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博士論文審査要旨

論文題目:ICTの利用にみるオルタナティブな<学び>の資源とネットワーク —草の根電子ネットワーキング活動の社会的機能—
著者:石田 千晃 (ISHIDA, Chiaki)
論文審査委員:関 啓子、ジョナサン・ルイス、中田 康彦

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1. 本論文の構成

 本論文は、ICT技術の進展と普及が著しい現代において、ICT情報のもつ社会的意味を究明したものである。具体的には、外国にルーツをもつ子どもたちの支援を行なっている人々が抱える悩みの課題化と課題の解決に、ICTを通して行なわれた固有の<学び>が有効であったことを実証し、デジタル空間の可能性を解明した意欲的な論文である。

本論文の構成は、次の通りである。
目次
 凡例
 序章
  第1節 問題意識
  第2節 先行研究
  第3節 本論文の課題と方法
  第4節 分析対象
  第5節 分析手法
  第6節 論文構成
 第1章 電子テクノロジーの普及による社会変容
  第1節 日本におけるICT普及の背景
  第2節 インターネットの草の根主義と社会変容
 第2章 情報とメディアの位相 — 通信・伝達行為の組織化過程―
  第1節 情報概念の枠組み
  第2節 近代的な情報の世界と人間の学び —IT化以前―
  第3節 非意味情報の社会浸透
  第4節 情報伝達装置としての近代教育
 第3章 オルタナティブなネットワーク
  第1節 広域ネットワークA発足を取り巻く社会的背景
  第2節 広域ネットワークAの特徴
 第4 章 ICTネットワークによる<学び> — 双方向型の質的分析
  第1節 双方向型の発信の特徴
  第2節 双方向のコミュニケーションでコードを解体する
  第3節 <メディア>を解体後、協働する —新たな文脈を形成する
 第5章 <学び>の空間としてのデジタル空間
  第1節 デジタル空間の社会性
  第2節 移り変わる議論の質
  第3節 情報ストックに関する批判的論考 —データベース化の実践から―
 終章 本論文の成果と課題
 参考文献
 図表一覧
 資料

