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博士論文審査要旨

論文題目:日本の青年教育(1920-40s)―軍隊を起源とする人間形成方式の考察―
著者:神代 健彦 (KUMASHIRO, Takehiko)
論文審査委員:木村 元・吉田 裕・町村 敬志・中田 康彦

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Ⅰ.本論文の構成
 
 この論文は、青年訓練所(1926~35年、以下「青訓」と略記)、さらにその後身である青年学校(1935~47年)を対象に、そこでの青年教育を従来の軍国主義的性質を指摘する研究とは違う、軍と接続する形で読みとられる人間形成の方式という角度から明らかにしようとしたものである。1920~40年代における青年教育をめぐる、学校と軍隊や職業社会との関係性・相互規定性に着目しつつ、それらをトータルに把握する分析枠組みの提出、及びそれに立脚した近代青年教育像を提起しようとした野心的研究である。
 
 本論文の構成は、次の通りである。
 
 序論                        
第1節. 対象と問題関心―輪郭の素描― 
第2節. 研究史の整理―到達点の所在― 
第3節. 仮説的ないし方法的視座―あるいは理論的前提― 
第4節. 論文の構成  

第Ⅰ部.青年教育の成立と展開―規範と領有、制度の社会史―
第1章. 青年教育の起源                
第1節. 軍人たちの青年訓練構想―青訓構想の諸相(その1)―  
第2節. 社会教育官僚と教育の機会均等論―青訓構想の諸相(その2)―  
第3節. 文政審議会再論―言説の卓越化と理念及び制度合理性―  
第2章. 青年訓練所の普及と社会的意味         
第1節. 青年訓練所の量的普及  
第2節. 軍隊の中の青年訓練所修了者  
第3章. 青年学校の創設と社会、または軍隊       
第1節. 法令条文に見る青年学校の歴史性と社会性  
第2節. 隣接領域の対応と再編―陸軍及び産業界―  
 第Ⅰ部総括                     

第Ⅱ部.実践の地平―意味論的、あるいは<教育と社会>的考察―
第4章. 教練という問題―軍隊教育の転生と転換―    
第1節. 青年教練の性格(1926-1936)  
第2節. 教育的再文脈化の諸相  
第3節. 1937&1941―新展開と転換―  
〔第4.5章.理論に関する補論、および再論〕       
第1節. バーンスティンの(教育)社会学理論  
第2節. 教練という問題<再論>  
第5章. 青年訓練所の教育実践理論(ペダゴジー)           
第1節. 石田利作と梅園青年訓練所  
第2節. 軍隊からの相対的自律性  
第3節. 青訓の「教育的」価値:職業教育  
第4節. 学力の不均一と普通学科  
第5節. 青訓の「教育的」価値:教練  
第6節. 「教育的」な問題の「発見」―職人の身体との相克―  
第6章. <青年>という観念―ルーマン理論を用いた原理的考察― 
第1節. 第三青年学校とその生徒集団の質  
第2節. 『調査』のまなざし  
第3節. 「結論」  
第4節. ルーマンのシステム論による再考察  
第7章. 職業科実践と共同体―教師の教育思想―    
第1節. 資料について―『工芸教育十ヶ年』―  
第2節. 教育思想  
第3節. ペダゴジー  
第4節. 転廃業・流出・入学者減、あるいは素質問題  
第5節. 「本来の学校教育へ」  
第6節. 総力戦と工芸科実践―醸成される怨嗟(ルサンチマン)―  
 終章                       
第1節. 戦後史の中の青年学校  
第2節. 本稿における成果  
 参考・参照文献一覧  
 あとがき  

