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博士論文審査要旨

論文題目:「新官僚」の研究:内務省を中心に
著者:元 智妍 (WON, Ji Yeon)
論文審査委員:吉田裕、渡辺治、田崎宣義、林大樹

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I 論文の構成

 本論文は、政党政治に対する反発を共有しながら、昭和初期に政治改革をめざして政治的な結集をとげ始めた、いわゆる「新官僚」に関する研究であるが、その構成は次の通りである。

序章
 第1節 新官僚研究の意義
 第2節 研究史の整理
第1章 新しい内務官僚世代の成長
 第1節 新しい官僚イメージ―日露戦後の青年意識
 第2節 新官僚入省前後の内務省
 第3節 ヨーロッパ研修
 小括
第2章 大正デモクラシー期の内務省
 はじめに
 第1節 既成政党との関係
 第2節 無産政党の地方政治論とその変化
 第3節 内務官僚の政治認識
 小括
第3章 内務官僚の政治化
 第1節 普選実施と内務省
 第2節 国維会・新日本同盟
 第3節 選挙粛正運動
 小括
第4章 「ファシズム」体制と内務官僚
 第1節 斉藤・岡田内閣と新官僚
 第2節 陸軍と新官僚
 第3節 新体制と新官僚―昭和研究会との関係
 第4節 新体制と内務省
結論
参考文献

II 本論文の要旨

序章

 序章では、新官僚に関する従来の研究史の整理が行なわれている。筆者によれば、大正デモクラシーからファシズム期にかけての時期の官僚研究は二つの潮流に区分することができるという。第一の潮流は、天皇制ファシズム体制を支えた主役として官僚を位置づけるものであり、八〇年代以前の研究の主流はこれであった。しかし、こうした理解では、一元的な政治体制を求める勢力にとって、旧来の官僚制が大きな障害物として認識されていたという事実が無視されるばかりでなく、支配ブロック内部における諸勢力間に存在した激しい対立や軋轢が軽視されることになると筆者は指摘する。

 第二の潮流は、支配ブロック内部の力関係に着目する八〇年代以降の諸研究である。これらの研究では、従来一つの均一なグループとしてみられていた支配ブロック内部における体制の再編成をめぐる対立や競合、そこから生み出される政治的なダイナミズムに注目があつまり、実証的にも研究上の大きな進展がみられた。

 筆者は、この第二の研究潮流を批判的に継承することを自らの研究課題として設定する。批判的にということの意味は、筆者が各省庁間の対立や各部局間の対立よりも、むしろ世代による官僚の社会認識や政治認識の相違を重視する立場をとっているからである。

第1章

 第1章では、後に新官僚となる世代の「知的形成期」である日露戦後の青年意識、新官僚の入省前後の内務省、そしてヨーロッパ研修の体験を取り上げ、新官僚の自己形成の特徴を論ずる。 新官僚の学生時代を扱う第1節では、「煩悶青年」、「高等遊民」などと特徴づけられる日露戦後の青年意識を回想録などを用いて論じ、さらに「自己の意味に対する懐疑」に煩悶する青年に対して、「公のための奉仕者」としての使命感を持った青年が登場して官途を目指したことが指摘される。

 第2節では、まず日清戦後から日露戦後までの政党と藩閥との関係を概観して日露戦後には藩閥政治家と政党との連携が進む一方で、日露戦後の国家財政の膨張が内務官僚に、政党に組織されない地方民衆の国家的な統合の必要を強く意識させるようになることが指摘される。また日露戦後は内務省地方官の世代交代期にあたり、入省後すぐに郡長に転出した一九〇八・九年入省組に特有の社会意識が形成されること、また一九一〇年以降入省組からは本省に居残るエリート・コースができて別の意識を持つグループが形成されるようになることが明らかにされる。

 第3節では、日露戦後入省の若手官僚が第一次大戦後の欧米研修旅行でどのような影響を受けたかを丸山鶴吉、後藤文夫、田子一民、前田多門らに即して検討し、彼らが第一次大戦後のヨーロッパの社会運動や社会政策を日本の将来像として研究していたことが明らかにされる。

