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博士論文審査要旨

論文題目:自然の探究から自己の探究へ:  環境倫理学の役割とリベラルな環境保護
著者:熊坂 元大 (KUMASAKA, Motohiro)
論文審査委員:嶋崎 隆・平子 友長・大河内 泰樹・関 啓子

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Ⅰ 本論文の構成
 本論文は環境倫理学の成立根拠、課題やその位置づけをめぐり、そこで対象とされるべき論点や概念を緻密かつ周到に議論したものである。環境倫理学が成立してからすでに30年以上になるが、その定義や課題についても、まだ論者のあいだで一致を見ていない。その象徴的な論点が、人間中心主義と非人間中心主義の際限のない争いであった。本論文はいかにすれば環境倫理学が有効かつ生産的になるのかを深刻に反省しつつ、いかなる問題がそこで論じられるべきかを綿密に探索し、展望を出そうと試みた。
 本論文は大きくいって、環境倫理学そのものの多様な構想や概念を議論することから、それをさらに基礎づけるための、リベラリズム、リバタリアニズムやコミュニタリアニズムにおける人間の自己理解の議論へと、展開されている。なお各章の最後には、丁寧に「まとめと今後の展望」として総括が付いている。
 本論文の構成は以下のとおりである。

はじめに
1 環境倫理学の課題と限界
1.1 環境倫理学の有効性への批判
1.2 医療倫理学との対比
1.3 応用倫理学としての環境倫理学の位置づけ
1.3.1 道徳の理論と道徳的実践
1.3.2 応用倫理学は他の学問領域への不当な介入か
1.3.3 応用倫理学の三つの困難
1.4. 倫理学における環境倫理学の位置づけ
1.4.1 環境倫理学のパートナー
1.4.2 環境倫理学の親族と環境倫理学の定義
1.5 まとめと今後の展望
2 環境倫理学の位置づけと基本概念
2.1 環境学における環境倫理学
2.1.1 松野の整理の問題点
2.1.2 環境倫理学の位置づけ
2.2 自然環境
2.2.1 自然
2.2.2 環境
2.2.2.1 環境と自然
2.2.2.2 環境と主体
2.2.2.3 人間にとっての自然環境
2.3 人間中心主義
2.3.1 人間中心主義への批判と非人間中心主義
2.3.2 人間中心主義の分析
2.3.2.1 存在論的人間中心主義
2.3.2.2 道徳共同体に関する人間中心主義
2.3.2.3 価値評価主体に関する人間中心主義
2.4 まとめと今後の展望
3 道具的価値,内在的価値,固有の価値
3.1 自然の道具的価値
  3.1.1 ニーズ的価値
  3.1.1.1 イースター島の悲劇
  3.1.1.2 ニーズと衝突するもの
  3.1.2 経済的価値
  3.1.3 潜在的価値
  3.1.4 感性的価値
  3.1.4.1 受動的および能動的な感性的価値
  3.1.4.2 アビーとエマソンの自然観
  3.1.4.3 自己と自然の同一化
  3.1.5 文化的価値
3.2 自然の内在的価値
  3.2.1 自然の内在的価値の三つの概念
  3.2.2 主観主義と内在的価値:最後の人間論法への反論
  3.2.3 価値に関する強い客観性と弱い客観性
  3.2.4 内在的価値と固有の価値
3.3 まとめと今後の展望
4 環境倫理学とリベラリズム
4.1 基礎付けから位置付けへ
  4.1.1 人間中心主義による基礎付け
  4.1.2 非人間中心主義による基礎付け
  4.1.3 環境保護と自由の位置付け
4.2 環境保護と権利論的リベラリズム
  4.2.1 リベラリズムの多様性
  4.2.2 権利論的リバタリアニズム
  4.2.3 環境保護の道徳的根拠としての権利論の問題点
  4.2.4 有限性によるリベラリズムの修正
4.3 環境保護と費用便益分析
4.4 まとめと今後の展望
5 自然の探究から内面の探究へ
5.1 コミュニタリアニズム
  5.1.1 個人主義の道徳性
  5.1.2 二つの個人主義
  5.1.3 強い評価とアイデンティティ
  5.1.4 揺らぐ自己理解と善の位置付け
5.2 目的論的自然観
  5.2.1 目的論の根強さ
  5.2.2 目的論への批判
  5.2.2.1 二つの目的概念
  5.2.2.2 二つの価値概念
  5.2.2.3 反目的論の挑発的帰結
5.2.2.4 テレオロギーとテレオノミー
  5.2.2.5 目的論と非人間中心主義
  5.2.3 目的論批判への再批判
  5.2.3.1 定義付けによる免疫化戦略
  5.2.3.2 形而上学の争い
  5.2.3.4 目的論的了解と因果的説明
  5.2.3.5 目的論的自然観の位置付け
おわりに

