博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:近代日本社会と公娼制度―民衆史と国際関係の視点から―
著者:小野沢あかね (ONOZAWA, Akane)
論文審査委員:吉田 裕・木本 喜美子・田﨑 宣義

→論文要旨へ

本論文の構成
 本論文は、第一次大戦後に、日本の公娼制度が、地域社会に展開する民間諸団体や民衆の公然とした批判の対象となり、また国際的にもその仕組みが問題視されて、変容を余儀なくされる過程について、民衆史と国際関係史の中で跡づけた労作である。また終章で展開されている近年の研究動向に対する批判は、独創的な問題意識と丹念な実証に裏打ちされた斬新で説得力に富むもので、本論文全体の論争的性格を際立たせており、その点でも画期的力作として高く評価できる。
 本論文の構成は以下の通りである。
序 章 本書の課題と方法
  一 近代日本の公娼制度
  二 戦前・戦時日本社会と飲酒・「女郎買い」
  三 国民教化運動と公娼制度批判
  四 戦間期の公娼制度廃止問題と国際関係
  五 先行研究
  六 本書の構成
第一部 公娼制度批判の展開
 第一章 第一次世界大戦後における公娼制度批判の拡大
 はじめに
  一 地方講演会活動の開始
  二 地方講演会活動の活発化とその特徴
  三 公娼廃止の国際的潮流と廃娼運動
  おわりに
 第二章 大正デモクラシー期における諸団体の公娼制度批判の論理
       -長野県を中心として-
  はじめに
  一 貸座敷・花柳界の繁栄と文化生活・諸運動
  二 キリスト教会と婦人矯風会長野支部の動向
  三 諸団体の公娼制度批判
  おわりに
 第三章 一九三〇年代の公娼制度廃止問題と諸団体の公娼制度批判
  はじめに
  一 売買春状況の変容と公娼制度廃止建議案の可決
  二 一九三〇年代の売買春状況と廃娼運動
  三 公娼制度批判の底流-諸団体の動向と廃娼・禁酒
  おわりに
第二部 公娼制度をめぐる国際関係
 第一章 東アジアにおける「国際的婦女売買」の問題化と日本
  はじめに
  一 二〇世紀初頭の国際的婦女売買と日本人売春婦
  二 国際条約の制定と各国売春対策
  三 東南アジアにおける欧米植民地での公娼制度廃止
  四 国際連盟婦人児童売買問題諮問委員会の設立
  五 東南アジアからの日本人売春婦の帰国と東アジアにおける日本人売春婦
  おわりに
 第二章 国際連盟における婦人および児童売買禁止問題と日本の売春問題
    -一九二〇年代を中心として-
  はじめに
  一 国際条約の調印と公娼制度
  二 国際条約批准の遅れと公娼制度批判
  三 国際条約批准と公娼廃止・婦人児童売買状況実地調査への対応
  おわりに
 第三章 「国際的婦女売買」論争(一九三一年)の衝撃
   -日本政府の公娼制度擁護論破綻の国際的契機-
  はじめに
  一 東洋婦女売買調査団来日の前提
  二 東洋婦女売買調査団への対応
  三 内務省における調査会議と廃娼運動との接触
  おわりに
 第四章 公娼制度廃止方針樹立への道
  一 国際連盟による公娼制度廃止の提言と日本政府の反論
  二 内務省の公娼制度廃止案(一九三五年)の特徴
第三部 戦時体制下の「花柳界」と純潔運動
 第一章 戦時体制下の「花柳界」
      -企業整備から「慰安所」へ-
  はじめに
  一 軍需景気下の「花柳界」-一九三七~一九四一年
  二 企業整備と「花柳界」
  三 「高級享楽停止」と「慰安所」
  おわりに
 第二章 軍需工場地帯における純潔運動 -群馬県を中心に-
  はじめに
  一 日中戦争期の純潔運動
  二 花柳病予防・国民優生法・人口問題研究所の設置と純潔運動
  三 太平洋戦争期の純潔運動
  おわりに
 終 章 近代日本社会と公娼制度
  一 戦間期における公娼制度批判
  二 国際関係史からみた戦間期日本の公娼制度政策の特徴とその帰結
  三 戦時期公娼制度政策・公娼制度批判
  四 戦後への展望
 あとがき
 
本論文の要旨
