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博士論文審査要旨

論文題目:18世紀前半期(1720~1750年)のオート=ノルマンディー地方のマレショーセ ――フランス絶対王政の統治システムにおけるマレショーセ改革(1720年)の意義――
著者:正本 忍 (MASAMOTO, Shinobu)
論文審査委員:森村 敏己・山崎 耕一・秋山 晋吾

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1 本論文の構成
 本論文は、アンシャン・レジーム期におけるマレショーセと呼ばれる治安維持組織を1720年の改革に注目しながら分析することで、フランス絶対王政による統治の実態にアプローチしようとする力作である。
 本論文の構成は以下の通りである。
 
序章
   
第1部 組織
 第1章 1720年のマレショーセ改革
  第1節 改革前史
  第2節 組織の再編・統一
  第3節 親任官制の部分的導入
  結論
 第2章 新生マレショーセの領域的編成
  第1節 改革後のオート=ノルマンディーのマレショーセの編成
  第2節 オート=ノルマンディーを特徴づける地理的諸要因
  第3節 班の設置条件と班の駐屯地の選定条件
  第4節 都市の比較に見る班の駐屯地の選定条件
  結論
 第3章 新生マレショーセの揺籃期(1720~1721年) 
  第1節 新組織の成員の徴募
  第2節 新組織の財政的基盤
  第3節 新組織の活動の開始時期
  結論

第2部 成員
 第4章 プレヴォ裁判役人、将校
  第1節 プレヴォ裁判役人:陪席裁判官、国王検事
  第2節 将校:プレヴォ、副官
  結論
 第5章 隊員採用の条件と手続き
  第1節 採用条件
  第2節 採用手続き:手続きに要した期間の分析
  第3節 採用手続きから見た採用の実態
  結論
 第6章 隊員採用の実態:年齢、身長、軍隊経験
  第1節 成員名簿
  第2節 年齢に見る採用の実態
  第3節 身長に見る隊員採用の条件
  第4節 入隊前の軍隊経験に見る採用の実態
  結論
 第7章 隊員の管理
  第1節 在職期間
  第2節 退職
  第3節 異動
  結論
 
総括
付属史料
参考文献目録
  

2 本論文の概要
 序章において著者は、1720年に実施された改革を中心にマレショーセを分析することの意義を明らかにする。著者の目的は絶対王政という統治システムの特質に臣民統治という側面からアプローチすることにある。その意味で都市部を管轄する治安総代理官と並んで、田園地帯と幹線道路の治安維持を担当するマレショーセは直接住民を管理・統制する組織として重要であるだけでなく、警察、裁判所、軍隊という3つの側面をもつこの組織がどのように改革されたかを検討することで、アンシャン・レジーム期の国家と社会に多様な角度から迫ることができるという。そのうえで著者は近年のマレショーセ研究の土台となる研究動向を整理した上で、以下の4点を重要な視点として挙げる。
 第1は国王裁判所としてのマレショーセである。アンシャン・レジーム期の裁判制度は極めて錯綜していたとされるが、他の通常裁判所との管轄争いが頻繁に生じていたマレショーセを分析することで、そうした錯綜した実態の解明に貢献することができると同時に、裁判と警察の機能分離に向かう過程を考察することも可能となる。第2は警察としてのマレショーセである。マレショーセは都市外の民衆および乞食、浮浪者、無宿者といった社団に属さないマージナルな存在を取り締まる組織として設立されており、そこには都市からその外部へという統治の拡大過程が具体的に表れている。第3は地方統治との関わりである。マレショーセは中央集権体制の要と評される地方長官が利用しうる唯一の物理的強制力であり、一方、民衆にとっては治安を維持すると同時に、地域社会を日常的に監視・抑圧する組織でもあった。こうしたマレショーセの性格は絶対王政の臣民統治の実態を理解する上で極めて重要である。第4は官僚制との関わりである。売官制による保有官僚が多数を占める社会においてマレショーセは1720年の改革によって国王直属の親任官による全国組織へと再編されたが、それは官僚機構の効率化あるいは近代化に向けた変化として大きな意味を持つだけでなく、司法から行政へという統治の在り方の変化を体現するものだとされる。以上のような観点から著者は、マレショーセ研究を制度史と社会史の融合による「権力の社会史」の試みとして位置づける。そのうえで課題の遂行に必要な史料の保存状況が詳細に解説され、論文全体の構成が示される。