Ⅱ 本論文の要旨
 各章の概要は以下のとおりである。
 第一章「環境倫理学の課題と限界」では、現実変革にたいする環境倫理学の有効性の問題など、環境倫理学に関する人びとの誤解を解くなかで、幅広い視野のもとで環境倫理学の扱いうる範囲を明確に規定することを試みる。著者は従来の環境倫理学への環境プラグマティズムの批判などに言及しつつ、まずは環境倫理学を、問題設定のありかたが比較的明確である医療倫理学と対比する。というのも、環境倫理学には、厳密にいって、生命倫理学、世代間倫理学、動物倫理学、科学技術倫理学などの問題設定が混在しており、そもそもその対象領域が何であるかが明確に決まらないからである。また、環境倫理学はある種の道徳や倫理の学問的探究を課題とするが、人びとの道徳的意識を直接に変えることを目ざすわけではない。そこには、教育的実践などとの共同が必要となる。さらに著者は、応用倫理学としての環境倫理学にたいして、それが直接具体的に問題の解決にあたるべきものであるなど、二つの誤解と、三つの困難さ(自然科学者ほどの専門知識をもてないこと、自由で多元的な社会を前提にせざるをえないことなど)を列挙する。最終的に、著者は環境倫理学を中心に、関係する哲学的諸部門の関係を大規模に図示し、ドイツの生命環境倫理学や高田純、森岡正博らの成果を反映して、環境倫理学、医療倫理学、動物倫理学を広義の生命倫理学のもとに位置づけようとする。たしかにこうして、哲学的学問の分類が周到になされたのである。そして本章の最後で、環境倫理学を「自然環境としての非人間的自然に関する行為・思考の道徳的側面を考察する応用倫理学の一部門」であると定義する。
 第二章「環境倫理学の位置づけと基本概念」では、以上の環境倫理学のアウトラインに依拠しつつ、環境倫理学の学問的位置づけ、さらに自然と環境という言葉が何を意味するのかを中心に探究する。まずそこでは、松野弘の環境思想の総括に注目しつつ、そこでは当該分野におけるマルクス主義からの社会変革の立場が考慮されていないこと、生態系中心主義やディープエコロジーの立場が暗黙の前提とされてしまっていること、(環境)哲学と(環境)倫理学の区分がなされていないこと、などを挙げ、松野にドイツのマイヤー=アービッヒの見解を対置する。ここで著者は、前章の図式化に続いて、全体的な「環境学」における「環境思想(哲学)」「環境倫理学」などの位置づけを図示する。ついでに、環境学会などでは、まだ環境哲学の発表が少ないことが指摘される。さらに著者は、自然とは何かを、その多面的な用語法を考察しつつ、純粋自然を一方の極において、人工的自然(里山など)と自然的人工物(庭園など)を相対的に区分しつつ議論する。環境については、社会なども広義の環境であるとみなしつつ、自然環境を人間の周囲の生態系と規定する。さらに著者は、従来の人間中心主義と非人間中心主義の争いについて、リン・ホワイト、パスモア、ナッシュ、ドブソン、キャリコットら代表的な環境思想家を引用しつつ、人間中心主義→感覚中心主義→生命中心主義→自然中心主義という四つの同心円的展開を明確に提起する。そのなかで著者はとくに、人間中心主義を、存在論的人間中心主義、道徳共同体に関する人間中心主義、価値評価主体に関する人間中心主義に区分して論評を加える。しかし著者は、この論争に無理に決着を付けようとしてはいないが、道徳共同体に関する人間中心主義を重視することを述べる。
 第三章「道具的価値、内在的価値、固有の価値」では、自然のもつべき価値について、きわめて緻密な議論が展開される。著者は価値の問題について相対的な立場をとる環境プラグマティズムを批判しつつ、自然の価値に関する考えを大きく「道具的価値」と「内在的価値」に区分する。さらに前者は緻密に、ニーズ的価値、感性的価値、文化的価値、潜在的価値に区分され、さらに内在的価値と通常呼ばれているものは、真の内在的価値と、実際には内在的価値とはみなされない固有の価値や客観的価値とに区分されるという。