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博士論文審査要旨

論文題目:イギリスのニューライト―新自由主義と新保守主義―
著者:二宮 元 (NINOMIYA, Gen)
論文審査委員:田中 拓道・吉田 裕・渡辺 雅男・ジョナサン ルイス

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1.本論文の構成

 本論文は、第二次大戦後のイギリス保守政治の展開を、ニューライトと呼ばれる思想と運動に焦点を合わせて考察し、サッチャー政権が戦後イギリスの統治構造を根本的に再編させたことを指摘した研究である。ニューライトは新保守主義と新自由主義という二つの潮流から構成される。それぞれの歴史的形成・発展過程を詳細に分析し、具体的な担い手、政策展開、その背後にある経済構造の変化を組み合わせることで、戦後イギリス保守政治の全体像を体系的に明らかにした意欲的研究である。

 本論文の構成は以下のとおりである。

序論
 第一節 問題の所在
 第二節 先行研究の検討
 第三節 本論文の課題
第一章 戦後コンセンサス政治の形成とその構造
 第一節 戦後コンセンサス論の系譜とその批判
 第二節 福祉国家的コンセンサスの構造
 第三節 保守党による福祉国家的コンセンサスの受容
 第四節 「寛容な社会」のコンセンサスの成立
 小括
第二章 60年代における新自由主義と新保守主義の登場
 第一節 60年代のコーポラティズム政治の展開
 第二節 新自由主義の登場
 第三節 新保守主義の台頭
 第四節 60年代のナショナリズム
 小括
第三章 ヒース政権の挫折とサッチャーの登場
 第一節 ヒースからサッチャーへ
 第二節 サッチャー派とウェット派の対立
 小括
第四章 サッチャー主義の政治
 第一節 サッチャー政権誕生の歴史的文脈
 第二節 サッチャー改革の第一段階(79~83年)
 第三節 サッチャー改革の第二段階(83~90年)
 第四節 サッチャー政権内部の諸対抗
 小括
終章

