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博士論文審査要旨

論文題目:戦後日本社会における「沖縄問題」の変遷
著者:小野 百合子 (ONO, Yuriko)
論文審査委員:吉田 裕、多田 治、田中 拓道、マイク モラスキー

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一、本論文の構成

 本論文は、戦後日本(本土)社会において展開されてきた「沖縄問題」をめぐる主張や運動の変遷を通時的かつ実証的に明らかにし、その特徴を考察することを通じて、戦後社会運動史の再検討を試みたものである。本論文の構成は、次の通りである。

序章
第1章 日本青年団協議会による「沖縄返還運動」
第2章 沖縄軍用地問題のインパクト
第3章 60年安保闘争と「沖縄問題」
第4章 「沖縄デー」のはじまり
第5章 「沖縄返還運動」の分裂
第6章 「沖縄返還運動」の収束
終章

二、本論文の概要

 序章では、研究史の整理が行われ本論の分析視角が示される。筆者はまず、沖縄戦後史研究や日米(沖)関係史研究の進展に比較して、「沖縄問題」をめぐる本土側の動向を通時的かつ実証的に明らかにする作業が積み残されたままとなっている事実を指摘する。比較的研究の厚い1960年代後半期の「沖縄返還運動」の歴史的意義を論じる際にも、戦後日本社会における「沖縄問題」をめぐる動向の通時的な見取り図を描き、その延長線上に60年代後半期を位置づけ直すことが重要だとする。
そのうえで、本論文の分析視角として次の三点が提示される。第一は、沖縄返還要求が常に掲げられていたにもかかわらず、運動が総じて低調に推移してきた状況を問題化するためには、スローガンとしてだけではなく、実際の実践を伴って「沖縄問題」に取り組んできた主体を時系列で追跡し、その性格の推移を明らかにすることである。第二には、「沖縄問題」に対して示される世論の内実を検討し、とりわけ、戦後日本の平和運動の中で、高度に軍事化された沖縄の返還要求がどのように位置付けられていたかを通時的に検討することである。第三は、「沖縄問題」をめぐる論議が日本政府の対沖縄政策への対応として、たちあらわれる側面を重視し、運動と日本政府の対沖縄政策との連関に注意を払うことである。
 第1章では、日本青年団協議会(日青協)による「沖縄返還運動」を中心に、1950年代半ばまでの日本社会における「沖縄問題」の位相が検討される。日沖間の人や情報の往来が著しく制限されていたなかにあって、復帰を訴える沖縄青年の生の声を耳にする機会を有していた日青協は、「日本人」として戦争を戦い、多くの犠牲者を出した沖縄住民の訴えに応えるのは、「日本人」としての当然の「義務」であるという論理で「沖縄返還運動」を展開し拡大していった。その運動は、人権擁護の観点から展開されたものであり、沖縄に対する米軍統治の是非を問うものではなかったが、この点は、1950年代半ばの日本社会において「沖縄問題」が扱われる際に共通してみられる特徴であった。
当時の日本社会の中にあって、アジア・太平洋戦争をともに戦った「同胞」である沖縄住民の復帰要求に応えようという訴えは、日青協団員にとっても、地域住民にとっても容易に共鳴しうるものであった。他方、沖縄に対する米軍統治や軍事基地化の問題に話題が及ぶと、地域社会から「アカ」、「左翼」といった拒絶反応が示されたこともあって、団員たちの中には、そうした問題を意識的に避ける傾向が生じた。1950年代半ばの時期に先駆的に展開された日青協の「沖縄返還運動」は、人道的観点に立脚することで一定の広がりを持ちえたのである。
第2章では、沖縄の情勢がほとんど知られていないという状況を大きく転換させた1956年夏の沖縄軍用地問題(島ぐるみ闘争)が日本社会に与えたインパクトが検証される。具体的には、全国各地で開かれた沖縄軍用地問題の解決を求める大会が分析され、地域社会においても、沖縄出身者の存在の可視化や、沖縄出身者のイニシアチブがない場合でも「沖縄問題」を認識する契機がもたらされたとする。
次に、沖縄軍用地問題が広範な反響を巻き起こした背景と要因が、各紙の社説や投書を素材として分析され、米軍による強制的な土地接収という体験(記憶)の共通性、日ソ交渉を背景とした領土問題への関心のたかまり、沖縄戦における住民犠牲への同情が、沖縄軍用地問題に対する大きな反響の基盤にあったことが明らかにされる。また、沖縄軍用地問題のインパクトとして、本土の平和運動が「沖縄問題」を視野に収めはじめた点が挙げられ、本土の平和運動と沖縄住民の闘いを一体のものとみなし、日米軍事同盟に反対する立場から、沖縄返還を主張する論理が登場したことが指摘される。1950年代半ばの日本社会には、沖縄の状況を自らが置かれた状況との共通性においてとらえる枠組みが存在しており、このことが沖縄軍用地問題への広範な反響を呼び起した大きな要因となったのである。
