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博士論文審査要旨

論文題目:ハンナ・アーレントにおける私的なものの再解釈―否定性に立脚する自己の持続と世界疎外―
著者:阿部 里加 (ABE, Rika)
論文審査委員:平子 友長・久保 哲司・田中 拓道・大河内 泰樹

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Ⅰ.本論文の構成
 本論文の課題は、ハンナ・アーレントの思想において従来ネガティブなものとして理解されることの多かった<私的なもの>に関わる諸概念とそれらによって開示される理論的世界をむしろアーレントの思想の積極的側面として再構成し、呈示することにある。
 本論文の構成は以下のようになっている。

序論
第一部 活動的生活 ─『人間の条件』再考─
 第一章 行為における人格の不在 
  第一節 ディネーセンの言葉が意味するもの
  第二節 行為の「無能力」
  第三節 言論の「暴露的性格」という障害
  第四節 公的なものと隠されたもの
  第五節 現れるものと隠されるもの
 第二章 社会と内奥 
  第一節 不可抗力としての社会    
  第二節 内奥の心  
  第三節 「意識的パーリア」という経験
  第四節 全体主義的支配下における人格の破壊
 第三章 私的なものをめぐる概念 
  第一節 私的なものの非欠如的性格
  第二節 財産の私的性格       
  第三節 前政治的領域        
  第四節 労働の無世界性とは何か
 第四章 私的領域の善 
第一節 カノヴァンの再解釈の問題点  
  第二節 善の否定的性格
  第三節 最高善としての生命   
第二部 愛と精神の生活
 第五章 『アウグスティヌスの愛の概念』(一)─「自己否定」  
  第一節 欲求の構造     
  第二節 自己否定の追及
  第三節 秩序付けられた愛              
  第四節 自己の「立ち帰り」             
 第六章 『アウグスティヌスの愛の概念』(二)─「孤立化」  
  第一節 「立ち帰り」を阻むものと促すもの
  第二節 自己否定の現実化としての隣人愛
  第三節 「孤立化」の責務
 第七章 『精神の生活』第二部「意志」─ 否定し、「持続する自己」 
  第一節  意志の分裂葛藤
  第二節  意志の統合する力
  第三節  ハイデガー「意志しない意志」
  第四節  アイヒマンの分裂
第三部 世界疎外と「私的なもの」の問題圏 
 第八章 世界疎外─孤独・物語・家族の観点から 
  第一節  独居・孤立・孤独
  第二節  アガンベンのアーレント批判        
  第三節  家族と教育   
結論 

Ⅱ.本論文の要旨
 第一章においては、物語作家イサク・ディネーセンに関するアーレントの批評を切り口として行為(action)や言論(speech)においては触知されえない(intangible)問題群にアーレントが着目していたことの意味が考察されている。ディネーセンとはカレン・ブリクセンが作家として登場する際の筆名であり、ブリクセンはその作家活動において実名を秘匿することにこだわった。彼女によれば、それは語り手の人格を物語から遡及して確定することは不可能だからであった。ディネーセンにとって<物語る>という行為は、社会や世間のためなされるものではなく、それが「価値あるものであることを自分(、、)に(、)示す(、、)ことにより自分自身が十分に生きる」ことを可能にするがゆえになされる。<物語る>とは、本質的に、現在性の営みであり人格に近づくことはできても個的なものそのものを把持することはできない。このような個的なものを完全には触知することができないという言論のジレンマは、語り手が自分について語ろうと意志してもそれを実行することができない「意志の無力さ(incapacity)」からくる。「意志することとできることとは同じではない(Non hoc est velle quod posse)」というアウグスティヌスの言説を手がかりに、アーレントは、意志と行為の非連続性としてのこの「無力さ」が、言論の限界に着目する視座を提供することによって<隠されて語られざるものの存在>を保護する働きをすると考えている。
 第二章では、第一章において検討された<触知されえない自己>が社交界との関わりの中で<触知しうる>ものとなることが、アーレントのルソー解釈を手がかりとして考察される。この際、筆者は、従来「親密さ」と訳されてきたintimacyをその語源であるラテン語intimusの原義(最も奥底に秘められるもの)に立ち返って、アーレントのintimacy概念には、親密な人々との交わりに関わる次元のみならず、その親密圏からさえも距離をおいて自己に引きこもる「内奥」の次元があることを強調している。ルソーにおいてこの「内奥」の問題が抜き差しならぬ問題として露呈するのは、上流社会の社交界にルソーの内奥(intimacy)の心が苦悩し葛藤する場面である。ルソーにとってintimacyとは、他者との親密な交際という次元より更に奥深い次元に成立する概念である。J・スタロバンスキーが『ルソー 透明と障害』で描き出した「透明な自己」のルソーは、誰にも伴われない孤独者であり、彼の憤りや悲しみは他者と容易に共有しうるものではなく、その意味でルソーは自己と孤独に向き合わざるをえない。アーレントがルソーの内奥の苦悩と葛藤に言及する背景には、『全体主義の起源』の「反ユダヤ主義」で考察されたドイツ社交界の歴史や例外ユダヤ人の「意識的パーリア」がある。ドイツ社会の画一性に抗議しつつ自己を維持しようとする「意識的パーリア」の心理は、社会に対する抵抗という点で、アーレントの「私的領域」概念を構成する重要な一契機となる。
