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博士論文審査要旨

論文題目:A Place of Intersecting Movements: A Look at “Return” Migration and “Home” in the Context of the “Occupation” of Okinawa
著者:ジョハンナ・ズルエタ (Zulueta, Johanna Orgiles)
論文審査委員:伊豫谷 登士翁・伊藤 るり・マイク モラスキー・中野 聡

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Ⅰ.本論文の構成
 第二次世界大戦後のアメリカ軍の沖縄占領期に、基地建設労働者として多くのフィリピン人男性が動員され、沖縄人女性と結婚した。その後かれらは子供を連れてフィリピンに戻るが、1970年代以降、存続する米軍基地で働くために、沖縄へと移住してきている。本研究は、第二次大戦後における沖縄出身者のフィリピンからの「帰還」移民に関する研究であり、これら「一世」ならびに彼女らの子供たちである「二世」ら(本稿では、彼/彼女らが自らを「一世」、「二世」、「フィリピン・ウチナーンチュ」と呼ぶことを尊重して、これらの語が使われている)の移動を、聞き取り調査によりながら、「帰還(return)」と「故郷(home)」をキーワードに、読み解こうとしたものである。
 
本論文の構成は以下の通りである。
ACKNOWLEDGMENTS……………………………...…………………………….ii
NOTES ON JAPANESE WORDS AND NAMES…………………………………..iv
LIST OF TABLES………………….………………………………………………..ix
CHAPTERS
INTRODUCTION: “RETURN” MIGRATION AND OKINAWA…………1
    Research Problem…………………………………………………………...2
    Significance and Objectives of the Research………………………………..7
    Theoretical Framework……………………………………………………...9
     Postcolonial Migrations in Occupied Okinawa…………………..13
    Research Methodology…………………………………………………….17
    The Sample……………………………………………………….20
     Interviews and “Return” Migrants’ Narratives…………………...22
    Scope and Limitation of the Study…………………………………………25
    Organization of the Thesis…………………………………………………27
I. MIGRATION AND THE NIKKEIJIN…………………………………….29
    Issei, Nisei, Nikeijin: Categorizing Japanese Migrants……………………30
    Okinawans in the Philippines and the Philippine Nikkeijin……………….34
    The Birth of the Philippine Uchin?nchu…………………………………...39
    Of Migrations and Postcolonies……………………………………………45
     Postcolonial Migrations…………………………………………..48
    Defining “Return” Migration………………………………………………53
    Defining Home……………………………………………………………..57
II. OKINAWA AS THE “PLACE” OF INTERSECTING MOVEMENTS: MIGRATIONS AND THE OCCUPATION………………………………..60
    Okinawa Crossing Borders: Pre-War Migration to the Philippines………..60
    Post-war Migration………………………………………………………...63
Installation of Bases in Okinawa: Filipino Migrants to Okinawa...63
Okinawan Women as Sens? Hanayome…………………………..67
The Philippine Uchin?nchu Nisei………………………………...71
The Philippine Uchin?nchu’s “Return” to Okinawa……………………….73
The Revision of the Japanese Immigration Law in 1990………...73
Timeline: The “Return” of the Issei and Nisei……………………74
The “Returnees”…………………………………………………..78
    Postcolonial Migrations: The Case of Occupied Okinawa………………...82
