作業等の農業生産局面の活動の調整と同時に、親睦等の生活局面における活動もその基盤の上に実施されてきた。農業生産における協同関係が一九七〇年代初頭までに解体し、自治活動の中心は生活局面に移るが、非農家も包括した形でその内容は大きく変化した。その重要な例として「御岳講」の復活が挙げられている。この講は一九六一年を最後に消滅していたが、一九八五年に復活されたものでる。筆者はこの復活に、協同関係の喪失と連帯感の希薄化に対する反作用の意識を読みとっている。また、復活された内容は伝統的なものから変化しており、異質な生活スタイルと分散化した利害関心を許容した上で主体的に結成された協同関係であると論じている。

 第二節では婚姻・葬送にまつわる儀式および慣行を通じて、家レベルの協同関係が考察されている。中二子集落ではこれらの協同関係が血縁にもとづくのみならず、地縁的結合にもとづくことが特徴であった。婚姻における伝統的な慣行は一九六〇年代から次第に衰退し、農家間の協同関係としての意味が希薄化した。他方、葬送での儀式と慣行は、現代に至るまでかなり伝統的な形式が維持されていることが紹介される。

 第四章の第一節では、「部落会」と呼ばれる細谷集落の自治会組織とその活動について考察される。一九七〇年代初頭までこの部落自治会は、水源管理、共同田植え、基盤整備事業等の農業生産局面においても、部落内相互扶助、衛生・道路等の生活環境整備、神社祭典の実施等の農村生活局面においても広範な活動を実施してきた。しかし、一九七〇年代を通じて自治会活動は生活局面のみに限定されていく。この時期には、自治会活動への参加の衰退が問題となり対策が講じられたが、その傾向は結局止められなかった。けれども一九八〇年代にはいると、新たな協同の契機を求める自治会活動が活発になってきた。それは、青少年の育成活動、「挨拶運動」と呼ばれる親睦活動、注連縄作り等の集落伝統の継承活動である。

 第二節では全戸共同参加の活動について考察される。まず、神社関連の行事・祭典が衰退してきたことが紹介される。次に、一戸一人の出役が義務づけられている三つの共同作業(水路掃除、農道の草刈り、神社・寺の雪囲いとその除去作業)が、実施しやすい形式に変化しながら持続していることが紹介される。また、共有林の手入れ等の人足作業も、出役できない場合は出不足金の支払いによって作業を免除可能であるが、協同関係を維持する形で持続している。これらは農業生産、農村生活に必要不可欠な協同関係だと論じられる。しかし、集落共同参加のスポーツ活動は衰退し、娯楽・親睦における協同関係は形骸化しているという。

 第三節では、全戸参加の四つの講と、資格を満たす者が自動的に参加する必要のある四つの講が考察される。これらの講における協同関係も、農家を取り巻く社会環境の変化を背景として、葬式の協力組織としての講集団をのぞいては、いずれも衰退傾向にある。葬式で活動する講には、六〇歳以上の者が参加する念仏講と、四〇代後半からの女性が参加する観音講がある。

 第四節では、婚姻・葬送にまつわる儀式および慣行を通じて、細谷集落における家レベルの協同関係が考察されている。ここでは血縁にもとづいて協同関係が成り立っていることが特徴であるが、婚姻における伝統的な慣行は一九七〇年代から次第に衰退しているという。他方葬送における儀式と協力慣行は、伝統的な形式がよく維持されていることが紹介される。

 第・部の最後の第五章では、血縁を基盤とする同族的結合が強かった東北農村の細谷集落を事例として、個人を単位とする協同関係の動態について紹介され、その意義が論じられている。ここでは本人の意思に関わらず自動的に参加させられる官製的集団(フォーマルな集団)の活動が衰退するが、自発的な仲間集団(インフォーマルな集団)の活動が活発化してきたことが示されている。

 第一節では官製的集団活動の停滞・衰退が、青年団、婦人会、老人クラブの順に考察される。一九六〇年代には活発に活動した青年団も、一九七〇年代には衰退し、一九七九年に消滅した。八名定員の消防団が現在でも活動している唯一のフォーマルな若い世代の組織であるという。婦人会も一九七〇年代後半以降衰退し、一九九二年に解散した。他方、老人クラブは、六〇歳代前半の相対的に「若い」会員の加入率の低下を問題として抱えながらも、社会奉仕、異世代交流、伝承活動を活動の柱にして、それなりに活動を続けている。

 第二節では趣味・関心を中心に自発的に形成されたインフォーマルな集団活動が、スポーツ・遊び、習い事、親睦・交流、農業関連、ボランティア活動の五つの内容領域ごとに紹介されている。それらの特徴は、地域的に細谷集落を超えており、羽黒町の範囲を超えている活動に参加する者もいること、夫婦、家族ぐるみの参加もあることなどである。最後では一人暮らしの老人の援助を目的としたボランティア活動集団が紹介されている。こういった活動はまだ少数であるが、地域福祉におけるボランティア型の協同関係は今後ますます重要になるだろうと論じられている。