 続く第1部では1720年の改革が組織という面から検討される。まず、第1章で著者は従来のマレショーセが抱えていた問題点を明らかにする。それによれば、戦争や饑饉、財政難に起因する増税とそれに対する反発、ペストや金融恐慌といった要因のため社会不安が高まり、治安の強化が求められていながら、改革前のマレショーセは怠惰と不熱心による職務不履行によってしばしば糾弾されていたという。こうした問題を熟知していた陸軍卿ル・ブランは保有官職であったマレショーセ構成員の地位を買い戻すことで旧組織を解体し、そのうえで新組織の編成と親任官の任命を行った。売官制に基づく官職保有がアンシャン・レジーム期の官僚機構の問題点であることは同時代の人々にも十分に認識されていたが、ル・ブランが実施したような抜本的改革が実現した例は珍しい。著者はそれを可能にした要因として、ルイ14世紀末期から保有官職の廃止という流れが続いていたことに加え、財政的に官職買い戻しを可能にした条件としてローのシステムを挙げる。信用経済創造の一貫して設立された王立銀行が発行する銀行券を用いて官職を買い戻すことで、財政難の中でも政府は旧組織の解体に成功できたのだという。こうして設立された新生マレショーセは、それまで地方毎に異なり、不統一、非効率であった組織、管轄区、指揮命令系統を統一し、班と呼ばれるパトロール隊を広範に、かつきめ細かく配置することで治安維持機能を大きく向上させることに成功したとされる。また、マレショーセ管区を地方長官管区に一致させたことはマレショーセに対する地方長官の監督権確立を意図したものだが、著者によればそれは地方における王権の代表者が地方総督から地方長官へと移行する中央集権化の流れと、軍事行政におけるシヴィリアン・コントロールの強化を背景にした動きだという。さらに、限られた人数で効果的に監視活動と犯罪予防を行うためには隊員の質の向上と彼らに対する王権の統制強化が必要となるが、ル・ブランが旧マレショーセの官職を買い戻し、大半の構成員を親任官とした理由はこの点に求められる。事実、王権が任免権を持たない保有官職による旧マレショーセでは、有能な構成員を確保することも彼らの不正を防止することも困難であったが、改革後は免職・解任も増え、隊員の交代、新規採用の頻度は高くなっている。このことは隊員としての資質・能力に問題のある隊員を、任免権を持つ政府が積極的に排除していたことを示唆しているという。
 第2章では、都市を点とすれば、いわば線と面に当たる幹線道路と田園地帯を管轄するマレショーセの領域的編成が論じられる。管区内における班の駐屯地の選択はマレショーセという警察網を効率的に運用するうえで大きな問題だった。著者はまずオート=ノルマンディーの地理的特徴を確認する。王国の防衛上、重要な位置にあり、人口も多く、流通も盛んであったこの地方の治安維持は王権にとって極めて重要であり、そうした中で幹線道路に沿って一定間隔で配置された各班は、道路およびその周辺部をパトロールすることで、監視と連絡のネットワークを管轄区内に張り巡らせる任務を帯びていた。また、班の駐屯地を選定する際には周辺都市の規模や交通路としての重要性が重視されたが、それは公金輸送の護衛、囚人・脱走兵の護送、浮浪者、密輸業者、追い剝ぎ、指名手配者の監視・捜索といった業務を遂行するための配慮であったという。また他の国王裁判所の命令を執行する場合もあり、その所在地が駐屯地として選ばれることも多い。このように広く展開されたマレショーセは秩序維持を担う存在としての国王権力を可視化するものであり、都市に続いて田園地帯と幹線道路もまた王国統治の空間の中に組み入れられていったとされる。