以下、それぞれの価値概念の説明がなされるが、通常否定的に評価される道具的価値にも必要なものがあることが強調され、さらにニーズ的価値の多面性が指摘され、そのニーズに衝突するものとして、大量生産・大量消費の価値観が批判的に喚起される。またここでイースター島の環境破壊の悲劇にも言及される。そして熱帯雨林は大きな潜在的価値をもつという。感性的価値とは、私たちが自然から獲得する身体的・精神的喜びであり、それにも受動的・能動的の区別がなされる。また著者は、感性的価値に関連して、過激な非人間中心主義を説くと見られるアビーとエマソンを詳細に取り上げるが、興味深いことに、実は彼らが自然の崇高さの背後に、人間自身の深い精神を洞察しようとすることを指摘する。ここではまた、レオポルドや芭蕉にも言及される。さて、自然の内在的価値を論ずるさい、そこで、非-道具的価値(カント的な意味の目的自身として扱われるものなど)、固有の価値(自然の美しさの享受など)、客観的価値(評価者から独立した価値)の三つの概念が混在しているが、著者は結局、弱い意味での客観的価値を認め、評価主体からまったく独立した価値は認められないとする。この点、人類には不都合だが、カビにとって都合のいい環境がありうるなど、それぞれの類的な普遍性のもつ客観的価値を承認する。
 第四章「環境倫理学とリベラリズム」は、社会に生きる人間の自己理解の問題をあらためて提起する。というのも、社会の利害と個人の自由との関係をいかに調停するのかという難題を解決しなければ、いままで述べてきた環境倫理学の問題は有効に解決できないからである。単に非-人間中心主義を唱えていても、問題はたしかに解決できない。こうして著者は、現代の社会が一種のリベラリズムによって成り立っていることを大前提とする。私たちはリベラルでない社会で暮らしたいとは思わないからである。この点では、ロック的な古典的リベラリズムと区別される現代のリバタリアニズム(帰結主義的リバタリアニズムと権利的リバタリアニズムに分類される)が議論される。そして、リバタリアンの森村進に部分的に賛同しつつも、彼の見解「自由市場経済はよりよい環境を享受できるようにする」には、楽観的すぎると疑問を呈する。以上の検討を踏まえて、著者は、コミュニタリアニズムのなかにリベラリズムを乗り越える可能性を見いだす。
 第五章「自然の探究から内面の探究へ」では、サンデル、テイラー、マッキンタイア、ウォルツァーらを引証しつつ、守るべきリベラリズムを修正するという目的で、コミュニタリアニズムのリベラリズム批判を積極的に検討する。そこでは、サンデルによる「負荷なき自己」への批判に注目され、さらにチャールズ・テイラーの二つの個人主義(「リベラリズム的個人主義」と「真正さの個人主義」)が紹介・検討される。エゴイスティックなアトミズムに帰結する前者は否定され、内部に道徳的源泉を見いだす近代の個人主義とみなされる後者は肯定されるが、そこでは、自己はいかなる存在かについてまでも問うような「強い価値評価」が含まれるはずである。こうして著者は、本能や伝統的共同体を単純に強調する考えには警戒し、手続き的正義によって環境保護が善として位置づけられる方向性を展望する。さらに環境保護を人間の自己解釈といかに結び付けるかという問題を切り開く可能性として、目的論的自然観の是非を、アンゲリカ・クレプスらの実践的目的と機能的目的の区別、マイアのテレオロギーとテレオノミーの区別、シュペーマンの「何のため」と「なぜ」の区別などにそって、著者は論ずる。ここで著者はアリストテレス、スピノザらの哲学史的認識も動員し、幅広く検討するが、結論として、自然に目的が客観的に内在すると非人間中心主義の立場から考えるべきではなく、目的論的自然観を、私たちの道徳的自己理解を成立させる構成要素として位置づけるべきであることを提案する。
 「おわりに」で著者は、環境保護にせよ、自然の目的にせよ、その根拠は私たちの内部にあるのであり、その意味で、私たちの内面を反省し探究するなかでのみ、環境倫理学は意義深い成果を見いだすと主張する。

