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博士論文審査要旨

論文題目:近世日本における天変の文化史
著者:杉 岳志 (SUGI, Takeshi)
論文審査委員:若尾 政希・渡辺 尚志・田﨑 宣義・坂上 康博

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1.本論文の構成
 いったい、近世日本を生きた多様な人々は、彗星を中心とする天変を、どのように見、何を感じ考えたのか。本論文は、近世の人々(近世人)の天変観を解明することによって、日本の近世はどのような時代かという課題に迫ろうとしたものである。
 近世より前の時代については、網野善彦・稲葉伸道・海津一朗・富田正弘・柳原敏明らの研究がある。それによれば、中世前期には天変を契機として徳政が実施された。室町時代に入ると徳政こそ行われなかったが、天皇・将軍は祈祷によって天変攘災を図ったとされる。このように天変は政治を規定する重要な要因であり、中世の為政者は天変に無関心でいることはできなかったという。このように中世史研究では注目されてきた天変であるが、近世の為政者と天変の関係は、これまで問われることはなかった。一方、被支配者民衆の天変観については、彼らが自ら記録を残すようになった近世になって初めて検証することが可能となるのであるが、これまで民衆の天変観を対象とした研究はなされなかった。本論文は、近世の将軍・天皇及び民衆の天変に対する態度を検討した初めての本格的な論考である。
 本論文の構成は以下の通りである。
序章 
 一 問題の所在 
 二 研究史整理 
 三 本論文の課題 
 四 本論文の構成と概要 

第一章 書物のなかの彗星 
 はじめに 
 一 天文書 
 二 中国正史の天官書天文志 
 三 辞典事典類 
 四 暦占書 
 五 軍書 
 六 政道書 
 おわりに 

第二章 徳川将軍と天変 
 はじめに 
 一 家康秀忠と天変 
 二 林鵞峯家綱政権の幕閣と天変
 三 綱吉と天変 
 四 吉宗と天変 
 おわりに 

第三章 近世中後期の陰陽頭朝廷と彗星 
 はじめに 
 一 彗星と近世中期の天皇の君主意識 
 二 近世後期の陰陽頭土御門晴親の彗星観 
 三 文化八年の彗星と朝廷 
 おわりに 

第四章 幕末の陰陽頭朝廷と彗星 
 はじめに 
 一 天保一四年の白気 
 二 彗星蛮夷異病 
 三 旧説の復活 
 おわりに 

第五章 近世前期の民衆と彗星 ―『桂井素庵筆記』を題材に―
 はじめに 
 一 彗星をめぐる噂の発生 
 二 彗星をめぐる噂の具体化と肥大化 
 三 彗星の消滅と新たな記憶の形成 
 おわりに 

