博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:ヘーゲルの判断論とその人間論的解釈 —ヘーゲルの「真理の学問的認識」に関する一研究—
著者:赤石 憲昭 (AKAISHI, Noriaki)
論文審査委員:平子 友長、大河内 泰樹、嶋崎 隆、森村 敏己

→論文要旨へ

Ⅰ 本論文の構成

 400字換算で1200枚にも及ぶ本論文は、ヘーゲル論理学における判断論を主たる考察対象として、その議論のテキスト内在的な解明を行うとともに、その現実的な意味を我々「人間」に即して明らかにすることを試み、また、これらの作業により、ヘーゲルが生涯の哲学的課題とした「真理の学問的認識」の具体的解明にも寄与しようとするものである。
 本論文の構成は以下のとおりである。

序論                             
第1部 ヘーゲルにおける「真理の学問的認識」 
 第1章 「真理の学問的認識」とは                   
 第2章 ヘーゲルにおける「概念」                                    
 第3章 ヘーゲルにおける「真理の学問的認識」の人間論的解釈の可能性   
第2部 先行研究の検討
 第4章 ヘーゲル論理学研究のあり方について              
 第5章 先行研究における本研究の位置づけ               
第3部 ヘーゲルの判断論 
 第6章 ヘーゲル判断論の基本性格                   
 第7章 『エンツュクロペディー』における判断論            
 第8章 『論理学』における判断論                   
第4部 ヘーゲル仮言判断の具体例問題 
 第9章 ヘーゲル仮言判断の具体例をめぐって               
 第10章 ヘーゲルの必然性の判断の論理                
 第11章 具体例から読み解くヘーゲル判断論             
第5部 ヘーゲル判断論の人間論的解釈 
 第12章 ヘーゲル論理学講義1831年における人間理解        
 第13章 ヘーゲルにおける「概念」の人間論的解釈         
 第14章 ヘーゲルにおける「判断」の人間論的解釈           
結論と今後の課題                   
[補論]ヘーゲルのジェンダー論をどう読むか?——ヘーゲルの男女観に関する一考察——

II 本論文の要旨

 各章の概要は以下のとおりである。
 第1部では、ヘーゲルの生涯の課題であった「真理の学問的認識」の特徴を概観するとともに、本研究の主題となる判断論の考察との関係が示される。
 第1章では、「真理の学問的認識」を、考察対象である「真理」と考察方法である「学問的認識」とに分けて考察し、それが「神」という対象を、「概念的把握」という方法で考察するものであることを確認する。ヘーゲル哲学の特殊性は、対象を個別的に捉える感覚や、感覚性を残して普遍的に捉える表象によってではなく、対象を純粋かつ普遍的に捉える思考によって行われ、しかも、思考の産物である「思想」をさらに「概念」へと変形すること要求する「概念的把握」に求められる。この「概念的把握」の特質は、真理、すなわち神を、思考規定が自らを規定しつつ完成させるという主体的な自己運動の過程の全体として把握することにあり、「真理の学問的認識」は、「真理」という対象と「概念的把握」という方法とに区別されるものではなく、「真理」(対象)の運動そのものの表現であることが示される。
 第2章では、この「概念的把握」の論理構造の要諦を示した論理学における「概念」を『エンツュクロペディー』の規定に基づいてより詳細に考察する。ヘーゲルにおける「概念」は、普遍性、特殊性、個別性の三契機の統一体である「具体的普遍性」として示されるが、それは、形式論理学におけるように、諸規定(特殊性)を捨象して得られる共通なもの、すなわち、「抽象的普遍性」ではなく、普遍性が自らを規定して他者となり(特殊性)、そこにおいて普遍性であり続けるもの(個別性)である。「概念」は、純粋な思考規定ではあるが、特殊な諸規定を捨象せずに内に含むものとして「具体的」なものであり、そのためには三契機の「不可分」な統一体として捉えられなければならない。しかし、「概念」においては、この統一体のあり方が示されるものの、三契機が分裂した状態に陥ってしまうとされ、その本来的規定は「判断」の領域に託され、「真理の学問的認識」の解明の焦点は「判断」へと移される。そして最後に、ヘーゲルが提示する普遍性、特殊性、個別性の三契機の統一体としての「概念」が、キリスト教における父、子、聖霊の三位一体論の論理的表現であることが示され、「神の概念的把握」としての「真理の学問的認識」がこの「概念」に集約されていることが確認される。