2.本論文の概要

 序論では、先行研究の検討を踏まえて二つの課題が設定される。第一はサッチャー政権の位置づけについてである。従来の研究では、サッチャーの統治術、イデオロギー的側面が着目されるか、フォード主義からポスト・フォード主義への転換点としてサッチャー政権が位置づけられてきた。本論文は、戦後イギリスの社会経済的変化の中にサッチャー政権を位置づけ、不完全なフォード主義という遺産を抱えた戦後イギリスの統治構造が、サッチャー政権によってグローバル化に対応する新たな統治構造へと再編されたことを明らかにする。第二は新自由主義と新保守主義の関係についてである。従来の研究では、ニューライトが新自由主義と同一視されるか、新自由主義と新保守主義の組み合わせとして理解されてきた。本論文は、1960年代に新自由主義的改革に先立って新保守主義が登場したことに着目し、両者の形成・発展過程を歴史的文脈の中で考察した上で、それらがサッチャー政権においてどう結びついたのかを検討する。
 第一章では、戦後コンセンサス政治の成立過程が分析される。従来の研究は、保守党、労働党間のコンセンサスの中身をケインズ主義的福祉国家への合意と捉えてきた。本論文ではその内容を、福祉国家化、社会の寛容化という二つの要素の組み合わせと捉えている。
 第一の福祉国家化については、コンセンサス自体を否定する研究もあるが、筆者によれば以下の四つの政策領域において左右の収斂が存在した。一つめは、ベヴァリッジ型の所得保障、医療保障および住宅保障を柱とする社会保障への広範な合意である。二つめは、ケインズ主義的な完全雇用政策である。三つめは、金融、石炭、鉄道、航空、、電気、ガスなどの幅広い基幹産業の国有化である。四つめは、労使の自治的な交渉に労働問題の解決をゆだねる「集団的自由放任主義」の導入である。ただし筆者によれば、こうした労使協調路線は労働運動の強い影響力をもたらし、技術革新や産業合理化を困難にしたため、戦後イギリスにおいてフォード主義は不完全な形でしか実現しなかった、という。
 第二に、社会の寛容化については、1950年代から60年代にかけて個人の道徳的自由を拡大する立法が次々と実施されたことが指摘される。わいせつ出版規制の緩和、ギャンブル規制の緩和、同性愛合法化、中絶規制の緩和、劇場検閲制度の廃止、離婚の自由化、死刑廃止などである。これらの立法は、単なる個人的自由の拡張ではなく、福祉国家化による経済介入の拡大と市民社会における私的自治の承認を組み合わせることで、より強固な社会統合を実現するという目的に沿ったものであったと解釈される。
 さらに筆者は、以上の二つのコンセンサスを主導した政治潮流についても検討している。労働党の内部では、議会制民主主義を通じた社会改革を唱える修正主義社会民主主義派がコンセンサスを推進した。本論文はそれに対応する潮流として、保守党内部に「進歩的保守派」と呼びうる潮流が存在したことを指摘する。戦時中の保守党では古典的自由主義派が主流を占めていた。例えばベヴァリッジ報告を検討するために保守党内に設置された特別委員会では、戦時中の国家財政拡大が例外的な事例と見なされ、戦後は自由放任主義に回帰すること、社会給付にはスティグマを付すべきことが主張された。一方1943年に結成されたトーリー改革委員会に集まった保守党議員たちは、ディズレイリの流れを汲む「一つの国民」という伝統に立脚し、プラグマティックな立場から一定の国家介入、労働組合の役割承認、産業国有化を主張した。1945年総選挙の敗北後、保守党は党組織改革を行い、『産業憲章』を策定して社会保障と雇用政策の推進、国家による計画化、政府・産業界・労働組合の協議機関の設置などを提唱した。こうして保守党内で進歩的保守派が主導権を握ることにより、戦後コンセンサス政治が確立した、という。
 第二章では、1960年代に新自由主義と並んで新保守主義が登場し、一定の社会的影響力を獲得することが指摘される。
 第一に、1960年代の新自由主義は、戦後コンセンサス政治の延長上に展開されたコーポラティズム政治への批判として登場した。戦後イギリスのフォード主義が不完全なものにとどまったことにより、60年代のイギリス経済は相対的な衰退に直面していた。60年代初頭の保守党政権は、政府、産業界、労働組合の三者協議機関を設け、国家の介入を強化することで、賃金抑制、社会保障の拡充、経済計画化・近代化を実現しようとした。62年には国民経済発展協議会が設立され、64年には経済問題省が設立される。しかし、こうしたコーポラティズム戦略は、経済界と労働組合の双方が集権的構造を持たず、産業を越えた連携や下部労働者への統制を発揮できなかったため、失敗に終わった。コーポラティズム戦略の失敗を受け、60年代半ばから、この戦略を批判する新自由主義が登場する。その代表者であるイノック・パウエルは、戦後コンセンサス政治を批判し、国家による計画化を社会主義とみなし、公共支出削減、厳格な貨幣政策などを唱えた。64年以降に野党となった保守党内部では、「マンデー・クラブ」のようにパウエルの主張を受け入れるグループが現れ、その影響力は増大していった。