2.本論文の概要
 序章では、先行研究を整理した上で、本論文の課題が立てられる。近代に中立・正統なものとしての地位を確立した<知>の体系では解決しにくい現代的諸問題に対して、人々が、他者との関係を築き上げながら課題に向き合い、状況を改善していく活動が、如何に可能なのか、また、その際にオンラインネットワークはどのような点で有効であり、どのような限界をもつのか。これらの点を総合的に検証することが、本論文の課題である。筆者は、この検証を通じ、ICT (Information Communication Technology)を利用した草の根ネットワークに参加する人々が、問題ある状況に対する認識を共有し改善・変革していく過程を考察し、そこからオルタナティブな<学び>の析出を試みる。
分析対象となるのは、外国籍、及び、外国にルーツを持つ子どもたちの支援者・教育実践者が作る電子ネットワーク(広域ネットワークA)である。広域ネットワークAは、外国籍、及び、外国にルーツを持つ子どもたちが抱える問題に対して、様々な立場の人々が、情報を共有し、知恵を出し合うという目的で、1997年に作られた。筆者は、広域ネットワークAに2006年から参加している。広域ネットワークは、既に14年以上継続して運営されており、12,000通を超える情報がメーリングリスト上で交換されている。会員は、日本全国に700人以上(推定)おり、学校で国際教育を担当する教員や、日本語ボランティア、国際交流協会の職員、自治体職員、研究者、NGO、NPOの職員やスタッフ、学生など、多様である。
第1章では、日本においてICTがインフラストラクチャーとして普及していく様子を整理する。日本においてインターネットが本格的に使われ始めたのは1990 年代後半に入ってからのことである。1990 年代以降の「ネット社会」(Networking Society)では、コンピュータ専門家ではない一般の人々が、パソコンやマイクロプロセッサを埋め込んだ各種の装置を駆使してデジタル情報を編集加工し、インターネットを通じて交信しあうようになった。筆者は、インターネットのネットワークや通信が持つ特徴や黎明期における開発者達の思想的背景も参考にしつつ、ICTによって変化していく人間同士の関係を考察し、インターネットがもたらす自由の拡張と管理強化の両側面を確認する。多くのユーザーの電子空間におけるやり取りによって引き出されるアイディアの集積が何かを解決するきっかけとなることを指して、「群衆の叡智(Wisdom of Crowds)」というキーワードも頻繁に使われるようになったが、この「群衆の知」への着目は、それぞれの細分化された専門的な分野におけるエクスパートの意見だけでは解決しない課題が現代社会において多く存在するということを示唆している、と筆者は指摘する。
オンライン空間を一般大衆が容易に使えるようになったことで、新しい空間が生まれた。この新しい空間がもつ意味に注目する筆者は、具体的には、現代社会におけるインターネットが、草の根市民運動のためのツールという側面をも持つことを明らかにするために、2005年の反日デモ(中国:広州、北京など)やジャスミン革命などの象徴的な事件・現象を取り上げ、考察を加える。
第2章では、ICTが普及したことで、改めて起こった情報概念の問い直しと諸議論が整理される。情報とメディアの意味変遷を、3つの時代区分を設定し、論じていく。3つの時代とは、印刷技術の普及前、印刷技術の普及後、非意味情報の流通を促進したICTの普及後、である。「人間が何を情報として取り上げ、外部世界との関係を持ち、それらを意味づけたのか」にかかわる諸理論が整理される。その上で、情報伝達装置として近代的な学校が持つ機能とその位置づけを検証する。近代教育装置としての学校における情報の受発信(エンコードとデコード)のあり方を解剖したバーンスティンの理論、スチュアート・ホールのエンコーディング/デ・コ-ディングプロセス、グラムシのヘゲモニーの議論などが参照され、近代化のプロセスの中で、人間の束を管理する方法として使われてきた情報の取得源と伝達経路の性質が解明され、デジタル情報がもたらした変容が論じられる。また、誤解や受け取り拒否といった事態を回避し、複雑性と偶有性を回避するメカニズム(規制メディア)にも言及される。
本章は、本論文の後半の実証研究において使われる概念や分析枠組みを準備するという意味を持つが、あわせて、近代的な学校システムの特徴を、情報伝達という観点から整理し、情報の象徴的統制のあり方、すなわち、情報の発信と受信の方法に包含されている枠組を確認するという特徴を有している。フォーマルな学校教育という場に着目すれば、その背後において伝達されるイデオロギーや特定の価値の体系は、言明されない「暗黙の、かつ自明のルール」となるような、潜在的「合意システム」の総称であり、このような中で、その優勢な意味を「常識」や「自明性」とみなさずにいられるかが、オルタナティブな知を生み出すためには非常に重要であると指摘される。筆者は、章末で、不可視で詰まったメディアの回路に風穴をあけるような意味付与活動を解読したいと、続く第3・4章への課題意識を述べている。
