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博士論文審査要旨

論文題目:解釈レベルが楽観的な予測に及ぼす影響
著者:樋口 収 (HIGUCHI, Osamu)
論文審査委員:村田 光二・稲葉 哲郎・大坪 俊通・竹内 幹

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1.本論文の構成
 本論文は、人が楽観的な予測をしやすい理由について、解釈レベル理論の観点から予測を立て、大学生を対象に実験を実施して解明を目指したものである。解釈レベル理論では、大別して2つの情報処理過程(具体的な解釈と抽象的な解釈に基づくもの)があり,各過程によって着目する情報の抽象度が異なることが指摘されている。この議論にもとづいて、将来を予測するときには抽象的な解釈が行われ、抽象的な情報(行為の目標)の方が具体的な情報(目標達成の障害)よりも考慮されやすく、楽観的な予測が行われやすいという仮説を導出した。そして、8つの実験と調査を通じてこの仮説を検討して、仮説を支持する結果を得た。その上で、本研究の成果をまとめ、研究の意義と限界、今後の展望について議論がなされている。その構成は、以下のとおりである。

第Ⅰ部 問題
序章 
0-1 はじめに
 0-2  本論文の構成
第1章 将来に関する楽観的な予測
 1-1  はじめに
1-2 非現実的な楽観主義
第2章 解釈レベルが楽観的な予測に及ぼす影響
 2-1  はじめに
 2-2  解釈レベル理論
 2-3  本研究の視点
第3章 実験の目的と概要
 3-1  実験の目的
 3-2  実験の概要
第Ⅱ部 実証的検討
第4章 解釈レベルが判断で着目される情報の抽象度に及ぼす影響
 4-1  実験1
 4-2  実験2
 4-3  実験3
 4-4  実験4
 4-5  全体考察
第5章 解釈レベルと達成目標が楽観的な予測に及ぼす影響
 5-1  実験5
 5-2  実験6
 5-3  実験7
 5-4  実験8
 5-5  全体考察
第Ⅲ部 総合考察
第6章 総合考察
 6-1  知見のまとめ
 6-2  本研究の意義
 6-3  本研究の示唆と今後の展望
 6-4  結論