 序章ではまず公娼制度が国家公認の事実上の人身売買制度であることを指摘した上で、本論文の課題として次の2点を提示する。第1は、公娼制度批判が地域社会でどう形成されたかを、遊興が地域の民衆生活に与えた影響と、それに対して地域社会でどのような公娼制度批判が展開されたかに焦点をあてて明らかにすること、第2は、公娼制度廃止に決定的な契機となった国際的な婦人児童売買禁止の動きを国内の廃娼運動の動向とからめて明らかにすること、である。これらの課題と研究史との関係では、とくに公娼制度下の遊興に対する批判意識の形成過程を、ジェンダー関係に視野を限定せずに「家」や都市-農村関係など多様な関係の中でとらえたいとする。
 第一部は、第一次大戦後から日中戦争前までの地域社会での公娼制度批判の広がりの検討にあてられる。
 第一章では検討の前提となる諸事項を提示する。1920年代に入ると日本キリスト教婦人矯風会(東京)が全国各地で開催する講演会数が、地方からの依頼で激増したこと、また国際的には、1921年に国際連盟で「婦女売買禁止に関する国際条約」が制定され、翌年には矯風会の久布白落実と林歌子が万国婦人矯風会大会への出席をかねて欧米で公娼廃止と婦人参政権問題を調査したことが国内の運動の活性化に結びついたことを指摘する。さらに地方講演では、キリスト教的観点から公娼制度批判を展開せず、性病・不品行・浪費などを助長するとして公娼制度の廃止を訴え、特に女性の自覚が促された点が、この時期の女子教育政策や民力涵養運動と共通したことを指摘する。
 第二章では、廃娼建議の署名数が全国一であった長野県を対象に、1920年代の地域社会で展開した廃娼運動の検討が行われる。大戦ブームによる空前の好景気を反映して貸座敷などでの遊興が未曾有の繁栄を呈したが、それが20年恐慌下でも継続して家計や経営を圧迫し、経営破綻をもたらして社会問題化する。また1920年代半ばには地方都市や農村にも都市文化の影響が波及する。こうした中で始まった長野県の廃娼運動の担い手は①キリスト教会、②婦人矯風会長野支部、③婦人会・青年会・禁酒会などの修養団体であったが、この3者が廃娼を支持する理由はそれぞれに異なっていた。①は物欲偏重の傾向を批判し道徳面から廃娼や禁酒の教育運動に取り組んだ。②の会員は地方都市の新中間層・知識人の妻が多く、合理的家庭運営と子女教育に対する使命感から廃娼運動に加わっており、勤倹貯蓄や修養の観点から廃娼を訴えた。③は団体によってニュアンスが異なり、青年会員は公娼制度を都市的=非農村的ととらえて廃止を支持し、婦人会は官製教化運動と接点を持ちつつも母親役割の担い手としての自負心から戸主の遊興・飲酒を批判した。以上から著者は、①②③の廃娼運動にはいずれも人身売買批判の契機は認められないこと、③の戸主批判に見られる「家」内部の身分的秩序改変の動きが表れる点に着目する。
 第三章は、売買春や廃娼運動史に固有の位置を占める昭和恐慌から1930年代前半期の長野県を対象にする。まずこの時期に各地の地方議会で公娼廃止決議が相次いだことを指摘して、長野県会の廃娼決議成立の背景を検討し、そこには1920年代を上回る廃娼請願署名が集まったことに加え、議会内では、婦人参政権実現を見越した既成政党とエロ・グロ・ナンセンスの風潮に経営を圧迫された公娼業者の転業志向があったことを指摘する。また矯風会長野支部や禁酒会・青年会・婦人会などはそれぞれに廃娼運動に取り組むが、矯風会支部の身売り防止運動や女子青年の間での禁酒結婚や拒婚同盟の取り組みは、勤倹貯蓄の実践という性格と併せて、飲酒や放蕩をたとえ家長の行為であったとしても認めないとする「家」の身分的秩序の改変を求める実践的行為という性格を背景にしていたことを指摘する。
 第二部では、国際的婦女売買禁止の国際的潮流と日本および日本の植民地・勢力圏での公娼制度との関係が国際関係の中で分析される。ここでの分析は膨大な新資料を駆使した詳細なもので、画期的な成果である。
 第一章では、第二章以降の分析の前提となる日本と欧米諸国の婦女売買への取り組みを検討し、1910年代以降、欧米廃娼国が東南アジアの植民地での娼家営業や婦女売買の周旋を禁止して欧米人売春婦を一斉帰国させる一方で、日本の内地と東アジア勢力圏では日本人女性の国際的売買が日露戦後に活発化したこと、第一次大戦後には東南アジアの欧米植民地からは日本人売春婦を一斉帰国させたが、日本の勢力圏下の東アジア諸都市では日本人女性の国際的売買が継続し、公娼制度が施行されたことを指摘する。