 第二に、新自由主義の登場とほぼ同じ時期に新保守主義が台頭する。新保守主義の特徴として、伝統的社会秩序の解体への危機感、エリートへの強い批判意識、ポピュリズム的性格という三点が指摘される。具体的には、犯罪や非行の増加、移民の増加に対して危機感を抱き、キリスト教的道徳の復興と白人を中心とした排外的ナショナリズムを唱えていたことが指摘される。後者の主張は、進歩的保守派と修正主義社会民主主義派に共有されていた戦後コンセンサス政治の一側面、すなわち移民を積極的に受け入れ、人種的・文化的多様性を包摂する寛容な社会を実現する、という方向性を否定するものであった。
 ただし筆者によれば、この時期の新自由主義と新保守主義の影響力はいずれも限定されたものにとどまった。1960年代にはイギリス経済衰退への危機感は強いものではなく、新自由主義の支持基盤はいまだ脆弱であった。新保守主義は戦後のコンセンサス政治に対する大衆的不満を基盤とし、旧中産階級のみならず労働者階級の間にも一定の広がりを持ったが、その代表者であるパウエルは保守党内に権力基盤を持たず、政治的な成功を収めることができなかった。したがって1960年代を通じて保守党内の主流であり続けたのは進歩的保守派であった。
 第三章では、1970年代に保守党政権を担ったエドワード・ヒースとマーガレット・サッチャーの党内権力基盤が比較され、ヒース政権の崩壊後、サッチャー政権が成立するまでの政治的背景が検討される。
 第一に、1970年に成立するヒース政権は、60年代のコーポラティズム戦略から脱却し、経済的な競争政策へと転換することを目指した。具体的には、国家による産業介入を縮小・撤廃すること、労働運動への規制を強化し経営者による賃金抑制を支援すること、ECに加盟することである。ただしヒース政権の競争政策は、失業の増大と労働者の抵抗によって転換を余儀なくされ、1972年以降は積極的な財政出動と所得維持政策へと回帰することになった。筆者はその理由として、ヒース個人が進歩的保守派としての立場を保持していたこと、保守党内で明確な新自由主義勢力が確立していなかったことを挙げる。
 第二に、1974年のヒース政権崩壊後、保守党内部では進歩的保守派と新自由主義派の主導権争いが展開される。筆者は両者を「ウェット派」と「サッチャー派」と呼び、その間の思想的・政策的対立軸を詳しく検討している。まず両者は、保守主義とは何かという原理的な水準で対立した。ウィリアム・ホワイトロー、イアン・ギルモア、ジェームス・プライアーなどのウェット派は、保守主義の利点を現実への適応性や柔軟性に求め、硬直したイデオロギーを廃そうとした。国民的一体性の保持のためにはある程度の物質的な平等が必要であるとして、戦後福祉国家の成果を積極的に肯定する。一方サッチャーのほかキース・ジョゼフ、ジョン・ビッフェンなどは、個人の自由、制限された政府、健全な通貨、厳格な道徳規律を、譲歩することのできない保守主義的原則と捉えた。彼らは戦後のコンセンサス政治を保守党の一方的な譲歩であったとして批判する。サッチャー派は国民的一体性の保持よりも強いイギリスの復活を重視し、ある程度の社会格差を甘受すべきものとして肯定した。具体的な政策について見ると、ウェット派は自由主義市場に懐疑的であり、福祉国家を維持すること、労働組合と協調すること、政労使の三者協議機関を通じて所得維持政策を行うことを主張した。一方サッチャー派は、雇用政策や所得維持政策を人々の自立心や責任感を損なうものと見なし、政府の役割をマネタリズム、つまり通貨供給量の厳格なコントロールによる物価安定のみに限定しようとした。さらに労働組合を経済衰退の原因と見なし、対決姿勢をとった。筆者によれば、以上のようなサッチャー派の議論は、公共支出の削減や福祉国家の縮小を求める新自由主義と、伝統的な道徳秩序の回復を求める新保守主義を結びつけ、この二つの流れを戦後イギリスの統治構造に対する全面的な批判へと合流させるものであった。
 第四章では、1979年から90年までの11年間にわたるサッチャー改革を、79年から83年までの第一段階、83年から90年までの第二段階に分けて考察している。
