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博士論文審査要旨

論文題目:基地と民衆の近現代史 ―法制度と民衆運動―
著者:松田 圭介 (MATSUDA, Keisuke)
論文審査委員:吉田 裕、中野 聡、中北 浩爾、岡崎 彰

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一、 本論文の構成

 本論文は、軍用地・軍事基地に関わる国家と民衆との関係に着目し、戦前・戦後を通じた軍用地確保政策の推移及び1950年代を中心にした基地に関わる民衆運動を分析することによって、近現代日本における基地と民衆の関係性を歴史的に描こうとした実証的研究である。本論文の構成は、次の通りである。

序論

第Ⅰ部 土地収用の法制度の変遷と地域社会

第一章 戦前期の土地収用法制と地域社会
第二章 占領初期の土地接収と戦時国際法
第三章 占領後期から講和後の土地収用法制

第Ⅱ部 基地に関わる戦後民衆運動の展開―1950年代を中心に―

第一章 長野・軽井沢における浅間山米軍演習地化反対運動
第二章 長野・有明における自衛隊演習地化問題
第三章 東京・砂川における反基地闘争と沖縄

結論

二、 本論文の概要

 第Ⅰ部第一章は、戦前期における土地収用法制の整備過程と地域社会の対応の分析である。戦前においては、公共用途のための土地収用は明治初期から計画され、そして、明治憲法においては「土地所有権は国権の下位にある」と規定された。このような国権と私権との関係が定められる中、国防・兵事に関する収用については、1889年制定の土地収用法が明確に規定することとなり、ここに、軍事目的の土地収用法制が登場したのである。しかし、第一次大戦前の時期における実際の土地確保政策は、必ずしも土地収用法の適用による強制収用に依存したわけではなかった。明治初期から日清戦争後までは、官有地を軍用地に充てることに加え、買収・寄付(献納)による取得が土地確保の中心だった。さらに日露戦後から第一次大戦前までは、ナショナリズムの高揚を背景にして、買収・寄付(献納)の多さが目立つようになる。これに対して、第一次大戦後は一転して、収用件数の多さと寄付(献納)の減少がみられるようになる。これには、大正デモクラシーを経験した人々の反軍感情・軍縮気運が影響していたといえる。しかし、昭和期に入ると、徐々に強権的な土地確保が行われようになった。総力戦の遂行のために、法制度も、より容易に軍用地を確保できるようなものに整備されていったのである。
 第Ⅰ部第二章は、アジア・太平洋戦争後の占領初期における土地接収の法的根拠についての分析である。戦後、本土においては、旧軍用施設の占拠だけでなく民有不動産の接収により占領軍基地が形成されていった。その際に問題となったのは、民有不動産の接収の根拠付けと、占領軍が敵国財産に対して有する権利を規定している戦時国際法との関係である。一般に、戦時国際法上で占領軍が敵国財産に対して有する権利として規定されているのは、1907年に調印されたハーグの「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」の第三款「敵国ノ領土ニ於ケル軍ノ権力」である。この点に関する国際法学者の解釈は、「軍事上必要なときは徴発も可能」ではあるが、原則的には「私有地を尊重すること」、「私有地の没収は不可」というものであった。しかし、このハーグ陸戦法規がそのまま日本占領に適用されれば、法的には占領軍の用に供する民有地の確保が困難になる。この矛盾を解決するために、日本政府が採用したのが、民有地に関しては、建前としては日本政府と土地所有者との間で「自由意思」による契約を結び、その上で政府が土地使用権を占領軍に提供するという方策だった。つまり、ハーグ陸戦法規の適用を認めた上で、占領軍への土地の所有権の移転は認めず、使用権のみを認めるという便法である。
 第Ⅰ部第三章は、占領後期から講和後の土地収用法制の整備過程を分析したものである。1951年に制定された新土地収用法は、戦前における旧土地収用法がその対象事業の筆頭に掲げていた軍事目的の土地収用を否定した。この点、明らかに、日本国憲法第9条の影響を認めることができる。しかし、再軍備が進む中、政府による法解釈の変更によって、自衛隊が必要とする土地についても、新土地収用法が適用できる余地が生じていった。また、新土地収用法では講和後の駐留米軍(明らかな軍隊である)の要求を充足することが不可能なため、あらたに土地特別措置法が制定されることになった。この土地特別措置法は、あくまで米軍による土地の「使用権」を認めるものであり、その使用も建前上は、あくまで臨時的なものであるとした。この点は、第Ⅰ部第二章で論じた、占領軍への土地の所有権の移転を認めず、使用権のみを認めるという占領期の日本政府の姿勢と同様のものであった。この土地特別措置法は、アメリカの要求する土地等を軍用に供するものであり、理念的には新土地収用法とは相容れないものであった。