 続く第3章は、成員の採用、財政的基盤、活動の開始時期の3点に着目し、新生マレショーセが組織として成立していくプロセスを丹念に追跡している。成員について言えば、まず将校・裁判役人が任命され、次いで隊員100名のリクルートが行われたが、旧マレショーセ隊員150名のうち、新マレショーセの創設時に引き続き採用されたものは14名に過ぎない。将校・裁判役人を加えてもその数は16名にしかならず、再任率は極めて低い。著者はここに、経験不足というデメリットを抱えながらも、隊員の質の低さという旧マレショーセが抱えていた弊害を一掃しようとした政府の思惑を確認している。しかし、新マレショーセ設立を命じる1720年3月の王令から1年で、しかも新規採用者を中心に隊員をリクルートしたためか、新組織発足から10年あまりの間は隊員の交代が頻繁に生じており、マレショーセが質の高い隊員を確保し、安定的に運営できるようになるまでには一定の歳月を要したと考えられる。次に財政的基盤であるが、オート=ノルマンディーの場合、組織の維持・運営に必要な活動経費を除き、成員に支払う給与総額だけで63,100リーヴルに上る。この経費を負担したのは地元民であり、彼らに課される直接税に組み込まれるかたちでマレショーセ関連費用は徴収された。しかし、具体的な割当額や徴収方法が確立したのはようやく1722年になってからである。活動面についても実際に隊員が任務を遂行し、訴訟手続きが始まるまでは8ヶ月程度の時間を要しているという。著者はここで王令の発布と同時に新制度が確立したかのような誤解を戒め、法令と実態の乖離について敏感になる必要性を指摘している。
 第2部は成員という側面からの分析である。まず第4章では将校(プレヴォと副官)およびプレヴォ裁判役人(陪席裁判官、国王検事、書記官)が対象となる。将校は騎馬警官隊を指揮・監督する軍人であるとともに、プレヴォ裁判所において裁判権を行使する裁判官でもある。また、新マレショーセにおいても官職保有者であり続けた。一方、プレヴォ裁判役人は裁判において将校を補佐・監視する文官であり、近隣の国王裁判所の役人職を兼任していた。また1720年の改革によって保有官職から親任官へと移行したポストである。後者の就任手続きに関して将校は一切関与していない。著者によれば、プレヴォに近い人物がこの官職を購入することで両者が結託し汚職に手を染めるといった旧マレショーセの悪弊を防ぐ意図がそこにはあったという。さらに制度上瑕疵のある手続きが行われた場合もプレヴォ裁判役人はこれを破棄させる等の役目を担っていたし、判決内容を実質的に決定したのも彼らであった。そこから著者は、プレヴォ裁判役人とりわけ国王検事が裁判の監視役であったとしている。一方、彼らに監視される側の将校であるが、騎馬警官隊を指揮するこの地位に就任するには有能さに加え、4年間以上の軍務経験が条件とされていた。この条件は必ずしも厳密に適用されたわけではないが、王権が彼らに何を求めたかを示している。著者はさらに実際に将校の人選が行われた事例を取り上げることで、王権が将校に要求した資質を明らかにしていく。それによれば勤務態度、指揮官としての資質、人柄・素行、財力、出身社会層、頑健さといった要素に加え、裁判官としての能力も挙げられてはいるが、最後の点についてはプレヴォ裁判役人の補佐を期待できるとして軍務能力ほど重視はされていないという。つまり彼らは形式的にはプレヴォ裁判所において裁判権を行使する立場ではあるが、一義的には軍人であり、彼らに期待されたのは騎馬警官隊の指揮と管理であった。裁判を実質的に担っていたのはプレヴォ裁判役人だったのである。また、保有官職である以上、これを購入するには一定の財力が必要なことは当然だが、それが足かせとなって後任の人選が難航した事例を挙げつつ、著者は、この点では旧マレショーセの欠点は改革後も持ち越されたと評している。また、地方長官の叱責にも関わらず将校が長期間任地を無断で離れた事例を紹介しながら、ここでも問題のある将校を解任できないという売官制の弊害を確認すると同時に、1720年のマレショーセ改革の限界と意義を指摘している。
 第5章から第7章は隊員の分析にあてられる。まず第5章においては隊員の採用条件・手続きが論じられる。隊員の地位はプレヴォ裁判役人と同様にそれまでの保有官職から親任官職へと変更された。こうして隊員の任免権を手中にした王権がどのような人物を、どういった手続きで採用したのかを明らかにすることで、改革の意図がより明確になる。著者によれば隊員の採用に関して品行、身長、読み書き能力、軍隊経験という4つの条件が明示されるのは1760年以降のことだが、1720年においてすでにいくつかの条件は実質的に存在したという。執達吏やプレヴォの奉公人でないこと、決まった住所を有していること、善良な兵士で有能で適切な人物であること、といった16世紀から見られる条件に加え、騎乗馬を自前で調達でき、職務遂行に必要な諸経費の立て替え払いに耐えられる程度の財力が必要であったことは間違いない。