 終章で筆者は、二つの地区の事例を全国的な変化動向のなかに位置づけながら、序章で示した仮説を集約的に検証している。第一に筆者は、従来の通説とは異なり、戦後日本農村の経験した大きな社会変動にもかかわらず一九七〇年代初頭までは、高拘束性の協同関係が農業生産・農村生活の両面において基本的に残存していたとする。

 この段階において「個」は依然として「集団」に強く従属していた。しかし第二に、高拘束性の協同関係の衰退は農村生活局面においてまず始まり、やがてそれは一九七〇年代初頭以降、農村の全体へと広がっていく。「集団」(村落)に依存していた「個」(家)が解き放たれていく過程がこれにあたる。第三に、一九七〇年代後半以降、兼業化の深化にともない、協同関係の衰退は農業生産局面にまで及ぶ。「個」(家、個人)の利害関心が肥大化するにつれ、「集団」としての村落への関心は薄れ、農村社会維持にとって危機的状況が生み出される。そして第四に、一九八〇年代以降、過剰投資や後継者問題、農村混住化、高齢化の進行にともなって、協同関係には再構築の動きがみられるようになる。ただしそれは単なる過去の「高拘束性の協同関係」への回帰ではなく、「個」の選択可能性を前提としたいわば「低拘束性の協同関係」への強い志向と解釈できる。


三.本論文の成果と問題点

 筆者は中国で送った学部、修士時代に、中国農村部で生産、生活、意識などの調査をたびたび行った。そして、中国と日本の農村の近代化と社会関係、社会の意識比較分析を生涯のテーマに選び、八年前に来日して以来、日本の農村調査に一貫して取り組んできた。本論文はこの長年にわたる研究の成果である。

 本論文のまず第一の成果は、農村のミクロな協同関係の把握である。調査対象地域へのたび重なる訪問によって、多数の農民へのインテンシブなインタビュー調査の積み重ね、メモ、日誌類の収集などを行った。これらの証言、証拠をつき合わせることによって、共通点や相違点を洗い出した。さらに役所の公文書、公民館、農協などの広報紙誌や郷土史のなかから協同関係の事項を拾い出した。こうした重層的な調査方法で、微細かつ複雑な協同関係の仕組みとその変遷を客観的に捉えた。もちろん農業政策や農業所得、農業技術などのマクロな資料への目配りとそのミクロなデータとの関連づけも忘れてはいない。

 協同関係を生産、生活の両局面で有機的に捉えた点も、本論文の大きな成果である。筆者が序章の研究史で述べているように、現在の実証的な農村調査でも、両局面を立体的に分析した研究は皆無に近い。本論文は、とかく中国や東南アジアの調査に傾きつつある日本学界の農村調査研究にとって、貴重な業績となろう。

 さらに協同関係という鍵概念を取り入れ、それを「拘束性」という概念と掛け合わせて、集団と個人の関係の変遷を把握せんとした点もユニークである。そして集団からの個の分離、個の肥大化、個と集団の調和というプロセスが日本の高度経済成長期に見られるとの結論に到達した。

 しかし本論文にもいくつかの問題点がある。協同関係や拘束性という概念は興味深いが、それだけで農村の近代化の全プロセスが説明しきれるかどうか疑問である。個の折出といっても、心理的なものか、社会的なものか具体像がはっきりしない。集団から家が離れ、その後に家から個が離れるというプロセスのモデルは図式的すぎる。拘束性を定める規約や習律といったものの事例が、本論文により多く引用されれば、説得力が加わったであろう。また個人的な怨念や地主・小作関係にまつわる部落歴史の暗部に対する記述が欠けている点も物足りない。さらに二つの地域でもって日本農村を代表できるかも問題である。

 こうした問題点の解消は今後の筆者の課題である。実際、過疎地域や大都市農家の調査が欠けていると筆者は認識しており、今後の追加調査が待たれる。またこの調査方法を使って、長年念願としていた中国農村調査を筆者は行いたいと述べている。その際、今回の方法の有効性やモデルの普遍性あるいは特殊性をぜひとも検証して欲しい。


四.結論

 審査員一同は、上記の評価に基づき、陸麗君氏に対し一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

1997年5月8日

平成九年四月二十三日、学位論文提出者 陸 麗君 氏の論文および関連分野についての試験を行った。
 試験において、提出論文「日本農村社会における協同関係の変容と展開 -高度経済成長期以降を中心に-」に基づき、審査員一同から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、陸麗君氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は陸麗君氏が学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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