 第3章では、ヘーゲルの「真理の学問的認識」の人間論的解釈の可能性が示される。ヘーゲルは、みずから主体的に自己を規定し完成させるという独特の神の把握を説明する際に、胎児の例を挙げ、胎児は潜在的には人間であるが、それは自らを形成し、顕在的にそうならなければならないことを示しており、また、普遍性、特殊性、個別性の三契機の統一によって示される独特の「概念」の論理を説明する際に、「自我」を想起するように促し、さらに、「対象とその概念との一致」という自らの真理の把握について説明する際には、盗人の例を挙げ、盗みという行為は人間の行為の概念に一致しないので、たとえそれが事実であっても、真理とはならないことを強調している。このように、ヘーゲル自身が、「真理の学問的認識」のもとで「人間」について考察しており、ヘーゲルが生涯の課題とした「真理の学問的認識」を、「神の概念的把握」としてではなく、「人間の概念的把握」として考察する道が示される。
 第2部では、先行研究に対する本論文の独自性が示される。
 第4章では、ヘーゲル論理学研究のあり方そのものについて考察がなされ、まず日本のヘーゲル論理学研究において先行研究が参照されない現状について批判的に考察される。筆者は、その一つの理由として先行研究の多くがマルクス主義者によるものであっため、現在そのままの形では利用しがたい面があることを認めるが、これらの先行研究もヘーゲル論理学の全体的な性格を捉える上ではいまだ有益であり、本論文は、その中の存在論と認識論を統一した解釈の立場を継承するものであることが示される。また、現在の研究においては、文献学的研究と現実志向的な研究との分裂状況が見られるが、本論文は、ヘーゲルの判断論を、第3部においてはテキストに徹底的に即した解釈を行い、第5部においては、「人間」に即してその現実的な意味を考察することによって、この両方の要求を満たすものである。
第5章では、本論文の立場が、より具体的に、先行研究との関係のもとで示される。すでにこれまでに多くの研究文献が参照されてきたが、あらためてここで、日本内外のヘーゲル論理学を中心とした研究文献が紹介・検討される。まずヘーゲルの真理概念の考察がなされ、さらに彼の概念観、判断論、さらに人間論的解釈の研究状況に論及され、そのなかで本論文の位置づけが試みられる。
 第3部では、ヘーゲル判断論について、ヘーゲルの自己理解に即したテキスト内在的な解釈が示される。
 第6章では、テキスト解釈に先立ち、ヘーゲル判断論の基本的な性格が確認される。判断は“A ist B”(AはBである)という定式によって表現されるが、形式論理学がこれをAとBという二つの概念が、繋辞(ist)によって結合されているものと捉えるのに対し、ヘーゲルはそれを「一つの概念の根源的分割」と捉え、普遍性、特殊性、個別性の三契機の統一体としての一つの概念が、個別性と普遍性に分裂してしまっている姿(個別的なものは普遍的なものである)をそこに見出し、判断論全体は、この失われた統一を回復する過程と捉えられる。ヘーゲルはこの「根源的分割」としての判断にキリスト教の「天地創造」の論理を読み取る一方で、「全ての物は判断である」と述べられるように、万物の「存在論的性格」を示すものとしても捉え、さらに繋辞を、一つの概念の、個別性と普遍性との関係性を示すものとして意味づける。また、ヘーゲルはカントの判断表を踏襲して四つのグループそれぞれ三つの計十二の判断規定を扱うが、それらを単に分類・整理するのではなく、その価値を吟味し、三契機の統一の回復を目指す概念の自己規定の十二の進展段階を示すものと位置づける。この四つのグループ分けは、述語の普遍性の論理的意味の違いに基づく。
第7章では、ヘーゲルの判断諸規定について、『エンツュクロペディ』(1830年)の本文と注釈を、「補遺」および1831年の論理学講義も援用しながら、その概略を示す。
