博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:抗戦前中国におけるジャーナリズムの研究 ―新聞論調分析から見る政治意識の変遷と世論―
著者:齋藤 俊博 (SAITO, Toshihiro)
論文審査委員:佐藤 仁史・坂元 ひろ子・糟谷 憲一・洪 郁如

→論文要旨へ

一 本論文の構成

 本論文は、1930年代初期の中国華北の都市を中心として発行されていた主要新聞に着目し、記事の論調分析を通じて「世論」の変容過程、及び当時の政治過程との関係を考察したものである。中国近現代史研究の領域においてジャーナリズム研究は比較的若いテーマであることから、次のような問題点があった。第1は、新聞が政治運動のメディアとして機能し、知識人の間に影響力を高めていった19世紀から20世紀初頭にかけての時期に研究が集中しており、それに比して他の時期の分析が手薄であった点である。第2に、南京国民政府期におけるジャーナリズム研究は従来党派性ないしイデオロギーの影響が極めて強く、純粋な学術研究と呼べるものが少なかった点である。かかる状況に対し、1990年代以降、特に21世紀に入ってからは、マイクロフィルム化やデジタル化による新聞史料の公開が飛躍的に進んだことも相俟って、1920年代から40年代にかけてのジャーナリズム研究や新聞学研究が進展することとなった。本論文はそのような研究潮流の中に位置づけられることができよう。蔣介石への権力集中が進んだ国民党による党国体制下にあって、政権によって抑圧されることとなった新聞における「世論」の問題が大きな意義を与えられてこなかった状況に対し、満洲事変(中国での呼称は九一八事変)直後の華北の都市における主要新聞の論調や、そこに反映された「世論」の分析を通じて、抑圧―被抑圧という構図を超えて、当時のジャーナリズムと訓政下における一党独裁政権との関係を考察せんとするのが本論文の意図である。
 本論文の構成は次の通りである。
序章
 1 問題意識
 2 先行研究
 3 史料の概要
 4 各章の構成
第Ⅰ部 北平『世界日報』に見る抗日意識の諸相
第1章 「社評」と「読者論壇」から見る抗日論調
――政策への視点と社会的な分断の諸相
 はじめに
 1 外交政策への視線(国際連盟不信から資産階級批判へ)
 2 経済政策への視線(日貨ボイコットの「失敗」)
 3 教育政策への視線(農村の「発見」)
 4 地域による乖離(戦地と非戦地の「ずれ」)
 5 社会階層による乖離(学生の限界、民衆との連携の困難)
 6 国家意識による乖離(限定された国民観と「彼らの国難」という発想)
 7 変化の兆し
 おわりに
第2章 抗戦論の類型と変遷
     ――戦闘の検討と現実判断の狭間で
 はじめに
 1 事変直後の反応
 2 抗日の方法
 おわりに
第3章 日貨ボイコット運動に向けられた眼差し
     ――参加意欲の喚起と効果実感の困難
 はじめに
 1 日貨ボイコット運動の徹底
 2 日貨ボイコット運動の結果
 3 日貨ボイコット運動の効果
 おわりに
第Ⅱ部 新聞論調から見る九一八時期の政治の展開
第4章 1932年国難会議の成立過程
     ――「国難」概念をめぐる相克
 はじめに
 1 国難会議構想の変化と準備過程
 2 国難会議の実際
 3 国難会議後の経過
 おわりに
第5章 国難会議をめぐる政治議論
     ――メディア論調の多様性の効果
 はじめに
 1 平津各紙論調の推移
 2 各紙論調の関係
 おわりに
第6章 内戦廃止運動の勃興と展開
     ――「内戦」概念をめぐる議論と共産党に対する認識
 はじめに」
 1 「廃止内戦大同盟」の提起
 2 懐疑の論調と政治制度改革
 3 政治制度改革をめぐる論点
 4 共産党という存在
 5 世論形成という課題
 6 具体的方途の手詰まり
 おわりに
第7章 国民党四期三中全会に至る展開と九一八後の憲政運動の意義
      ――国民党政治への期待感の変化
 はじめに
 1 抗日救国綱領と国民代表会開催決定の経緯
 2 抗日救国綱領の評価
 3 四期三中全会開催決定までの変遷