 第3章では、国民国家によって策定された意味的な装置=「狭義の規制メディア」(チャネル、再文脈化装置、エンコードの枠)が設定する主題の枠組みから外れやすい文化的背景を持つ子ども達の存在を概観し、これらの子ども達をサポートする人々の活動、中でも特にICTを使って横のつながりをつけながら難局を打破したり、新しい文脈を創っていったりする人々の活動に着目し、これらの活動からオルタナティブな知のありようを検証する。そこで、本論文の対象として分析する広域ネットワークAについて、およびそれを取り巻く社会環境について論じている。日本に移動してきたニューカマーとその子ども達が<教育>の象徴的統制の縛りの中で抱える困難の特徴を示し、そうした子ども達に向き合い、伴走する人々が作るオフラインやオンラインの草の根ネットワークの多さを既存のさまざまな統計・資料から確認する。筆者は、1998年から2008年までの10年間の膨大な量にのぼる、広域ネットワークAの会員のメールに目を通し、それらを、「イベントのお知らせとその報告・感想」、「イベント以外の新着情報」、「MLメンバーからの情報提供を求める投稿や意見の投稿」(「双方向型」)、「自己紹介」という4つのテーマに分類した上で、メールの量的な推移も明らかにしている。
 第4章で筆者は、デジタルな草の根ネットワークの一つである広域ネットワークAとそのメンバー達の<学び>を分析する。第3章で「双方向型」に分類されたメールのやりとりが分析対象になる。広域ネットワークAの人々がICTネットワークを必要とする理由が掘り起こされる。既存の問題およびこれまでは存在しなかった問題に立ち向かう人々がつくるネットワークやノード(結節点)がもつ社会的な意味合い、およびそれらを資源として<学び>を必要としている人間と社会との関係をみることで、オルタナティブな知の様相を読み解いていく。このネットワークに参加している人々の多くは、日本語教育に携わる「ボランティア」教師や「非常勤講師」であり、ニューカマーの子どもたちの学習環境の改善について直接意見を言いにくい、あるいは意見が事態の改善につながりにくい人々である。具体的には双方向のメールのやりとりのなかで特に代表的な話題(事例)について叙述される。双方向のやりとりによって、悩みが問題点として共有され、多様な情報と分析、さまざまな知識が交わされることにより、問題を乗り越える手立てが浮上してくる。現状を変えたいとする人々が、場所と時を選ばないデジタル空間をつくり、活用することによって、換言すれば、オルタナティブな情報をもつ人々によって一つの空間が創られる。そこでは、ICTによってもたらされる非文脈的情報が、活動の中心的な場(仕事場)における文脈の力とそれによって方向づけられる活動を相対化し、こうした過程が繰り返されるなかで、問題の改善と新しい活動への発展が可能になる。本章では、前例が存在せず、オーソドックスな手法が通用しない課題に対してICTを活用し、「大きなシステムから与えられる知の領域化(区分)によって引き起こされる(引き起こされている)問題に対する問い直し」が起こっていく様子が析出される。
 急速にIT 化が進む中で、ハード(道具)とソフト(空間)を、新しい人間のつながりをつけるツールとして使った人々は、まず、自らが立たされた孤独な状況を、同じ悩みを持つ人々と分かち合い、つながりをつけるために利用した。同じ問題に悩む人々が多いと判明した後は、大きなシステムから与えられる様々な規範を疑い、当たり前だと思われているやり方を見直すべく呼びかけ、実際に新しい取組を作っていった。以上のような、ICTの性質を上手く利用しながら、文脈と非文脈を行き来し、今、ここだけではなく、将来的に情報を活かし、空間を創り出していく絶え間ない活動が生まれた。この活動が、本論文でいうオルタナティブな<学び>である。
 第5章では、草の根電子ネットワークがつくり出してきたデジタル空間の社会的な意味合いについて検証する。まず、広域ネットワークAのメンバーによるデジタル空間そのものの維持や運営に関する議論を分析する。そこでは、ネットワークそのものが「規制メディア」となり、オルタナティブな空間にはならない可能性などが考察される。前章で析出したICT を使ったオルタナティブな<学び>の活動は如何にすれば維持されうるのだろうか。筆者は、エンゲストロームがいう「新しい活動を生み出す学習活動」という概念に注目し、ML でやりとりされている「双方向」のやりとり以外の「イベント」や「新着情報」と「ROM」の量的分析によって、活動の多様性を把握する試みを行っている。次に、筆者が2006年から技術協力を行ってきたデータベース化の実践を批判的に検証する。筆者は情報のフローだけではなく、ストックの意味をPlone によるデータベース化の実践より考察し、情報の蓄積の持つ意味と問題点を指摘している。以上の分析を通して共有財としての情報の性質とその公共性の範囲について考察が加えられる。そうすることによって、持続可能な空間を生む活動を、ICTを媒介して行う可能性が探られる。
 終章で筆者は次の4点を成果として指摘する。第一に、広域ネットワークAの活動は、狭義の<メディア>が規定する枠組みを相対化し、特に<教育>という規制メディアが引き起こしている問題を乗り越えるために有効に働いてきたことを、明らかにした。第二に、広域ネットワークのような草の根ネットワークの性質が、匿名のコミュニティに見られるような遷移(情報発信→CoI→CoP)をたどってはいないということが、統計分析と質的分析の組合せによって示唆された。第三に、情報のストックの実践(データベース化)から、電子情報の蓄積に関する考察が行われた。第四に、規制<メディア>の枠組みを可視化、相対化させるオルタナティブな<学び>の特徴を析出した。