一方、採用手続きはプレヴォによる任命状と推薦状の陸軍卿への送付、陸軍卿による親任、プレヴォによる受入と進むのだが、著者が注目するのはこうした手続きを経て決定する新隊員の人選が、多くの場合前任者の退職前に事実上決まっていることである。このことは隊員のポストには多くの希望者がいたこと、また、何らかの事前登録制度があったことを推測させる。さらに著者は情実人事と思われる事例や、事前の人物調査不足ゆえの失敗例を指摘しながらも、採用手続きは概ね規則的かつ迅速に実施されたと評価している。そのうえで隊員の地位が親任官職に変わった結果、中央政府による統制が強まることでプレヴォによる恣意的採用が防止され、採用条件の厳格化が進んだと結論する。しかし、この結論は実際に採用された隊員たちのプロフィールを分析することでより説得的なものとなるだろう。それが第6章が課題であり、著者がここで着目するのは隊員の年齢、身長、軍隊経験である。年齢については採用時26歳から40歳という年齢帯が主要な供給源だとはいえ、隊員の年齢分布の特徴はその幅の広さにあるという。また、改革直後つまり組織が安定する前には比較的年齢層の高い隊員が採用される傾向にあったこと、全体としては隊員の平均年齢は時間の経過によってもさほど変化しておらず、採用に当たっては年齢構成が考慮されたらしいことが明らかにされる。次に身長だが、体格は犯人逮捕に必要な体力という点だけでなく、王権の強制力の担い手としての威圧感という点でも重要な要素であった。1760年の王令は隊員の採用条件として5ピエ4プス(173㎝)の身長を明記しているが、1720年から1750年の間に採用された隊員の4分の3以上はすでにこの条件を満たしていた。ちなみにこれだけの身長を有する者は当時のフランスでは極めて少数であり、マレショーセ隊員の物理的な威圧感が想像される。最後に軍隊経験であるが、1760年まで明確な規定はないとはいえ、騎乗して武器を携帯し、犯罪者と対峙する隊員の職務を考えれば、武器と馬の扱いに習熟していることが望ましいのは言うまでもない。実際、軍隊経験がないことが明らかな隊員は2.2%しかいない。とはいえ、軍隊経験についての記述がない者も4分の1弱存在しており、軍隊経験者だけを採用していたわけではないようだ。また、軍隊経験者でもとくに騎兵経験者が好ましいのは確実だが、軍隊経験者のうちで騎兵だった者は59.2%に留まる。だが、騎兵・竜騎兵は国王軍の25%を占めるに過ぎないことを思えば、この数字は決して小さくはない。兵役期間についてみると3年以上8年未満の者が6割を占める。さらに綿密に分析すると、改革直後には見られた軍隊経験を欠く者の採用は1720年代後半には見られなくなり、同時に、兵役期間が2年に満たない者も採用もされなくなることが分かる。かつ1730年代後半からは兵役4年未満の者の採用もほとんどなくなる。著者はここから、18世紀後半に顕著になるとされるマレショーセの「軍隊化」は1720年の改革直後から始まっていたとする。そのうえで、単に品行や生活態度といった曖昧な基準ではなく、身長や軍隊経験といった客観的基準に基づく隊員の採用が実現していたことに、マレショーセ隊員を親任官に変更したことの意味を見いだしている。
 第7章は採用された後の隊員に対する管理の実態を、在職期間、退職、異動という3つの側面から明らかにする。隊員の地位が保有官職から親任官職に変更された結果、これらの三要素は王権の管理・統制下に置かれることになったはずであり、その検討は1720年の改革の成果を理解する上で欠かせない。まず、在職期間であるが、全隊員に対して予め定められた任期は存在せず、在職期間の幅は極めて広いため、8年6ヶ月強という平均値は余り意味を持たない。むしろ注目すべきは在職期間が4年未満の隊員が四割程度も存在することである。逆に勤続20年を超える者も一割ほどおり、在職期間のばらつきは個人だけでなく班の間にも顕著に見られる。また、ほとんどの班で勤続4年を超える隊員が少なくとも一人は存在しており、業務に必要な経験を欠く新人だけで班が構成される事態は回避されているとはいえ、全体として政府が退職や異動を統制した様子はなく、その意味で在職期間を通じた隊員の管理はなされていない。