 4 開催決定後の期待
 5 三中全会開催直前の議論
 6 三中全会の実際(集中国力挽救危亡案・国民参政会決議の意味)
 7 三中全会後の評価
 8 四期三中全会と新聞論調の関係
 9 四期三中全会後の憲政運動
 10 九一八時期の憲政運動の意義
 おわりに
第Ⅲ部 1930年代初期の新聞学と世論
第8章 「真正の世論」とは何か
      ――新聞学の世論観と「真正」という論理
 はじめに
 1 内戦廃止運動における「真正の世論」
 2 新聞学における「真正の世論」
 3 「真実の憲政」論
 おわりに
終章
史料、文献
関連略年表

二 本論文の要旨

 序章は先行研究の整理と論文の問題設定に充てられている。本論文の方法として、①北平(当時の北京の呼称)・天津を中心とする華北地方が有する言論空間としての特徴に着目し、『世界日報』や『益世報』といった地方新聞の論調を精査する方法、②満洲事変直後の1931年9月から1932年末までの約1年4ヶ月の期間における時代性に注目して、地方新聞紙上に表れる「世論」の変容を微視的に追跡する方法が採られている。具体的な検討内容は、満洲事変直後の1932年4月の国難会議、同年5月以後に展開した内戦廃止運動、同年12月の国民党四期三中全会を中心とする政治過程とこれらに対する新聞論調の変化である。1931年9月から1932年末に行われたこれらの政治動向は憲政へ移行の「失敗」として捉えられ、従来殆ど関心が払われてこなかった。しかしながら、実際には当該時期の政治過程において、華北の新聞・雑誌では当時の政治過程や理想とすべき国家像が活発に議論され、「世論」を主導せんとする動きも見られたことに注意する必要があると問題提起する。かかる新聞論調の実態と、1933年以後の国民党政権による統制的な新聞政策遂行に対して党外の知識人など社会的な有力層の多くが結果的に賛同するに至った流れをどのように整合的に捉えればよいのかという問いが本論文の問題設定である。抑圧―被抑圧という構図を超えて、「世論」の側に国民党政治に対する認識と眼差しの変化が起こり、1933年以後の政治に対する「世論」の態度が決定づけられていったのではないかというのが本論文の着眼点である。
 本論文は3部構成をとっている。第Ⅰ部は、『世界日報』という地方紙に掲載された抗日論の内実と日貨ボイコット運動をめぐる言説を論じる3章からなる。
 第1章は、『世界日報』紙上に表れた抗日論を分析し、満洲事変直後における抗日運動が、いかなる課題を抱えながら進行したのかを論じるものである。『世界日報』に掲載された抗日論を政策面からみれば、外交、経済、教育の分野に大別され、これらは中国の近代化の遅れを認識し、抗戦勝利のために国力増進を求める点で一致していた。その一方で、抗日運動の諸状況の報告に、地域間、社会階層間、また国家観の違いなどにおける民衆内の溝が反映されていたことは、統一的で持続的な抗日運動の遂行に阻害要因の存在を示すものでもあった。すなわち、満洲事変の発生により民衆の国家観念が強く刺激されたことは確かであったが、それが即座に民衆全体を巻き込んだ総力戦体制の構築を促すまでには至らなかったのである。当該時期の『世界日報』は読者本位の紙面構成を目指す一環として読者投稿掲載という手法を積極的に採用し、抗日に関する様々な意見を掲載して、世論形成への大衆参加を盛んに呼びかけていた。投稿者の多くは抗日に正面から立ち向かわない政府を批判する一方で、抗日行動を長期にわたって維持することができない大衆に向かっても苛立ちを表明しており、ここからは社会に潜む分断的諸相が読み取れるという。
 第2章は、『世界日報』に掲載された抗日論の諸相を論じる。抗日論は内容によって、Ⅰ抗日行動の発動を優先するもの、Ⅱ国内統一を優先するものに大別され、さらにⅠ-1即時抗戦論とⅠ-2非戦闘的闘争論、Ⅱ-1和平統一後抗戦論とⅡ-2安内攘外論に分けられる。Ⅰ-1はただちに武力抵抗を試みんとするものであったが、勝利の展望が開けないことは度外視する傾向にあり、激しい反発心の発露として現れたものであった。Ⅰ-2は、自国の国力不足を冷静に認識し、当面のあいだ外交交渉と経済制裁などをおこなうことで時間を稼ぎ、来たるべき軍事抵抗のための準備を整えんとするものであった。
