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博士論文審査要旨

論文題目:近代中国東北地域における稲作農業の展開と朝鮮人移民 ―1920~1930年代を中心に―
著者:朴 敬玉 (PIAO, Jingyu)
論文審査委員:佐藤 仁史・糟谷 憲一・吉田 裕・江夏 由樹

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一 本論文の構成

 近年、中国東北地方は新興開発地としての性格が注目され、地域史研究の領域においては、開発がもたらした森林など生態環境の改変、移住の経緯や実態、鉄道の敷設による独特な地域経済の形成などの実証分析が進められている。これらに加えて、植民地研究の領域においては、南満洲鉄道株式会社や満洲国による東北地方支配の実態に関して厚い研究蓄積がある。しかしながら、様々なテーマの中で取り上げられてきた漢人や日本人の動向に比して、中国東北地方の朝鮮人はほとんど俎上にあげられないか、そうでなくとも付随的に言及されるに留まってきた。本論文は、1920年代から1930年代にかけての朝鮮人移民の存在に着目し、その移住・定住の過程を解明するのと同時に、朝鮮人移民がもちこんだ水田耕作技術がどのように展開し、そのことが中国東北地方における社会関係にどのような特徴をもたらしたのか、中国東北地方内部にはどのような地域差があったのか、朝鮮人移民や水田耕作に対して民国期の地方政権や満洲国、朝鮮総督府は如何なる政策を実施したのかの諸点に検討を加えたものである。満洲国期における支配―被支配という関係においては微妙な立場に置かれた朝鮮人移民について、二項対立的な観点を一旦棚上げにして堅実な実証を行うことで多くの新たな史実を掘り起こしたばかりでなく、中国東北地方における朝鮮人移民に関する「二系列移動」説を覆す観点を唱える有意義な論文である。
 本論文の構成は次の通りである。

序章
  Ⅰ 問題意識と研究課題
  Ⅱ 先行研究の整理
  Ⅲ 史料と論文の構成
第1部 1920年代までの朝鮮人移民の増加と水田開発
第1章 1910~1920年代、中国東北地域における移民の増加
 はじめに
Ⅰ 中国東北地域の移民開発ブーム
 Ⅱ 日本の朝鮮における植民地統治と朝鮮人移民の増加
 おわりに
第2章 朝鮮人移民の移住にともなう稲作農業の展開
はじめに
Ⅰ 南満地域における水田耕作の展開
  Ⅱ 中満地域における水田耕作の展開
  Ⅲ 北満地域における水田耕作の展開
  Ⅳ 1920年代の朝鮮人移民数と水田面積及び米の品種
  おわりに
第3章 農民層の社会的分化と営農実態
はじめに
  Ⅰ 各地における小作関係と営農実態
  Ⅱ 農民層の社会的分化と土地所有状況
  おわりに
第2部 満洲事変以降、北満地域における稲作農業の展開
第4章 満洲国前期の米穀政策と米生産の実態
  はじめに
Ⅰ 満洲国前期の米穀政策
  Ⅱ 日本の農事指導と米の品種問題
  Ⅲ 米生産の実態
  おわりに
第5章 満洲国成立以降、朝鮮人移民政策と移住の実態
  はじめに
Ⅰ 朝鮮人移民政策と集団移民
  Ⅱ 朝鮮移民の増加
  Ⅲ 朝鮮人移民の農村金融
  Ⅳ 寧安県における朝鮮人事情
  おわりに
第6章 満洲国における「安全農村」の建設と朝鮮人農民
――濱江省珠河県河東村を中心に
  はじめに
Ⅰ 満洲国における安全農村の建設
  Ⅱ 河東安全農村成立経緯
  Ⅲ 営農状況と金融
  おわりに
第7章 北満における水田及び畑作経営
――「北安省海倫県瑞穂村調査報告」による事例検討
  はじめに
  Ⅰ 瑞穂村沿革と概要
  Ⅱ 土地所有関係及び農作物の作付
 おわりに
終章
  Ⅰ 各章の成果
  Ⅱ 本論文の結論
  Ⅲ 本論文の意義
参考文献

二 本論文の要旨