 第Ⅱ部第一章は、長野県軽井沢町における浅間山米軍演習地化反対運動の分析である。反対運動の起点は、軽井沢町に作られた「演習地化反対全町協議会」であった。この全町協議会は町当局や町議会も含む、軽井沢唯一かつ最大の協議機関であった。その他、長野県評などの労働組合や教組、婦人団体などといった様々な団体が反対運動に参加することとなった。とはいえ、実際には、必ずしも当初から一致団結した運動が一貫して推進されたわけではなかった。そこには、町当局・町議会にとっての「観光・経済問題に関わるもの」としての風紀問題、全町協議会にとっての風紀・農地取りあげ問題、教組・婦人団体にとっての教育・風紀問題というように、「パンパン」の増加に対する危惧や反発を基盤にしながらも、団体によって、反対理由に様々な相違もあった。しかし、それぞれの運動の担い手の目標が、「長野を守る」ために浅間演習地化に反対するという一点に集約されることで、東大地震研究所の反対を追い風としながら、運動は一致団結したものとして発展していった。このように、「郷土愛」が「反対の論理」の柱だったのである。そして、その運動が成功に終わると、隣県の群馬における演習地計画反対運動との連携をめぐって対立が生じ、運動の「縮小」という事態を迎える。これは、いわば、運動の目標が「浅間演習地化反対」の一点に集約されたがために起こったものであった。さらにいえば、このことは、浅間山演習地反対運動が、安保条約・行政協定の目的である「全土基地化」を阻止するという方向には向かわなかったことを意味していた。
第Ⅱ部第二章は、長野県有明村における自衛隊演習地化計画に関わる長野県当局及び長野県民の対応の分析である。この有明のケースでは、人々の対応は複雑なものとなった。戦前は、松本市・有明村ともに、旧陸軍の駐屯地・演習場の設置を積極的に受け入れていた点で共通していた。軍隊に対する信頼と同時に受入に伴う経済的波及効果があったからである。戦後、松本市はその歴史的経験から警察予備隊の駐屯を招致する。一方、戦後開拓が行われていた有明村では演習場設置計画に対する反応が分岐した。村の賛成派は開拓者のうち旧軍人を中心にしたグループであり、反対派はその他の開拓者・耕作者、有明村長、議会などであった。その有明村において、賛成派幹部が用いた論理が、「買収に協力しないものは非国民」というものであった。ここには、単なる「国家の要請」ということからではなく、「自国軍」という「ナショナルなもの」であるからこそ受け入れるべきだという論理が透けてみえる。一方、村内の反対派、特に開拓者は、一貫して生活権擁護を訴えた。さらに1954年2月の反対期成同盟会委員長談話にあるように、軍部が大きな権力をふるった戦前の経験から反対するという姿勢がみえる。このように、戦前の経験が、村内の賛成派と反対派とでは真逆の形で現れていたのである。とはいえ、その反対派は、県評との共闘体制の中でも、「再軍備反対」という姿勢は明示的には示さなかった。したがって、村内反対派の反対の論理は、その意味で、「ナショナルなもの」(警察予備隊・保安隊・自衛隊)それ自体に対して反対するというものではなく、あくまで生活権の擁護にあり、さらに、その背景にあったのは、自分たちの開拓地を守るという愛着心であり、「郷土愛」であった。
 第Ⅱ部第三章は、東京都砂川町における反基地闘争と沖縄問題との関連についての分析である。砂川の反対運動においては、原水爆禁止運動との関係性も見いだすことができ、より発展した運動の論理が現われるようになっていた。また、当初砂川町の人々の心を捉えていたのは土地への素朴な愛着心であったが、運動の進展の中で次第に憲法の理念も体得されていった。そして、それに加え、「日本の平和と独立」を希求するために基地拡張に反対するというように反対の論理に発展性がみられたのである。さらに、「日本の平和と独立」を求める運動が全世界の平和と独立を求める運動と共通性を持っていたことを、運動の担い手たちは認識してもいた。ここで重要なのは、それでもなお、「反対の論理」の支柱であり続けたのが「郷土愛」であったことである。1955年6月18日の町民大会決議には郷土が分断されることへの危機感が表明されている。さらには、7月24日の声明「全町民に訴える」では生活権擁護や財産所有権保護といった憲法の理念が加えられつつも、そのベースにあるものは、「郷土砂川町」を子孫に伝える責任があるという「郷土愛」だった。そして8月20日の共闘会議の決議でも「日本の平和と独立を守る尊い郷土愛」が強調され、1956年10月3日の支援協主催の総決起集会での決議でも「郷土愛」の存在が第一に主張されていた。当時の日本社会には反米感情が確かにあり、「反米ナショナリズム」的機運も根強かった。しかし、実際の闘争において人々をつき動かしていた根源的なものは、自らと帰属する国家との関係を鋭く突き詰めるような「ナショナリズム」ではなく、「郷土愛」であったのである。一方で、このような本土側での基地反対運動は、本土に比べると極めて乱暴なやり方で土地接収が行われていた沖縄とも一時は連帯しようとした。しかし、連帯の動きは長くは続かなかった。本土側は、結局は、真剣には沖縄や東アジアの反基地闘争に目を向けていなかったといえる。「郷土愛」に主に支えられていたがゆえに、シヴィック・ナショナリズムやエスニック・ナショナリズムに簡単には回収されない反面で、「郷土」を越えた他の地域には目を閉ざし、その結果、連帯の芽が摘まれてしまうというような事態がもたらされたのである。