第2章

 第2章では、大正デモクラシー期の内務官僚を中心に、新官僚たちの政治に対する態度が一様ではなく、一定の幅、あるいは世代間の相違がみられることを指摘している。

 まず第1節では、既成政党すなわち政友会、憲政会および民政党など諸政党の勢力の変動と内務官僚との関係をみている。大正デモクラシー期に憲政擁護運動が高揚していく中で、府県レベルでも政党政治が定着していった。この過程で、地方選挙の勝敗と関係が深い内務官僚の位置が不安定化した。たとえば、政友会と民政党の政権交替の度に、多くの地方官が休職もしくは辞職の浮き目を見る大幅な人事異動が行われた。これは、既成政党による地方選挙の選挙対策あるいは論功行賞の結果であった。当時、県知事や局長、部長、課長などの幹部クラスであった新官僚世代は、こうした情実人事の主な標的になった。新官僚たちは情実が行政に入り込むことを嫌ったが、結局生き残ったグループは政党の後ろ盾があったからこそ生き残りが可能であったともいえる。

 第2節では、無産政党、すなわち社会民衆党、日本労農党、労農党、および社会大衆党などの地方政治論に検討を加え、無産政党と一部の内務官僚との間にみられる地方政策への認識の共通性を指摘している。たとえば、社会大衆党は一九三五年の府県会議員選挙に際して、三大政策の一つとして「府県経済会議の新設」を掲げた。この提案は地方議会が予算議定権など重要な権限を持たないなど、自主的自治制を喪失し、外見的自治制にとどまる地方自治体の構造的問題の解決策の一つであるが、既成政党の基盤のある地方議会の権限強化などの案ではなく、職能代表制原理にもとづく新しい組織を期待していた点で、次の第3節で紹介される安井英二の「自治の経済化」の発想と接点をもちうる方向にあった。

 さらに第3節では、内務官僚の社会労働問題や農村問題への認識と政策を検討し、内務官僚の内部にみられる世代間の違いを指摘している。前述の安井英二は無産政党に地方自治の利権化阻止の機能を期待した。これは地方に大衆組織をもたず、地方名望家秩序に依存することでしか党勢拡張を図りえなかった既成政党に衝撃を与え、その農村組織化の方式に改革を迫るという戦略的な発想であった。このような発想は、田沢義鋪に代表される世代の官僚にはなかったことに筆者は注意を促している。

 また、安井と横溝光輝にとって、労働争議や小作争議の問題は原因が社会構造にあるために、構造的接近が必要であるという社会科学的認識がみられる。しかし、田沢によって代表される世代には、そういう社会科学的認識は見当たらない。ただ、青年団などの社会教育を通じて問題が解決されるという啓蒙主義的発想だけがみられるのである。

第3章

 第3章は、普通選挙実施による大衆民主制の採用によって、統合の安定を構想した内務官僚が、普選による政党化の弊害の激化に失望するなかから、政党政治体制に対する懐疑を深め、二大政党対立を緩和する第三政党の樹立や選挙粛正運動の展開に乗り出す過程を検討している。

 第1節では、第一次世界大戦期にヨーロッパ留学を果した内務官僚世代が、第一次世界大戦後の国民統合の動揺に危機感を抱いて、積極的に普選の導入によって国民統合を再建しようとしたことを検討する。

 第2節では、内務官僚が、一方では政党の利益政治による「党弊」や「政争」が激化し政争が地方をも席捲していること、他方こうした政治に失望して革命運動が台頭していることに危機感をもって、新日本同盟さらには国維会に結集し、第三政党の樹立を構想しあるいは、こうした政党の争いを批判する世論形成に力を入れたことを検討している。

 ここで筆者は、内務官僚の政治構想を検討し、彼らが政党政治の弊害には批判的でありつつ政党政治の枠組み自体の否定にまでは至っていないことに注目している。特に新官僚の議会制度改革構想では、地方での政党対立による利益導入政治の横行を是正するための広域行政圏構想、貴族院改革による職能議会化、比例代表制の構想が打ち出されており、これは後の革新官僚のファシズム体制構想とは明らかに異なることを証明している。

 続く第3節では、新官僚が政党政治への批判から選挙粛正運動に乗り出す過程が検討される。すなわち、選挙粛正運動はすでに二〇年代から始まっていたが、当初は選挙粛正の鍵は普通選挙による有権者の拡大に求められていた。しかし普選実施による選挙の弊害の深刻化、地方行政への政党化の浸透などから次第に政党政治への批判を強め、選挙運動の規制、比例代表制の導入などの選挙法改正が模索される。そしてこうした選挙改革の動きは、三五年岡田内閣の内務大臣に後藤文夫が就任するに伴って「選挙粛正運動」に向かうのである。

