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博士論文審査要旨

論文題目:グリニッジ天文台と英国近代—経度の測定から標準時の発信へ—
著者:石橋 悠人 (ISHIBASHI, Yuto)
論文審査委員:森村 敏己・秋山 晋吾・山崎 耕一・大坪 俊通

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 1 本論文の構成
 石橋悠人氏の博士論文「グリニッジ天文台と英国近代-経度の測定から標準時の発信へ-」は、正確な経度測定技術の開発と標準時の発信・普及というふたつの事例を取り上げながら、科学技術の発展と受容を社会的・政治的文脈の中に位置づけることで、グリニッジ天文台が近代イギリス社会において果たした役割を明らかにするとともに、イギリス帝国史の領域においても新たな展望を開こうとする力作である。
 本論文の構成は以下の通りである。
 
  序章
   第1節 なぜグリニッジ天文台に注目するのか
   第2節 研究史と課題
 第1部 経度の測定とグリニッジ天文台
  第1章 経度測定法の開発
   第1節 グリニッジ天文台の設立
   第2節 月距法とクロノメーターの実現
  第2章 国家・発明・帝国?経度委員会の活動をめぐって
   第1節 研究史
   第2節 組織としての特徴
   第3節 応募作品と時計・機器職人
   第4節 経度と帝国
  第3章 情報センターとしてのグリニッジ天文台
   第1節 マスケリンと王立協会
   第2節 情報網とアソシエイション
   第3節 経緯度の収集と伝達
  第4章 グリニッジ天文台と英国海軍?クロノメーター管理システムの生成
   第1節 グリニッジ天文台の海軍省移管
   第2節 天文台におけるクロノメーター管理
   第3節 クロノメーターの分配
   第4節 「グリニッジ・トライアル」

 第2部 グリニッジ標準時の発信と英国社会
  第5章 ジョージ・エアリと時報事業の起源
   第1節 国営天文台であること
   第2節 時報事業の起源
  第6章 標準時の発信と普及
   第1節 時報の供給回路
   第2節 普及実態
   第3節 スコットランドにおける時報事業
  第7章 時報への視線/天文台長の権威
   第1節 時報の権威
   第2節 時報の信頼性?ストランド報時球
   第3節 時報の商品化?フレンチ社の報時球
   第4節 グリニッジ天文台との結びつきを求めて?ニューカッスルの場合
  第8章 報時球と英国海軍
   第1節 試金石としてのディール報時球
   第2節 ポーツマスとデヴォンポート
   第3節 スタート岬における報時球計画
   第4節 1870年代以降の状況
  第9章 海洋都市リヴァプールの時報システム
   第1節 海洋都市の天文台
   第2節 二つの報時球
   第3節 ハートナップの批判
   第4節 時計同調システムの導入
   第5節 時報装置の技術移転?リヴァプール、ロンドン、ボンベイ