    Occupied Okinawa………………………………………………..83
Okinawa and the “Occupation”…………………………………..91
Issues and Problems Relating to the “Occupation”……..95
Postcolonial Migrations……………………………………………………98
Postcolonial Migrants and “Return”……………………………...98
III. “ROOTS” AND “ROUTES”: A LOOK AT “RETURN” MIGRATION IN OKINAWA………………………………………………………………..102
    Going back (to an original place): “Return” as a Process………………...102
    “Return” as Transitory…………………………………………..105
    The “Return” of the Nisei………………………………………………...109
The Decision to “Return”………………………………………..119
The Nisei as Transmigrants……………………………………...130
The Migratory Process of the Nisei……………………………..132
Gender and Family Obligation…………………………………..137
Namiko and Ferdie Higa: Keeping the Family Intact….137
    The “Return” of the Issei Women………………………………………...140
Between Okinawa and the Philippines: Stories of the Ob?s…….144
The Issei’s “Return”: Fulfilling a Mother’s Obligation…………150
The Catholic Church in the Lives of the Issei…………………...152
Ⅳ.“HOME IS WHERE THE HEART IS?” “HOME” AND “RETURN”...…………………………………………..…………………157
    “Home is where the Heart is?”..………………………………………......157
    The Question of Home…………………………………………..157
    “Home” as “Place”, “Home” as “Consciousness”………………160
    Narrating “Home”...………………………………………………………164
    “Home” and “Return”…………………………………………...164
    “Home” and “Homes”; “Home” and “Roots”…………………..171
    “Home” and “Homing” in the Context of the “Occupation”……179
Ⅴ THE SPACE OF OCCUPATION…………………………………………185
    U.S. Military Bases and the “Occupation” of Okinawa…………………..186
    The “Space of Occupation”………………………………………………190
Migratory Flows within the “Space of Occupation”…………….196
Off-Base Workers………………………………………199
“Return” and “Home” in the “Space of Occupation”…………...204
    Passive Complicity………………………………………………………..206
CONCLUSION: LOOKING INTO THE FUTURE……………………...211
    Okinawa and Ichariba Ch?d?…………………………………...214
APPENDIX
A: Interview-Discussion with the Issei…………………………………...217
B: Stories of the Nisei…………………………………………………….229
C: Magazine of the LMO (Spring and Autumn 2010)……………………296
BIBLIOGRAPHY………………………………………………………………….297

 日本とフィリピンとの間での人の移動に関しては、ベンゲット移民などの戦前の日本からフィリピンへの移民史研究ならびに近年の「ジャパユキさん」と呼ばれたフィリピンから日本へのエンターテナーなどの移民研究が行われてきた。しかし、第二次世界大戦直後から占領期におけるフィリピンからの人の移動とその後の展開については看過されてきた。本研究は、「引き揚げ」や「帰国子女」に関わる研究ならびに日系ブラジル人に関する研究を参照軸としながら、戦後直後における占領期の移民に関わる研究の空白を埋めるとともに、沖縄・フィリピン間の移動を日本人の移民とは異なるものとして、その独自性を明らかにしようとしたものであり、その歴史な意味と移動経験を明らかにした本研究の意義は高い。