Ⅱ.本論文の要旨
 序論では政軍関係論、青年教育の法制度に関する研究、制度に対置する実態の研究などの観点から研究史を整理し、対象の限定と制度の社会史という研究の枠組み、分析概念(視座)としてペダゴジーという概念モデル、教育人口動態論などを整理して提示した。これを踏まえて青年教育の動的な成立と展開、及び終焉を描き出す研究の課題設定と研究の構成を示した。
 第1章は、軍人たちの青年訓練構想、社会教育官僚の思想、文政審議会という場に着目して、青年訓練所令の施行に関わる政治過程の検討を課題とした。
 まず軍人たちの青年訓練構想を対象とした。青訓は、直接的には田中義一、宇垣一成、永田鉄山といった陸軍軍人たちの教育構想の一環としてスタートする。3者はそれぞれの視点から青訓についてその必要性を主張するが、共通するのは、総力戦を見据えた国家構想の一端として青年訓練を位置づけていることである。このことをとおして、まず青年訓練を狭義の軍事技術の予備教育として捉えてきた研究史上の位置づけと異なる意味を示した。さらに、文政審議会の議事録の検討を経て、この審議会の持つ制度理念に関わる独特な機制を浮かび上がらせた。すなわち、青訓の創設・運営の実務を担う重要なアクターとして文部省の社会教育官僚の言説の検討を踏まえながら、積年の課題とされてきた「教育の機会均等」論が文政審議会の議論の上で公式見解としてそのレトリックの中に組み入れられたことを示した。この文脈のなかで青年訓練構想の社会的正当性が模索されたように、文政審議会の場での議論は政治的意図の表現としてのみではなく、教育理念が精緻化されていく特異な言説の空間を作り上げていたことを明らかにした。
 第2章では、固有の政治過程を経て成立した青訓が、人々の生活実態との往還関係の中で、修正を伴いつつ存在する様を描いた。
 まず、青訓の量的普及を、入所、在籍、修了者数などの教育人口動態の分析を通して、青訓期全般を通じた根強い不振の実態と青訓がそうした状況への対応として行った入所督励策の実態を明らかにした。合わせて、それが1920~30年代の青年たちなりの、生活や労働の情況に根ざす合理的思考、産業構造の転換、軍隊の構造転換など、幾重にも折り重なって青訓のあり方を規定していたことが示された。「入所者の確保」という目的のために施されたいくつかの施策が、意図性に還元されない社会力学によって生み出された青訓の社会的性格として捉えられたのである。さらに、青訓が生み出した修了者が軍隊(陸軍)においてどのような存在であったかという点から、青訓を捉え直した。青訓修了者は軍にとって有用な人材ではあったが、徴兵において、相対的に優秀な青訓修了者と非修了者が混在してしまい、被教育者集団に差異を持ち込むことで陸軍に種々の困難をもたらした点を示した。
 これらを通して、軍と教育の関係を、教育に対する軍国主義の侵蝕や支配として表現されることが多かった従来の研究とは異なり、「支配」関係にのみ還元されない、それぞれが他方を規定する有機的関係を構成している点を示した。
 第3章は、青年学校について、その展開が、軍隊や産業界と密接な関連を持つゆえに、それらとの絶えざる折衝を伴うことになる点についての実相を、社会変動と政治的・軍事的要請を受けた学校制度の新展開の1つとして捉えた。とりわけ私立青年学校に注目して描き出した。