 Ⅱ-1は国内諸勢力が当面提携し、一致して抗日にあたるべきとするものであった。すなわち、国家的危機を目前にして、国内の他の争点はすべて相対的に優先順位を下げると考えるものである。これと対立したのは、後に実際に採用されたⅡ-2である。国民政府が、あくまで武力に訴えて共産党を筆頭とする敵対諸勢力を駆逐した後に、抗日体制を整えようとするものであった。外敵を目前にしながら、先に同国民を対象とした武力行使をする点に特徴がある安内攘外論を推進せんとする論調は、満洲事変直後の『世界日報』紙上には見られなかったことは注目に値する。その後、議論において鮮明となったのは共産党の認否についてであり、共産党討伐への支持の広がりをてこに安内攘外論の支持へと帰結した。
 第3章は、日貨ボイコットに関する社説やレポートから、ボイコット運動が抱えた課題がいかに認識されていたかについて考察する。明確な抗日運動の目標が形成されない状況の中で、民衆が唯一自主的におこない得たのが日貨ボイコット運動であった。しかしボイコットはその効果が把握しがたかく、運動の意義に対する認知も低かったため、日貨ボイコットの効果と推進には当初から疑念が表明され、教育普及の遅れや大衆生活の困窮状態など、運動の障害となる以下の複数の要因が指摘された。先ず、一体いつまでの期間、どれほどのボイコットをおこなえば目的が達せられるのか、またその目的とは何かがはっきりとしなかった点である。次は、日貨と国貨を区別することの困難や、商人の協力が必ずしも得られないこと、また港湾で輸入貨物をチェックしても品物が闇に流れてしまうことなどの問題である。さらに日貨を排除し得ても、脆弱な国産体制によって十分な商品を賄うことは困難であるという国内の工業力不足も盛んに論じられた。『世界日報』紙上において、日貨ボイコットに関する記事が多く掲載されたことは読者の間に運動の積極的な意義が共有されていたことを示しているが、読者以外の層に広がることは困難であったことは、ひいては世論形成の困難として認識されていくこととなったと指摘する。
 第Ⅱ部は、北平や上海、南京などで発行されていた複数の新聞を材料に、1932年の政治過程と世論の関係について、国難会議、内戦廃止運動、国民党四期三中全会の動向に即して分析する4章からなる。
 第4章は、満州事変の勃発を受けた政治対応の1つである国難会議の成立過程を整理した上で、その意義について考察する。孫科政権時の1932年4月に召集された国難会議は、内政改革を強く主張した会員会と、実際の運営を担った汪蔣合作政権との対立が発生し、会員会の出席拒否により会議の実効性は大きく削がれた。出席することを敢えて選んだ一部の会員には、政治的な立場を越えた議論によって何らかの積極的な解決策を見出そうとする努力も見られた。その1人が陶希聖であり、国難会議での国民代表会開催という決議には陶の功績があったのである。
 会員会側委の要求は訓政短縮であったが、国難会議で可決された国民代表会設置構想は、訓政短縮要求に対する政権側の明確な拒否でもあった。なぜならば国民代表会は訓政から憲政への橋渡しという装いを有する一方で、職権は限定されていたため政治的には無力であったからである。加えて、国難会議決議に法的強制力がなかった。会員会や「世論」の懸念通り、1932年10月までの国民代表会開催は実現せず、継続審議の扱いとされ、12月の四期三中全会において国民参政会の決議へと引き継がれた。このように訓政短縮の実現可能性が遠のく中、憲政施行を主張していた知識人などの多くが、1933年以後一党専制の容認へと傾いていく流れが形成されたのである。そもそも満洲事変直後の憲政要求の目的は抗日体制の確立に主眼が置かれ、憲政はあくまで手段として構想されたという背景もかかる流れの形成に多大な影響を及ぼしたと言える。