Ⅲ 本論文の成果と問題点
 本論文は、環境倫理学の成立根拠、その課題やそこから派生する諸概念を考察するなかで、人間の自己とは何かをめぐる論争へと到達したが、そこでは広く人間の自由や共同性の問題が考慮に入れられるべきだとされた。その成果は以下のとおりである。
 第一に、環境倫理学の抱える困難を深刻に受け止め、どこにどのような諸問題が現れているのかを周到に網羅し、議論し尽くそうとしたことである。その点で著者は、環境倫理学を論じながら、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムといわれるような政治的立場の検討にまで探究の矛先を向けたのである。倫理学から政治哲学へというこうした議論の方向性は、おおいに必要かつ説得的であり、従来の環境倫理学の議論のあり方に一石を投じたことになった。ここにはまた、粘り強く問題を追究する著者の構想力および学問的誠実性が現れているといえよう。
 第二に、個別的にいえば、環境倫理学の基本的問題群の徹底した分析の点からすると、環境倫理学の学問的位置づけの図式的検討、人間中心主義の詳細な検討、通例、道具的価値と内在的価値と大きく区分される自然の価値概念の驚くほど多様な紹介・検討、などが注目に値するであろう。こうした詳細に渡る検討は、環境倫理学の陥っている困難を解決するさいの論点整理としておおいに有益である。
 第三に、とくに環境倫理学、環境思想についての先行業績の紹介・検討という点で、日本でしばしば利用されてきたアメリカなど英米系の動向のみではなく、加えてドイツの生命=環境倫理学の動向にも注目したことである。この点で、著者の問題意識はおのずと幅広く、説得的なものになっている。ドイツでいえば、ジープ、ヨナス、シュペーマン、ヘッフェら日本でもある程度知られている倫理学者のみならず、この分野でのカントのあらたな導入を初め、クレプス、オット、マイヤー=アービッヒ、ピーパー、パッツィヒ、フィッシャー、バウムガルトナーらの倫理学、環境倫理学、環境思想が紹介・検討されている。
 本論文の問題点としては、以下のことが挙げられる。
 第一に、研究者たちの多様な論点が紹介・検討されるが、それを踏まえて明確に自己の主張を展開する点で、やや弱い個所がいくつか見られることである。とくに第五章において、リベラルな社会を前提しつつ、そこにコミュニタリアニズムを積極的に導入する構想をさらに基礎づける点で、また論文最後の目的論的自然観について、それを両義的に評価する方向で説得的に説明する点で、まだやや踏み込みを欠いているという印象が残る。
 第二は、第三章で自然の価値づけの詳細な分類を試みたことは重要な論点だが、それらを十分に区別しつつ評価するという問題に関しては、まだ理論的に彫琢する余地を残しているということである。とくに自然の非道具的な内在的価値と道具的であるとされる自然の固有の価値の関連の議論などがその一例である。
 とはいえ、これらの問題点は、著者がよく自覚しているものであり、将来において、さらに十分に展開しなければならない課題といえよう。審査委員一同は、多方面に渡る本論文の考察を高く評価し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのにふさわしい業績であると判定する。

最終試験の結果の要旨

2011年3月9日

 2011年1月26日、学位論文提出者の熊坂元大氏の論文について最終試験をおこなった。試験において、提出論文『自然の探求から自己の探求へ: 環境倫理学の役割とリベラルな環境保護』に関する疑問点について審査委員が逐一説明を求めたのにたいして、熊坂氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上によって、審査委員一同は、熊坂元大氏が学位を授与されるのにふさわしい研究業績および学力を有することを認定した。

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