 結論
 参考文献


 2 本論文の概要
 まず序章において、グリニッジ天文台の活動の中でもとりわけ経度測定法と標準時の普及をテーマとして取り上げる意義が論じられる。17世紀末以降、地磁気の研究、地図製作技法、測量技術、航海術といった「実用数学」はイギリスの探検事業や植民事業を支え、商業と海運の発展を促進するうえで大きな役割を果たし、イギリス帝国の繁栄を後押しした。中でも正確な経度を測定する技術の開発と実用化は決定的な重要性を担っていたとされる。また、鉄道網や電信網の拡大を背景にした標準時の確立とその全国への普及が、イギリス人の時間意識の革新に貢献しただけでなく、グリニッジ世界標準時成立の条件となったことは言うまでもない。そして何よりこのふたつの事例は、科学技術の開発と普及が社会的・政治的要因によって条件付けられながら進行する過程を具体的に検証する上で格好の素材を提供しているとされる。
 もちろん、グリニッジ天文台の活動に着目した研究はこれまでにも多く存在する。しかし、従来の研究は、経度測定法についてはその確立までを対象とするに留まり、それが実践の場において普及し、活用される過程に関する分析は不十分である。また標準時についてもその普及が迅速であったのか、それとも多くの困難を伴ったのかという点に関心が集中しており、標準時を伝える時報システムという新しい技術を当時の人々がどのように認識していたのかという視点に欠けていたとされる。さらに標準時の確立といいながら実際の研究対象はロンドンに限定されており、全国への普及についての研究は進んでいないのが実情である。そのためこれまでの研究には、科学技術の進歩を社会的・政治的文脈の中に位置づけ、技術の開発だけでなくその実用化と普及の過程を解明するという点で不満が残る。著者はこうした欠点の克服を本論の課題として掲げることで、「科学の社会史」の手法を徹底し、それを通じてイギリス帝国史においても新たな領域を開拓しようとする。
 第1章ではグリニッジ天文台設立の経緯と月距法およびクロノメーターという経度測定法の確立が分析される。正確な経度を測定する技術は航海の安全性を高めることで海運・通商における優位を約束するものであり、このため16世紀以来ヨーロッパ諸国にとって経度測定技術の確立はいわば国策となっていた。1675年のグリニッジ天文台設立はイギリスもまたこの問題に国家として取り組む意志を示したものであり、1714年には巨額の奨励金の授与によって新たな技術や理論を募集し、経度測定法の開発を促進するための経度法も制定されている。その結果、1760年代には他国に先駆けてイギリスではクロノメーターと月距法という測定方法が確立され、それが海洋国家イギリスの躍進を支えることになった。
 第2章では経度委員会に焦点が当てられる。この組織はこれまでも奨励金を目的とした応募作品の審査機関として知られていたが、実際にはそれに留まらず、とくに1760年代以降、経度測定法の普及と実践という点で重要な役割を果たし、ナポレオン戦争終結までにイギリスを帝国に押し上げるうえで多大な貢献をなしたとされる。
 経度委員会を特徴付けるのは海軍との密接な関係である。もちろん経度測定法の審査を担当するこの委員会の運営を主導したのはグリニッジ天文台長や王立協会会長といった科学者たちだが、海軍の官僚や将校はこの委員会の中心的なメンバーであり、予算の獲得においても海軍は積極的な役割を果たした。18世紀において財政軍事国家が確立する中で海軍は豊富な資金を得ていたが、経度委員会は明らかに海軍と連携することで財政的な基盤を確保していた。それが可能だったのは正確な経度の測定による航海技術の向上が海軍にとって死活的に重要な問題だったからである。また、経度委員会は自らが審査した経度測定技術を海軍を通じて実際に試してみることで、その普及と実用化にも貢献した。この目的のため委員会は高価な測定機器の貸与や、それらを用いて経度測定を行う天文学者の派遣を積極的に行っている。こうした活動は海軍内部での経度測定技術の普及を可能にすると同時に、太平洋を初めとする探検事業を支えることでアメリカ植民地喪失後の帝国の再編成に役立つことになる。
 こうした経度委員会の活動の分析を通じて著者は、イギリスの科学的発展は国家主導型ではなく、ヴォランタリズムと個人主義を基盤に民間団体が牽引するという「アマチュアリズム」を特徴としていたという通説に異議を唱えている。確かに大陸諸国と比べて民間団体が重要な役割を担ってきたのは事実であるにせよ、海軍力の強化とそれを基礎とした植民地支配と商業の拡大といった重要な国益に直接関わる分野では、イギリス政府は積極的に科学の発展に関与していたのであり、経度委員会はその象徴だと考えられる。
 第3章では1765年にグリニッジ天文台長に就任したマスケリンが果たした役割が検討される。マスケリンは天文台長であると同時に、王立協会の有力メンバーであり、その機関誌『フィロゾフィカル・トランザクション』の編集委員を務めた人物だが、彼はそれまでの天文台長がグリニッジでの天文観察記録を私物化していたことを批判し、科学的知識の公的性格を強調し、知の共有に尽くした。当時、貴族・ジェントルマンに代表されるアマチュア科学者の支持を背景に絶大な政治力を誇っていた王立協会会長ジョゼフ・バンクスと対立し、職業的な自然科学者たちの信頼を勝ち得ていたマスケリンは、科学知識が行き交う情報ネットワークを作り上げ、その中心に位置したとされる。そして、ネットワークを通じて収集された膨大な測定記録や論文は『フィロゾフィカル・トランザクション』への掲載等を通じて公的な「科学知」として流通することになる。また、このネットワークは正確な経度測定という事業を多くの人間が参加する共同プロジェクトとして機能させることを可能にしたという。