 すなわち、まず、法令条文に見る青年学校の歴史性と社会性について検討した。青年学校がその存続のための対応と工夫に満ちた存在であることを、前身の青訓および実業補習学校から引き継いだ課題や、ジェンダー規範や産業界との調整を行うという課題を法令上の具体的な対応の中で見いだす。軍国主義、教育の機会均等といった目的論にもとづくこれまでの研究による説明で見過ごされていた側面を浮かび上らせた。そのうえで、時とともに増大していく私立青年学校に着目した。私立青年学校の拡大という現象は、男子義務制を原動力として、既存の秩序の再編、即ち、青年の「教育的組織化」、企業内教育の青年教育化を伴うものであった。そこで注目したのは、その過程及び結果において、青年学校の枠内に公立とは異なる新たな要素が持ち込まれたことである。公立を準拠枠とすれば、私立青年学校と総称される学校群は男子義務化を直接の契機に叢生した、それぞれに更に細分化され得る亜種の総和である、とする。また青年学校化=画一化に対する、公立を否定的媒介とした青年学校の再特殊化とも捉えられるとした。
 第4章は、教練を学校知識論のなかで検討しようとした。「学校知識」という、いわば「いま、ここ」を超えて共有されることが前提となっている外化されたペダゴジーの分析である。
 青訓や青年学校における教練(青年教練)は、青年教育の軍国主義的性質を指摘する際の論拠として長く注目されてきたが、ここでは青年教練において何を如何に教えるかということにかかわる、編成の構造と個別的様態から捉えた。その際に、<意味>と<知識>という相対的に独自な範疇に分析的に区別することによって、青年教練をそれ自体として、また軍隊教育との差異において押さえようとした。作業として、青年教練についての官製あるいは民間の指導書群を分析した。それを通して軍や文部省において、青年教練の意図は必ずしも狭義の軍事専門教育、軍人づくりではなかったことが示された。また、青年教練がその開始から既に内包していた不安定性をもっており、知識のレベルで軍隊と繋がる青年教練は、どうしても「軍隊のための青年教練」という意味の領有を浮き上がらせてしまう。青年教練を、このような知識レベルにおける軍隊や社会との接続と、意味のレベルにおける規範とその領有のせめぎ合いとして捉えその矛盾と折衝の諸相を明らかにした。その後、戦局の転換にともない1941年には、青年学校の教練は法制のレベルで明確に軍事基礎教育として位置づけられ、人づくりと軍人づくりは直接的につながり始めた、とする。この社会像の転換が、学校知識としての青年教練における内的構成の転換を準備したものとして推察した。この転換のなかに、それまで青年教練の指導において、実際のコミュニケーション場面における教師の力量に多くを任せるものから、予め準備された指導に道筋(カリキュラム)をおいて処理しようとするものに転換していることを事例に即して指摘した。
 第5章では、具体的な現場及びそこで活動した個人に即して青年教育を検討した。ここでの分析の対象は、愛知県岡崎市のある青訓の主事である石田利作、ならびに石田が打ち立てた実践理論(ペダゴジー)である。石田が経験した、都市部の模範的訓練所として見なしうる梅園青訓を対象に、現場実践の中から立ち上がってくる青訓の人間形成の思想と技術、さらにその存在理由について検討した。
 石田の著作のなかには、1)勤労青年にとって当然の現実として存在する、職業と深く結びついた<生活>に軸をおいた人づくりの技の側面と、同時に、2)軍隊における教練から一度離脱させて独自の領域として組み立て、再度軍隊と接続させていくという、理論的営為の側面があることを示した。1)に関して言えば、「プロジェクト・メソッド」に象徴される青年期を固有の時期として強く意識する発達論的な発想が、石田の実践理論中に深く刻まれていることを明らかにした。2)については、石田は教師でありながら、軍人たちの青年訓練構想に呼応した実践理論を展開している、とする。