 本論文を通底する問題関心は、一)移民に関してしばしばキーワードとして用いられてきた「帰還(return)」と「故郷(home)」がもつ多義性を明らかにすることであり、二)本研究が対象とした移動を占領という状況と絡めて、「ポストコロニアルな移民」のひとつの典型的な事例と捉えようとしたことのふたつである。「帰還」と「故郷」という概念は、一世と二世以下ならびにジェンダーによって、大きく異なり、それゆえにどこへの帰還であるのか、また複数の故郷が状況によって複雑に現れる。また、この本稿が対象とする移民の帰還は米軍基地が継続したことに大きく規定される。戦後の世界体制を作り上げたアメリカの世界戦略は、基地によって連接するひとつの空間を創りあげ、フィリピンと沖縄は結びつけられることになり、その中で人びとは国境を越えた移動を繰り返してきた。フィリピンから沖縄への「帰還」は、アメリカの占領ならびに占領後の基地の存続(ここでは「復帰」以降を「占領」とよぶ)によって規定されてきたことが論じられる。
 以下は各章の概略である。
序章では、フィリピン・ウチナンチュウの移動の状況、問題関心、分析枠組み、全体の構成が示される。
 「フィリピン・ウチナーンチュ」の「帰還」は1970年代からである。フィリピンの厳しい政治ならびに経済状況を背景として、二世たちは、①日本国籍を取得すること、②より良い仕事に就くこと、③沖縄アイデンティティの模索などを目的として、沖縄へと移動する。ここで聞き取りから見えてくることは、一世と二世の「帰還」した理由は必ずしも同じではない、ということである。一世の女性の「帰還」には、「故郷に戻る」ことより、子供(二世)の移動の決定によって彼女らも移動する傾向があり、母としての義務と解釈できる。すなわち、二世が沖縄・日本本土へ働きに来た場合、母親も沖縄に戻る、という事例がいくつかみられる。それは、彼女らにとっての沖縄は、「故郷」に対するノスタルジアというよりは、二世と一緒に沖縄・日本本土に居住する必要がある、あるいは居住したいという願望があるからである。本論文で取りあげる「帰還」した二世の多くは米軍基地に勤めるが、他には教師、ビジネスマン、サービス業がいる。これらのケースについて、本研究は、1)一世、二世の沖縄へのリターンの要因と理由、2)フィリピン・ウチナーンチュの帰還移民をアメリカによる占領支配の文脈から位置づけること、3)一世、二世にとっての「帰還return」と「故郷home」の概念と定義、を課題として掲げられる。
 フィリピン・ウチナーンチュの「帰還」は一時的(transitory)であり、「故郷」は、彼/彼女らの社会的・構造的・グローバルな状況におけるアイデンティティ形成によって定義される。彼/彼女らは、沖縄の基地で働いたあとでグアムの基地建設、さらに最近ではイラクの基地建設へと動員された者もおり、あちこちに移動するがゆえに、沖縄への移動においても、必ずしも「帰還」と「故郷」が結び付いているとは限らず、「故郷」は状況によって変化するのである。
 アイデンティティのよりどころとされてきた「帰還」や「故郷」に関しての微妙な言葉使いは、小禄教会に集まるフィリピン・ウチナーンチュに対する、日本語・英語・タガログ語を状況によって使い分けたインタビューや雑談の中から引き出されてきており、プロセスとしての「帰還」と、そのプロセスにおいて想像される「故郷」との結び付きが論じられる。
 第一章「『帰還』移民と沖縄」では、日本における帰還移民に関わる先行研究が検討され、「故郷」と「帰還」の用い方との関連が詳細にとりあげられる。日系人移民に関わる研究は、90年代以降の中南米系日系人の研究が数多く行われてきた。その代表的な研究としてツダによる「ethnic return migration」の概念が取りあげられ、「故郷は、固定されたものではなく、帰還は固定された目的地への一方向のルートを指すものではない」(p.12)ことが強調される。本研究においてとりあげる対象は、日本人とは区別される沖縄系の人びとの「帰還」移民であり、これまでの日系人としてまとめられてきた研究と対比しながら、日系人・一世・二世というカテゴリーを、フィリピンと沖縄との歴史的な関係・構造の中から再規定される。すなわち、戦後直後における基地建設労働者としてのフィリピン人の優位性、1970年代以降の発展途上国としてのフィリピンと先進国日本の一部としての沖縄、90年代以降の日本における外国人出稼ぎ労働者の激増という状況のなかで、フィリピン・ウチナーンチュにとっての「帰還」と「故郷」は、そしてアイデンティティのあり方は、転換してきたことが示される。そして、沖縄の占領はいまだに存続する状況であり、米軍基地によって結ばれた両者が持つ意味の重要性が強調される。二世の多くは日本語が不自由であるが、英語ができることから、基地労働者、基地関連労働者として日本へと移動することになるのである。
 第二章「移動の交差する『場』としての沖縄―移動と占領―」では、沖縄がこれまで日本の移民の中での流入と流出の交差する場であったことが、沖縄とフィリピンとの間の人の移動に焦点を当てて改めて描き直される。20世紀初頭にフィリピンに渡った沖縄出身労働者とその子孫が戦前移民と呼ばれるのに対して、戦後移民のフィリピン・ウチナーンチュは、基地という空間の中での移動経験によって、他の海外における沖縄系移民と区別された独自の歴史とアイデンティティを持っている。とくに二世たちは、沖縄で生まれたが、基本的には小さいときにフィリピンへと移動している。それゆえに、彼/彼女らは、沖縄への郷愁というよりは、出稼ぎ目的が非常に強く、母親たちは子供たちの日本国籍の取得のために、二世たちに連れ立って沖縄へと帰還する。そしてその沖縄での出稼ぎは、部分的には「アメリカン・ドリーム」の代替物でもあり、沖縄は、「return here and return there」、「being here and being there」として意識される。二世たちの移民過程は、歴史的に沖縄からフィリピンへと移住させられ、経済格差構造からフィリピンから沖縄へと移住し、そしていま沖縄とフィリピンの間を行き来する存在へと変化してきている。このような移民パターンの変化は、沖縄とフィリピン、そして米軍と日本政府、こうした関係の中で規定されてでてきたものであり、フィリピン・ウチナーンチュの存在は、その象徴である。