 第4章ではグリニッジ天文台が当時の最新機器であったクロノメーターを管理し、海軍に供給するためのシステムを確立した1821年から1835年までが対象となる。従来の研究は、この時期を経度測定法の開発と標準時の発信というふたつの業績の狭間における停滞期と見なす傾向があった。そこにはクロノメーターの管理という煩雑な業務が天文台本来の科学的活動を阻害したとする認識がある。しかし、著者は天文台の役割を社会的・政治的文脈から幅広く捉えるという立場から、海軍との連携が決定的となったこの時期をグリニッジ天文台の運営上、重要な転機としている。それまでグリニッジ天文台の運営には兵器部局、大蔵省、海軍省という三つの機関が明確な役割分担のないままに関与していたが、1810年代末に海軍省の管轄下へと移行する。それを機に海軍省はクロノメーターの管理を天文台の業務として位置づけることになるが、最新の精密機器であるクロノメーターの管理には専門的な知識と豊富な観察記録とが必要であり、グリニッジ天文台はその意味で最適な機関であった。これ以降、天文台はクロノメーターの調整、故障時の報告書作成、時計メーカーと海軍省との仲介、各軍港への配送などを一手に引き受けることになり、また、時計メーカーに最新のクロノメーターを出品させ、優秀作品を海軍が買い上げるという「グリニッジ・トライアル」の実施をも担う。こうした業務は確かに本来の天文観測とは無縁であるかに見える。しかし、著者はナポレオン戦争終結後、海軍省の予算が縮小される中でグリニッジ天文台が運営資金を獲得し続けることが出来た要因をこのクロノメーター管理に見いだす。つまり、イギリス海軍における高水準の航海術を維持するという公的役割を果たすことで、天文台は国営の科学施設としての存在理由を明確に示し、予算の獲得と組織の存続に成功したというのである。そして、天文台の「公共性」への意識は第2部の主題である標準時発信事業にも顕著に現れることになる。
 第2部の冒頭に位置する第5章では、1836年以来46年間にわたりグリニッジ天文台長の地位にあり、標準時の確立と普及に尽力したジョージ・エアリが、時報事業に着手した経緯が論じられる。自らを「パブリック・サーヴァント」と位置づけるエアリは、天文台の業務が実用的で公益性の高いものであるべきとの思いを強く抱いていた。純粋科学は政府による干渉から自由なアマチュア科学者の手に委ね、国営のグリニッジ天文台は具体的な利益を国家にもたらす活動に専念すべきだとの主張や、「ファクトリー・システム」と呼ばれる効率的な天文台の運営にはそうした理念が反映されているが、何より時報事業の開始は実利的な貢献を目指す彼の天文台長としての姿勢をよく示しているとされる。当時、教会や市庁舎に設置された公共時計は、その正確さを検証する術が無く、くわえて各都市における時計はそれぞれの地方時を指していた。しかし、郵便制度の発達と鉄道網の拡大により、イギリス全土をカヴァーする標準時の確立とその正確な伝達は重要な社会的課題となっていた。エアリが民間の鉄道会社や通信会社に協力を呼びかけ、電信網を利用することで正確なグリニッジ時間を全国に伝えようと努力するが、そこにはこうした社会的要請とそれに応えることが国営天文台の責務であるとするエアリの見解を見ることができる。
 続く第6章ではグリニッジ標準時が全国に普及するプロセスが詳細に分析される。著者はまず標準時の普及の前提となる電信網の拡大を組織面から論じ、当初は鉄道会社と電信会社が牽引した時報事業を、電信網の国有化後には郵政公社が中心となって推進したことを明らかにする。とはいえ、グリニッジ標準時の「侵食」に対して地方時間を維持すべきとの主張が存在しなかったわけではない。著者はエクスタを例にそうしたそうした議論を紹介している。事実、時報事業が始まった1850年代には大半の都市でグリニッジ標準時が受け入れられていたとはいえ、それが法定化されたのはようやく1880年だったという。そのわずか4年後にはグリニッジ標準時は世界標準時となっており、ここからはイギリス国内での標準時の普及にはかなりの時間を要したことが分かる。その背景には標準時の普及事業が国家により独占的に推進されたわけではなく、地方自治体や民間企業、あるいは個人など多様な主体によって担われたために、それらの主体の積極性や熱意に依存する面があったからだとされる。また、著者はスコットランドにおける標準時普及にも目を向ける。グリニッジ標準時の時報を提供できたのはグリニッジ天文台だけではない。正確な天文観察による高水準の計時能力と高性能の標準時計、および時報を発信するための電信装置があれば他の天文台にもそれは可能である。著者はエディンバラとグラスゴーを取り上げ、スコットランドにおける標準時の普及実態とともに、報時電流を他都市から受信することをよしとしないローカル・アイデンティティの存在を指摘している。