三、 成果と問題点

 本論文の第一の成果は、戦前・戦後という極めて長いスパンで、軍用地取得のための法制度の整備・運用過程を実証的に分析することによって、軍用地取得システムの連続性と断絶性を具体的に明らかにしたことである。国有地の場合、旧日本軍の軍用地・軍用施設を占領期に米軍が接収して基地とし、講和後は駐留米軍がその基地を継続使用している。民有地の場合は、戦前は強権的な土地収用を可能とする旧土地収用法が存在していた。戦後は、軍事目的のための土地の収用は理念上否定されたが、土地特別措置法の制定によって、在日米軍のための土地収用を可能にする仕組みが新たにつくられことになった。帝国陸海軍、在日米軍という使用主体の違いはあるものの、軍事目的のための土地収用を可能とする法制度という面では連続性がみられるのである。他方、断絶性という面では、新土地収用法の制定が大きな意味を持った。新土地収用法の拡大解釈の余地は残されていたものの、実際には新土地収用法による自衛隊用地の確保は困難だった。このため、買収による新規用地の取得を別にすれば、自衛隊基地の確保は、米軍との共同使用、あるいは返還された米軍基地の使用などの形をとらざるを得なかったのである。
 第二には、戦後の日本では、日本国憲法の理念に基づいて制定された新土地収用法によって、軍事目的のための土地取得が大きく制限されたことを明らかにしたことである。もちろん、米軍のためには、土地特別措置法が存在したが、同法に基づく強権発動は、日本政府の対米従属性を浮き彫りにしただけでなく、強い反米感情をひきおこすことにもなった。また、土地収用法の拡大解釈による強権発動は、直ちに憲法問題を惹起せざるをえない。そのことは、別の角度からみれば、本論文が基地反対闘争拡大の要因を法的側面から明らかにしたことを意味している。
 第三には、1950年代における反基地闘争拡大の背景にあったのは単なる反米ナショナリズムではなく、「郷土愛」ともよぶべき民衆意識であったことを、反対闘争の実態に即して明らかにしたことである。同時に、それは、様々なナショナリズムに直ちに回収されてしまうものでは決してなかったが、人々の視線を「郷土」の内側に閉じ込めてしまう点で、米軍のグローバルな展開に対する沖縄やアジア各地の闘争を、人々の視野の外においやる限界を合わせ持っていたのである。
 しかしながら、いくつかの問題点も指摘しなければならない。第一には、第Ⅰ部と第Ⅱの関係性がかならずしも明確ではないことである。具体的に言えば、第Ⅰ部における法制度の分析が第Ⅱ部で展開されている個々の基地問題をめぐる論考の中に十分生かされていないことが指摘できる。第二に、国際法と基地の問題の関係に注目したところは、本論文のユニークなところではあるが、本論文で採り上げられている国際法上の様々な議論には、占領地において民有地の収用が可能かどうかという次元の問題と、日本占領の性格や特質をどう評価するかという次元の問題とが混在しており、その腑分けが不十分である。第三に郷土愛や土地に対する愛着心が運動の中で大きな役割を果たしていることはよく理解できるが、「郷土愛」については、もう少し掘り下げた分析が必要である。第三に、米軍のグローバルな軍事戦略を考えるならば、フイリピンなどの基地問題との比較研究も必要になるし、米軍関係史料の調査も必要となるだろう。とはいえ、こうした問題点は筆者自身もよく認識し自らの課題としているところであって、筆者の研究の今後のいっそうの発展に期待したいと思う。

最終試験の結果の要旨

2012年7月11日

 2012年6月20日、学位請求論文提出者・松田圭介の論文についての最終試験を行った。
本試験において、審査委員が、提出論文「基地と民衆の近現代史―法制度と民衆運動―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、松田圭介氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、松田圭介氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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