 以上の考察を踏まえ、第8章では、『論理学』の叙述に基づき、ヘーゲル判断論についての詳細な考察が行われる。第一の「定存在の判断」の普遍性は、「全く感覚的な普遍性、直接性における普遍性」であり、その最初の判断である肯定判断「個別的なものは普遍的なものである」は、それが最初の判断であるが故に、主語である個別的なものも、述語である普遍的なものも、直接的、抽象的で、両者の関係も、無媒介に直接的に関係しているだけである。しかし、主語である個別的なものを、その感覚的、直接的規定性しか示し得ない述語の普遍的なものは十分に表現しえず、この判断形式は否定され、否定判断「個別的なものは特殊的なものである」が導かれる。しかし、否定判断も、先の抽象的普遍性を否定しはするものの、この特殊的なものは普遍的なものの領域を完全に否定するものではなく、やはり主語の個別的なものとは一致せず否定され、次の無限判断「個別的なものは個別的なものである」が導かれる。無限判断では、述語の普遍性が完全に否定され、主語と述語は完全に一致はするものの、何ら実質的な内容を示し得ない判断形式として再び否定されるが、その問題点は、述語の普遍性の感覚的、直接的規定性に求められ、定存在の判断そのものが揚棄される。
第二の「反省の判断」では、述語の普遍性は、「反省あるいは総数性における普遍性」となる。最初の単称判断は再び「個別的なものは普遍的なものである」であるが、ここでの個別的なものは、先の無限判断の成果を受け、自らと向き合い、個として確立された個別的なものである。しかし、この個別的なものも、他者との連関を示す包括的な反省の普遍的なものとは一致せず否定され、次の特称判断「特殊的なもの(いくつかの個別的なもの)は普遍的なものである」が導かれる。しかし、この判断も、いまだ普遍的なものとは完全に一致せず否定され、次の全称判断「普遍的なもの(すべての個別的なもの)は普遍的なものである」が導かれる。この全称判断において、主語と述語は一致することになるが、すべての個別的なものに妥当するような普遍的なものは、もはや反省や総数性にとどまらない客観性を持つため、反省の判断そのものが揚棄される。
第三の「必然性の判断」の普遍性は、「類としての普遍性」であり、必然性の判断全体は、この類と種の関係を軸にして展開される。最初の定言判断は、「特殊的なものは普遍的なものである」(ある種は類である)と捉えられるが、ここでの主語と述語の関係は、類と種の関係としてそれ自体は必然的ではあるが、その類に対して他の種も定立されるように、完全には一致しない。ここに欠けていたのは、ある種Aがあれば、ある種Bもあるという種同士の連関で、これを示したのが、仮言判断「Aがあれば、Bがある」(ある特殊的なものAがあるならば、ある特殊的なものBがある:ある種Aがあるならば、ある種Bがある)であるが、この種同士の連関の根底には、類がある。選言判断は、これまでの成果を総合して「類は種の全体である」ことを示し、類の必然的な特殊化原理が示される。この選言判断において、「普遍的なものは普遍的なもの(特殊的なものの全体)である」というように主語と述語が一致するのであるが、ここでは特殊化の原理のみが示されるだけで、その現実性、すなわち、個別性が示されておらず、この必然性の判断も廃棄される。
第四の「概念の判断」の述語は、事物のあるべき姿を示す「概念としての普遍性」である。最初の実然判断「個別的なものは普遍的なものである」では、個別的なものが、現実的にそのあるべき姿を実現していることが示されるが、それはまだ直接的に実現されているにすぎず、同様の権利を持って、その反対のものが主張されうるものであり、この事態を表現するのが、蓋然判断「個別的なものは普遍的なものであるかもしれない」である。この蓋然性は、主語の個別的なものの持つ直接性に帰され、その個別的なものが、それが持つべき性状性が定立されていないことに求められ、それが定立されるのが、最後の確然判断である。ここでの個別的なものは、自らの普遍性を性状性として伴った個別的なものであり、それ自身がまさに概念として現実化した個別的なものとなっている。これは、形式的に見ても、主語と述語がともに概念を示すものとして完全に一致している(普遍的なものに基づく特殊性をもった個別的なもの、すなわち、概念は、概念の普遍的なものである)。概念の三契機の失われた統一の回復という判断論の課題はここにようやく達成されるのであり、判断において真理となるのは、この最後の確然判断のみなのである。
 第4部では、本論文の考察の一つの成果である「仮言判断」を中心とした考察が収められている。