第六章 書籍と稲星のフォークロア 
 はじめに 
 一 稲星とその起源 
 二 稲星を受け容れる人々 
 三 幕末期の人々と彗星 
 おわりに 

終章 
 一 本論文の成果
 二 今後の課題

2.本論文の要旨
 序章では、なぜ天変を問題にするのか、研究史を整理しつつ著者の問題意識を述べる。著書は、まず古代・中世史研究に比べ、近世史において彗星をはじめとする天変が注目されなかった理由について、中世にくらべ呪術的な側面の薄い社会であったとみなされてきたこと、また、近世の天皇が中世の天皇のように政治的な力を有していないため、徳政や祈祷主宰権の問題を考察する題材として注目されることがなかったことなどが挙げられるとする。しかしながら、近世の国家や社会の性格を考える上で、将軍や天皇から民衆までの天変観を考察することは大きな意義があると述べる。
 第一章では、近世の人々の彗星観を考察する前提として、近世の人々が手に取り読むことができた書物に見られる彗星観を検討している。彗星に関する言及は、専門の天文書だけでなく、中国の正史や軍書、辞典・事典類、大雑書等、様々な書物で行われている。著者は、こうした書物を博捜し、①彗星を予兆視しない説(『天文図解』・蘭学系天文書など)、②凶兆視する説(中国正史・軍書など)、③気の原理で説明する説(『天経或問』など)、④為政者への天譴とする説(『本佐録』)の4つのパターンがあったと指摘している。
 第二章から第四章までは、徳川将軍、天皇・朝廷と天変との関係を検討している。第二章では、徳川将軍が天変に対して示した反応を通時的に検証する。まず、初代徳川家康と二代秀忠については、慶長19年(1614)の「客星」出現時に祈祷を施した形跡が見られたが、三代家光、四代家綱については、そのような記録は見いだされないという。寛文4年(1664)の彗星と同8年(1668)の「白気」出現に際し、幕府の儒者である林鵞峯が自らの日記のなかで天変を天譴と解釈し政治批判を行ってはいるが、大老酒井忠清ら当時の幕閣が天変を天譴視した様子は確認できないとする。それに対し、五代綱吉はその治世前期から天変を気にかけ、元禄中期以降は祈祷によってその祟りを回避しようとしている。ここから著者は、綱吉を、それまでの将軍とは質の異なる君主意識―天と自らのつながりを強烈に自覚した―を持った人物と位置づける。その後、八代吉宗の治世では、寛保2年(1742)の彗星出現時に下問を受けた幕府天文方の西川正休が、『天経或問』の説に依拠して彗星を気の原理で説明した上で、吉凶禍福と天変は無関係であると主張している。こうして天文暦数は吉凶と無関係であるという新たな天文観に将軍が接することとなり、以後、将軍が天変を天譴や吉凶の兆と解釈した事例は、史料上見いだせなくなったと著者は指摘する。
 第三章では、近世中後期の天皇・朝廷にとって彗星が有した意味を、陰陽頭の活動に焦点をあてて考察している。近世中期の公家社会では、彗星には洪水や疫病といった「応」が存在すると考えられていたため、陰陽頭の土御門泰邦は、祈祷と天皇の「御慎」によって彗星の「応」を抑えるよう進言している。ここから著者は、近世中期の天皇にとって、御神楽や御慎による攘災は自分にしかなしえない責務であり、この責務の遂行を通じ、天皇の君主意識は高められたと推測している。ところが、近世後期になると、陰陽頭の土御門晴親は『天経或問』の説を採用し、彗星は気の乱れによって生じる自然現象なのでその「応」を恐れる必要はないと主張した。しかるに、文化8年(1811)の大彗星出現時に、朝廷は晴親に三万六千神祭の執行を命じ、近世中期と同様に祈祷による攘災を図っている。朝廷は天文の専門家である晴親が提示した新たな知を退け、旧来の説を採用したのである。 第四章では、天保14年(1843)から文久2年(1862)までの19年間に出現した彗星に対する朝廷・公家と陰陽頭の態度を検証した。天保13年に陰陽頭に就任した土御門晴雄は父晴親の彗星観を踏襲し、彗星の「応」を恐れる必要はないと主張し続けた。しかし、文久2年(1862)になると晴雄は『天経或問』の説を放棄し、自らが「旧説」と呼んだ彗星凶兆説を主張するに至る。この晴雄の転換の背景に、コレラが大流行し公家たちも命を落とし、また異国の脅威がひしひしと感じられる騒然とした時代状況のなかで出現した安政5年(1858)の彗星があったと著者は述べる。
 第五章・第六章では、民衆と天変の関係を取り上げている。第五章では、近世前期の民衆の彗星観を検討できる史料として高知の一町人が書いた『桂井素庵筆記』を素材として、近世前期の民衆にとって彗星がいかなる存在であったのかを検討している。寛文4年(1664)の冬に彗星が出現すると、高知の人々の間で、彗星出現にともなって何らかの変事が生じるのではないかという予感から、多くの噂話がささやかれた。当初は曖昧模糊としていた噂は、次第に具体性を帯び、肥大化していった。中でも戦争に関する噂が優勢となり、江戸や九州で戦争が勃発したとまことしやかに囁かれるようになった。しかしながら、実際に生じたのは戦争ではなく、前藩主山内忠義の死であった。これによって高知の人々の間には、彗星と国主の死という新たな記憶が形成されたと指摘している。
 第六章では、近世中期に発生した「稲星」のフォークロアを切り口に、書物の説とフォークロアの関係について論じている。稲星のフォークロアが広く流布したのは寛保3年(1743)のことであり、稲穂に似たこの彗星が出ると、豊作になると民衆の間で喧伝された。これは、彗星を凶兆と説く書物の説とは異なり、「フォークロア」と呼ぶべきものだという。近世中期の時点では稲星のフォークロアを受容するのは民衆レベルに留まるが、近世後期には中級武士にまで受け容れられるようになり、稲星の噂と彗星を凶兆と説く書物を比較して稲星を選択する者も現れた。書物を通じた民俗的な世界からの脱却という図式では捉えきれない、知をめぐる多様な動向が近世には存在したことをこの事例は示しているという。さらに、幕末になると、コレラの流行と対外的危機を背景にして民衆の間でも彗星=凶兆説が多くなるが、それでもなお、稲星のフォークロアは消滅することはなく、人々の心を捉え続けた。ここから、国家の危機よりも作物の豊凶に関心を寄せる民衆の心性を読み取ることができると著者は述べる。
 終章では、以上の成果を、1.為政者と天変、2.民衆と天変、3.天変をめぐる知の受容、の3つの観点から整理し、天変の文化史を提起している。あわせて、天変の文化史研究の今後の課題を指摘し、本稿を締めくくっている。