 しかし、ここでも筆者が強調するのは、選挙粛正運動はファシズム体制下の端緒とする従来の分析と異なり、この運動は未だ政党政治体制の明示的否認にまでは至っていなかったという点である。

第4章

 第4章の第1・2節では、満州事変勃発後に成立した斉藤・岡田内閣期に新官僚の著しい抬頭がみられることが明らかにされる。特に、新官僚の主導の下で、官僚の身分保障制度が確立することによって、官僚は政党政治に従属する立場から完全に脱却するとともに、農山漁村経済更正運動の展開によって、政党にかわって官僚が農村社会の組織化に着手し始めるようになる。

 さらに、岡田内閣期には、内閣審議会と内閣調査局などの国策審議機関が設置され、行政権力の自立化をはかる動きが強化される。しかし、皮肉なことに、筆者によれば、こうした一連の動きは、新官僚の独自の政治的結集の幅をせばめていった。一つには、国維会のような外部の政治結社を通じてではなく、国家機構の内部から政治改革をはかることが可能になったと彼らには認識されたからである。

 もう一つは、行政権力の自立化をはかる場合、彼らがその正当性の根拠を「天皇の官吏」という自己規定と国体イデオロギーに求めたことである。そのことは右からの観念右翼の攻撃に対して彼らが対抗する論理を提示しえないことを意味していた。

 さらに、内閣に直属する国策審議機関の設置は、彼らのいわば古巣である内務省自体の国家機構内部での位置の低下をも、もたらしたのだった。

 第3・4節では、新官僚のその後の政治的軌跡が追跡される。彼らは、昭和研究会との提携を試みるが、昭和研究会の政治改革構想は、国家機構の抜本的な改編だけでなく、それを支える社会運動や国民組織の全面的組織化を志向している点で新官僚のそれとは本来異質なものだった。結局、この提携関係の弱さは、大政翼賛会の結成で明白となり、翼散会は、旧来の官僚の抵抗によって、単なる行政の補助機関となってしまうのである。

III 成果と問題点

 本論文では、新官僚の思想と行動を丹念に追跡しながら、その特質を明らかにしている。特に、従来との研究との関連で注目に値するのは、次の三点である。

 第一には、新官僚の政党政治に対する態度を明確にしたことである。普選実施後、彼等は政党政治の弊害を強く自覚し、官僚人事に対する政党の介入に危機感を強めていくが、政党政治と議会政治の明示的な否定にまではついに至らなかった。この点は、新官僚の反政党・反議会主義的性格を課題に評価しがちだった従来の研究に対する手がたい批判となっている。

 第二には、官僚分析に世代論の視点を導入したことである。筆者は、特に新官僚の中心となる一九〇八・九年前後入省組に着目し、この世代が、高等学校などにおける青年期の教育、入省後における官僚の教育・訓練システム、新たなヨーロッパ研修制度の導入などの点で、従来の官僚とは異なる新たな世代として抬頭してきたことを明らかにした。

 第三には新官僚の限界を明らかにしたことである。筆者の分析によれば、新官僚の政治改革の方法論は、常に社会啓蒙的性格を抜け出せず、政党政治・議会政治にかわる新たな国民統合方式を結局は構想することができなかったのである。

 以上のような積極面がありながらも、本論文には問題点も少なくない。

 第一には、新官僚が日中戦争後の新たな状況、特に新体制運動の展開をどのように認識し、これにどう対応しようとしたのか、という問題に対する解明は、実証的にもやはり不充分である。また、革新官僚との相違についても、さらに本格的な分析が行なわれなければならない。

 第二には、官僚制研究の面での不充分さである。具体的にいえば、日本における官僚のリクルート・パターンの特質や官吏養成機関としての大学の教育の特質、あるいは海外研修制度の歴史や派遣国の変遷など、より広い視野の中で、新官僚を分析する必要があるだろう。

 しかし、こうした問題点は、筆者自身が、明確に自覚し、今後の研究の進め方にも明確な方向性を持っていることを評価し、元智妍氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適切であると判断する。

最終試験の結果の要旨

1999年7月2日

 一九九九年六月十七日、学位論文提出者元智妍氏の論文についての最終試験を行った。試験において、提出論文「『新官僚』の研究―内務省を中心に―」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのに対して、元智妍氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は、元智妍氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判断した。

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