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博士論文審査要旨

論文題目:象徴天皇制の形成過程―宮内庁とマスメディアの関係を中心に―
著者:瀬畑 源 (SEBATA, Hajime)
論文審査委員:吉田 裕・坂上 康博・中野 聡・稲葉 哲郎

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一、 本論文の構成

 本論文は、宮内庁とメディアとの関係に着目しながら、昭和天皇の「戦後巡幸」と皇太子・明仁教育の問題を分析することによって、象徴天皇制形成過程の歴史的・政治的特質を解明しようとした実証的研究である。本論文の構成は、次の通りである。

はじめに

第Ⅰ部 昭和天皇「戦後巡幸」にみる象徴天皇制の形成過程

第1章 昭和天皇「戦後巡幸」の再検討―1945年11月「終戦奉告行幸」を中心として―
第2章 「戦後巡幸」における宮内庁の政策とその反応
第3章 象徴天皇像の形成過程―昭和天皇「戦後巡幸」における地方新聞の報道を中心として―
第Ⅰ部 まとめ

第Ⅱ部 皇太子明仁にみる象徴天皇制の形成過程

第4章 皇太子明仁への教育方針
第5章 小泉信三の象徴天皇制論―『帝室論』と『ジョオジ五世伝』を中心として―
第6章 皇太子明仁とマスメディア報道
第Ⅱ部 まとめ
結論