 第5章は、国難会議開催に際してたたかわされた各新聞の議論について分析する。国難会議は結局のところ政治体制を変革するものとはならなかったものの、会議開催への過程で新聞各紙がそれぞれに多様な論点を提示し、互いの論調を批評しあったことは、当該時期におけるメディアの充実状況を端的に示すものでもある。民間紙は総じて会員会の主張を支持し、即時憲政施行に一定の意義を見出すものが主流であったのに対して、国民党機関紙の主張は対立していた。しかしながら、紙面を通じて議論する土壌は形成されており、一定の言論の自由も享受されていた。
 1920年代以降における中国新聞事業において、民間紙は商業性を強めていくことを余儀なくされており、読者の嗜好をくみ取ったり、紙面を工夫したり、報道を充実させたりするなどの変化を見せていた。政治批評の充実もその延長線上に位置付けられ、政権との距離感も各紙の性格を示す指標として機能するようになっていた。しかしながら、社会全体から見た場合、言論活動の影響力は新聞読者という小さなコミュニティを越えて広がりを見せるには至らなかった点に、新聞メディアの限界があったと指摘する。
 第6章は国難会議後に展開した内戦廃止運動について検討するものである。抗日という火急の解題を前にしながら内戦が勃発するという状況は、一般民衆から見ても極めて矛盾したものであった。かかる状況のもと、内戦廃止運動は上海の経済人が中心となって始められ、その展開過程の中で民衆への世論喚起が最重要であると認識されるようになった。しかし国難会議時には訓政批判の点で一致した民間紙の論調は、内戦廃止運動時には共産党討伐に対する見解をめぐって二分されたが、総じて言えば、国策として提示された剿共戦には一定の支持が集まった。そして、政権による訓政短縮の拒否に加え、共産党討伐の強い意思が示されたことで、世論の訓政信任への流れはより加速されることとなった。一方で、政治制度改革の進展を果たせなかった民間紙は、結果として内戦の廃止をも実現できずに失望感を深め、言論活動の限界や知識人の罪、また民衆への不満などを語るようになっていった。
 第7章では1932年末に開催された国民党四期三中全会の開催過程と、この会議をめぐる各紙の議論について考察している。四期三中全会は剿共勝利を掲げて開催に至り、議事は混乱もなく進行した。新聞論調は性急な制度改革を求めず、過去の抗日対策決議の履行や党内の結束を重視するものが中心であり、政府の強い実行力を希求するものに変化していた。したがって、各紙において四期三中全会は総じて一定の評価を受け、会議で決議された国民参政会や国民大会開催案に厳しい目を向けた『益世報』だけが全体から突出するという構図が顕在化した。この会議で構想された国民参政会も政治的には無力なものにすぎず、国民大会開催も2年以上後に開催するというスケジュールが示されたに過ぎなかったことに対して、その虚偽性を糾弾したのは『益世報』だけであったのである。国難会議前に熱を帯びた政治改革の議論が再び活性化することはなく、世論の大勢は国民党の政策を淡々と受容し、訓政体制の強化を志向するように変化していった。
 第Ⅲ部は第8章の1章からなる。第8章は、「真正の世論」という言説をてがかりに、新聞紙面での議論と新聞学における議論を材料として、満洲事変直後の世論観と「真正」という価値を問う論理について考察している。1920年前後から体系化された中国の新聞学は、当初から世論の「代表」や「創造」という役目を新聞の主要任務としてとらえてきた。また、当時の新聞学においては、新聞の公共性と商業性の相関関係が論じられ、そのバランスの上に「真正の世論」が存在し得ると考えられていた。1930年代初期には都市において発行部数が数万に達するものもあらわれ、産業としての新聞事業はそれ以前に比して少なからぬ発展をみせたが、社会全体から見れば、依然として新聞購読層が少数者であることは明らかであった。新聞事業の拡大に不可欠な条件として、低迷する識字率を克服するための教育の整備が欠かせず、このことは国家体制の安定と発展は抗日準備に資するものでもあった。
 1933年以降、言論活動が統制されていくことになるが、大衆性の獲得を必要としていた新聞が、大衆性に依拠しない訓政体制を承認していったことも要因の1つであった。迅速な抗日体制確立を優先するという判断をもとに、時限的な体制として喧伝された訓政体制を新聞の論調が承認したのである。