 第9章では、ヘーゲルの仮言判断の具体例が1831年の講義録によって初めて示されたことを受け、先行研究の具体例把握の誤りを指摘するとともに、正しい具体例把握によって仮言判断のテキストがどのように解釈されるのかが示される。これまで提示された具体例は、仮言判断「Aがあれば、Bがある」におけるAを「種」、Bを「類」として、あるいは、Aを「類」、Bを「種」として捉えるものであったが、ヘーゲルが提示した例は、「青があれば、黄色も存在しなければならない」、「明るさは暗さに現れ、暗闇は明るさに現れる」のように、AとBをともに「種」とするもので、この二つの例により、「自立的、具体的な種の関係」から「相互依存的な関係」へと進み、最後に、この両者の統一として「種の統体性」が示されるという仮言判断の論理展開が明瞭となる。
 第10章では、この仮言判断の正しい把握のもとに、仮言判断が属する必然性の判断のグループ全体の論理を明らかにする。定言判断は、一つの種と類の関係しか示していないため偶然的性格を持っているが、仮言判断において「諸種の統体性」が示され、選言判断においてその根底にある類が定立されることによって、必然的な類の特殊化原理が示される。選言判断「AはBであるかCであるかである」(A ist B oder C)の“B oder C”は、「BであるかCであるか」(entweder B oder C)と「BでもありCでもある」(sowohl B als C)という二つの側面を持つが、これらは仮言判断の二つの例によって明らかになったように、その「自立的、具体的な種の関係」と「相互依存的な関係」に由来するのである。
 第11章では、仮言判断の具体例の発見によって判断諸規定の具体例が出そろったことを受け、ヘーゲルの挙げる具体例に基づいて判断論全体を平易に解説することを試みる。
 第5部では、これまでの論理的考察と、第3章で見たヘーゲル自身による「人間」把握をもとに、ヘーゲルにおける「概念」と「判断」の人間論的解釈を試みる。
 第12章では、1831年の論理学講義を、「人間」把握に焦点を当てて考察する。論理学は純粋な思考規定を対象とするものであるが、当のヘーゲル自身が、自らの論理学を説明する際に、「人間」の例を数多く示している。予備概念においては、論理学の全体構成と理性的存在である人間の成長が対比され、存在論においては、「規定性」の具体例として人間の理性が言及され、本質論においても、「内的なものと外的なもの」を説明する際に、理性が子どもにとっては内的なものであるがゆえに外的であることが指摘され、概念論においても、普遍的なもののみを拠り所とする理念の立場を老人に比するなど、ヘーゲルはその全体にわたって、「人間」について論じている。
 第13章では、「人間」のこのような把握を論理的に基礎づけるため、ヘーゲルが自らの「概念」を「自我」に例えていることに着目し、『法哲学綱要』の叙述を基礎に、講義録の叙述も援用しながら「概念」の人間論的解釈を試みる。ヘーゲルは、「自我」の論理構造を、自らの普遍性、特殊性、個別性の統一体としての「概念」の論理によって捉えるのであるが、普遍性においては、所与の特殊な在り方を括弧に入れた「全ての人間の自我」と言いうるようなあり方をまず確認し、特殊性においては、それが現実的に規定されたあり方が捉えられるが、その規定のあり方について、それが欲望などに由来するものか、それとも、精神の概念に由来するものなのかを区別し、精神の概念に由来して現実に規定されているあり方を厳密に「個別性」と規定する。これは、自らの本性である「人間の本来的な在り方」を現実的に体現しているような人のことを示すものであり、「胎児」はそこまで自己を形成していないが故に、潜在的にしか「人間」でなかったのであり、「盗み」を行うような人は、その本来的あり方に反するので、真理とはされないのである。
 第14章では、この「人間」把握をさらに展開するため、概念の自己規定である「判断」の人間論的解釈が示される。定存在の判断は、人間の本性、すなわち、理性が、「全く感覚的」である段階を示すものであり、その最初の肯定判断「個別的なものは普遍的なものである」は、個が自らの本性に全く無自覚である赤ん坊の状態に比することができる。ここでは、本来、自らの本性であるものが「質」にすぎないものに成り下がってしまっており、この普遍性は、この個別的な存在を十全に示すものとはなっていないため、次の否定判断「個別的なものは普遍的なものではない」の形式へと移行する。ここでは、理性的存在者たりえなくとも、赤ん坊は、やはり「人間」であろうという普遍性の余地を残すものと考えられるのであるが(個別的なものは特殊的なものである)、しかし、自らの我を押し通す有り様によって、そのあり方も否定され、次の無限判断の形式「個別的なものは個別的なものである」が導かれる。