2.本論文の概要
 第Ⅰ部序章では、問題部分の内容を概観し、楽観的予測の生起メカニズムに関する新たな視点として、予測時の解釈レベルに注目することを述べている。その上で、論文全体の構成について簡潔に記述している。
 第1章「将来に関する楽観的な予測」では、まず、本論文で扱う楽観的な予測とは、実際よりもポジティブに遂行を予測することを指すと述べる。これまでの研究では、予測時に内部視点をとりやすいため楽観的な予測が生じると説明されてきた。内部視点とは、予測する事象特有の情報に着目する視点のことであり、その場合には当該情報以外の情報には着目しにくくなるとされている。本論文で扱われている学業課題を例として説明すると、ある課題の遂行計画を立てるとき、その課題の内容やその課題に対するやる気などにもとづいて計画を立てやすい。他方で、当該課題以外のことや課題遂行上の障害(例えば、友だちとの遊び)は考慮されにくく、結果として楽観的な予測になりやすいということである。著者は、予測時には内部視点をとりやすいという実証研究をレビューするとともに、これまでの研究では、予測をする際、なぜ内部視点をとりやすいのか明らかになっていないという問題を指摘している。そして、本論文ではこの問題を、予測時の解釈レベルの観点から解明すると述べている。
 第2章「解釈レベルが楽観的な予測に及ぼす影響」では、解釈レベルとは記憶表象の階層構造に対応したものであり、抽象的な解釈をするときほど、上位表象から判断ターゲットを捉えるものと説明している。また判断をする際の解釈レベルは、現在の自己と判断対象との心理的距離感(時間的距離感や空間的距離感)に応じて決まり、距離感が遠いほど、抽象的な解釈が行われやすいという解釈レベル理論の知見を概観している。とくに著者は、こうした解釈の違いに応じて、判断する際に着目する情報が異なり、抽象的な解釈をするときほど抽象的な情報に着目しやすいという知見に注目した。というのも、目標は一般に抽象的な情報として捉えることができ、遠い将来を予測するときに抽象的な解釈がなされやすいのであれば、目標に着目しやすいと考えられるからである。ここから、抽象的な解釈をするときには目標実現に沿った楽観的な予測が生じやすいだろう。他方で、具体的な解釈をするときには具体的情報である目標を妨げる障害に着目しやすいので、楽観的な予測は生じにくいだろうという仮説が導けると主張した。
 第3章「実験の目的と概要」では、まず解釈レベルと着目する情報の抽象度の関係について検討した先行研究の問題点を指摘し、改善すべき点を挙げている。その上で、本研究では具体的な情報と抽象的な情報を同時に操作して、結果の解釈のあいまいさを解消すると述べる。また、時間的距離感だけでなく空間的距離感を操作した実験を行って、解釈レベルと着目する情報の抽象度との関係の一般性を高めたいと述べる。これらを4章で示す4つの実験で明らかにするという。そして、時間的距離感が遠く抽象的な解釈をするときほど楽観的な予測になりやすいという本研究の主たる仮説をあらためて述べ、第5章の4つの実験で支持する証拠を示すという。
 第Ⅱ部第4章「解釈レベルが判断で着目される情報の抽象度に及ぼす影響」では、解釈レベルと判断で着目される情報の抽象度との関係について検討した、説得研究のパラダイムを用いた4つの実験を説明している。一般に説得研究では、提示するメッセージに受け手が着目することが説得の必要条件とされる。このことから著者は、もし解釈レベルによって着目する情報が異なるならば、心理的距離感が遠く抽象的な解釈をするときには抽象的なメッセージを提示されたときの方が説得され、心理的距離感が近く具体的な解釈をするときには具体的なメッセージを提示されたときの方が説得されるという仮説を立てた。実験1、実験2では、喫煙によって罹患する病気を具体的メッセージとして提示し、病気の症状がいつ頃現れるかによって時間的距離感を操作して、メッセージを受容する程度を測定した。その結果、いずれの実験においても、時間的距離感が近いときの方が遠いときよりも、提示したメッセージにより説得されていた。続く実験3、実験4では、(架空の)環境破壊に関する具体的あるいは抽象的なメッセージを提示し、その環境破壊が起きている場所までの空間的距離感を測定(実験3)あるいは操作(実験4)した。その結果、いずれの実験においても、空間的距離感が遠いときには抽象的なメッセージを、空間的距離感が近いときには具体的なメッセージを提示したときにより説得されていた。以上の結果は、本研究の仮説を支持するもので、心理的距離感によって(解釈レベルが異なり)、判断で着目される情報の抽象度が異なることが示された。
 第5章「解釈レベルと達成目標が楽観的な予測に及ぼす影響」では、解釈レベルが楽観的な予測に及ぼす影響について検討した4つの実験について説明している。いずれも学業課題(レポートや試験)の文脈で、課題にどれくらい時間を費やすつもりなのかを予測させた。仮説は、時間的距離感が遠く抽象的な解釈をする場合、課題に対する達成目標の影響がみられ、課題に対する達成目標が高いときの方が低いときよりも多くの時間をかけると楽観的に予測をするだろうというものである。この仮説のもと、実験5では、試験までの時間的距離感、達成目標、そして勉強時間の予測を調べる調査を実施した。また実験6では、乱文再構成課題を用いて達成目標を操作し、試験までの時間的距離感を測定し、勉強時間の予測を求めた。次に実験7では、レポート締切までの期日を変えることで時間的距離感を操作し、達成目標を尺度で測定し、勉強時間の予測を求めた。そして実験8では、時間的距離感ではなく解釈レベルを直接操作し、達成目標を測定し、勉強時間の予測を求めた。解釈レベルの操作は、20個の用語(例;パスタ)が位置付く上位カテゴリー(例;食べ物)または下位の事例(例;ペペロンチーノ)を各々答えさせ、抽象的または具体的マインド・セットを導くことによって行った。その結果、いずれの実験においても、時間的距離感を遠くに感じた場合に、達成目標が高いときの方が低いときに比べて、多くの時間勉強をすると予測することが示された。他方で、時間的距離感を近くに感じた場合には、達成目標の効果がみられなかった。これらの結果は本研究における仮説を支持するもので、抽象的な解釈をするときには抽象的な情報である目標に着目した予測を行いやすく、結果として予測が楽観的なものになりやすいことが示された。
 第Ⅲ部第6章「総合考察」では、8つの実験研究の結果を要約した上で、楽観的な予測の生起因について、予測時の解釈レベルという観点を取り入れることの意義について議論している。これまでの研究では、将来について予測するとき、目標に沿った楽観的な予測がなぜ生じやすいのか明確ではなく、そのため楽観的な予測の低減方略についてもほとんど示されてこなかった。本論文ではそこに予測時の解釈レベルという観点を取り入れ、抽象的な解釈をする場合には課題に対する達成目標に沿った楽観的な予測が生じやすいことを示した。逆にいえば、将来の出来事についても具体的な解釈をすればそうした予測は低減しやすくなることを指摘している。もちろん、将来については抽象度の高い目標を持つ可能性が多いので、具体的解釈をすることは難しい。また、具体的に解釈することによって、目標達成の障害が考慮されやすくなるが、そこに焦点が当たりすぎると目標遂行への動機づけが低くなる可能性もある。予測する際の抽象的な解釈、具体的な解釈についてのこのような問題点をふまえて、最後に今後の研究課題と展望について議論がなされている。