 序章は先行研究の整理と論文の問題設定に充てられている。本論文の主題である中国東北地方における朝鮮人移民の移住過程と彼らの主要な生業である水田耕作の展開は、漢人や日本人を中心として検討されてきた中国東北地域史研究においては「傍流」としてみなされてきており、実証研究が十分に蓄積してきたとはいえない状況にある。本論文は、先行研究の空白を埋めるべく実証分析によって史実の掘り起こしを行うばかりでなく、朝鮮人移民と水田耕作の展開という視角から、近代中国東北地方史研究、朝鮮人移民史研究、近代日本植民地史研究といった諸分野を統一的に把握する枠組を提出するための素材を提供することをも意図するものである。また、支配―被支配という関係性や民族独立運動の枠組の中で捉えられがちであった朝鮮人移民を、農業技術や生活史といった視点から捉え直さんとすることも本論文の柱の1つである。
 具体的な論点は、①朝鮮人移民の移住過程、②中国東北農村社会の社会関係、③米の品種の地域性が挙げられている。第1は、清朝末期より始まった朝鮮人移民の移住の実態について、移住先である中国東北地方を「南満」「中満」「北満」と分類し、送出地を北部朝鮮と南部朝鮮とに分けることで、移住に作用するプッシュ因とプル因とを明示的に考察する点が特徴である。このことは、従来の研究において指摘されてきた朝鮮人移民の「二系列移動」説を批判的に検討することにもつながる。また、東北地方政権や満洲国政府、朝鮮総督府、日本国政府が朝鮮人移民に対して如何なる対応をとっていたのかも移住に働く要因として検討される。
 第2は、朝鮮人移民を取り巻く社会関係についてである。清末、民国初期、南京政府期、満洲国期にそれぞれ政権の主体が変更したことによって、朝鮮人移民の法的地位はめまぐるしく変化し、極めて不安定な状態に置かれていた。特に土地所有権の認められた間島地方以外においては、漢人地主や日本資本の会社から土地を借り入れて耕作しなくてはならなかったため、地主との関係はいかなるものであったのか、いかなる条件のもとで小作をしたのか、何を耕作することで収益をあげていたのかが重要な分析課題となる。また、生産活動を支える相互扶助はどのように成り立っていたのかも検討されなければならない。
 第3は、米の品種の地域性についてである。中国東北地方の開発は北進という方向をとったため、南満では容易に移植できた朝鮮在来品種が、寒冷地である北満の開発に際しては用いることが出来なかった。そのためにどのような品種が選ばれたのであろうか。また、移住元である朝鮮半島における栽培植物や米の品種、耕作方式が移住先においても継承されたとする従来の説が必ずしも妥当ではなく、移民達は移住先の諸条件に適応して生業のあり方を選択していたという視点からの検討の必要性を提起している。
 本論は全2部より構成されている。第1部では、清朝や東北地方政権の統治期における朝鮮人移民の増加と水田開発の展開、農村社会における階層分化進展について、地域間の違いを意識しつつ検討している。
 第1章は、辛亥革命以降から満洲事変に至るまでの時期における華北移民の数的増加や分布について概観した上で、朝鮮における日本の植民地統治から朝鮮人移民が生み出された背景を踏まえて、朝鮮人移民の移住状況や移住形態、移住動機などについて考察するものである。
 民国初期、東北地方政権は土地の払い下げや移民の積極的誘致に関する章程や規則を次々と頒布することで、華北移民の中国東北地方への移住を促した。政権の意図は土地の払い下げから巨額の収入を得るとともに、払い下げ地域の土地や民衆を自己の政治的、経済的支配のもとに再編成することにあった。また、華北農村における耕地の欠乏、軍閥戦争や自然災害といった状況は大量の移民を生み出した。
 朝鮮半島に目を転じれば、農村社会の疲弊により主に北部朝鮮から朝鮮人移民が発生し、清朝末期から国境を越えて農地開墾を行うようになった。韓国併合後、1910年から1918年まで実施された土地調査事業と1920年から遂行された産米増殖計画により、朝鮮人農民の自作農・自小作農の土地喪失・貧窮化過程が急速に進展したことも相俟って、中国東北地域へ朝鮮人移民の移住は増加し続けた。中国東北地方における朝鮮人移民の大多数は農業に従事していたため、家族単位の移住が最も普遍的であった点が同時期における朝鮮人の日本内地への渡航とは相当異なる特徴である。
 第2章は、気候条件など生態環境を踏まえて中国東北地方を南満、中満、北満に分類し、朝鮮人移民の移住経過を導入された水稲栽培法や品種について分析することを通して、移民の移住パターンと地域性に関する通説を再検討するものである。