 第7章では時報事業の普及と信頼性の獲得において天文台長エアリの権威がいかなる効果を発揮したかが明らかにされる。実際にはエアリが直接管轄していたのは天文台からロンドン・ブリッジ駅までの間であり、そこから全国に時報を送るのは郵便局や鉄道、電信会社が張り巡らした電信網だった。そのためエアリ自身はこうした電信網を通じて送られる時報の正確性について責任を負うのはこれらの組織であるべきだとの立場を取っていたが、人々はすべての時報システムにはエアリ本人が関与していると信じ、時報に関する問い合わせや苦情は彼に殺到することになった。さらに、当時は時報の受信者がその正確性を検証する術を持たないこともあり、事実上エアリの権威が時報の正確性を保証する唯一の手段となっていた。エレクトリック・テレグラフ社が自ら設置したストランド報時球の正確さを保証する告示文を会社名ではなくエアリの名前で発表したこともこうした状況を反映している。また、自社の宣伝のために設置した報時球に対して、それがグリニッジ天文台と直結し、エアリの管理下にあると証明してほしいとしたフレンチ社の要求も同じ文脈で理解できる。エアリは時報事業の公共性へのこだわりから営利を目的としたこの要求を拒否したが、フレンチ社の要求はエアリのお墨付きが時報システムへの信頼を獲得する上で不可欠な要素であったことを示している。さらにニュー・カッスルにおける時砲の信頼性が議論になったときも、問われたのはそれがグリニッジ天文台と直結しているのか否かであった。このように時報事業に関するエアリの権威は絶大であり、それは時報が信頼を獲得し、受容されるうえで技術改良による精度の向上と並んで重要な役割を果たしたとされる。
 第8章のテーマは海軍基地における時報システムの普及である。これまで、クロノメーターの調整を目的とした海軍基地への時報システム設置は、エアリの後を継いだ第8代天文台長ウィリアム・クリスティの功績だとされてきた。しかし、1850年代からすでにエアリはこの事業に強い意欲を示し、20年以上にわたって海軍への働きかけを続けていた。そこには自らが開発した時報システムを海軍という公的な機関が利用することに天文台の存在意義を見いだそうとするエアリの姿勢を読み取ることができるという。1850年代にドーヴァーに近いディールでの報時球設置を成功させ、遠隔地の報時球を電流によって作動させることに自信を深めたエアリは、この技術をポーツマスやデヴォンポートといった軍港、さらにはスタート岬にも導入しようと図る。しかし、商務省との共同事業とすることで財政負担を軽減しようとする海軍省と、あくまで海軍省の管轄であるとする商務省との間で折り合いがつかず、この計画が日の目を見たのは電信網が郵政公社のもとに国営化され、経費が大幅に節減できるようになった1870年代以降であった。しかし、商業、海運、国防に貢献することを自らの責務とするエアリは、それまでの間に技術改良だけでなく、豊富な人脈を駆使したロビー活動によってこの事業の有用性を認識させていたという。
 第9章はリヴァプールにおける時報システムの開発と普及を取り上げる。ロンドンに次ぐ規模の商業・海運都市に成長したリヴァプールでは1830年代から天文台の設置が提案されていた。航海の安全に不可欠なクロノメーターの調整のためには天文観測によってリヴァプールの経度を決定し、正確な時間を把握する必要があったからである。こうして1844年にはリヴァプール天文台の活動が始まるが、その際に天文台に設置された報時球は港を利用する船舶から見えづらいという問題を抱えていた。このためリヴァプール天文台長ハートナップは、グリニッジ天文台からの電流で遠隔操作をする予定のストランド報時球を念頭に、リヴァプール天文台から操作する新たな報時球を港のどの地点からも見やすい場所に設置しようとする。しかし、エレクトリック・テレグラフ社はハートナップとの合意もないままに自社のリヴァプール支局に報時球と公共時計を建設してしまう。「グリニッジ標準時」と盤面に刻まれたこの報時球を管理しているのはエアリだと信じたハートナップは、これ以来、エアリとエレクトリック・テレグラフ社に対する強烈な対抗意識を示すことになる。そしてエレクトリック・テレグラフ社の報時球の不正確さを喧伝する一方で、リヴァプール天文台が操作する報時球と公共時計の設置計画を推進した。完成した公共時計はリヴァプール市民の誇りとなり、また、この公共時計が正確であることを前提に、エレクトリック・テレグラフ社の報時球の「不正確さ」が非難されるという構図ができあがる。ここには、時報の正確性を検証することが技術的に困難だった時代に感情的な要因が及ぼす影響を指摘することができる。ただし、こうした感情的な対立にもかかわらず、リヴァプールで開発されたジョーンズ方式と呼ばれる画期的な時計同調法はエアリにもその優秀性を評価され、他の地方都市はもとより植民地にも普及していく。こうして著者は、ロンドンで開発されたモデルが一方的に全国に波及したとする従来の単純な図式を批判し、時報システムの普及が現実には複雑な経緯を辿ったことを明らかにしている。
 以上の議論を受け、結論において著者は「レッセ・フェール型」とされてきたイギリスの科学イメージをあらためて批判し、また、技術的側面だけではなく、社会的文脈およびイメージや市民感情といった文化史的要因にも着目することの有効性と可能性を強調する。
 