3.本論文の成果と問題点
 本論文は、人が楽観的な予測をしやすいのは、将来については抽象的情報(目標)の方が具体的情報(目標達成の障害)よりも考慮されやすく、目標達成に沿った予測が行われるからだと仮説を立て、複数の実験を通じてこの仮説を支持する結果を得て、楽観的な予測の問題について社会心理学から考察したものである。本論文の成果として、少なくとも次の4点を指摘できる。
 第一に、解釈レベル理論の応用可能性を広げたことである。解釈レベル理論は抽象化を通して社会的世界を理解する人間の認知に関する包括的理論で、多くの領域に応用が始まっている。しかし、社会心理学や健康心理学で広く見出されてきた楽観的予測あるいは非現実的な楽観主義の問題に、この理論が応用されたことはこれまでほとんどなかったと考えられる。本論文では、明確な実証的証拠を示して、楽観的予測の問題に解釈レベル理論が応用できることを明らかにした。
 第二に、楽観的予測を低減する条件の1つを明確に示したことである。人はポジティブ幻想を持ち、将来について一般に楽観的であることを多くの心理学研究が示してきた。健康心理学の領域では、病気の進行に対して客観的で現実的な認識を持つよりも、非現実的で楽観的な認識を持つ方がむしろ身体的、精神的健康を増進する場合も示されてきた。しかし、その楽観性は適度な範囲に収まるべきで、過度に非現実的、楽観的である場合には、むしろ健康を害したり不適応を起こしたりすることがあるだろう。本論文では、予測における楽観性を低減する条件の1つ(心理的距離感を近くして具体的な解釈をすること)を現実の教育場面において明確なデータで実証した。
 第三に、抽象的-具体的解釈レベルの実験操作として、空間的距離感の大小を用いる新しい方法を考案したことである。解釈レベル理論はもともと時間的解釈理論と呼ばれていたように、時間的距離感の問題を扱う研究で、時間的距離感の操作方法はかなり発達してきた。しかし、空間的距離感の研究はまだ多くなく、適切でインパクトのある実験操作方法の開発は十分でなかった。本論文では、世界地図の描き方の1つであるモルワイデ図法をうまく用いて、その中心位置を日本にするかヨーロッパにするかを変えて、日本とアフリカの国との空間的距離感を操作することに成功した。適切な実験技法の考案によって、新しい研究の可能性を広げると考えられる。
 第四に、よく統制された現場実験を実施して、明確な条件間の差を現場のデータから見出したことである。心理学の実験室実験の結果は、しばしば実験室の中だけのことであると外的妥当性、生態学的妥当性が疑われる。これに対して、本論文の実験5~8は実際の大学の授業でデータをとったもので、外的妥当性が高く、大学生の学業課題の達成場面に広く一般化可能かもしれない。しかし、こういった現場実験では、実験者が統制できないさまざまな要因によって従属変数が影響を受け、予期せぬ変動が生じる可能性がある。実験6では予測データをとった3週間後に実際のデータを取っているが、この間の日常活動は統制できない。それにも関わらず、個人間のデータ変動を最小限に抑えて、条件間の変動を取り出し、仮説を実証することができた。
 本論文は以上の成果が得られているものの、問題点が残されていないわけではない。まず、結果の解釈の点ではいくつかの代替説明の可能性が残っている。時間的距離感の操作は、具体的-抽象的解釈を生み出すと考えられていたが、情報量の多少を操作していた可能性がある。時間的距離感が近い場合には情報が数多く手に入り詳細なイメージを描くことができるが、遠い場合にはわずかな情報しか入らず大ざっぱなイメージしか描けない。その結果、後者の大まかな予測は現実から離れやすく、楽観的予測につながった可能性もある。また、従属変数として測定した遂行時間の予測は、実際の学業場面で学生が先生に示した自己呈示とも考えられる。授業に対してどのくらい熱心なのか、その努力量を先生に伝えるために回答していたかもしれない。特に達成目標が高い人が時間的距離感の遠い課題に対して行った場合に、その可能性が高かっただろう。また、将来について具体的な解釈をして、障害を考慮することが楽観的な予測を低減すると論じているが、具体的にどうしたら考慮できるようになるのか、指針がない。本論文の実践的意義を高めるためには、日常場面における具体的方策について考察を深めた方がよいだろう。
 とはいえ、これらの問題点は本論文が明らかにした学術的価値を損なうものではないし、著者自身がよく自覚し、今後の研究の積み重ねによって解決していこうとするものである。審査員一同は、本論文が明らかにしたことの意義を高く評価し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2011年7月13日

 2011年6月13日、学位請求論文提出者・樋口 収 氏の論文についての最終試験を行った。本試験において、提出論文「解釈レベルが楽観的な予測に及ぼす影響」に関する疑問点について審査委員が逐一説明を求めたのに対し、樋口 収 氏はいずれも充分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は、樋口 収 氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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