 第三章では、公的なものとは異なる私的なものをめぐる諸概念が考察される。<私的なもの>を構成する諸契機は、私生活の非欠如的特性、私有財産、前政治的領域、無世界性である。これらに共通する要素として、神聖さ、家族、暗闇が挙げられる。『全体主義の起源』においては、家族にくわえ、人種、唯一性、個体性、人格といった概念も私的領域ないし私的なものとして叙述されており、これらが全体主義的支配においては根絶の対象となったと言われている。更にアーレントは、労働の営みを無世界性/反世界性の位相として構造的に把握している。この位相は、一方では、世界からの追放と逃亡として否定的に規定されるが、他方では、労働と私的領域にはこの世界の中に生きつつこの世界からあえて遠ざかるという能動的役割も付与されている。労働における無世界性の経験は、労働主体が苦痛や労苦を通じて自らの生命を感じ取る様式であり、痛苦の激烈さや衝撃の経験は根源的なものであり、そのように生命の重荷を引き受け続ける限り、人間の生命力は保持される。この<無世界性の引き受け>および<生命から遠ざかろうとする反世界性>の経験をアーレントは、「世界の中で生きる力」の両側面として把握している。<私的(private)>という言葉は、確かに一方では、「人間的に大切なものが欠落している」状態を意味してはいるものの、他方では、この<私的>な場所とそれがもたらす暗闇においてこそ、公的空間や言論によって保証される人格および自己とは異なる地平における人格および自己が存在することを、筆者は強調している。この論点は、これまでのアーレント研究において十分研究されてこなかった未開拓の領域である。
 第四章では、上述した反世界性の経験をより明らかにすべく、M.カノヴァンのアーレント再解釈を手がかりにしつつ、従来余り指摘されてこなかった私的領域における善の概念が検討されている。カノヴァンによれば、私的な良心、善、愛などの感情はアーレントにとって心の闇にしまっておくべきものであった。自己は、常に不明で当てにならないものであるから、私的個人の相互関係あるいは私的個人の自分自身への関係にアーレントは関心を抱かず、他者の前に現れることのできる偉大さや栄光の領域である公的な世界に主要な関心を向けたというのが、カノヴァンの再解釈である。ここで見落とされている重要な点は、『人間の条件』で言及される善の「否定的性格」である。アーレントは、宗教的経験にみられる反世界性は、実際には、愛の営為の経験であり、その意味でそれは世界そのものの内部で営まれる反世界性であると考える。愛の営為は、世界(、、)を(、)去らず(、、、)に(、)世界(、、)の(、)内部(、、)で(、)実現(、、)されなければ(、、、、、、)ならず(、、、)、その意味で他のすべての営為と同じ空間に現れるとはいえ、その現われ方は、世界が人々に与える空間を拒否し、あらゆる物と人とが他者によって見られ聞かれる世界の公的な部分に対して抵抗し拒否するという「否定的(、、、)な(、)性格(、、)」をもっている。隣人愛や来世への信仰など宗教的経験に固有にみられるこうした否定性は、この世界の中にとどまりつつ世界を積極的に否定するという反世界性の営みであり、これは善の積極的側面として把握することができる。
 第五章および第六章においては、上述した私的なものの位相および善の否定的性格(人間がこの世界の中で他者とともに生きると同時に、この世界を否定してそこから遠ざかる生の様式)が、初期の著作『アウグスティヌスの愛の概念』においてどのように描かれているのかが、考察される。アウグスティヌスにとっての根源的関心は、隣人や他者への問いが同時に「自分自身へと向けられている問い」であることにあった。「私が私自身にとって問題となる(quaestio mihi factus sum)」という言葉は、それを端的に示している。この言葉にアーレントは初期から晩年に至るまで関心を持ち続け、繰り返し考察し続けている。自己への問いかけにおいて重要となるのが、自己愛において生じる「自己否定(Selbstverleugnung)」という契機である。「自己否定」は、「秩序付ける愛(cupiditas)」により可能となり、その際世界は、使用すること(uti)と享受すること(frui)の対象となる。世界の使用とは、そこに住む人々をたんに手段として扱うことではなく、この世界のためにこの世界を超えた永続性に配慮することを意味している。この世界を超え出る問いは、人間の生がその中に組み込まれている「もはや…ない」と「いまだ…ない」という二重の否定性に根拠づけられている。この世界を超え出るもう一つの問いは、自己探求(se quaerere)である。アウグスティヌスは、愛における自己探求は「孤立化(Isorierung)」であり、「孤立化」を可能にするのは「自己否定」ないし「自己への立ち帰り(redire ad se)」であると考えている。「孤立化」は、自己がこの世界の中で自己に立ち返りつつ自己に問いかけることによって可能となる個体化を意味する。