3.本論文の成果と問題点
 本論文の成果は、以下の三点にまとめられる。
 筆者が研究対象にした広域ネットワークA(非匿名のオンライン・コミュニティ)は、外国籍住民の抱える諸問題に向き合うサポーターたちが、横のつながりをもつために構築したメーリングリストによるネットワークである。メンバーは、ボランティア、NPO・NGOの会員、大学生、自治体嘱託職員などである。筆者は、1998年から2008年までの10年間の膨大な量にのぼる、広域ネットワークAの会員のメールすべてに目を通し、4つのテーマに分類した上で、「双方向型」のメールを詳細に分析し、参加者が意見や経験を出し合い、感じている問題を検討し合い、知恵を総合して問題の解決に漕ぎつける過程を読み解いた。本論文は、そうしたなみなみならぬ忍耐力によって支えられた作業によって、子どもたちの問題に最もよく気づいているが、直ちに現状改善をなしえない立場にある人々による、問題解決に繋がるような学びがICTによって切り開かれうることを実証し、そうすることによって日本における多文化教育実践の土台づくりに貢献した。同時に、本論文は、広域ネットワークAとは異なる問題に取り組む市民活動や運動にも、示唆を与えるものである。これが、第一の研究成果である。
 第二に、情報社会がもつ社会的機能の可能性と危険性の両面を、実証を通じて描いてみせた点である。ICTの発達は、オフィシャルな知の担い手以外の人々にも、蓄積されたデータベースの情報へアクセスすることを可能とする一方で、集合的記憶が具体的に記録されているがゆえに解釈の余地がなくなり、人々の主体的決定が失われ、記録された情報を消費するだけになってゆくという先行研究の指摘がある。筆者は広域ネットワークの10年間の経年変化をたどりながら、そうした危険性が確かに存在することを具体的に実証する一方で、人々がネットワークに関わる中で思考の営為を取り戻し、脱政治化されたトピックに再び政治性を付与しつつオルタナティブな学びを生成していける可能性をも指摘した。
 第三に、ネットワークAの長期的な情報交換の分析を通して、オンライン・コミュニティの変化過程に関する社会学的な理解に貢献したといえる。先行研究では、コミュニティが「情報交換>Community of Interest>Community of Practice」と、徐々に交換されている情報の質及び参加者の積極性が向上していくという成長過程が描かれてきた。これに対して筆者は、ネットワークの参加者及び発言が増加しても、情報の質及び参加者の積極性が増えないこともあると指摘する。このような情報のやり取りの変化はメタデータだけを分析すれば把握できるが、筆者は個々の投稿の中から、なぜ以前に比べて積極的に発言しなくなったかなどの具体的な理由を明確にする。一つのオンライン・コミュニティの調査に量的方法及び質的方法を両用しているのはこの研究の長所の一つである。
 本論文に問題点がないわけではない。問題点は、以下の二点である。
1. 広域ネットワークAは、意見交換がしやすい小規模なオンライン・コミュニティから大規模なそれに発達を遂げている。双方向型の情報・意見のやりとりの量的な推移を検討し、内容を質的に吟味することによって、Aが新たな問題を抱え込むことになったことも明らかにされている。しかし、その点を指摘しながら、状況打開を見据えた考察が十分になされているわけではない。オンライン・コミュニティの持続性をめぐる考察がもっとほしいところである。
2.世界中で、多様な教育機関においてICTを活用する試みが活発になっている。ICTを利用して成立している教育ネットワークも多様化してきている。本稿は時間の経緯とともにネットワークの性格がどのように形成・変容・維持されるかを縦断的に分析するために、早い段階から成立していた特定の広域ネットワークに着目したが、他のそうした試みについても分析を行なえば、広域ネットワークAの学びの特徴がもっと浮上したであろう。惜しまれるところである。
しかし上記の問題点については、筆者自身も十分自覚しているところであり、審査委員もまたそれらは筆者の今後の研究において克服されるものと期待している。
 よって審査委員一同は、石田千晃氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

最終試験の結果の要旨

2012年3月14日

2012年3月1日、学位請求論文提出者、石田千晃氏についての最終試験をおこなった。
 本試験においては、審査委員が提出論文『ICTの利用にみるオルタナティブな<学び>の資源とネットワーク — 草の根電子ネットワーキング活動の社会的機能 —』について、逐一疑問点に関して説明を求めたのにたいし、石田千晃氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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