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博士論文審査要旨

論文題目:パプアニューギニア、トーライ社会における貝貨の使い方の人類学
著者:深田 淳太郎 (FUKADA, Juntaro)
論文審査委員:大杉 高司・春日 直樹・安川 一

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Ⅰ.本論文の構成
 パプアニューギニア、イーストニューブリテン州のトーライ社会の人々は、法定通貨のキナとならんで、タブと呼ばれる自生通貨の貝を使用し続けてきた。本論文は、貝貨タブの物質的特性が支払い行為や価値秩序に及ぼす影響、タブの取り扱いの仕方とそれをとりまく状況の相互構成的関係、タブの貯蓄が浮かびあがらせる当該社会の人間像のそれぞれを詳細に追うことで、従来の経済人類学とメラネシア民族誌学の諸前提を問い直し、貨幣の人類学のあらたな地平を拓こうとする、たいへん意欲的な試みである。
 本論文の構成は以下の通り。

序章
第1章 調査地・調査対象の概要
 第1節 調査地の概要
 第2節 トーライの人々と村の生活
 第3節 トーライ社会におけるタブ使用の概観
 第4節 タブについての先行研究の概観
第2章 タブでものを買う方法
 第1節 二つの貨幣によるさまざまなものの価格
 第2節 タブの多様な形態とその計量方法
 第3節 貨幣の数え方と払い方
 第4節 特定の物質としての貨幣を特定のやり方で支払うこと
 第5節 まとめ
第3章 つながる実践と区切りだされる意味
 第1節 実践とそれを意味づけるコンテクストの関係
 第2節 クトゥタブにおけるタブの使用に見る区切りとつながり
 第3節 クトゥタブの「外部」
 第4節 「やり方」としてのクトゥタブ
第4章 使えない貨幣と人の死
 第1節 他のなにかの代わりとしてのタブ
 第2節 タブそれ自体への欲求
 第3節 「私のもの」としてのロロイ
 第4節 死とロロイ=人の完成
終章
補論 タブの補完貨幣化をめぐる現状

Ⅱ.本論文の概要
 第1章では、調査地ラバウルの概況の紹介に続いて、貝貨タブ使用の概観およびタブに関する先行研究の概要が提示される。ムシロ貝を加工してつくられるタブは、トーライ社会において多様な単位と形態で用いられる。単位と形態には、貝一個分のパラタブ、植物の繊維で数珠状に繋げ成人が両手を広げた長さにしたポコノ、10ポコノにあたるアリップ、1000ポコノ以上を車輪状に束ねたロロイなどがある。それらは量の多寡に対応した単位であり、また使用状況に対応したタブの存在形態でもある。タブは、村落レベルの様々な商取引で用いられるほか、人頭税や各種ライセンス料、裁判での賠償金、罰金などの支払いで用いられるなど、トーライ社会で広く流通している。しかし同時に、人々はそれを熱心に貯蓄し、別の循環ルートでの使用にも備えている。その代表的例が、婚資の支払いと、他者の葬式儀礼(クトゥタブ)でのロロイの展示、および自身の葬式儀礼でのロロイの切断と分配である。こうして、タブは売買を含む日常的な場面での流通と、伝統的な儀礼での使用との間を循環し、モノとモノ、人と人、人とモノの関係を特定の仕方で形づくってきた。第2章では、タブによる支払いの詳細を追い、それが諸商品の価値秩序とどのような関係を結んでいるのかを問い、第3章では葬式儀礼でのタブの取り扱いの仕方が儀礼空間とその外部をどのように設定するかを論じて、タブが日常と非日常を跨いで社会にもたらす作用を視野に収める。第4章では、ロロイ所有者の死が浮かびあがらせる、人とタブ関係性が主題化され、トーライ社会におけるタブの位置づけが試みられる。
 第2章「タブでものを買う方法」の論述の出発点にあるのは、貝貨タブと法定通貨キナが、同じ場面で同じ商品に対して二つの価格を設定するばかりか、諸商品の間の相異なった価値秩序を形づくっている事実である。もっともタブとキナの間に、交換レートが設定されていないわけではない(1ポコノ=3キナ)。人頭税の支払いや米やブタの売買など、交換レートに則ったタブとキナの価格が設定される場面も多い。しかし、葬式儀礼の周辺で盛んにおこなわれる売買では、タブとキナを跨いだ一元的価値秩序は立ち現れない。