 第七章においては、『アウグスティヌスの愛の概念』において主題的に考察された個体化としての自己探求が最晩年の『精神の生活』における意志論においても展開されていることに着目しつつ、<自己への立ち返り>に関わる一連の諸概念がアーレントの思想全体を読み解く一つの重要概念であることを論証するために『精神の生活』における意志論が主題的に考察される。
 筆者は、意志論におけるアウグスティヌスとハイデガーに関するアーレントの叙述に焦点を当ててこの問題を考察している。アウグスティヌスによれば人格(、、)は人間以前には存在せず、個体性(、、、)は(、)意志(、、)に(、)表現(、、)されて(、、、)いる(、、)。またハイデガーによれば自己はなにものかへの反抗意志(Widerwillen)によってではなく<意志しない意志>によってこそ維持される。反抗意志と<意志しない意志>は、それぞれ<意志する意志>と「そのまま放置しておくこと(Gelassenheit)」としての意志とに対応し、両者の違いは後者が意志の「無力さ」を踏まえている点にある。<意志する意志>が社会から発せられるのに対し、<意志しない意志>は良心から発せられる。『存在と時間』おいて本来的な自己は「良心の声」から引き出される。この良心の声は、現存在を日常の世人のしがらみから呼び戻し、現存在を「負い目を負うもの」とする。アーレントは、「負い目」を受け入れることは自己が一種の内的行為を行うことであると考える。負い目や罪は、行為を誤らせ、意志の「無力さ」を浮かび上がらせるが、負い目や罪をめぐってうつろう思想こそが意志であり、この「無力さ」をかかえた意志こそが個々の人間において存在の歴史を可能にするという。良心の呼び声が自己に促すことは、記憶に残される歴史の歩みや日常生活を規定する出来事に巻き込まれた状態から一旦離れて、個別的(、、、)な(、)もの(、、)に(、)なった(、、、)(individualized/vereinzelt)自己(、、)を(、)再発見(、、、)する(、、)こと(、、)である。こうしたハイデガーにおける自己の再発見に関する思想は、「言語は存在の住処」であるとした『ヒューマニズムについて』よりも、「真理は隠された(、、、、)存在(、、)からやってくる」とする『アナクシマンドロスの箴言』においてより深く見いだされると、アーレントは述べている。ハイデガーの<意志しない意志>に対応する思想は、アウグスティヌスの「存在し続けたいという意欲」やミルの「永続的な私の感情の状態(permanent state of my feelings)」にも見いだすことができる。
 第八章においては、「世界疎外」という概念もまた、単に世界から追放されているという受動的否定的意義を持つだけでなく、他方で、世界から遠ざかるという能動的かつ肯定的な契機をも含意する概念であることが指摘され考察される。以上の考察をふまえ筆者は、「アーレントが語りえぬものを捨象している」と批判したアガンベンの論拠を検討し、そうした批判が妥当しないことを指摘している。アガンベンが閾や宙吊りの圏域に保存している証言不可能なものや語り得ぬものの体験をアーレントは、私的領域のうちに保持しているからである。私的領域とは、生と死、神聖さ、家族の空間であり、世界から隠されている独特な「避難所」であり、言論や公的な場において顕現する人格や自己とは異なる自己がひそやかに息づく領域である。
 さらに筆者は、アーレントが『教育の危機』、『権威について』において展開した教育論を紹介しつつ、それが家族の教育的機能の喪失に直面している現代の教育問題にとってもアクチュアルな視点を提供していると主張する。アーレントは、未来や永続性へのまなざしが家族という私的領域から立ち上がること、またそれが人間の精神の回復と治癒にとって不可欠であると主張する。アーレントによれば、現代家族においては権威、保護、保守が十全に機能しておらず、これらの機能低下により子どもは自己を肯定することができず、自分を不要(superfluous)な人間だと感じている。こうした不要さの感覚は「政治的な迫害や制約よりもずっと耐え難い」ものであり、親や保護者は、「子どもの生命および成長に対する責任および過去や伝統を担う世代として世界の存続に対する責任」を負わなくてはならない。この責任を巡って親と子どもの間に軋轢や葛藤が生じるとしても、こうした家族における複雑な人間関係を通してこそ、異文化、歴史および生命を理解する能力の基盤や自立的判断が形成されると、アーレントは主張する。