 まずサッチャー登場の政治的・経済的背景として以下の点が指摘される。経済的背景としては、フォード主義経済からグローバル資本主義への転換が挙げられる。60年代から70年代の諸改革はいずれも戦後イギリスの不完全なフォード主義を克服しようとする試みであったが、73年のオイル・ショックを契機として資本のグローバル化が急速に進み、フォード主義を支えていた労働者の高賃金、福祉国家という前提が崩れることになった。サッチャー政権は、一方で不完全なフォード主義の下で残存してきた非効率・衰退産業を淘汰し、他方でグローバル化した資本に適合的な形へとイギリスの経済構造を再編する、という課題を担っていた、と位置づけられる。政治的背景としては、70年代後半から80年代に語られた「統治の機能不全」「政府の過剰負担」論に対応し、国家の介入領域を縮小することによってその権威を回復する、という課題を担っていたことが指摘される。以上を踏まえ、サッチャー改革の中身が分析される。
 第一に、サッチャー改革の第一段階となる1979年から83年までは、マネタリズムに基づく財政的・金融的引き締めが行われた。その狙いはインフレを抑制し、イギリス経済に残存していた非効率な資本と労働力を整理することであった、とされる。具体的には所得税の引き下げと付加価値税の引き上げによって税の重点を直接税から間接税へと移行させ、25億ポンドにのぼる財政支出の削減を行い、中期的な通貨供給の数値目標を設定した。これらの政策の結果、82年までに失業者は300万人を越えたが、過剰な資本・労働力が整理されることによって製造業の生産性は向上した。筆者はこうした強硬な政策運営が可能であった理由として、サッチャー政権が産業界・経済界から自律的であったこと、反対勢力を閣内の重要ポストから排除したことなどを挙げる。
 第二に、サッチャー改革の第二段階である1983年から90年には、第一段階の改革を仕上げるとともに、資本のグローバル化に対応した新しい蓄積体制を構築し、それに適合する社会統合策を導入することが模索された。第一段階の改革の仕上げとしては、炭鉱の合理化と労働党が勢力を握る自治体改革が挙げられる。これらを断行したことで労働党内の主導権はラディカルな左派から穏健左派へと移行した。次にグローバル化に対応する新しい蓄積体制の構築としては、法人税引き下げ、金融市場の規制緩和などが挙げられる。実際、サッチャー政権期には製造業が縮小し、金融業・サービス業が飛躍的に拡大した。また労働組合の弱体化、海外資本の積極的誘致にともない、80年代後半には海外からの直接投資が急増した。これらに加え、福祉国家改革として、年金・補足給付の削減、医療における内部市場の導入、自治体改革として強制競争入札制度の導入、新しい地方税制の導入、教育改革としてナショナル・カリキュラムの導入、学校選択制の導入がとりあげられる。
 筆者によれば、新たな経済構造に対応した以上の政策によって、サッチャー政権は一定の経済的成功を収めた。しかしその代償として貧困、失業が増大し、とりわけ低賃金・低労働条件の雇用、南北間の地域格差が拡大した。これらに対してサッチャー政権が打ち出したのが「二つの国民」型と呼びうる社会統合策であった。すなわち一方で、中上層に対しては、公共住宅の売却と国営企業民営化によって、持ち家と株式所有を推進し、新自由主義政策に対する支持層を拡大しようとした。他方で下層・労働者層に対しては、警察の人員と権限の強化、治安の強化を行った。この後者の流れを正当化したのが新保守主義的な言説であった。サッチャー政権の下では貧困、失業、犯罪などが社会的・環境的要因から切り離され、個人の道徳的欠陥の問題へと還元されることで、抑圧や統制が正当化された。以上のサッチャー改革の基本的な方向性は、ヨーロッパ統合をめぐる政権内部の対立によりサッチャーが退陣した後も、メージャー政権や労働党ブレア政権によって引き継がれていった、という。
 終章では、本論文全体の考察が「現代国家」というキーワードによって総括される。筆者によれば、第二次大戦後の先進国に現れた現代国家は、19世紀までの名望家層に支えられた近代国家と異なり、大衆的基盤を持つ幅広い社会統合に支えられた国家であった。戦後イギリスのコンセンサス政治は現代国家のひとつの典型として位置づけられる。すなわち、一方で市場に対する国家の介入が強化され、他方で市民の私的活動領域における道徳的自由が広範に認められた。イギリスで1960年代に現れた新自由主義と新保守主義は、ともに現代国家を右から批判する思想と運動であった。ただし両者は広い支持に欠け、互いに十分な結びつきを持たなかった。サッチャー政権は、資本のグローバル化を背景として、新自由主義に基づき国家の経済介入を縮小・撤廃する一方、福祉国家が個人の自立心や責任観を失わせているという新保守主義的言説を展開することで、戦後の寛容な社会を転換して治安国家化を進め、「二つの国民」型と呼びうる新しい社会統合をもたらした。彼女の改革は、二つの思想と運動を合流させ、現代国家に代わる新しい統治構造を作り上げたという点で、歴史的な転換点となった、と位置づけられる。
 