たとえば、商品Aと商品Bがタブでは貝貨50個と貝貨100個で売られているのに対して(A:B=1:2)、キナではそれぞれ0.2キナと1キナで売られているというように(A:B=1:5)、諸商品の相対的価値関係からなる秩序は、タブを介した場合と、キナを介した場合では異なったままに共存する。従来の議論では、こうしたズレは、葬式という非日常のコンテキストで、日常の合理的態度が停止されるからだと、説明されてきた。しかし筆者は、当事者たちが価格設定のズレについて認識し、にもかかわらず実際の売買ではその認識とは異なった実践をしていることに留意しつつ、支払い実践に固有の論理を見てとろうとする。その際に筆者が注目するのは、他ならぬタブの物質的特性だった。タブは、上述のように、多様な形態と単位で存在するが、葬式の周辺での売買に支払い手段として使用されるのは、死者の親族が死者のロロイを切り、短くちぎって参列者に分配した短い数珠状のタブ(おおよそポコノの1/10から1/6の長さ)だった。そこに含まれるのは、平均しておおよそ50個のパラタブ(貝)であり、この物質的特性こそが、タブの価格設定を条件づけていたのだった。
 ここから敷衍して筆者は、従来の経済人類学で等閑視されてきた貨幣の性質へ注目を促す。その性質とは、すなわち、貨幣が、商品価値の内側にその構成要素の一部としてあるという性質である。貨幣は、貨幣とは別にあらかじめ存在している商品価値の世界を、透明な記号のごとく表現しているのではない。貨幣がどのように計量され得るのかを規定する貨幣自体の物質的特性こそが、商品世界の価値秩序を条件づけているのだと、筆者はいう。この観点から、一元的価値秩序を眺め返すならば、それが決してあたりまえに成立しているわけではないことも、了解できる。一元的価値秩序は、税金の支払いや貨幣交換所の現場で、手をかけて1ポコノという基準となる長さを作りだし、その質を厳密に検分し、詳細に記録をつけてやり取りするという、骨の折れる作業なくして成立しえない。つまり、所与なるものとして自存しているかにみえる一元的秩序は、交換レートの現実性を「実演」する不断の営みの結果として、そこに立ち現れているのだと、筆者はいう。
 第3章「つながる実践と区切りだされる意味」では、葬式儀礼(クトゥタブ)でタブをある特定の仕方で取り扱うことが、それが行われる当のコンテキストをどのように形づくっているかについて、詳細にわたって論じられる。葬式儀礼と関連して、人々は、タブを用いて様々なことを行う。人が死ぬと、遺族たちは葬式に先立って死者のロロイを切り、親族に分配する。一方、親族や近しい友人、村の有力者たちは、自分がタブをため込んで作り上げたロロイを葬式の場に運び込んで展示することで、死者への弔意を表し、同時にロロイの大きさで自らの力を誇示する。また、親族は近親者から分配されたタブを細かくちぎって参列者に分配することで、死者との親族関係を示しながら、参列者との関係をも顕在化させる。加えて、参列者たちは、第二章で論じられたように、儀礼空間の周辺でタブを売買の支払いに用いる。このようにタブの取り扱いは、それが置かれるコンテキストの違いによって、多様な意味をおびる。しかし、コンテキストが異なるとは、どういうことだろうか。筆者が本章で取り組むのは、この問いである。先行研究では、貨幣の取り扱いを意味づけるコンテキストは、ひとつひとつの実践とは別に、それを取り囲むようにして存在する舞台装置のごときものとして想定されてきた。経済人類学における贈与のコンテキストと交換のコンテキスト、オセアニア民族誌におけるカスタム(慣習)とビジネス(商売)のコンテキストの対立などは、その典型例といえる。貨幣は、贈与やカスタムのコンテキストでは伝統価値を具現した象徴財であり、交換やビジネスのコンテキストでは支払いの手段であると解釈されてきた。筆者が、葬式儀礼の詳細な分析を通じて疑問に付そうとするのは、コンテキストが諸実践とは別にあらかじめ存在しているとするこの前提であった。