 結論において筆者は、アーレントの思想において<私的なもの>が占めている固有の意義について要約している。アーレントは、自己が現れ探求される一つの審級を<私的なもの>のうちに見いだしている。私的領域は、他者からも世間を気遣う自己からさえも隠され秘められた場所であり、世界(世間)の中にとどまりつつ、世界(世間)に抵抗し、世界から遠ざかる否定性の働く場所である。この否定性の営為を通してはじめて人間は「自己に立ち返る」ことができる。私的領域は、それが語られざるものの領域であるが故に否定性のうちに留まるとともに、この否定性に内在する能動的肯定的契機が展開されてゆく領域でもある。初期の『アウグスティヌスの愛の概念』から晩年の『精神の生活』に至るまで貫かれているこうした「否定性」の能動的肯定的契機が探求される地平を、アーレントは公共的領域と区別される私的領域の場面に求めている。
 
 Ⅲ.本論文の成果と問題点
 本論文の意義は、アーレントの思想において従来低い位置を与えられてきた<私的なもの>に関わる諸概念を丹念に拾い上げ、それらの意味を解明しつつ、<私的なもの>を巡って展開されたアーレントの諸思想の豊かさと重要性を詳細に展開している点にある。筆者は、アーレントの思想における公的領域と私的領域の区別には、公的領域の積極的意義を宣揚する立場からなされる通説的な区別とは別に、<私的なもの>の立場からなされるもう一つの区別が存在することを指摘し、それを<見せるべきもの>と<隠されるべきもの>の区別として把握している。<私的なもの>の立場からなされる<隠されるべき>私的領域において営まれる諸行為とその意義の解明のうちに、これまで看過されてきたアーレントの思想のもう一つの核心があることを筆者は、多面的に考察している。
 本論文は、そのために『人間の条件』における<私的なもの>の再解釈を行いつつ、同時に、最初期の『アウグスティヌスの愛の概念』(1929年)から最晩年の主著『精神の生活』(1978年)にいたるアーレントの諸著作における<私的なもの>に関わる諸概念、すなわち世界から自己を引き離して引きこもることによって初めて実現される「自己への立ち返り」の領域としての私的領域に関わる諸概念とそれらが構成する問題群を再構成している。この作業によって<私的なもの>は、一方では、<活動的生>と密接に関わりつつ、他方では、それが自己を探求する営みと関わることによって<観照的生活>と密接に関わることが解明される。アーレントの二つの著作『人間の条件』と『精神の生活』とは、著者によって再解釈された<私的なもの>に通底する否定性の積極的意義への着目によって初めて統一的に把握することが可能であることが説得的に示されている。以上が、本論文の成果である。
 しかし本論文には、以下の問題点が指摘される。
 第一に、筆者の問題意識が<私的なもの>の積極的意義の解明に注がれたことの裏面として、公的領域で展開される言論と行為の理解において本論文の記述はきわめて不十分である。言論に関しては言語(word)と言論(speech)の区別がなされていないために、公的領域において顕現する人格および唯一性が不当に軽視されている。また行為に関しても「意志の無能力」と「行為の無能力」との区別も適切に把握されていない。本論文の主題からすれば著者の意図は、公的世界から自己を引き離し私的領域において営まれる本来的自己に関わる多面的な諸活動が正当に評価されてこそ、公的領域における他者とともに営まれる言論と行為もまたその本来の意義と豊かさが保証されるという構成になるはずであったが、そのことが本論文において適切に記述されているとはいえない。
 第二に、著者はアーレントにおける世界疎外の理解に関わる重要概念として「孤立isolation」、「独居solitude」、「孤独loneliness」を区別し、それら三者の相互関連において世界疎外の否定的・肯定的な両義性を捉えるべきであることを強調しているが、本論文においては、上記三概念の区別とそれらの相互関連が明解に記述されているとはいえない。
 第三に、『アウグスティヌスの愛の概念』を考察した第五,六章の記述は、基本的に、邦訳テクストの要約に留まっており、cupiditas、appetitus、caritasなど「愛」、「欲望」、「欲求」に関わる重要概念に関してアウグスティヌスのラテン語文献の検討を踏まえた議論を展開するまでに至っていない。
 しかしこれらの問題点は、本人のすでに自覚するところであり、むしろ今後の研究課題とすべきものである。審査員一同は、本論文が明らかにしたことの意義を評価し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2011年3月9日

 2011年1月7日、学位論文提出者阿部里加氏の論文について最終試験を行なった。試験においては、提出論文『ハンナ・アーレントにおける私的なものの再解釈―否定性に立脚する自己の持続と世界疎外―』に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、阿部里加氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は、阿部里加氏が一橋大学博士(社会学)を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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