そこでは、架空の理想的身体像を目標とし、それとの対比で対象が評価される。たとえば石工の身体は、石工という職業(労働)の文脈に埋め込まれた身体の形であるが、軍隊が必要とする画一的な近代の身体は、石工の生活から見れば「いま、ここ」という文脈を越えた抽象的な身体なのである。こうした視点から、石田は既定の教科の実践内容を目標、評価の次元から捉えなおすことで青訓で行う実践の意味を構成し直している、とする。教えるということに関わって内容を組み換えるという発想や営為が軍事的なものによりよく繋がるという逆説がそこに存在したことを明らかにした。
 6章は東京の商業青年学校である東京市日本橋区第三青年学校を対象事例とし、教師たちを拘束しているモノの見方、考え方、総括の仕方、それと不可分に存在する<青年>という観念自体を検討した。
 この<青年>観念は、この第2部でほぼ一貫して問題となっているものであるが、ペダゴジーの成立の前提には対象の把握のしかたに関する認識の枠組みがそこに想定される。方法も内容も、その構成にあたっては、教師によって捉えられたその対象の一般性質が問題とされる、とする。日本橋区第三青年学校で実行された生徒の生活・心理調査から、そこに存在する教師の認識枠組みを検討し、人間の個体群が<青年>というカテゴリでまとめられる際に生じる能動的な作用を浮かび上がらせた。すなわち、「没我的」・「国家的」という風にパラフレーズされながら捉える〈単純化〉、「没我的」「自我的」を調査結果とは違った通俗的な教育学(思想)から導入して両者を持ち合わせている観念的な青年本質論に還元して捉える〈本質化〉、青年期は本質的に「自我的」な傾向を持ちやすく、しかしそれは発達の一段階として捉えられ本質的に「没我的」傾向を将来において発現しうる存在として捉える〈時間化〉であり、そこに生ずる矛盾や飛躍、誤謬の存在と、それが教育の可能性の条件となることを示した。それは、<青年>というカテゴリーである個体群をまとめることの恣意性を示すものであるが、しかし、その事自体は逆説的に教育実践が成立することの根拠であったことが指摘された。
 7章では、一人の無名の青年学校教師の「思想」に注目した。福岡県鞍手郡直方市の青年学校教師中西要人が残した「工芸教育十カ年」という教育の計画と反省の記録を用い、そこでの職業科実践の営みを一教師の世界の見え方(主観的現実)を通して広義のペダゴジーを構成するカテゴリーとして<教育思想>を示した。
 中西は近代学校のなかにありながら徒弟制的な人間形成を果たそうとし、合わせて地域社会の発展を目指して実践を繰り広げる。ここでの中西の教育思想を教育目的に規定されるもの(刃物を扱うことによって得られる精神的美徳など人間形成それ自体を目的としてもの)と社会に規定されるもの(市場的評価に根ざすもの)に区別しながら捉え、展開する実践の中で捉えた。中西の実践は直方の時勢(転廃業、入学者減)や市政(実践の否定)という社会的規定を象徴する地域社会のあり方の展開のなかで「本来の学校教育」へ回帰し、最終的にはその意義を付与する主体として国家を定位させていく。そこに、実践家として教育の現実と格闘しながら構築・修正され、そして転生する無名の教育思想を見てとった。既存の学校教育批判の文脈の上に構築された学校像を示す教育思想は、それ自体が学校方式の展開でありながら学校方式の捉え返しであった青年学校を象徴するに相応しいものであった、と捉えた。
 終章では全体を概括し、戦後の学校教育法の制定まで存続した青年学校がいかにして新学制の中に位置づけられるか、「記憶としての青年学校論」など戦後との関係における課題が提起された。
 