 議論の出発点となるのは、ここでもまた葬式儀礼の周辺で盛んにおこなわれる売買の様子である。参列者たちは、死者の親族がタブを短く切り分け「放り投げる」ようにして分配するのを受け取り、それを商売人たちに「放り投げる」ようにして手渡す(支払う)という。売買の支払いは、いまだ親族たちによるタブの分配が続く中で行われることも多い。しかも両者は、厳密に計算することなく「放り投げる」ようにして手渡される点で共通している。そこでは、従来の研究が想定してきたように「タブの分配というカスタム」と「モノの売買というビジネス」のコンテキストが、あらかじめ区別されたものとして存在しているわけではない。カスタムとビジネスのコンテキストのそれぞれは、「まだ、アイスを買っちゃだめだぞ、買い物をするのは分配が終わってからだ」などといった発話によって初めて顕在化させられ、一連の行為のシークエンスの流れから「区切りだされる」のだという。しかし、この区切りは、他にも可能な複数の区切りのひとつがたまたま顕在化したにすぎない。トーライ社会においてより明らかなのは、葬式儀礼とその外部の区切りであり、注目すべきことに、その区切りが、タブの取り扱いの仕方そのものによって顕在化させられることである。葬式儀礼に先立って、死者のロロイを切断し親族内で分配する時には、タブは厳密に計量され、どの親族にどれくらいのタブが分配されたか記録され、厳重に管理される。他方、儀礼が終了した後に、タブは納税の現場や交換所で厳密に計量、記録、管理される。これらはいずれも、葬式儀礼の最中の分配や支払いで、タブが「いい加減に放り投げられる」のとは明確に異なっている。同じように、タブを束ねたロロイの取り扱いも葬式儀礼の内部(と外部)を「区切りだす」。普段ロロイは、タブの通常の流通からは排除され、また家人以外の人の目に触れることもなく、家のなかに「しまい込まれて」いる。死者の親族や知人による葬式儀礼でのロロイの展示は、従って、死者への弔意や、自らの力の誇示を表現しているだけでなく、そのような実践を可能にする葬式儀礼というコンテキストそのものを「区切りだす」。ここから筆者は、ある特定のモノや実践が、特定の意味を帯びるのは、諸実践とは別に存在しているコンテキストが意味を与えられるからではない点を強調する。しかし同時に筆者は、個々の実践は、それ自体が単体として内部に意味を抱え込んでいるのではない、ともいう。個々のタブの使用実践は、たとえば親族らのロロイが公の場に持ち込まれることと、死者の切られたロロイの断片が「放り投げられる」こととが結びつくように、ある要素が他の諸要素と結び付き、そのことによって同時に他の諸要素と切り離されることで意味づけられ、実効的な行為としてアカウンタブルになるのだという。
 第4章「使えない貨幣と人の死」では、普段家のなかに「しまい込まれる」ロロイのあり様に注目しながら、タブと人の関係性が浮かびあがらせるトーライ社会の人間観の特徴が論じられる。従来のメラネシア民族誌では、メラネシア社会の人は、人間主体を社会関係の中心に据える西洋社会の人間観の逆像として描かれてきた。すなわち、メラネシア地域において人は、他者と取り結ぶ複数の関係のなかで相対的に位置づけられる関係的存在であるとされてきたのである。それに対して筆者は、「私のロロイ」を所有することに人々が示す強烈な欲望に寄り添いながら、こうした関係論的な人間観と併存する、トーライ社会の人間存在のあり方に注目を促す。普段、人々がタブを支払いの手段として用いる際に、それはタブ自体とは別のモノや人の価値を代理して表現している。しかしタブは、ときにそれ自体が欲望の対象になる。それは、人が成長し年を重ねるに従って「他ならぬこの私のロロイ」を所有したいと思うようになるからである。ロロイとして退蔵されたタブは、文字通り「使うことのできない」タブであり、いったんロロイとして加工したタブを支払いの手段として用いることは究極の恥とみなされるという。タブを支払いの手段として使用することは、ロロイとその所有者が一体となって立ち上げる「他ならぬこの私」の代替不可能な価値を否定することにほかならない。タブは、人がそれをロロイとして退蔵し、「使わない」ことによって、フェティッシュ化するのである。
 親族や知人の葬式の場面で展示されるロロイは、トーライ社会における人の関係的性質と、ロロイによって立ち現れる「他ならぬこの私」の併存のありかたを、良く示している。一方でロロイの展示は、死者との関係性を公に提示するものであり、また他のロロイ展示者との相対的関係性を、展示の序列によって表現する機会を提供している。他方でロロイの展示は、所有者その人の経済的・政治的力(ビックマンとしての力)を顕示する機会でもある。展示されるロロイは、降雨など不測の事態には、そそくさと展示から引き上げられ、再び「しまい込まれ」る。それは、ロロイが、本来家に「しまい込まれる」べき「他ならぬこの私」のものだからである。