 第三章「『Roots』と『Routes』―「帰還」移民をめぐって―」では、フィリピン・ウチナーンチュを事例に、インタビューによりライフ・ヒストリーを作成し、一世と二世の「帰還」移民が考察される。インタビューの詳細は補論にまとめられており、その多様性が生き生きと描かれている。インタビューを通じて明らかになったことは、「帰還」は一時的なプロセス(transitory process)であり、「帰還」は「roots(出自)」という観念と関連していることである。この一時的な「帰還」は、一世と二世のトランスマイグラント的な特徴と関連し、フィリピン・ウチナーンチュが、アメリカを含めた各国で活動するとともに、その各々の地域での様々な交流などを自らの内に織り込んでいることが示される。彼/彼女らのトランスマイグラント的な存在は、自らの文化的・社会的資本によって支えされているのである。また、一世へのインタビューを通じて、彼女らの「帰還」と所属意識が結び付いて、一世の生活におけるカトリック教会の重要性が示唆される。
 第四章「『我が家に心がある?』-『故郷』と『帰還』」は、前章に続き、「故郷」と「帰還」の関係が再検討される。二世にとって、沖縄は遠い記憶でしかないが、他方でフィリピンは、自分らの育った場所ではある。しかし、そのフィリピンは、差別された記憶の残る場所でもある。それゆえに、二世にとっては、「return to Okinawa」,「 return to Philippines」であり、移動は一時的な過程として現れ、さらに故郷は単数ではなく、複数として意識されることになる。また一世にとっての七〇年代以降の帰還は、戦後直後の沖縄とは異なる沖縄への「帰還」であり、沖縄には居場所がないという感覚を呼び起こさせることになる。彼女らは、日本国籍であるにもかかわらず沖縄において差別を経験している、と感じていることもインタビューから引き出される。このように、フィリピン・ウチナーンチュの一世と二世のトランスマイグラント的な移動は、その時々の状況、聞かれる相手に従って、「故郷」が構築されることになる。二世にとっての複数の「故郷」は、「roots(出自)」と「routes(経路)」に結び付いており、複数の「故郷」として示される。すなわち、「home-making」というプロセスにおいて、「home」は構築され、また再構築されており、自らの過去・未来の「home」の観念と結び付られるのである。
 終章の第五章「占領の空間」では、沖縄の「占領」の文脈において、沖縄とフィリピンの間の移民がポストコロニアルな観点から考察される。ここで占領とは、72年までの米軍統治下の占領とその後の米軍基地の存在によって継続する「占領」との双方を指す。占領の空間を問題化するときには、沖縄が占領空間にあるということだけではなく、沖縄を含めたアメリカ軍にとって東アジア太平洋がひとつの空間を形成しているという意味があり、その中で沖縄がキーストーンとしての役割を果たしてきたことが重要である。そうした占領空間の中での移民の流れは、いうまでもなくアメリカの圧倒的な軍事的・政治的な影響下にあるということとともに、人・もと・金・情報・文化の移動において基地が果たした役割が重視される。米軍の基地におけるフィリピン系労働者の利用は、彼/彼女らの英語能力によるとともに、アメリカ的な文化や生活スタイルへの理解、そしてアメリカへの憧れによるものである、という。しかもそうしたフィリピン人の利用は、米軍あるいは直移設的な基地労働者だけでなく、米軍家族の必要に応じて、教師・エンターテナー、サービス労働者として利用されてきた。フィリピン・ウチナーンチュ二世が沖縄へと移動した背景は、たんに沖縄系さらには日系としてエスニックな繋がりからだけではない。しかしながら、ヴェトナム戦争やイラク戦争において、沖縄での反戦運動の高まりなどは、かれらに戦争への加担、「受動的共犯(passive complicity)」としての意識を起こさせるものであり、基地問題とともに、その複雑なアイデンティティが指摘される。
 終章では、本研究の要旨と重要な論点の総括が行われる。そして、最後は、人々の流入と流出の交差点であり、ホスト社会である沖縄の現在と将来に注目し、「イチャリバ・チョーデー(会えば、兄弟)」という沖縄の諺で締めくくられる。

Ⅲ.本論文の成果と問題点
 本論文の成果として、日本における移民(史)研究の空白を埋めたこと、占領という問題構制を人の移動研究の中に持ち込んだこと、日系人研究とは区別するものとしてのフィリピン・ウチナーンチュの移動をとりあげたこと、をあげることができる。戦後直後の日本に関わる移民研究は、「引き揚げ」や「帰国事業」などとして、特別なケースとしてあつかわれ、これら移動を移民史研究の中に位置づけるという作業は行われてこなかった。しかしいうまでもなく、もっとも大規模な人の移動要因は戦争であり、その後の人の移動であった。さらに、フィリピンからの基地建設労働者として移動は、ほとんど触れられることがなく、本論文のテーマとした移動は、研究の空白部分であった。また、フィリピンから日本への移動に関しては、エンターテナー資格での移動やケア労働者としての移動が大きなテーマとして取り組まれてきたが、その前史に当たる本研究の移動は、看過されてきた。また日系人の「帰還」移民に関しては、日系ブラジル人などの研究に集中し、本研究のテーマとなったフィリピン・ウチナーンチュは、限られた研究があるだけであり、ほとんど無視されてきた。