 終章では、各章における分析結果を総合した上で、①1931年9月から1932年末までの約1年半にわたる時期は、憲政実現に向けた政治改革への世論が高まった前半期と、訓政強化による中央集権体制確立へ世論が収斂していった後半期に分けられること、②憲政運動の成果である「過渡的な民意機関」の議決とそれに対する世論の期待は、却って訓政体制下における中央集権を招来してしまったことを本論文の結論として示している。

三 評価と判定

 本論文は、北平と天津の都市部における地方新聞の論調に即して、近代中国ジャーナリズム研究に関するいくつかの新知見をもたらした論文として評価することが出来る。本論文の成果は次の4点である。
 第1は、地域史から接近するジャーナリズム研究という点である。本論文は、筆者が「九一八」期と呼ぶ1931年9月から1932年末までの約1年半にわたる時期における、平津地区という具体的な地域のジャーナリズムにおける論調の変化を詳細に追跡した点に功績を見いだすことが出来る。従来のジャーナリズム研究や政治史研究においては、『申報』『大公報』『益世報』といった大新聞の分析がほとんどであったのに対し、『世界日報』という地域商業紙に着目している点に本論文の新機軸がある。当該新聞が全面的に利用されている理由は、地域に密着した言論のあり方に注目する以外に、「商業的動機から大衆性へのアプローチを試み、多様な世論のくみ上げに自覚的に取り組んだことによって、より広範な読者層の獲得をめざす」「大衆メディア」としての性格が濃厚であったからだという。かかる「大衆メディア」としての位置づけをより明確に限定することによって分析を掘り下げていけば、政治史研究と地域研究とを融合した新たな研究領域を展開していくことも可能となるように思われる。
 第2は、満洲事変直後の政治過程とそれに対するジャーナリズムの論調を明らかにした点である。従来の政治史において国難会議や内戦廃止運動は、付随的に言及されるか、そうでなければ憲政への移行に直接結びつかなかった一種の失敗例として扱われてきた。これに対して、国難会議や内戦廃止運動の経緯や内実、そこで提出された様々な議論、世論形成への動きを詳細に再現し、全貌を明らかにした点が本論文の功績である。この経緯の中で有効な世論形成をなしえなかったことが、新聞ジャーナリズムの世界において、政治体制改革に対する一種の「倦怠的空気」を醸し出してしまったという指摘は、短期間に起こった微細ながらもその後の方向性を決定づける時代の雰囲気の変化をつかんでいる。
 第3は、ジャーナリズムと政治過程との関係に関する興味深い仮説を提示している点である。満洲事変後から1932年末の国民党四期三中全会までの時期において「過渡的な民意機関」設置が決定され、憲政の施行時期が示されたことが、ジャーナリズムが主導する「世論」において却って訓政体制の強化が承認される雰囲気を作り出したという逆説は、極めて興味深い指摘である。十分に実証と議論が尽くされたとは言い難いため、依然として詰めなければならない論点は多いが、かかる逆説を指摘したことは、上述のように、国難会議や内戦廃止運動の如き憲政を求める動きをある種の失敗例として扱ってきた従来のとらえ方を転換させる可能性を秘めている。
 第4は、言論空間の多様性を示した点である。首都からの距離という地理的な要因、国民党政権の権力が十分に浸透していなかった時期という時代的要因が相俟って、比較的自由な言論空間が形成されていた平津地区の地方ジャーナリズムに着目したことで、「百家争鳴」的な言論の内実と、かかる言論が有した幅の一端が本論文では明らかにされている。そして、多様な論調は、最終的には、国難=民族存亡の危機という状況のもと、「民族」という全てに圧倒する価値観に収斂されていく過程も示されている。かかる収斂過程は先行研究において夙に指摘されているところだが、議論の具体的内容を明らかにしたことが本稿の特徴である。
 以上のように本論文は関連分野における幾つかの新知見を提示しているが、同時に今後克服すべき幾つかの問題点もまた指摘できる。