 Ⅲ.本論文の成果と問題点
 本論文の成果として、以下の諸点があげられる。
 本論文の第一の成果は1920年から40年代における独特な人間形成である青年教育を軍との接続に注目してその独自な構造を明らかにしたことである。ここで言う青年教育の担い手としての青訓や青年学校という国家的教育制度機関は、従来、軍に連なる非教育を実施してきたという負の評価を与えられてきた。他方で、それとは逆に青年期教育の普及に貢献したとして正の側面を強調されて捉えられてもきた。これらのいずれの場合も、軍国主義、教育の機会均等といった教育的な価値を前提とした目的論的な座標上の研究となっており、それ自体社会的に存在していた機関として、つまり青年教育の対象に即してその性質を検討しようとする視座は弱かった。それに対して本論文は、青年教育を、軍をはじめ経済や既存の教育機関などの関係のなかで、そこでの要求に応じながら相対的自律な固有の論理で自己運動しつつ生成展開するものとして捉えて分析を行った。その結果、そこに存在した軍隊と青年教育の複雑で多層な関係を明らかにし、日本における青年期教育の展開に対する軍の媒介性を明らかにした。これによって、先行研究の評価とは違い、軍の先取り的な軍人作りに限定された人間形成ではない、将来のあらゆる局面に対応可能な全体的な人間形成を前提としていた、パラドクシカルな一面を描き出すことに成功している。このことは、これまでのこの時期の軍と教育との関係が軍による支配と教育における同調(場合によっては抵抗)という枠組みではないことを提起し、今後の研究に新しい地平を切り開いたものとして高く評価できる。
 第二の成果は、制度の社会史という枠組みで、青年教育の法制を産み出し支えることになった政策意図と青訓や青年学校の実践を繋ぎながら一つの青年期教育史を描いたことにある。教育の社会史研究は、1980年代以降、国家の教育の意図の叙述に終始していた教育制度史批判を行いながら、匿名層の人々の意識の日常形態や人間形成に注目して展開してきた。しかし、国家と人々の両者を統一的に捉えた歴史叙述を標榜しつつも、学校制度を社会史的に捉える研究が進んできたわけではない。国家の教育制度がそのまま一方的に国家の意図を実現するものではなく、法制を媒介することで、制度の規範を受け止めながら独自にそれを組み替えて制度を生きる教師と生徒の実態の叙述は相変わらず課題とされてきたのである。教育制度の社会史研究は、こうした認識にたって制度概念を法制の狭い枠組みから学校制度において作られる行動・観念の社会化された規範様式として位置づけ直すことでこの課題に迫ろうとしたものである。こうした課題設定は社会史研究が内包したものでもあるが、あえて制度の社会史としてこの領域を設定したのは、既存の法制史的な研究に止まっていた教育制度史研究の膨大な蓄積への批判的な視座を自覚的に持とうとしてきたことによる。他方、教育制度史に対抗的なスタンスを持って登場したあまり、教育の社会史研究において十分に検討の俎上に載せられなかった制度史研究の組み直しという課題への対応も含んでいた。こうした教育制度の社会史の課題が持つ意味を正面から引き受け、規範と領有というカテゴリーを用いて具体的な青年期教育史の一面を提示した点に研究史上の評価が与えられよう。
 第三の成果は教える-学ぶという教育のコミュニケーションのコアを分析する概念としてペダゴジー(「教える」ということに関わる思想と技術の中間形態、何を如何に教えるかを含むもの)があるが、この概念を歴史研究として用いるためにより精緻化して捉え、教育人口動態論などと組み合わせて、教育の内回りの叙述をより深く行っていることである。ペダゴジーを、その顕れ方によって学校知識、教育実践理論、<青年>という観念、教育思想というかたちで区分して整理した。これにとどまらず、青年教練の個別的様態の叙述に際して、<意味>と<知識>という相対的に独自な範疇に区別することによって、青年教練を軍隊教育との差異において捉える道筋を開こうとするなど、教育の実践史研究をより動的に行うための視点を提示したことが評価される。
 このように優れた成果をあげた一方で、本論文には以下の問題点を指摘することができる。
 第一に、教師の中の主観的な世界に焦点を当てた本研究は、全般として、背景にある<青年>観念の漸次的確立と浸透の過程を強調しているが、だとすると、対象としての青年の状況をもう少し描くべき必要はなかったか。青年の生活の範囲のなかで青年学校は一部であり、外部社会での青年の生活のあり方の叙述がさらに加わると、ペダゴジーの性格をよりリアルに浮かび上がらせることができよう。第二に、軍部が青年教育をどのように位置付け、青年教育に何を期待したのか、という問題に関するさらに掘り下げた分析が課題として残る。青訓の創設に関しては、田中義一・宇垣一成・永田鉄山などの青年教育観の分析がなされていて、その限りでは説得的であるが、基本的には著名な軍人の言説分析にとどまっている。また、本論文が対象とする時期は、兵士に対する軍隊内の教育の面で、教育学の意識的な導入がなされた時期でもあった。こうした軍隊教育の変化と青年教育との関連も重要な論点となるだろう。第三に、日中全面戦争開始以降の時期に関しては、分析がやや手薄である。平時と総力戦が実際に開始された段階とでは、軍事の論理にも大きな変化があると考えられるので、この点の具体的な分析が、今後の課題として残るだろう。
 しかし上記の問題点については、筆者自身も十分自覚しているところであり、審査委員もまたそれらは筆者の今後の研究において克服されるであろうと期待している。
 よって審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に十分に寄与するものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2010年7月14日

 2010年6月28日、学位論文提出者神代健彦氏の論文について最終試験を行なった。試験においては、提出論文「日本の青年教育(1920-40s)―軍隊を起源とする人間形成方式の考察―」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、神代健彦氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は、神代健彦氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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