 第二章では、国際連盟設立後の1921年に成立した「婦人及児童の売買禁止条約」に対する日本政府の対応とその影響を検討する。まず、条約調印をめぐる日本全権・外務省と内務省・司法省の見解の対立と調印に至る経緯、ついで関東大震災を契機とした日本国内と国際連盟内部での公娼批判の強まりが日本政府の方針転換を促して1924年の条約批准準備が始まること、さらに日本の公娼制度に対する欧米からの強い批判が廃娼運動を活性化したことを指摘する。
 第三章では、1931年に来日した国際連盟東洋婦女売買調査団と日本政府(中国諸都市の日本領事・関東庁・朝鮮総督府・内務省)とのやりとりの中で、日本政府の公娼制度擁護の論理が破綻する経緯が明らかにされ、とくに調査団が芸娼妓周旋業の「不道徳性」を重大視したことが、折からの身売り多発の中で、周旋業者の暗躍を目の当たりにしていた国内の廃娼運動の展開に大きな意味を持ったことが指摘される。
 第四章では、国際連盟による公娼制度廃止提言を受けた日本政府の対応と1935年に内務省警保局がつくった公娼制度廃止案(「公娼制度対策」)を検討し、内務省案が単なる「看板」の塗り替えにすぎず、国際連盟で追求されてきた「売淫婦を搾取する第三者」の刑事処分は放棄されたことなどを指摘する。またこのような案にもかかわらず、内務省が公娼制度廃止方針であると報道された途端に、貸座敷業者が帝国議会に向けて猛烈な反対運動を繰り広げた点に、国家公認制度が業者にとっていかに重要な意味を持っていたかを読み取るべきであると指摘する。
 第三部では、日中戦争期からの戦時体制下での「買春関連接客業」とそれに従事する女性の動向を検討する。
 第一章では、日中戦争期の軍需景気と職工の増加が私娼の増大と普通飲食店での買春を増加させたこと、さらに接客業でも営業時間や人員などが制限されるが廃止には至らず、軍需工業地帯を中心に「慰安所」として再編・維持されたこと、また従業女性のうち「産業戦士」へ転業した者に対しても前借金の拘束が続いたこと、などを指摘する。
 第二章では、戦時体制下でも維持された公娼制度や「性的慰安」に対してくり広げられた純潔運動(廃娼運動)の事例として、群馬県純潔同盟の活動を取りあげ、国の禁欲的建前を正面から受け止めつつ、産業戦士の「不良化」や花柳界・カフェー・私娼窟の空前の繁栄と軍・工場関係者の享受、物資の偏在や買春関連諸営業の存続などに対して強い批判を継続させたことを指摘する。
 終章では、本論文のまとめと戦後への展望が述べられる。
 一では、1920年代から30年代の長野県での廃娼運動の特徴を整理した上で、とくに禁酒会・青年会・女子青年団・婦人会などの運動がその「底流」に矯風会・官製運動のいずれとも異なった批判意識の形成があったことに着目する。すなわち、官製運動が提唱する勤倹貯蓄を正面から受け止め、まじめに実践するなら、たとえ家長の行為であれ放蕩が勤倹貯蓄に背反することは明らかであり、飲酒・遊郭での放蕩を国家公認している公娼制度は大きな矛盾として捉えられる。公娼制度批判はこうした矛盾をついて展開されたにもかかわらず「近年の国民国家論はもちろんのこと、従来の女性史研究でもこうした逆説的動き、つまり「家」の秩序や官製運動に一見よりそいながらも、異なった要求をつきつけている運動にみられる主体形成のありように対してはあまり関心が払われてこなかったように思われる。しかし、高度経済成長以前の女性の大半はむしろ「家」に包摂されていたことを考えるならば、「家」を支える日常的努力の積み重ねの延長線上に、「家」の秩序への批判が生れてくるという主体形成のありようにもっと注意を向ける必要があるのではないだろうか」と指摘する。
 二では、近代日本の公娼制度が実質的な人身売買と性病予防の点で欧米のそれと同一視できないこと、さらにこの点が日中戦争以降に「慰安所」が大規模に設置されたことと関係するのではないかと指摘する。