 水田耕作と米の品種からは中国東北地方内部には次のような地域間の差異が浮かび挙がってくる。①最も早くから水田耕作が行われた南満地域においては、1910年代後半以降は漢人の水田耕作への参入が目立つようになった。奉天省の朝鮮人数に比べて、水田面積は全東北地域において相当大きな割合を占めており、すでに多くの漢人農民が水田を営んでいた。このことは朝鮮人移民がほかの地域へ再移住する要因でもあった。南満で栽培されたのはほとんどが朝鮮在来種であった事実は水田耕作を持ち込んだのが朝鮮人移民であることを示している。②中満に分類される間島地域は、中国東北地方における朝鮮人の約65%が居住する特異な地域であったが、1921年における水田耕作地は東北地域の13%ほどしか占めるに過ぎなかった。これは丘陵地が多い地勢の特徴と米の品種の問題があったからである。しかし、間島地域でも青森県産の小田代などを導入した結果、1920年代の後半には水田面積が大幅に増加した。③北満地域は吉林省を中心に1920年代に水田面積が大幅に増加した。南満地域とは違って北満ではほとんど朝鮮人農民によって水田耕作が行われた。品種は小田代よりはるかに寒冷に強い札幌赤毛がほとんどであった。
 第3章では、農耕開発が最も早期から行われ、小作条件が徐々に厳しくなっていった南満地域、朝鮮人移民が最も集中した間島地域、多くの移民の再移住地となった北満地域とに分け、朝鮮人移民の土地所有状況や小作関係、作物の栽培と生活状況について検討されている。
 中国東北地方の開発ブームのなかで越境してきた朝鮮人移民の土地所有状況や小作関係は地域によって相当な差異がみられた。南満地域においては、1920年代後半から小作期間の短縮による小作関係の不安定が目立った。間島地域では間島協約第5条によって朝鮮人の土地所有権が保護されるようになったため佃民制度が形成され、帰化朝鮮人の名義で数人ないし数十人が一つの地券を獲得することが可能となった。他方、新開墾地とも言える北満地域では小作人にとって有利な小作関係が形成されたため、朝鮮人移民は小作条件が厳しくなった南満地域や取り締まりが厳しくなった間島地域、疲弊した朝鮮の農村部から、徐々に北満地域へ移住するようになった。漢人移民の北満への移住も急増し、その数は中国東北地方への移民全体の過半数を占めるに至った。このように、華北移民や朝鮮人移民が東北地方へ移住するにあたって、土地が開発され始めた時期や交通条件の差異などにより、各地における初期条件には大きな差異が見られ、このことが土地所有状況や小作関係などに直接反映されたのである。
 第2部では満洲国統治下の北満地域における稲作農業の展開について、移住の実態や満洲国政府の農業・移民政策との関連から論じる。
 第4章は、満洲国前期の米穀政策と米穀の需給状況について概観し、奨励品種ではないが広く栽培されていた米品種と奨励品種の特質、栽培の分布状況について南満・中満・北満にわけて考察するものである
 満洲国成立後、日本の陸軍省は軍用米の現地調達と日本開拓団の営農安定という観点から満洲国における米増産の必要性を唱えていた。しかし、農林省は日本国内の米穀事情から満洲産米が日本内地米を圧迫することを危惧していたため、両者の対立は激化していった。かかる事情は満洲国における米穀統制がいち早く実施される重要な要因でもあった。しかしながら、1939年には満洲国の食糧・農産物増産へと政策転換がなされ、1940年6月に満洲国産業部は興農部に改編されたため、農産物増産は最重要国策となった。
 米の増産に消極的政策が採られていた1930年代においても、満鉄試験場の技師らによる品種開発は着実に進んでいった。南満地域においては品種の多様化が進展したが、京租といった在来品種が依然として優勢であった。これに対して、北満地域では札幌赤毛を改良した北海が絶対的に優位であった。1932年には優良品種がすでに総作付面積の76.6%を占めていた朝鮮半島に比べると、まだ初期段階に置かれていた点に満洲における優良品種の普及状況の特徴を見いだせる。
 第5章は、1930年代の満洲国における朝鮮人移民政策と朝鮮人移民の分布状況を概観した上で、朝鮮人移民が満洲国政府の移民政策に直接影響されずに急速に増加していく実態を、朝鮮総督府の支援を受けていた在満朝鮮人組織に注目して分析するものである。