隊員の任免権を手中にしながら政府が在職期間を統制しなかったことについて著者は、改革の目的がより有能な人材の登用と不適格者の排除にあったからであり、その意味で政府は採用と免職に対するほどには在職期間に関心を払わなかったのだろうとしている。そこで著者は次に退職者に注目し、自発的な辞職ではなく、免職された事例を検討することで政府による統制の実態を示そうとする。それによれば改革以降、プレヴォが作成する閲兵記録の備考欄には隊員に対する評価が詳しく記されるようになり、プレヴォ、地方長官、陸軍卿の三者は隊員についての情報を共有するようになったという。そのうえで隊員の免職が決定されるわけだが、たとえプレヴォが免職すべきと判断した場合でも、陸軍卿が地方長官に再調査を命じることもあった。つまり、現場の責任者であるプレヴォが免職の判断において重要な役割を担うとはいえ、最終的な判断を下す権限はあくまで王権が握っていたのであり、プレヴォが任免権を恣意的に運用することで隊員を私兵化することは不可能だった。この意味で隊員はあくまで国王に従属する存在であった。実際に免職・解任された理由を見ると犯罪への関与、軍律違反、職場放棄、勤務態度や日常の生活態度の悪さ、障害・怪我・病気などの身体的理由などであり、1760年までにその数は90名に上る。つまり王権は相当数の不適格者を積極的に排除することで隊員の質を維持しようと努めていたと考えられる。最後に取り上げられる異動も王権による隊員の統制を知る上で重要である。売官制のもとでは昇進という概念は馴染まない。昇進は実際にはより上級の官職への買い換えにすぎず、そこには王権の統制が及ぶ余地はほとんどない。親任官職だからこそ王権は昇進という手段を用いて隊員を統制できるのである。王令では班長や班長補佐への昇進は勤続年数に基づいて行われることが規定されているが、実際には現場での個別の判断が優先された。その際、プレヴォが昇進人事の提案を行い、地方長官と陸軍卿がそれを検討するという手順が取られ、昇進に当たっては勤務態度、経験、職務上の能力といった点が重視されていた。しかし、著者によればプレヴォの隊員に対するパトロン意識や有力者による庇護といった要因は、時に公正な人事の障害となったという。このように不十分な側面があったことは認めながらも、著者は、地方長官が昇任人事を隊員の管理に役立てようとする意図を明確に持っていたこと、および不適格者を確実に排除しようとしていたことをむしろ重視し、そこにマレショーセ隊員への親任官制の導入の意味を見いだしている。
 最後に総括では、以上のような1720年のマレショーセ改革の意義が論じられる。まず再編された新マレショーセが地方長官の指揮下に組み込まれることで、地方統治における絶大な権限を与えられながらも十分な数の部下を欠いていた地方長官は、自ら動員できる警察力を管轄区内に張り巡らせることができるようになった。次に、制服を身につけ幹線道路や田園地帯を巡回するマレショーセ隊員たちの姿は秩序維持を担う王権のイメージを可視化するとともに王権によって監視されているという意識を住人に植え付けた。また、プレヴォ裁判役人と隊員の親任官制への変更によって、マレショーセは近代的な官僚制を志向する王権の論理と保有官職者というアンシャン・レジーム特有の社団の論理とが併存しつつも、やがて前者が優勢になる組織となった。ここには社団的編成に基づく社会を強引に変革しようとするのではなく、王権の論理に徐々に取り込むことで自らの意志を効率的に実現しようとする王権の意図が見られるという。その意味でマレショーセ改革は硬直化した官僚制に風穴を開けようとする試みなのであり、ひいては絶対王政の統治構造そのもの改革を志向する政府の姿勢を示しているとされる。
 
3 本論文の成果と問題点
 本論の成果として指摘すべきは以下の点である。
 まず第一に緻密な史料調査に基づいて1720年におけるマレショーセ改革の実態を詳細に解明した点を挙げなければならない。対象となったオート=ノルマンディーのマレショーセ関連史料に関する調査の徹底ぶりとそこから得られた該博な知識は圧倒的であり、本論文の高い学問的水準を支えている。とくにその成員に関する大量のデータを丹念に分析すると同時に、採用・異動・退職等に関する手続きの実態を追うことで明らかとなる組織の実態解明は、これまでのマレショーセ研究がなしえなかった重要な業績であると言える。また、巻末に付された史料集は今後のマレショーセ研究の土台となるべき貴重な成果である。