この自己中心的なあり方により、「個別的なもの」すなわち、「自己」の存在が明確になるようになるのであるが、このことが、次の反省の判断への移行をもたらす。反省の判断は、「自己」を自覚し、自分以外の他の様々な「自己」との連関を考慮する段階である。出発点の単称判断「個別的なものは普遍的なものである」は、「この私は私である」と捉えることができるが、述語の普遍的なものは、自分以外の「個」の連関を暗示するものであり、主語の「この私」よりも範囲が広いため主語と述語は一致せず、次の特称判断へと移行する。特称判断「このものでないものは普遍的なものである」の肯定的表現は、「いく人かの私は私である」となるが、これは「他のいく人かの私」の存在を示唆するものであり、「いく人かの私は、私ではない」ことを示唆し、否定される。最後に登場するのは、全称判断「すべての私は私である」であって、ここにきて、自分が他者連関的な述語の「私」のすべてをくみ尽くすようなあり方となっているのであるが、このような述語の普遍性はもはや、「相関関係」や「包括性」にとどまるものではなく、その全ての存在に必然的なものとして現れてくるのであり、次の必然性の判断の段階へと移行する。必然性の判断における述語の普遍性が示すのは、「類」である。全称判断を受けて、全ての人の自我を含み込んだものとしての個別的なもの(種)が主語となるので、最初の定言判断の定式は、「特殊的なものは普遍的なものである」と捉えられるが、これは、最初の普遍の特殊化、すなわち、人間が自らを「人間」であると自覚した最初の段階に位置づけられる。しかし、このような関係性を持っているのは、何も自分一人ではなく、「私[1]があれば、私[2]もある」し、「私[2]があれば、私[3]もある・・・・・・」と種同士の連関が示されるのが次の仮言判断の形式「特殊的なものがあるならば、特殊的なものがある」である。そして、このような諸種をすべて含み込んだものとして、自らを捉え、普遍的なもの(人間)が、特殊的なもの(諸種)の総体として、原理的な形で示されるのが、選言判断の形式「類は種の統体性である」である。これによって、類の特殊化原理、言い換えれば、必然的に自ら人間的に振る舞いうるという段階となるのであるが、この選言判断においては、まだ原理的なものとして、現実的な規定、すなわち、個別性の契機が考慮されていないという欠陥を持ち、それが定立されるのが次の概念の判断である。概念の判断では、「人間そのもの」の原理にまで高められた個人が、「現実に」人間らしく振る舞っているかどうかが問題となる。最初の実然判断の「個別的なものは普遍的なものである」は、人間そのものとして高められた普遍的性格を持つ個別的なものが、現実に、人間にふさわしい行為をしている状態であるが、個別的なものと普遍的なものとの関係は直接的であり、確かに「善い行為」はしているものの、それが必然的に行われていないものとして蓋然判断「個別的なものは普遍的なものであるかもしれない」へと引き下げられる。真に人間的に、あるいは、真に理性的であるためには、単に理性的に行為するだけでは不十分であり、ある個人は、「自覚的に」自ら人間として行為するのでなければならない。これを表すのが確然判断で、この場合に個人は、確かに個別的なもの(個別性)ではあるものの、人間そのもの(普遍性)として、しかも自覚的に振る舞っている(特殊性)というように、自分自身において概念の三契機の統一が実現されているのであるが、この最後のあり方が、「人間」における「真理」(あるべき姿)と捉えられる。ここで導かれる結論は、「概念」における厳密な意味での「個別性」において示唆されたものと同じであるが、判断論においては十二の判断規定に則して、その自己規定の過程が詳細に展開されたのであり、これが「人間」に即したヘーゲルにおける「真理の学問的認識」の具体的展開なのである。
 補論では、人間のあるべき姿に関するヘーゲル自身の具体的展開の例として、男女観を取り上げている。ヘーゲルが提示する男女観は、性別役割分業の肯定など、現代的観点から見れば不十分なところが多く、フェミニスト研究者たちもこれを適確に批判しているが、その一方で、ヘーゲルがそこで展開した議論の真意を把握する努力が見過ごされてしまってもいる。ヘーゲルを批判・擁護する二つの立場の議論をもとに、ヘーゲルのジェンダー論の特質が明らかにされると共に、ヘーゲル哲学を現代的に解釈する意味が考察されている。

Ⅲ 本論文の成果と問題点