 満洲事変から1939年までの時期に満洲国政府が朝鮮人移民に対して採った政策は、放任期(1931~1935年)、統制期(1936~1939年)と時期によって全く異なっていた。しかしながら、朝鮮半島農村の過剰人口の排出によって、在満朝鮮人人口は増加傾向にあった。1930年代後半以降は国策により進められた集団移民政策によって朝鮮南部出身の朝鮮人農民が急増した。これによって満洲における米生産は更に増加した。
 1930年代における米の生産には、朝鮮の如き植民地権力による強力な「指導」は存在しなかったものの、東亜勧業株式会社や満鮮拓植株式会社といった国策会社と、朝鮮総督府の「指導」を受けていた農務契など在満朝鮮人の諸組織は水田耕作に必要な資金を提供した。このことが多くの朝鮮人農民の満洲への移住を促したのと同時に、在満朝鮮人社会に対する統制を強化することにも繋がっていったのである。
 第6章では、水田開発が比較的遅れていた北満地域に位置する濱江省珠河県河東村において、朝鮮総督府の支援の下で設立された一大水田集団農場である「安全農村」の存在に着目し、その設立過程、土地の買収、村落の組織、営農実態を検討することを通して、満洲国期における農村政策の一側面を分析している。
 満洲国前期には、日本の米市場への影響から日本の農林省は満洲の米増産への懸念を強く表明していた。しかしながら、東亜勧業や満鮮拓殖株式会社などの国策会社は朝鮮人移民に対する営農資金を供与し、買収した土地に対して年賦償還を前提に貸し出した。朝鮮人安全農村の元来の趣旨は、満洲事変や自然災害による朝鮮人避難民たちを収容し、満洲在住の朝鮮人を自作農化する点にあった。官によって進められた集団移民政策の実施は多くの朝鮮人の移住を促す結果となった。
 河東村においては朝鮮総督府の多大な援助を背景に、他地域では見られない大規模な灌漑設備の整備が着実に進められた。その結果、1940年の水田面積は1933年の2倍以上に増加した。これに加えて、安全農村における金融会と農務契連合会の設置により、農村の末端である各部落まで中央の統制機構が整備されるようになった。しかしながら、自作農創定政策が行われたものの、年賦償還金の重圧もあって移民は事実上日本の植民会社の小作人に転落し、一時は村を離れる農民も現れるなど設立目的の達成は困難であった。
 第7章は、1939年に満鉄新京調査室が行った北安省海倫県海北鎮瑞穂村調査報告を用いて、朝鮮人農家の移住過程、各農家群における土地所有関係と農作物の作付について検討し、朝鮮人農家と漢人農家における労働力の相互依存関係という北満農村の特徴を描き出している。
 1929年に始まった瑞穂村善牧農場における水田開発は海北鎮のカトリック教会と漢人有力者の支援によって進められた。善牧農場の朝鮮人農家についていえば、創立者である鄭駿秀の出身地である慶尚北道の出身者が半数以上を占めていたことは、当時の移住において果たした人的ネットワークの具体像を示している。
 漢人農家においては、経営面積が大きいほど農作物の種類は多種多様になり、経営様式は多角化していたが、経営面積1晌以下の貧農は最少限度の自家用の食料や飼料を確保することが前提となった。北満における朝鮮人農民のほとんどが小作人として稲作に従事していたため、経営面積の大きい漢人農家が稲作を営む際に稲作に熟練した労働力を確保することが極めて困難であった。かかる状況は南満に最も近い平安北道から季節毎に必要な労働力を求めることができた南満地域とは相当異なっていたのである。
 水稲という単一商品作物の経営に特化されていた朝鮮人農家の経営が成立し得たのは、水利施設の充実や雇農確保のための交通の便に加え、畑作の大規模経営を主とする漢人農家との間において労働力を必要とする時期が異なるために、彼らとの労働力における相互依存関係が可能であったからである。
 終章では、各章における分析結果を総合した上で、①朝鮮人移民が稲作農業を媒介として中国東北地方に移住する過程について通説への再考を迫る実証分析を行ったこと、②中国東北地方を南満、中満、北満の3地域に分類して分析したことで、朝鮮人移民と漢人農家、統治機構との間に多様な関係性があったことを解明したこと、③米の品種や経営の実態という農業史の観点から中国東北地方内部の地域性を考察したことを本論文の研究意義と結論づけている。