続く第3章は、1950年代後半の日本社会における「沖縄問題」の位相と、60年安保闘争における沖縄の位置づけをめぐる考察に当てられる。まず、筆者は、第2章での検討を踏まえて、60年安保闘争から「沖縄問題」が抜け落ちてしまった理由を、日本社会側の「沖縄問題」認識の希薄さに求める従来の解釈に再考を迫る。そして、こうした理解に代え、次ぎの2点を指摘する。一つは日本本土の在日米軍基地の移転縮小と沖縄への集中という在日米軍をめぐる日沖間の情勢の分岐である。もう一つは、日米安保条約改定論議を通じて沖縄がアメリカの軍事戦略の要に位置する事実が認識されるようになり、そのことが戦争に巻きこまれることを拒否する平和意識と結びついて、60年安保闘争から「沖縄問題」を後景化させる要因となったとする。すなわち、沖縄軍用地問題を契機に成立した沖縄と本土の運動を一体のものとみる視角は、1950年代後半に沖縄への基地の集約化が進んで行く事態を問題化しえず、安保闘争においても沖縄現地の高度な軍事化に抗する具体的な行動は組織されなかったのである。
次に考察されるのが、安保闘争と「沖縄問題」とが「結合」していたかどうかという点をめぐって評価がわかれてきた、1960年1月に沖縄返還要求を掲げて鹿児島で開かれた沖縄返還要求大会と、第1回沖縄行進の問題である。両取り組みの実施経緯が詳細に検討された結果、鹿児島大会の発端は、沖縄における米軍のナイキ・ミサイル発射演習によって直接の被害を受ける鹿児島・宮崎の漁民たちを中心とする抗議行動にあったことが明らかにされる。また、第1回沖縄行進は、「沖縄問題」を訴えることで安保闘争の盛り上がりをはかろうとするグループによって提唱されたが、沖縄における台風被害の救援運動と一体化しながら行われたことで、幅広い層からの支持を獲得することができた。こうして、「安保闘争」総体から「沖縄問題」が後景化する一方で、沖縄返還要求を掲げた鹿児島大会と第1回沖縄行進が大きな支持を得るという複雑な状況が生じていたのである。
 第4章では、1960年代前半期の日本社会における「沖縄問題」の動向が検討される。この時期、日本社会における「沖縄問題」への関心は総じて低調であり、『朝日新聞』の沖縄関係社説の検討から、その論調も、沖縄の早期返還ではなく、沖縄社会の経済的安定を求めるものであったことが示される。そのうえで、1960年代前半のこうした動向は、「沖縄問題」を争点化させないようにする日米両政府の方針が貫徹される間接的要因となったこと、また、軍事化された沖縄の存在が日本本土の既存の「平和」を脅かすとすれば、沖縄の非軍事化をどのように進めたらいいのかという論点が追究されないまま棚上げにされたことが、1960年代後半の日米両政府の沖縄返還構想の枠組みに運動の側が容易に巻き込まれる背景となったことが明らかにされる。
次に、1962年および63年の「沖縄デー」の取り組みが、担い手と運動の論理の変遷、および周囲からの反応に着目しながら分析される。その結果、1960年代前半には、「沖縄問題」を日米安保体制の打破という政治課題と一体のものととらえるグループと、第1章で検討した「沖縄問題」を非政治的文脈に位置づける団体とが並存しており、前者のイニシアチブが増しつつも、両者が排除しあうことなく協働していたことが明らかにされる。
第5章では、佐藤栄作首相の登場によって、日本政府の対沖縄政策が本格化しはじめる1960年代半ばの動向が分析される。まず、1964年に二つの海上大会が開かれて以降、「沖縄返還運動」が二つに分裂して展開されるようになるが、その背景として、ベトナム戦争の拡大や日韓会談の再開といった情勢が、総評に「沖縄問題」の重大性を認識させた結果、総評を擁する沖縄連の取り組みが活性化されたことが明らかにされる。それまでの「沖縄デ-」の取り組みを牽引していた共産党系の組織に対して、沖縄連が別個の運動を組織しはじめ、沖縄連内部においても日青協や沖縄県人会といった団体に対し総評が存在感を増すことになったのである。
 また、この時期には、保守派から、日米軍事同盟の維持と沖縄の施政権返還とを両立させようとする具体的な沖縄返還構想が打ち出される。他方で、佐藤首相の訪沖などを機に沖縄返還を「国民的悲願」とみなす世論が急速に高まり、分裂したまま展開される革新運動団体による「沖縄返還運動」は、「国民運動」に党派の利害を持ちこむという批判を受け、そうした運動に参画しえない、より広範な層の結集を目指す新たな動きが顕在化してくることになった。
第6章は、日米両政府の沖縄返還政策が打ち出される1960年代後半期の運動の分析である。この時期にいたるまで具体的な沖縄返還論議を欠いてきた『朝日新聞』は、1967年秋の日米交渉の開始を前にして、初めて沖縄基地の様態を「本土なみ」にすべきだという主張を展開しはじめるが、日米安保体制の存続を前提とするその主張は、日米軍事同盟の再編強化を目指す日米両政府の構想に巻き込まれたものであった。また、沖縄返還が「国民的悲願」として語られるなかにあって、安保条約の廃棄による沖縄返還を要求する革新運動団体の主張は現実性を持ちえず、また、軍事基地の存在自体に批判の目を向けはじめた沖縄現地の運動に実質的な連帯をなしえなかった。このことは、心情的な位相においては「沖縄問題」への共感や同情が広範に存在していた一方で、日本本土の既存の「平和」を保持するために沖縄の軍事化の実態を黙認してきた、換言すれば、沖縄の非軍事化を求める作業を棚上げにし続けてきた、1960年代半ばまでの日本社会における「沖縄問題」認識/運動の問題性の反映であった。
 最後に終章では、日本社会における「沖縄問題」認識が徐々に「前進」した結果として沖縄返還が勝ち取られたのだとする発展論的な図式の見直しや、戦争に巻き込まれたくないという本土側の「平和」意識が沖縄の分離統治と軍事化を黙認してきたという観点から戦後社会運動史を問い直すことの必要性が提起されている。