3.本論文の成果と問題点
 本論文は、彗星を中心とする天変に対する近世日本の人々の態度を読み解いていく。彼らの生きた世界に新たな光を当てる一連の考察を通じ、新鮮な近世社会像を提示している。こうした研究視角の新しさが、本論文の第一の成果である。近世より前の時代(古代・中世)や後の時代(近代)と比較できるだけでなく、東アジア世界、さらには世界各地の事例と比較が可能となるといえよう。
 第二に、日本の近世は身分制社会であるため、将軍・天皇から民衆までの多様な人々から成るのであるが、従来、その全体に目配りするような研究は少なかった。著者は、さまざまな階層の人々が残した史料を博捜することによって、近世人の全体を捕捉しようとしている。たとえば、18世紀半ばの民衆から始まった稲星=豊作という彗星観が、次第に武士層にまで浸透していくという指摘は、近世後期の社会・文化を考えていく上で、重要である。
 第三に、著者が書物に着目していることも評価できる。近年、書物が近世人の思想形成や社会・国家の変容に果たした役割を解明しようとする研究が行われているが、本論文はこれをさらに大きく進展させたものと評価できる。天文書や中国の正史から、軍書や大雑書といった通俗的な書物まで、著者は近世人が読み得た書物を可能な限り手にとって、その天変観を整理している。
 第四に、天変という観点から、五代将軍綱吉の特質、他の将軍との異質性を明らかにしたことも、研究史上、特筆すべきことであろう。1980年代以降、塚本学や高埜利彦らの研究により、従来の犬公方=綱吉像は克服されてきたが、本論文は、天変を恐れる君主という新たな綱吉像を提起している。今後、綱吉その人やその政権を論じる際に重要な論点になるであろう。
 さらに、民衆におけるフォークロア(民俗)の成立と、フォークロアと書物との関係に言及していることも、大きな成果である。近年、民俗学研究で、大雑書等の書物に書かれた知が民衆に広まり民俗となっていったという見解が提出されているが、本論文では、民衆の間で成立した稲星のフォークロアと、書物から学んだ知との間で、選択を迫られる民衆の姿が描かれ、興味深い。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不十分な点がないわけではない。前述のように、著者が提起する天変の文化史という研究視角は、上は将軍・天皇から下は民衆までの諸階層を対象にできるという点で、日本の近世という時代をとらえるのに有効である。ただし、著者は、二章~四章で将軍・天皇を、五章・六章で民衆を扱うという論文構成からわかるように、それぞれの彗星観をきれいに弁別し分析している。むしろ、同じ時期に同じ彗星を見て、諸身分・諸階層の人々が何を感じたのか。その感じ方の異同に着目した方が、身分制社会である日本近世という時代をよりリアルに把握することができたであろうし、近世における社会構造の転換のダイナミズムにも迫ることができたであろう。もちろんそうした問題点は著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のように審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、杉岳志氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2011年3月9日

 2011年1月19日、学位論文提出者杉岳志氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「近世日本における天変の文化史」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、杉岳志氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は杉岳志氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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