 第1は、本論文で設定する時間軸の妥当性についてである。本論文が主要な分析対象とするのは1931年9月から1932年末までであり、これは歴史学としては異例の短さである。したがって当該時期に発生した変化をその前後の時間軸の中に適切に位置づけながら記述することは博識に裏付けられた技量が必要とされる。この点についていうと、「真正な世論」の根拠となる民衆をどう捉えるかという問題を新文化運動以降に盛んに議論された民衆観の中でも捉える必要があるし、各紙において議論されている憲政論についても胡適や張君勱らの議論との関連性を論じなければならないであろう。また、満洲事変直後の抗日論についても、日中戦争開始までの時期における抗日論の変遷の中で捉えることで、本論文が対象とする時期の特質が漸く浮かびあがってくると思われる。
 第2は、地方新聞の地域社会や地方政治における位置づけの必要性である。本論文で扱われた新聞論調は、誰がどのような意図でかかる発言をしたのかという背景が必ずしも明示されないまま、史料として使用されている。かような問題点を克服するには従来の新聞史料を用いた研究が地道に行ってきた方法、すなわち、新聞の発行者、編集者、主要執筆陣の履歴や党派性、個人の履歴や人脈を徹底的に明らかにする必要があろう。地方新聞を主要史料としている分、この点については相当程度の困難が伴うが、可能な限り解明することが望ましいと思われる。
 第3に、本論文では、地方新聞に表れる言説分析を中心にすると謳うが、この時期の文献を読みこなす語学力が十分ではないことも問題ながら、企てとしては言説そのものの分析に傾き、様々な言説が生成される政治過程と新聞との関係、地域環境と新聞との関係が必ずしも明示されていない。このような記述によって、例えば蔣介石に権力が集中していく過程が明らかにされないまま、新聞の論調が体制順応していく状況が突然出現しており、両者の関係が判然としない。これ以外にも、新聞間の関係については、『華北日報』との関係が示すように、国民党支部による統制・指導・誘導の力が働いていたことがうかがえるが、個々の新聞と地方政府、政党をはじめとする様々なアクターとの具体的な関係については検討の余地が多い。
 第4は、新聞の論調の捉え方である。第Ⅰ部の核とも言える第1章においては、新聞の論調を分析するに際して、『世界日報』の社説欄の記事に加えて読者論壇欄に掲載された読者投稿を主要な素材とし、そのことを以て「大衆メディア」として位置づけている。しかしながら、読者論壇欄に投稿された文章が誰によって執筆されたのか、純粋な投稿であったといえるのかといった点は十分に明らかにされていない上、投稿が可能な文章力を有したのは地域社会においては知識人層であったことを踏まえれば、「大衆メディア」と言い切ってよいか疑問が残る。また、新聞の論調を代表するのは社説であるから、読者投稿と同列に扱うのは不自然であろう。
 本論文はかような課題を残しつつも、これらは全て本人のすでに自覚するところでもあり、今後の研究のなかで克服されていくことが期待される。地方新聞に掲載された記事を多用した本論文は、先行研究が明らかにしていなかった幾つかの新知見を示した点を評価することができる。
 以上のように、審査員一同は本論文が今後当該分野の研究に寄与する可能性を有する水準に到達したと認め、齋藤俊博氏に対して一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2011年7月13日

 平成23年6月15日、博士学位請求論文提出者齋藤俊博氏の論文に対して最終試験を行った。試験においては、提出論文「抗戦前中国におけるジャーナリズムの研究――新聞論調分析から見る政治意識の変遷と世論」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対して、齋藤俊博氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は齋藤俊博氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

このページの一番上へ