 3 本論文の成果と問題点
 本論の成果として指摘すべきは以下の点である。
 第一は、経度測定と時報事業を例に取りながら、科学技術の発展を社会的・政治的要因との関わりの中に位置づけることに成功している点である。著者は科学的進歩の歴史を単に技術的発展という観点から分析するのではなく、そのような進歩を促し、それを可能とした社会的・政治的文脈を解明することに力を注いでいる。また、新たな技術の成立についてもその開発に関わる問題に留まらず、普及の過程をも詳細に検討することで、そうした技術開発が有する社会的意義や必要性を明らかにし、さらにロンドンと地方都市との複雑な関係をも浮き彫りにした。こうしたアプローチを通して著者が挙げた成果は「科学の社会史」と呼ぶに相応しい内容を備えており、また、グリニッジ天文台史料を初めとする膨大な史料を渉猟することで、実証性においても極めて高い水準に達している。
 第二に、イギリスにおける科学研究の特徴としてその「アマチュアリズム」を強調してきた従来の研究に対して有効な批判を行った点が挙げられる。確かに大陸諸国と比べてイギリス科学の「アマチュアリズム」を指摘することは誤りとは言えない。しかし、著者はグリニッジ天文台と海軍との緊密な結びつきに注目し、それが天文台の活動を支える予算の獲得にも大きな影響を与えていたこと、正確な経度測定法の開発と普及がいわばグリニッジ天文台と海軍との協力関係の中で進められていたことを明らかにすることで、航海の安全性の向上やそれを土台とした海軍力の強化、植民地の拡大といった、海洋国家イギリスの国益に直接関わる実用的な分野では、政府が積極的に関与していたことを明らかにしてみせた。この意味で、本論は従来「ヴォランタリズム」「個人主義」「アマチュアリズム」といった言葉で理解されてきたイギリスの科学研究イメージに修正を迫り、科学と国家というテーマについて再考を促すものとなっている。
 第三として、帝国史の分野において新たな展望を開いた点を評価したい。イギリス史研究に「帝国」という観点が導入されて久しく、また「帝国史」は多くの成果を生み出してきたが、イギリスが他国に先駆けて「帝国」へと成長することを可能にした科学技術的な背景については十分に研究されてきたとは言い難い。もちろん、イギリスの経済力や海軍力については豊富や研究蓄積があり、またそれを支えた財政制度についても分析がなされてきたが、科学的・技術的基盤という側面から帝国の成立を論じようとする著者の姿勢は重要な論点を提示するものであろう。
 一方、今後の課題として指摘すべき問題点も見受けられる。
 ひとつは時報事業の分析に見られるように、著者はその普及の過程については極めて実証的な分析を行っているが、グリニッジ標準時が正確な時報システムを通してイギリス全土を覆ったことの社会的インパクト、あるいは人々の日常生活や意識に与えた影響については、より深い分析が必要ではないか。もちろん、こうしたテーマの解明が史料的な困難を伴うことは事実だが、著者が示した史料調査能力の高さに期待し、あえて問題点として挙げておく。
 次に、経度測定法を論じた第一部と標準時の普及をテーマとした第二部との関連がやや不明確であるように見える。もちろん、いずれもグリニッジ天文台の事業を、科学技術の開発と普及を社会的・政治的要因との関わりから分析するという共通の問題関心に貫かれており、またこの意味で適切なテーマ設定であることは確かであるが、第一部と第二部とがそれぞれ独立した論文であるかのような印象を受けることは否定できない。著者はあえてグリニッジ時間の世界標準時化の問題を扱っていないが、この問題を論じていれば帝国史との関わりという側面がより明確になると同時に、第一部と第二部との接続がより密接になったのではないかと思われる。
 もちろん、こうした欠点は本論文の高い水準を損なうものではなく、著者もまたこうした問題点は十分に自覚しており、今後の研究によって克服されることを期待したい。
 
 4 結論
 審査員一同は、上記のような評価と、2011年1月21日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2011年2月9日

 2011年1月21日、学位請求論文提出者石橋悠人氏の論文についての最終試験を行った。試験においては審査委員が、提出論文「グリニッジ天文台と英国近代-経度の測定から標準時の発信へ-」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、石橋悠人氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は石橋悠人氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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