3.本論文の成果と問題点

 本論文の成果は以下の三点にまとめられる。
 第一は、戦後イギリス保守政治史研究としての独自性である。本論文では、戦後の保守党政治をコンセンサス政治から新自由主義へという単純な流れに還元せず、それぞれの時期における党内の路線対立を詳細に跡付けている。すなわち、戦中から戦後において古典的自由主義を唱えた主流派と、トーリー改革委員会に集まりコンセンサスを主導した「進歩的保守派」との対抗、1960年代においてコーポラティズム戦略を推進する「進歩的保守派」と、新自由主義・新保守主義の萌芽的な主張を唱えたパウエルや「マンデー・クラブ」との対抗、さらに1970年代の「ウェット派」と「サッチャー派」との対抗などである。それぞれの潮流の人的構成のみならず、各時代の政策体系の変遷、それを支える保守主義理念の違いにまで遡って考察することで、戦後の保守政治の流れを緻密に明らかにしたことは、従来の研究に対する重要な貢献と評することができる。
 さらに強調されるべきは、保守勢力の内部において、サッチャー時代に先立つ60年代に新自由主義・新保守主義を掲げる主張が現れていたことを明らかにした点である。従来のイギリス政治史研究では、70年代労働党のコーポラティズム戦略の失敗を受けて、70年代後半にマネタリズムや新自由主義が政策理念として浮上したと理解されてきた。しかし本論文は、60年代のイノック・パウエルの言説に着目することで、すでにこの時期には保守党内部にコーポラティズム戦略への批判と新自由主義の萌芽と言える主張が登場していたこと、それらと並行して戦後の「寛容な社会」を批判する新保守主義的言説が一定の影響力を獲得していたことを明らかにした。これらの指摘によって、イギリスにおける保守主義と新自由主義の関係を、サッチャー政権という単独の政権に還元することなく再検討する必要があることを示唆しえたと言える。
 第二に、政治・経済・社会を総合的に捉えようとする本論文の枠組みと叙述は、従来の研究を越える厚みのあるイギリス政治史の理解をもたらしている。本論文では「現代国家」という枠組みによって、政治経済政策と文化政策を統合的に把握することが目指されている。すなわち戦後の統治構造が、一方では「フォーディズム」や「コーポラティズム」という先進国に共通する比較政治経済学の概念によって分析される。戦後イギリスの特徴は、「フォーディズム」の不完全な達成と、その遺産を克服しようとする「コーポラティズム」戦略の失敗として把握され、そこに新自由主義台頭の背景が指摘される。他方では、戦後の文化政策における「社会の寛容化」と、それに対する反動として60年代以降に現れる「新保守主義」への変遷が指摘される。この二つの水準は「現代国家」の二要素として統合され、戦後保守政治が不完全ながらも「フォーディズム」と「社会の寛容化」の組み合わせによって広範な社会統合を達成していたこと、60年代以降の「コーポラティズム」戦略の失敗と新保守主義の勃興が、サッチャー政権へと合流することで、「現代国家」の統治構造そのものを再編していくことが明らかにされた。さらに以上の二つの水準は、戦後の産業構造の転換、すなわち帝国維持を前提とした製造業中心の構造から、ヨーロッパ市場統合とグローバル化を背景とした金融・サービス業中心の構造への転換という大きな流れの上に位置づけられる。以上のように、政治・経済・社会の各水準を結びつける重層的な分析枠組みを構築し、時間軸に沿った歴史的変遷を組み合わせることで、本論文は戦後イギリス保守政治の流れを立体的に再構成することに成功している。
 第三は、サッチャー政権の評価についてである。従来の研究では、サッチャー個人の政治的資質や統治術、新保守主義というイデオロギーによる大衆動員が着目される一方、その成果については、福祉国家の縮減が限定的なものにとどまったという指摘や、「ポスト・フォード主義」への移行に失敗したという指摘がなされ、特筆すべき評価は与えられてこなかった。本論文は50年間に渡る保守政治史の中にこの政権を位置づけることで、短期的な業績評価とは別に、その歴史的な意義を明らかにした。すなわちサッチャー政権が新自由主義と新保守主義を結びつけ、戦後の統治構造と異なる「二つの国民」型と呼びうる新たな統治構造をもたらしたことである。この指摘は従来のサッチャー研究に新たな視点を導入したものとして評価することができる。