このロロイと所有者の距離の近接は、逆説的にも所有者本人の死により、極限に達する(距離が消滅する)。そもそも人が自分のロロイを所有し、少しずつ大きくしていきたいと願うのは、自らの死に際して、親族に分配するのに充分なタブを保有したいからであった。したがってロロイの分配は、その所有者の完成を意味する。ところが、死者のロロイは、当人の葬式の場には展示されない。それは、一つには、死者がその死によって、他者(のロロイ)との関係性から引退しているからであり、また一つには、死者のロロイが葬式に先立って切り分けられ、親族に分配されるからだった。つまり、ロロイの所有者の死は、関係から退いた「他ならぬこの私」が完成する機会であると同時に、ロロイ(としての私)が再び分割され、他の関係性を作りだし更新する媒体へ変容する機会なのだと、筆者はいう。
 
Ⅲ.本論文の成果と問題点
 本論文の成果として、経済人類学研究への貢献、メラネシア民族誌学あるいは人類学的人格論への貢献をあげることができる。
 経済人類学への貢献として、ひとつには、筆者が貝貨タブの物質的存在特性に着目し、それが支払いの仕方を条件づけるばかりか、価値秩序の樹立をも条件づけている点を明確化したことを指摘できる。本論第2章で集中的に論じられたように、貝貨としての貨幣は、あらかじめ存在している人やモノの価値を表現する、単なる記号や媒体として存在しているわけではなかった。多様な形態で存在するタブは、その存在特性により支払いの「やり方」を規定し、それがヒトやモノの値段を(私たちの目から見れば)遡及的に条件づけていた。これは、値段交渉と支払いの間に存在しながら、これまで見逃されてきた、「貨幣を数える」行為の重要性に私たちの注意を促すものであった。価値は数値としてあり、それが貨幣という道具ないし手段で表現されるのではなく、貨幣の計量道具としての性質が、計量される当の価値の決定に重要な役割をはたしていた。これは、「計測道具は、測るという行為によって、それが測っている対象のリアリティを強力に形づくる」ことに注目する、ミッシェル・キャロンらの一連の試みの豊かな可能性を例示するものであり、本論はこの方向の今後の研究に、重要な参照点を提供しているといえる。
 経済人類学のへ貢献として、いまひとつには、筆者が従来の研究で温存されてきた二項対立、すなわち贈与対交換(あるいはカスタム対ビジネス)の対立を疑問に付し、実証面では葬式儀礼における貝貨タブの取り扱いの綿密な観察にもとづきながら、理論面では主にエスノメソドロジーを援用しつつ、人間の経済を分析する際の新たな視座を提供した点があげられる。その際に、鍵概念とされたのは、コンテキストの概念であった。第3章で集中的に論じられたように、贈与にせよ交換にせよ、やり取りを取り囲むコンテキストは、個々のやり取りと別に予め存在し、そのことによって個々のやり取りを意味づけるものとして存在しているわけではなかった。むしろコンテキストとは、個々のやり取りの独特な「やり方」と、他の行為の「やり方」とが結び付けられ、同時にその以外のやり取りとは切り離されることで、一連の行為の流れから「区切りだされる」ものであった。そして、この「区切りだし」こそが、個々のやり取りを、第三者から見てアカウンタブルで実効的なものにしているのだという見解を、筆者は提示している。こうした視座は、贈与や交換のコンテキストを分析者が予め設定したうえで、個々の活動の意味をそのコンテキストによって説明するという、従来の経済人類学の循環論法の誤りを正すものであると同時に、アカウンタビリティの人類学という新たに開拓すべき研究領域を切り拓いた点で、とりわけ重要な貢献であるといえよう。
 メラネシア民族誌学あるいは人類学的人格論への貢献として、ロロイとして加工された貝貨タブとその所有者の関係に着目し、従来の関係的人間像に一定の修正を加えたことが挙げられる。貝貨タブは、交換の媒体や展示物となることで、モノとモノ、人とモノ、人と人の関係性を顕在化させるがゆえに、トーライ社会の関係的人間のあり様に密接な関わりをもっている。しかし、第4章で筆者が集中的に論じているように、他方でタブは、植物の繊維で繋げて数珠状にしたものを束ねロロイとして加工されると、「他ならぬ私のもの」として自宅に退蔵され、葬式儀礼の場で展示される以外には、外に出されることもなくなる。