三 評価と判定

 本論文は、手堅く緻密な実証面における貢献を中心として、近代中国東北史研究を着実に進展させた有意義な論文として評価することできる。本論文の成果は次の5点である。
 第1は、近代中国東北地方の開発史を捉える新しい枠組の必要性を提起している点である。近代中国東北地方における朝鮮人移民については、松村高夫が夙に指摘した「二系列移動」説が強い影響力を有してきた。すなわち、南部朝鮮から水田米作技術を媒介とした西間島地方や中満・北満地方への移動と、北部朝鮮から畑作技術を媒介とした北間島地方への移動があったとする説である。これに対して、本論文では、気候や農業地理の区分に基づいて中国東北地方を南満、中満、北満の3地域に分け、①北部朝鮮からの移民は南満や間島(中満)に移住して水田耕作に従事したこと、②間島協約によって朝鮮人の土地所有が認められた間島では朝鮮人移民の数が突出していたこと、③南満における規制強化や漢人との矛盾の激化、収益の低下から北満に再移住する潮流が形成されたこと、④南部朝鮮から北満への移住は1930年代以降に優勢になることなどの新事実を明らかにしている。かかる作業は、満洲内部の地域性と時代区分を緻密にした上で、より包括的に開発過程を捉える枠組を構築するために不可欠であり、本論文最大の成果の1つである。
 第2は、移民と密接な関係にあった水田耕作技術という切り口から接近する農業史研究という側面である。筆者が満洲を3地域に分類する理由は稲作農業の形態や品種と深い関係にあるからである。朝鮮人移民の移住初期においては朝鮮北部の直播栽培(水耕直播及び乾田直播)が持ち込まれ、南満ですら田植栽培法は極めてまれであった。栽培品種も京租や光頭児といった朝鮮在来品種であったのに対し、無霜期間の短い中満や北満においては、満鉄による水利施設の建設や農事試験場が配布した北海、田泰などの日本品種が優勢を占めたことが明らかにされている。先に述べたように、南満に移住した移民は、北満に再移住するという流れもあったから、移住元からの持ち込んだ農業技術は移住先の環境に合わせて変化していったのである。再移住の視点からかような事実を丹念に調べ上げたことは、筆者が提示する地域区分の有効性を高めている。
 第3は、移民をとりまく様々な社会関係に対する新しい視点の提示である。移住初期にあたる清朝末期や民国初期の地方政権下においては、間島協約によって間島における土地所有権が認められていたのを除き、朝鮮人移民には土地所有権がみとめられなかった。したがって、もっぱら小作人や雇農として漢人地主との関係を築く必要があったことが述べられている。かかる生産関係はややもすれば漢人と朝鮮人移民との階級的民族的対立や矛盾の側面のみが強調されがちであったが、本論文第7章において検討されている経営面積、作付作物の種類、作付割合などのデータから、畑作を主とする漢人農家と水稲の単一経営に特化していた朝鮮人農家との間では雇農などの労働力を必要とするピークが異なることから、労働力の面において相互依存関係が可能であったという示唆に富む提言をしている。ただ、一村落のデータに即した個別事例が主張の根拠となっているので、この提言が北満農村にどれだけの普遍性を有するかは今後さらなる分析が必要である。
 第4は、朝鮮人移民に対する様々な統治主体の思惑に違いについてである。1930年代には朝鮮人移民をどのように扱うかについて関東軍、朝鮮総督府、満洲国政府、満鉄の間に異なる意見があったことは興味深い事実である。関東軍や満鉄が治安維持や日本国内の過剰人口の吸収することを優先する立場から朝鮮人移民に反対したのに対して、朝鮮総督府は朝鮮における民族矛盾や生産関係の矛盾から過剰人口を満洲に移住させることに賛成であったという点に、当時の朝鮮人移住に対する流動的な状況を看取することができよう。その後、満洲国政府は集団移民、集合移民、分散移民などの形態によって移住を推進することになった。なお、朝鮮総督府による「安全農村」の建設は朝鮮人移民による抗日運動対策という意図があり、政策が目指した自作農創出は実現しなかったものの、建設された灌漑施設の整備はその後の農業発展に一定の役割を果たしたと指摘している。