三、 成果と問題点

 本論文の成果は次の通りである。第一には、戦後日本社会で展開された「沖縄問題」にかかわる社会運動の実態と特質を、通時的・実証的にとらえることによって、「沖縄問題」が政治的・軍事的に焦点化された時期に、本土の社会運動の側がどのように対応したのか、という分析に傾きがちであった従来の研究の限界を克服したことである。通時的にみることによって、筆者は、1960年安保闘争における「沖縄問題」の後景化、1960年代前半の「返還運動」の低調さ、1960年代後半の「返還運動」の一過性といった問題の背景を具体的に明らかにしている。この点の分析は説得的である
 第二には、「革新国民運動」だけでなく、多様な運動主体が存在したことに着目し、その運動の実態を、中央だけでなく、地方における運動にまで目を配って、丁寧に分析していることがあげられる。そのことによって、本土の運動のもつ限界と同時に、その広がりや厚みをも明らかにしている。特に本土の側に、かなり一方的なものであったにせよ、沖縄の民衆に対する同情や共感が存在したことは重要である。第三に、運動の分析にあたっては、「戦争の記憶」や「土地収用の記憶」の問題などが大きな役割を果たしていることを一貫して重視し、生活者・生産者の論理との関わりで運動の展開過程を分析していることも評価に値する。
 しかし、本論文に様々な問題がはらまれているのも事実である。第一には、通史的叙述におちいりがちな傾向があることである。メディア分析なども新聞の社説の分析にとどまっており、歴史的事実を踏まえた上で、もう少し大胆な問題提起があってもよかったのではないか。また、通時的分析という以上、戦前の歴史との関係性についても、さらに掘り下げて考えてみる必要がある。
第二には、社会運動それ自体の分析にとどまり、アメリカや自民党に対する運動の影響力の分析が弱いことである。政治的機会構造論や資源動員論などの理論を参照することで、運動の動員力や影響をより説得的に分析できたのではないか。社会運動の分析枠組みについても理論的な再検討が必要だろう。第三には、本土の運動の通時的分析にこだわりぬくことによって新たにみえてきたことがある反面、「沖縄からの視点」がやや後景に退いた感があるのは否めない。
 しかし、これらの問題点は、本論文の学術的価値を損うものではないし、筆者自身、そうした問題点を明確に自覚し、今後の課題を明確に設定している。筆者の研究の今後のさらなる発展に期待したい。

最終試験の結果の要旨

2012年7月11日

 2012年6月12日、学位請求論文提出者・小野百合子の論文についての最終試験を行った。
本試験において、審査委員が、提出論文「戦後日本社会における『沖縄問題』の変遷」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、小野百合子氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、小野百合子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有する者と認定した。

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