筆者は、ロロイを所有し、それを少しずつ大きくしたいと願う人々の欲望を、諸々の人間関係の中心にあいた空白を埋めていく行為と比喩的に表現する。様々な形態で存在するタブを追うことで見えてくるのは、人間の関係的存在のあり方と、「他ならぬこの私」として関係から切り離されて存在することとが、複合的に絡み合いながら併存している状況だった。こうした視座は、従来の人類学が諸文化の差異に注目するあまり、人間存在のあり方を過度に対比的に捉えてきた誤りを正すものであるといえる。筆者は、西洋近代の主体中心主義とメラネシア社会の関係的人間という対比に代えて、分割不可能な存在(individual)と分割可能な存在(dividual)が西洋とメラネシアの双方に等しく観察できることを示唆し、さらにその上で、この併存がメラネシアのトーライ社会でどのように独特の仕方で立ちあがっているのかに向き合っている。そこにみられる差異から同一性へ、さらに同一性からより微細な差異へと分析を精緻化させていく運動は、優れた民族誌的成果の特徴であり、この点は特筆に値する。
 しかしながら、本論文にいくつかの問題点が指摘できないわけではない。第一に、貨幣の物質的存在特性について論じるにあたって、経済人類学のみならず、ひろく哲学や現代経済学の成果にも言及しながら、自らの理論的立場をさらに明確化することが望まれることがあげられる。とくに、純粋記号として貨幣を論じる哲学的議論や、実体経済から遊離した金融市場の現実との関連で、貨幣の物質的存在特性をめぐる本論文の主張がトーライ社会を超えてどのような意義をもちうるのかについて、より周到な議論が用意されてしかるべきだった。第二に、エスノメソドロジーを援用して筆者が展開する先行研究批判の手際は鮮やかであるものの、それゆえにこそ抱え込むことになった理論的困難に、若干の配慮不足が認められる点があげられる。エスノメソドロジーは、コンテキストの所与性を疑問に付し、諸活動の遂行的側面に着目することを特徴とする反面、秩序の安定性や継続性を説明できない弱点を併せもっている。贈与や交換(売買)のコンテキストが、「区切りだし」という人々の活動に支えられているのだとしても、その「区切りだし」がほとんど失敗することなく遂行され、その結果、これまで贈与や交換のコンテキストと呼ばれてきたものとほぼ同一の時空を設定するのだとすれば、あえてエスノメソドロジーを援用する意義も薄れてくるはずである。諸活動の遂行的側面をより説得的に論じるためには、筆者がいうところの「区切りだし」が失敗し、贈与や交換(売買)が当事者の意図どおりには進まない事例の分析が、本論に含まれてしかるべきだった。第三に、トーライ社会において、関係的存在様態と併存する、「他ならぬこの私」という存在のあり方をめぐる議論との関連で、メラネシア地域をはじめとするこれまでの人類学的成果に対して、より広範な目配りが望まれたことがあげられる。筆者が言及するモーリス・レナート以降も、人類学では関係的人間観が様々に変奏されて提出され、とくにメラネシア地域に関しては、マリリン・ストラザーンが影響力ある成果を残している。筆者の主張が、こうした先行研究の布置にどのように位置付けられるかについても、より行き届いた議論があってしかるべきだっただろう。
 もっとも、これらの問題点は、論文が全体として提示する成果の学術的価値をいささかも損なうものではなかった。また、筆者も問題点を強く自覚し、今後の研究の課題としているところである。さらなる研究の進展を期待したい。

Ⅳ. 結論
審査委員一同は、上記のような評価にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与すること大なるものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2011年1月12日

 2010年12月15日、学位請求論文提出者深田淳太郎氏の論文について、最終試験を実施した。
 試験において審査委員が、提出論文「パプアニューギニア、トーライ社会における貝貨の使い方の人類学」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、深田淳太郎氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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