 次に、保有官職から親任官職への転換を成し遂げたことでこの改革がアンシャン・レジームにおける官僚制において有した意義を具体的に明らかにした点が指摘できる。売官制に基づく保有官職制は官職の私物化とそれに付随する弊害を避けることができない。著者は、1720年の改革によってマレショーセがこうしたいわば前近代的な悪弊を脱し、王に直属し、政府による統制が可能な組織へと変貌した様を具体的に明らかにした。同時にそのことを通じて政府は成員の質の確保にも成功している。王権による支配の貫徹という観点から見た場合、王権が自ら制御できる有能な官僚組織をいかに作り上げるかという問題はアンシャン・レジーム社会を考察する上で重要なテーマである。さらにこの問題と関連して著者は、家門や財産あるいはパトロン・クライアント関係によるのではなく、個人の能力による社会的上昇を基本とするメリトクラシー原理の台頭や、とくに軍隊内部におけるプロ化・専門化の進行の端緒はすでにこのときの改革時に現れていたことを示唆している。これらの動きは18世紀半ば以降に顕著になるとされていたものであり、この点でも著者はアンシャン・レジーム社会の変容との関係で興味深い論点を提示している。
 さらに1720年のマレショーセ改革を17世紀から続くポリス改革の延長として捉えた点を評価したい。著者はそれを「司法による統治から行政による統治へ」と表現しているが、その要点は、実際に起きた犯罪を裁判によって処罰することから犯罪を予防することへと秩序維持の力点が移動していったことにある。同時にこうした変化は王権の支配が空間的に拡大されてこそ効果を発揮するのであり、その点で著者はこの改革をルイ14世時代から続く王権による支配の拡大と強化という流れの中に位置づけ、その意味を明確にしたと言える。
 とはいえ、以下のような問題点も指摘すべきであろう。
 ひとつは、1720年の改革に焦点を当て、詳細に分析することを主目的としたために、そこから明らかとなる問題点が改革直後の移行期に特有の問題であるのか、長期的・構造的な問題であるのか判然としない場合が見受けられることである。また、豊富なデータによって示される細かな事実が全体のテーマの中でどうような位置にあるのか明確でない事例もある。いずれの問題も史料への没頭ゆえに生じたものであるが、今後の改善が望まれる。
 次にマレショーセの組織・成員・手続に関する見事な調査に比べ、マレショーセの活動実態についての叙述が薄い印象は否めない。もちろん、マレショーセ関連史料には時期やテーマによって欠落が大きく、史料の残存状況が均一ではないという問題が大きいのであるが、マレショーセ隊員が日常的にパトロールすること自体が住人にとって王権支配を意識させる機能を果たしたという興味深い指摘を考えると、この点での記述の少なさは残念である。
 最後に、17世紀以来のポリス改革の延長としてこの改革を捉える一方で、18世紀後半に本格化する軍制改革やモプーの改革との関連が十分に論じられていない。これらは軍と司法における売官制の廃止に向けて大胆に踏み込もうとした試みであり、その意味では本論のテーマと密接な関わりを持つはずである。こうした改革を行おうとしたとき、半世紀前のマレショーセ改革はどのように理解されていたのか問われるべきではないだろうか。
 ただし、著者もこうした問題点は十分に自覚しており、今後の課題としていることでもあり、これからの研究の進展に期待したい。
 
4 結論
 審査員一同は、上記のような評価と、2011年6月15日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2011年7月13日

 2011年6月15日、学位請求論文提出者正本忍氏の論文についての最終試験を行った。試験においては審査委員が、提出論文「18世紀前半期(1720~1750年)のオート=ノルマンディー地方のマレショーセ—フランス絶対王政の統治システムにおけるマレショーセ改革(1720年)の意義—」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、正本忍氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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