二、 本論文の概要

 第1章は、1945年11月に行われた伊勢神宮への「終戦奉告行幸」の分析である。筆者によれば、この行幸では、皇祖皇宗への独特の責任意識を持つ昭和天皇が行幸実施を強く主張したため、宮内省としても、これを受け入れざるを得なかったという経緯があった。しかし、敗戦に伴う警察力の低下や地方行政組織の混乱によって、戦前と同じような形での厳重な警備の実施や奉迎への国民の強制的動員は、もはや不可能だった。その結果、宮内省は、「警備の簡素化」、「奉迎の自由」化、新聞記者やカメラマンの報道に対する統制の緩和、といった新たな政策転換をよぎなくされたのである。重要なことは、危惧されたような行幸に対する国民の反発は、ほとんどみられず、沿道の国民が天皇の行幸を熱烈に歓迎したことである。また、新聞関係者も、この政策転換を高く評価した。こうした中で、当初は消極的な姿勢をみせていた宮内省も、行幸の結果をみて、天皇と国民との間の精神的紐帯を強化するためには、天皇が国民の前に積極的に姿を現すことが重要な意味を持つことを学んだ。「終戦奉告行幸」は、後の「戦後巡幸」のいわばテストケースとしての役割を果たしたのである。
 第2章は、1946年2月の神奈川県への巡幸に始まり、1948年の中断期を経て、1951年11月の京都府などへの巡幸で終わりを告げる、昭和天皇の「戦後巡幸」の分析である。宮内府(宮内省を改組)は事前にGHQからの承認を取り付けた上で、神奈川県を皮切りに全国各地への巡幸を次々に実施していった。昭和天皇も、また、この巡幸に積極的だった。この巡幸の過程で、宮内府は、行幸日程の事前公表、奉迎場や記帳所の設置、オープンカーの使用、ラジオ放送の許可、ニュース映画の撮影許可、天皇の談話の新聞発表などの新機軸を打ち出し、新聞記者などの取材や報道に対する規制もいっそう緩和された。宮内府は積極的に「国民と共にある天皇」像を演出することによって、天皇制の支持基盤を再編強化しようとしたのである。天皇のこの巡幸は、各地で国民の歓迎を受けることになるが、その一方で、しだいに奉迎事務のマニュアル化や奉迎の形式化、行幸の大規模化に伴う経費の増大などの弊害も顕著になっていく。このため、大規模化する巡幸が戦前のような天皇崇拝に結びつくことを恐れたGHQの民政局(GS)が介入し、1948年には巡幸が一時、中止される。この動きに連動する形で,日本政府も、天皇の側近グループを一新するとともに、宮内府改革=宮内府の近代化に乗り出した。この結果、宮内府は宮内庁に改組され、総理大臣管轄の一機関となって独自の権限を失うに至る。
 1949年に入り、「戦後巡幸」は再開されるが、行幸方針が事前に閣議決定されるようになるなど、宮内庁は日本政府の政策に従属することを求められるようになっていった。そして、その後は、天皇の地方巡幸に代わるものとして全国植樹祭や国民体育大会への行幸が定例化していくことになる。
 同時に、宮内庁と新聞記者の関係も、戦前とは大きく変化した。新聞記者たちは、1946年の年頭詔書、いわゆる、天皇の「人間宣言」や「国民と共にある天皇」像に強く共感し、「戦後巡幸」にも協力的な姿勢を取ったが、取材や報道に対する規制に対しては強く反発した。彼らの中では、戦前と戦後は明確に断絶していたのである。こうした中で、宮内庁が新聞記者をコントロールすることは、次第に困難になって行く。
 第3章は、「戦後巡幸」に対する地方新聞社、47社の報道を、社説および「記者の感想」などの記事を中心にして網羅的に分析したものである。地方新聞の報道の最大の特徴は、「人間天皇」が巡幸を通じて、国民と直接結びつくことこそが、日本国憲法で規定された「象徴」規定の理想像であるとする主張が強調されていたことである。そして、この結びつきの障害となると考えられた過剰な警備や権威主義的な奉迎のあり方には、徹底した批判が加えられた。批判の対象となったのは、警察や県当局、巡幸に随行する宮内官僚などである。しかし、そのことは,憲法の「象徴」規定と主権在民規定との間にはらまれる緊張関係が完全に無視され、「象徴天皇」を制度としてではなく、「人間天皇」としてとらえることを意味していた。注目に値するのは、「人間天皇」をアピールする点では、新聞記者たちと軌を一にし、彼らの協力を必要不可欠なものとした天皇や宮内庁の側も、この天皇像から逸脱することは許されないようになったことである。ある意味では、天皇や宮内庁の側も、常に天皇の「人間性」を国民に顕示し続けなければならない状況に追い込まれたのである。
 第4章は、「ミッチーブーム」によって、象徴天皇制の基盤を拡大することになる、皇太子・明仁に対する教育方針の分析である。皇太子に対する教育は、すでに戦前期から、軍国主義的な色彩の薄いものであり、皇太子は他の男子皇族とは異なって、軍人に任官することなく敗戦を迎えた。敗戦後は、昭和天皇の皇太子時代と同様に、御学問所で帝王学を教える特別教育がなされる予定だったが、GHQの反対によって、この構想は挫折した。その結果、皇太子は、特別な個人授業を受けるほかは、学習院で一般の生徒とともに同じ内容の教育を受けることになった。さらに、GHQの意向を昭和天皇が支持したことによって、皇太子には、アメリカ人女性、ヴァイニングが家庭教師としてつけられ、英語を通じた民主主義教育が行われたのである。こうした教育の中で、皇太子明仁は、象徴天皇制を支えるにふさわしい新しい資質をしだいに身につけて行くことになる。
 第5章は、皇太子・明仁教育の事実上の総責任者であった小泉信三の象徴天皇論についての分析である。小泉が皇太子とともに、福沢諭吉の『帝室論』とハロルド・ニコルソンの『ジョオジ五世伝』を読んだことはよく知られている。筆者は、皇室を政治の圏外におこうとする『帝室論』と、王は諮問に対し、「忠告し、奨励し、警告する権利」を持つとする、ウィリアム・バジョットの君主論を敷衍した『ジョオジ五世伝』との間には矛盾が存在することに着目し、そこから、小泉の象徴天皇制論を読み解いていく。筆者によれば、小泉の天皇観は、国体論的な天皇観とは一貫して無縁であり、その意味では近代的な性格のものであった。しかし、彼の説く天皇論は、決して体系的なものではなく、その時々の状況に応じて、象徴天皇制のあり方を正当化する言説を組み立てていたにすぎなかった。小泉の象徴天皇論は多分に状況対応的な性格を持っていたのである。従来の研究には、『帝室論』と『ジョオジ五世伝』のいずれか一方を重視して、皇太子教育の特質を論じる傾向があったが、本論文により、小泉の皇太子教育の全体像が明らかにされたといえるだろう。
 第6章は、戦前から1952年11月の立太子礼までの時期における、皇太子報道に関する分析であり、分析の対象は新聞と雑誌である。戦前期の皇太子報道は、宮内省の完全な統制下にあり、「愛情に包まれて順調に成長している」という以外の積極的なメッセージを発信できていないのが実情だった。戦後は、報道の自由化により、宮内庁の意図した通りの報道は不可能になった。それだけでなく、その記事に報道するだけのニュースバリューがあるか否かの判断はマスコミの側がくだすようになり、皇太子報道の主導権はマスコミの側に移行した。同時に、「皇太子のお妃選び」の記事に示されるように、多少ゴッシプ的な記事であっても、自ら積極的に企画し報道していくタイプの新聞記者が現れるようになったことも重要である。これに宮内庁記者クラブに属さない週刊誌などの雑誌記者が追随することによって、センセーショナルな報道が加熱していくことになるからである。一方、皇太子の側近グループも、皇太子の「私生活」にかかわる情報を積極的に提供することによって、皇太子の「人間性」をアピールしようとしていた。しかし、そのことが、いっそう記者たちの好奇心を刺激し、皇太子の側は、ニュースバリューのある情報を常に提供し続けなければ立場に立たされることになった。近年における、雅子・皇太子妃に関する報道にみられるような、センセーショナルな皇室報道の原型は、既にこの時期に形成されていたのである。