 以上のように、本論文は全体として優れた水準にあると評価できる一方で、以下のような問題点も指摘することができる。
 第一は、サッチャー政権の権力基盤について十分な政治学的考察がなされているとは言えない点である。本論文では、党内対立や支持基盤との関係に苦慮した従来の政権と異なり、サッチャー政権が資本・労働のいかなる諸利害からも自律し、強力なリーダーシップを振るったことが指摘されている。そのような政権運営を可能にした権力資源を明らかにするためには、保守党内部の意思決定や利益団体との関係、内閣や首相官邸の制度構造、メディアとの関係など、制度分析や政治過程分析をより緻密に行う必要があったであろう。さらにシティなど金融資本とサッチャー政権の関係についても、直接の接触にとどまらず、シンクタンクを通じた政策アイディアの交流など、間接的な影響関係も含めて考察することで、より説得的なリーダーシップ分析が可能となったのではないだろうか。
 第二に、本論文では保守党内部の諸潮流が詳しく検討される一方で、それらを支持・受容した側の政治意識にはほとんど言及されていない。例えば60年代の新保守主義や80年代のサッチャーによる新自由主義を支持したのはいかなる社会階層・職業層であったのか。その政治意識はどう形成され、戦後からどのように変化したのか。経済構造と具体的な政治潮流を総合的に把握するという本論文の長所は、以上の点に関する考察を加えることによって、より明確なものとなったはずである。
 第三に、本論文の考察の多くはイングランドに限定され、イギリス帝国の変容や、連邦の一員であるスコットランド、ウェールズへの影響についての考察が十分とは言えない。特にイギリス帝国の変容は、戦後の福祉国家コンセンサスを受容あるいは批判する国民の側の政治意識と結びついていた可能性がある。また保守勢力の一部がアングロ・アメリカ同盟の枠内で帝国の権益維持を図るために新自由主義を受容していったという側面も否定できない。これら国内政策と対外政策とのリンケージについてもう少し言及がなされていれば、本論文の考察はさらに豊かなものとなったであろう。
 第四に、以上の三点に共通する問題として、扱っている資料の限界が挙げられる。本論文では膨大な二次文献が渉猟されているが、一次資料として主に参照されているのはサッチャー基金の保管するアーカイブ資料と保守党のパンフレット類である。現代政治史研究としては一次資料の発掘が不十分であるとの印象は否定できない。これらに加え、議会、政党、シンクタンク、利益団体、新聞、外交等の一次資料を収集・分析することによって、本論文の完成度はさらに高まったのではないかと思われる。
 もっともこれらの問題点は、論文全体の学術的価値を損なうものではない。筆者は問題点を十分自覚しており、今後の研究においてそれらを克服していくことが期待される。

4.結論

 審査委員一同は、上記のような評価にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与すること大なるものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2010年11月17日

 2010年10月20日、学位請求論文提出者、二宮元氏の論文についての最終試験を行った。
試験において審査委員が、提出論文「イギリスのニューライト―新自由主義と新保守主義―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、二宮元氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は、二宮元氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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