 本論では、沖縄在住のフィリピン・ウチナーンチュへのインタビューを丹念に行うことによって、これまでの移民研究や日系人移民労働者研究において空白であった部分を埋め合わせるとともに、あらかじめ所与として措定されてきた「帰還」や「故郷」という言葉の持つ意味が状況依存的であるとともに、世代間、さらにはジェンダーによって異なることを説得的に論じることに成功したと言える。また、こうしたインタビューは、状況に応じて、タガログ語、日本語、英語を使い分けることによって、生き生きとしたエスノグラフィーとなっている。巻末の補論においてまとめられているインタビューは、個々人のケースが持つ豊かさを浮かび上がらせるような叙述になっており、本研究に厚みを加えている。
 しかしながら本研究において、次のような課題が残されている。
 第一は、補論におけるインタビューでは、「帰還」と「故郷」だけには還元できない多様な内容を含んでおり、これらが論文に生かされたならば、より重厚な論文になったものと惜しまれる。さらに、インタビューが限られた範囲であること、問題を拡げるためには、より多様な人びとのインタビューが必要であり、とくに「占領空間」の概念を説得的にするには、基地関連のサービス業に従事するフィリピン・ウチナーンチュへの聞き取りは不可欠であろう。これらを含んだときには、より説得力のある論文になると考えられる。
第二は、フィリピン・ウチナーンチュを一つのエスニック集団として位置づけ、具体的には小禄カトリック教会に集まる人たちを分析の対象としている。しかしそれにもかかわらず、教会という場や信者としてのネットワークが、この集団のエスニシティにどのような役割を果たしているのかという問題意識が抜け落ちている。フィリピン・ウチナーンチュをエスニック集団として把握する以上、この問題にもう少し注意を払うべきであった。また、エスノグラフィーにおいては、家族ネットワークや友人関係への立ち入った分析が必要であり、補論のインタビューの中の一部にはそうした記述がなされているだけに、こうした関係へと拡げる努力がなされてもよかったのではないかと惜しまれる。
第三には、フィリピン・ウチナーンチュを軍関係に絞ったことにより、他の沖縄系フィリピン人、さらにはフィリピンからの移民労働者への配慮が十分ではなかった。基地の問題に限定したとしても、基地関係は膨大な職種を生み出すものであり、それら職種に就いているフィリピン系の人びととの関わりは重要である。また、またいわゆる本土への移住者、フィリピンに滞在し続けている、あるいはアメリカに渡ったフィリピン・ウチナーンチュも加えるべきではなかったかと思われる。これらの分析を加えるならば、さらに論文は厚みを増したと惜しまれる。
第四には、沖縄とフィリピンと日本政府とアメリカ軍という四者関係の複雑な政治の中に、本研究を位置づけるのは、きわめて難しい作業であり、必ずしも本論文の課題ではない。しかし、移動に関して論述するのであるならば、国籍などをめぐる法制度がこの四者の間でどのように機能したのかといった問題については、正確に押さえておく必要があるであろう。なぜ二世の国籍取得において一世が同伴しなければならなかったのか、といった問題は、このことと深く関わるからである。
最後に、フィリピン・ウチナーンチュの移動を、「ポストコロニアルな移民」や「日米の共犯関係」といった大きな枠組みに中で論じるには、もう少し丁寧な理論構成を取るべきではなかったか。たとえば、フィリピンは世界最大の移民送り出し国のひとつであり、国家的な体制の中で移民労働者を送り出している。そしてその特徴は、ケア労働者や家事労働者の移民であり、こうした移民送り出しの原型そのものが米軍基地の存在によって生まれたものであるとするならば、フィリピン人移民の全体をポストコロニアルな移民と規定することも可能である。また「共犯関係」という視点は、沖縄の基地労働者と通底するだけに興味ある論点ではあるが、「戦争協力」ではあるとしても、冷戦体制や日米関係あるいは東アジア情勢という大きな枠の中で論じられるものであろう。
 しかしながら、こうした課題は、ジョハンナ・ズルエタ氏自身が十分に自覚しており、本論文の価値を減ずるものではない。本審査委員は、一同、ジョハンナ・ズルエタ氏の論文が博士号を授与するに値するものと認めた。

Ⅳ. 結論
審査委員一同は、上記のような評価にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与すること大なるものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2011年2月9日

 2011年1月21日、学位論文提出者ジョハンナ・ズルエタ氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「A Place of Intersecting Movements : A Look at “Return” Migration and “Home” in the Context of the “Occupation” of Okinawa
(邦訳:「移動の交差する場所―『占領』下沖縄における『帰還』移民と『home』をめぐって―」)についての審査員の質疑に対し、ジョハンナ・ズルエタ氏はいずれも十分な説明をもって答えた。
 よって審査委員会は、ジョハンナ・ズルエタ氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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