三、 成果と問題点

 本論文の成果としては、次の点を指摘することができる。第一には、極めて貴重な第一次史料に基づく精緻な実証研究であるという点である。特に宮内庁書陵部所蔵の「戦後巡幸」関係史料を本格的に調査し分析した研究は、本論文が最初のものである。宮内庁書陵部所蔵の戦後史関係史料は、情報公開法の制定に伴って、近年ようやく閲覧が可能になったものであり、史料の全体像も未だ不明の点が多い。また、マスコミ等でも報道されているように、非開示の史料も少なくないし、開示史料の中にも非開示箇所が存在するという問題をかかえている。筆者は象徴天皇制の研究者であるだけでなく、情報公開法や文書管理法の専門家でもあり、その経験をも充分活かして、多数の重要史料を収集することに成功している。また、47にものぼる地方新聞社の巡幸関係記事を網羅的に収集・整理した点も貴重な貢献である。従来の象徴天皇制研究では、全国紙の天皇報道に関心が集中する傾向があったが、地方新聞の持つ重要性に着目して、これだけの悉皆調査を行った研究は本論文が最初である。
 第二には、日本国憲法の制定に先行する形で開始された「戦後巡幸」が、多くの国民が象徴天皇制を受容していく基盤を作り上げたことを明らかにした点である。「戦後巡幸」に関しては、すでにいくつかの研究が存在するものの、第一次史料に基づく包括的な研究という点では、本論文は他の追随を許さない。また、従来ほとんど顧みられることのなかった1945年11月の「終戦奉告行幸」にも本格的な分析を加え、それが「戦後巡幸」のテストケースとしての役割を果たしていたことを明らかにしたことも評価に値しよう。皇太子報道に関しても、従来の研究は、1952年の立太子礼以降の報道分析、特に「ミッチーブーム」の分析が中心だったのに対し、本論文は、戦前から1952年にかけての皇太子報道の推移を丁寧に分析しており、この点も有益である。
 第三に、本論文は、メディア史研究と政治史研究とを架橋しようとする試みとしても重要な意義を有している。近年、メディア史研究者による天皇制研究が大きな成果を上げてきたのは事実であるが、その分析が、全国紙の天皇報道の言説分析や図像分析から、天皇や宮内庁の側の政策意図を読み解く、という手法に大きく依存していたことは否定することができない。また、政治史研究者による象徴天皇制研究が,政治家や天皇側近の日記類などに基づきながら、政治家、天皇、天皇側近グループの天皇制再編構想や新たな国民統合構想を明らかにすることを重視してきたのも確かである。これに対して、本論文は、宮内庁の巡幸政策や対マスコミ政策の解明によって、二つの研究潮流を結びつける道筋を具体的に明らかにしたといえよう。
 しかしながら、若干の問題点も指摘しなければならない。第一には、第Ⅰ部と第Ⅱ部の論理的な連関が曖昧である。特に皇太子教育の問題が全体の中でどのような位置を占めるのかという点をもう少し整理する必要がある。また、第Ⅰ部は、宮内庁とメディアの関係を明らかにするという問題意識で一貫しているが、第Ⅱ部では、第6章を別にすれば、そうしたアプローチは後景に退いている。
 第二には、マスメディア分析の問題である。本論文では、天皇の人間性を国民にアピールする路線が選択される中で、宮内庁が新聞記者たちをコントロールできなくなる状況が生まれてくる側面に関しては、極めて説得的な分析がなされている。自らも関与してつくりあげた天皇像に、天皇や宮内庁の側も逆規定されていくという問題である。しかし、逆に、宮内庁記者クラブなどを通じて、宮内庁の側がマスメディアを統制し、特定の天皇像からの逸脱を許さないという側面の分析は不十分である。ことの性質上、文書史料には残りづらい問題ではあるが、本論文のテーマとの関係では、無視することのできない問題だろう。また、マスメディアの中で地方新聞の記者が果たしている役割、中央紙の報道と地方紙の報道との関連などについても、やはり独自の掘り下げた分析が必要だろう。
 第三に、皇族の場合には、皇太子だけでなく、高松宮や三笠宮などの他の皇族の役割、マスコミの場合では、ニュース映画やラジオの果たす役割など、より多面的な角度からの分析が求められる。
 とはいえ、これらの問題点は本論文の学術的価値をいささかも損なうものではないし、筆者自身が、その問題点を明確に自覚し、今後の課題としているところである。筆者の研究のさらなる進展に期待したい。
 

最終試験の結果の要旨

2010年11月17日

  2010年10月13日、学位請求論文提出者・瀬畑源の論文についての最終試験を行った。
本試験において、審査委員が、提出論文「象徴天皇制の形成過程―宮内庁とマスメディアの関係を中心に―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、瀬畑源氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、瀬畑源氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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