 第5は、多言語文献の駆使、口述調査の利用という研究手法上での工夫である。民国初期の地方政権時期と満洲国期を主要対象とする本論文は中文史料と日文史料とをそれぞれ利用することが不可欠である。本論文では民国初期の地方檔案と満鉄や満洲国による各種調査史料が活用されている。また、官製の文献史料にはあらわれない農村における種々の慣行や住民の経験に迫るために、「安全農村」や満鉄による調査対象である農村に赴いて実施された口述調査の成果が利用されている点も注目に値する。
 以上のように本論文の成果が学界に寄与する点は多いが、同時に今後克服すべき幾つかの問題点もまた指摘できる。
 第1は、朝鮮人移民をとりまく社会関係にさらに踏み込んで分析するべき点である。本論において朝鮮人移民は家族単位での移住をしたことが言及されているが、家族単位の移住を可能ならしめた背景についてはほとんど述べられることがない。移住先においては、朝鮮半島における農村扶助組織である「契」に類似した農務契が組織されたことに大きな意義が見いだされているが、朝鮮半島との比較を含めた実証が不十分なために実態が明らかにされておらず、その性質を判断するのは依然困難なのが事実である。満洲の農務契の機能をみてみると、むしろ上から整備された村落統治の機構と捉えるほうが自然ではないだろうか。また、朝鮮人移民が耕地を租借する際に漢人地主との仲介をした、中間地主や「把頭」は移民社会の社会関係を考える上で鍵となる存在であるように思われるが、簡単に言及されるにとどまっている。
 第2は、満洲国統治における朝鮮人移民の位置づけについてである。本論文の意図の1つに、従来支配―被支配という二項対立の関係や民族独立運動史の観点から分析されていた朝鮮人移民を、農業技術史や生活史の角度から捉え直すことがあり、本論文はその目的を相当程度達成しているように思われる。しかしながら、その一方で日本の満洲支配の尖兵としての朝鮮人という事実も動かしがたいように思われる。本論で取り上げられている「安全農村」や基層社会における漢人農家と朝鮮人農家の相互依存関係は、満洲国や関東軍による支配という大状況があってこそ成立し得た状況であるとも読めるからである。中国東北地方において朝鮮人は「二鬼子」(日本人の手先)と蔑称されていた事実もこのことの証左であろう。
 第3は、史料操作の問題である。本論文では実に多様な史料が駆使されているが、それぞれの史料がどのように成立したのか、個別の引用史料は誰がどのような意図で発言していたのといった点が十分に踏まえられていない箇所がみうけられる。また、全編にわたって数多く使用されている数値や図表についても同様のことがいえる。移住や農家経営に関するこれらの数字の多くは満鉄や満洲国などによって行われた「実態調査」の報告書から引き出されたものであるが、調査のあり方や数値の妥当性を検討せずに使用することは、論証の土台を崩しかねないだけに慎重な扱いが必要であろう。
 本論文はかような課題を残しつつも、これらは全て本人のすでに自覚するところでもあり、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。緻密かつ丁寧な実証によって少なからぬ新事実を明らかにした本論文は、上述の問題点を克服すれば公刊に値する水準に達していると思われる。
 以上のように、審査員一同は本論文が当該分野の研究に大きく寄与しうる成果を挙げたと認め、朴敬玉氏に対して一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2011年7月13日

 平成23年6月1日、博士学位請求論文提出者朴敬玉氏の論文に対して最終試験を行った。試験においては、提出論文「近代中国東北地域における稲作農業の展開と朝鮮人移民――1920~1930年代を中心に」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対して、朴敬玉氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は朴敬玉氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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