 三では、戦時体制下でも、公娼制度と「性的慰安」が戦争遂行に不可欠との認識の下に、内務省によって存続させられた点などから戦時体制下にも女性たちが前借金に拘束され続けたことを指摘し、戦時体制を現代化の基点と位置づけ、平準化・国民化の過程として捉えて戦時・戦後の連続を主張する総動員体制論の評価は一面的といわざるをえないことを指摘する。
 最後に四で、戦後への展望が示される。そこでは近年の研究動向に理解を示しながらも、近年の売春防止法評価に対しては、同法の制定まで前借金契約・売春の周旋・場所の提供・第三者による搾取は違法とされなかった点から、改めて同法の再検討の必要性を指摘する。また売買春や風俗営業に対する民衆の批判意識の存在形態を、GHQの売春政策や官製の純潔運動と女性たちの意識との異同を改めて検討する必要があることを指摘する。

本論文の成果と問題点
 本論文は、これまでの廃娼運動史研究がキリスト教徒やキリスト教団体に焦点を当ててきたのに対し、近代日本社会と国際関係の中で公娼制度を、民衆史的視点と国際関係史的視点から検討した点が独創的であり、ここから多くの成果と近年の研究動向に対する論争的な問題提起が生まれている。そのうちの主な成果は以下のようである。
 第1に、国際連盟や欧米列強における婦人児童売買禁止の動きが、国際連盟の常任理事国となった日本政府にも影響を及ぼし、公娼制度廃止の方向にまがりなりにも踏み出さざるを得なくなり、1935年には内務省警保局で公娼制度廃止案がつくられるに至った過程を明らかにしたことである。わけても、本論文で初めて明らかにされた国内の廃娼運動や公娼制度見直し論と国際的な婦人児童売買禁止の動きとの相互関係、さらに東洋婦女売買調査団の来日と日本政府の対応などの動きは特筆に値する成果である。また緻密な実証と論理で展開される、日本の公娼制度の特異性に対する著者の指摘は説得力に富む。国際関係的視点の導入によって生み出されたこれらの成果は高く評価できる。
 第2に、長野県を事例にして、地域社会での廃娼要求を民衆史的視点から検討し、婦人矯風会や官製の教化運動と接点を持ちつつも、「勤倹貯蓄」など通俗的な生活規範や官製の教化運動と、民衆が置かれた時々の社会状況や経済状況を内面化する中で生まれてきた独自の批判意識を背景にした要求であることを指摘し、民衆自身の自己変革と成長をあとづけたことである。この点は上記第1の点と並んで、高く評価できる。
 第3に、社会的平準化が進むとされる総力戦体制下においても、公娼制度は完全には廃止されず、特に前借金で女性を拘束するという日本の公娼制度の独自の特質には基本的変化がなかったばかりか、むしろ戦時下の生産力や戦意の維持に公娼制度が不可欠であると当局者が認識していたことを明らかにしたことである。
 このように、本論文は日本の公娼制度史研究に大きな貢献をして新しい研究方向を開拓したのみならず、近代日本社会史の分野においても重要な貢献をしているが、次のような新しい課題も出てきている。
 ひとつは、終章で著者も指摘するように、1920年代以来の公娼制度をめぐる動きが戦後にどう連続し、または断絶するかという問題である。また1920年代になると、地域の婦人会員や男女青年団員に廃娼要求が支持されることは本論文が明らかにしたところであるが、著者はそこに、国民教化運動の中で強調された家計観念の浸透や家長からの自立と家長批判の芽生えなど、「家のゆらぎ」を読み取る。しかしこの評価は従来の研究史上の成果に多分に依拠しており、さらに掘り下げた実証的検証が期待される。
 もとより、これらの課題は本論文の成果がもたらした新しい課題でもあり、著者も自覚しているところであるので、今後の研究の進展に期待すべきものと判断する。よって審査員一同は、本論文が当該分野の研究に十分に寄与したと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2011年3月9日

 2010年2月21日、学位論文提出者小野沢あかね氏の論文について最終試験を行った。試験においては、『近代日本社会と公娼制度-民衆史と国際関係史の視点から-』に関する疑問点について審査員から説明を求めたのに対して、小野沢あかね氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

このページの一番上へ