本論文の第一の成果は、本論文の中心部分をなす第三部「ヘーゲルの判断論」において、ヘーゲルの難解で思弁的な判断論を、『エンツュクロペディー』の小論理学、1831年の論理学講義の筆記録および大論理学に即して、ドイツ語原文をすべてみずから訳しなおすかたちで、詳細に注釈を行い、整合的な解釈を引き出していることである。原文、翻訳それぞれを比較・検討しつつ筆者は、ヘーゲルの判断論がいかなる意味で従来の常識的な伝統的論理学を超えているのかを、詳細に明らかにした。これは世界でも初の試みであるといえよう。これが、本論文の第一の成果である。そのさい、こうした緻密な注釈と解釈が、第二部「先行研究の検討」において、筆者が、従来のヘーゲル論理学の研究状況が先行研究を十分に踏まえていないことを鋭く批判していることを受け、そうした先行研究の不十分さを克服するものとして行われていることが強調されてよいだろう。
 本論文の第二の成果は、2001年に刊行された1831年のヘーゲルの論理学講義の筆記録によって初めて仮言判断に対するヘーゲル自身による実例が二例発見されたことを受けて、判断論における仮言判断の性格とその意味についてヘーゲル自身の実例に則した解釈を提示したことである。仮言判断に関しては、従来、ヘーゲル自身が著作において実例を挙げていないため、ヘーゲル研究者の間で大いに議論されてきたものの、確定的な解釈が見いだされにくい状況が続いていた。筆者は、本論文第四部において、1831年論理学講義においてヘーゲルが示した実例に即した仮言判断の解釈を示すことによって、仮言判断をめぐるこれまでの論争に一つの決着を付けることができた。
 本論文の第三の成果は、ヘーゲルが判断論において示した十二の判断諸規定とそれらの展開に対して「人間論的解釈」の立場から、整合的な解釈を示したことにある。本論文第五部「ヘーゲル判断論の人間論的解釈」においては、可能的人間である赤ん坊が理性的な人間へと成長してゆく諸段階を表現するものとして各判断規定がとらえられる。すなわち、まったくの感覚的段階(定存在の判断)から、すべての人間に備わる類的本性を自覚し(反省の判断)、その人間本性をさらに具体的に豊かにし(必然性の判断)、最後に、人間的諸価値の実現という高次の段階(概念の判断)までを展開したものとして、十二の判断諸規定が解釈される。筆者による人間論的解釈は、ヘーゲルの意図を生かしつつヘーゲル判断論を超える独創的な試みであると、評価することができる。
 とはいえ本論文には以下のような問題点も含まれている。
 第一の問題点は、筆者が「人間論的解釈」について周到な定義を与えていない点である。筆者がヘーゲル判断論の具体的展開に即して「人間論的解釈」の整合的解釈を示していることは、本論文の独創的な成果であり、その際、人間の成長過程に即して判断諸規定を理解し、最終的には概念の判断に至って人間の存在と当為との合致までを探求することが「人間論的解釈」の内容をなしていることは、具体的展開からうかがうことはできる。しかし方法論的な基軸概念である「人間論的解釈」に対しては、具体的展開に先立って一般的定義を与えておくべきであったと考える。
第二の問題点は、「概念-判断-推論」と進むヘーゲル論理学の中に占める判断論の位置づけ、それに固有な限界の指摘が十分なされていない点である。筆者は、概念から判断への展開については詳細に検討しているが、推論との関係において判断それ自体がいかなる論理学上の限界の内部で展開されているのかという点についての指摘は不十分である。これがなされていれば、ヘーゲル論理学研究全体の中で本研究の占める位置付けについて、より明確な理解が得られたはずである。
とはいえ、これらの問題点は本論文の高い水準と諸成果を損なうものではなく、また著者自身が十分に自覚するものであるため、今後の研究によって克服されることが期待される。

Ⅳ 結論
審査員一同は、上記のような評価と、2012年5月16日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2012年6月13日

2012年5月16日、学位論文提出者の赤石憲昭氏の論文について最終試験をおこなった。試験において、提出論文『ヘーゲル判断論とその人間論的解釈-ヘーゲルの「真理の学問的認識」に関する一研究-』に関する疑問点について審査委員が逐一説明を求めたのにたいして、赤石氏はいずれも適切な説明を与えた。よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

このページの一番上へ