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博士論文審査要旨

論文題目:ニュージーランド、チャタム諸島における民族の生成 ―原住民土地法廷と、ワイタンギ審判所をめぐる先住民モリオリとンガティ・ムトゥンガ族の紛争を手がかりに―
著者:前田 建一郎 (MAEDA, Kenichiro)
論文審査委員:大杉 高司・春日 直樹・児玉谷 史朗・岡崎 彰 

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一. 本論文の構成
 本論文は、ニュージーランドのチャタム諸島の先住民であるモリオリ(Moriori)とンガティ・ムトゥンガ(Ngati Mutunga)が、一八七〇年代の原住民土地法廷、一九九〇年代のワイタンギ審判所への漁業権要求において係争し、その過程でそれぞれが法的主体としての「民族」を立ち上がらせていく過程を追跡した、歴史人類学的な研究の成果である。論文の構成は、以下の通り。

はじめに
第一章 伝統は創られる
第一節 資料と方法
第二節 チャタム諸島の概要
第三節 人類学における伝統理論
第四節 ネイティブからの批判
第二章 モリオリ神話
第一節 ニュージーランド人類学におけるモリオリ研究の位置づけ
第二節 『Lore』の出自
第三章 原住民土地法廷
第一節 原住民土地法廷の概要
第二節 一八七〇年の原住民土地法廷
第三節 民族の境界
第四章 ワイタンギ審判所
第一節 漁業権問題
第二節 先住民の分裂
第三節 「文化」の復興
第四節 ワイタンギ審判所と人類学
終章
第一節 ワイタンギ審判所レポート
第二節 結語

二. 本論文の概要
 第一章では、本論文全体の議論を、一九八〇年代以降の人類学理論の潮流に位置づけることが試みられる。ニコラス・トーマスらは、オセアニア地域の「伝統文化」として人類学が本質化してきた現象の多くが、現地人たちが植民地状況下で外部からの眼差しを流用し、時に反転させつつ、歴史的に構築してきたものであることを指摘している。しかし、「伝統の創造論」ないし「文化の構築主義」の語に要約されるこの立場は、現地の文化的ナショナリズムの視座から、思わぬ異議申し立てをうけることになった。人類学者の自己批判としての文化本質主義批判は、周辺化された「ネイティブ」たちの文化的アイデンティティの主張を掘り崩してしまう「政治的に正しくない」議論として、批判に晒されるのである。著者の調査地ニュージーランドでは、一九九〇年に米国の人類学者アラン・ハンソンが、マオリの大船団による移住や至高神イオの伝承は二〇世紀初頭に現地の白人人類学者によって「創造」された伝統であると指摘して、マオリからの反発を招くことになった。ハンソンによれば、これらの「創造」の背後には、白人とマオリの共通性を際立たせることで、前者の後者に対する征服と同化政策を正当化しようとする「政治的な意図」が読み取れる。しかし、これら伝承の「真正性」を主張するマオリの側から猛烈な抗議をうけることで、以後、人類学者が現地人との対話を回避する状況が生まれることになった。「ハンソン問題」と呼ばれるに至るこうした事情は、本論全体の議論との関連で、二つの重要な問題を提起する。ひとつは、現地人が自文化の表象主体として立ち現われる時に、人類学に対抗しつつも、あるいはそれゆえにこそ、彼らの言説と人類学のそれとが重なり合いをみせてくる状況をどう捉えるかという問い。そして、その事実をまえに、「政治的正しさ」を越えて、どのように有意義な研究を産出しつづけることができるのかという問い、である。
 第二章では、ハンソン論文が取り上げた伝承の生成過程をより踏み込んで検証することで、現地人と人類学者の協同関係を確認し、そのうえで「伝統の創造論」の袋小路から脱出する糸口が模索される。マオリの大船団による移住と至高神イオの伝承が、白人人類学者に「創造」されたのだとするハンソンの議論は、「政治的正しさ」という点ではともかく、事実関係としては正しかったという認識が定着してきた。しかし、著者は、二〇世紀初頭にこの伝承を創造したとされる人類学者パーシー・スミスの研究過程を追い、ハンソンの理解が事実関係としても誤っていたことを検証する。スミスは、一九世紀後半にマオリのンガティ・カフングヌ族の賢者たちが語り、書記ファタホロが書き留めた文書を証拠として用いて、マオリの移住についての統一見解をまとめあげていた。その過程で、大船団によるポリネシアからのマオリの民族大移動という大きな物語を考案し、その枠組みのなかに、複雑に入り組んだファタホロ文書の諸原稿を割り当てる仕事をしていたのは、たしかにスミスだった。しかし、証拠資料であるファタホロ文書がどのように産出されたのかを丹念に洗い出すと、白人人類学者による伝承の「創造」という図式とは違う側面がみえてくる。「ファタホロ文書」は、ンガティ・ガフングヌ族の部族委員会によって承認をうけた語りを書き留めたものというよりは、様々なソースから書記ファタホロ自身が編集したものであることが判明する。スミスは英語の注釈で解釈を加えることはあっても、口承伝統についてはファタホロが記述した文書の内容を忠実に受け入れており、マオリ語のオリジナルの証拠そのものを改竄していたわけではなかった。ハンソンは、担い手が誰であるかに応じて、「創造」の性格づけはことなるのだと指摘していた。現地の人々が自分自身の伝統を「創造」する場合には、それを尊重し、一方支配者が従属者の伝統を「創造」する場合には、非対称的な権力関係を再生産する文化帝国主義として批判されなければならないという。しかし、大船団移住の伝承が白人人類学者によって「創造」されたというハンソンの主張は誤っていた。むしろ伝承は、白人人類学者とマオリ人書記との「協同作業」によって創造されたと表現されるにふさわしい。スミスは、証拠の真偽や「真正さ」の判断を、ファタホロという混血のマオリ人に託しており、それは本論の著者が次章以下の記述で採用する立場とも重なる。この点を確認したうえで著者は、「伝統の創造」を論じるうえで重要となるのは、ある特定の言説の「起源」をめぐる問いではなく、その言説が対象社会において伝統としての地位を確立していく「過程」を詳らかにしていくことであるとの見解を示す。
 第三章で俎上に乗せられるのは、一八六五年に設けられた法的機関、原住民土地法廷である。そもそも二〇世紀初頭にマオリの口承伝統に注目が集まっていたのは、前世紀から口承伝統の収集が、土地に対する所有権を打ち立てるために緊急かつ切実な課題となっていたからだった。原住民土地法廷は、したがって、伝統の「創造過程」を追う格好の材料を提供している。本章でとくに取り上げられるのは、一八七〇年にニュージーランド・チャタム諸島で開かれた原住民土地法廷である。チャタム諸島では、マオリ人が大船団で移住する前から現在のニュージーランドに居住していたモリオリと、一八三五年にニュージーランド北島の部族抗争に敗れて土地を追われ、チャタム諸島に新天地をもとめたマオリのンガティ・ムトゥンガの間で、土地所有をめぐって激しい対立が生じていた。法廷は、「部族」に所有主体としての新たな意味を付与すると同時に、「部族」の歴史を公的に確定していく場としても機能した。両者の対立の最大の争点は、ンガティ・ムトゥンガ族によるモリオリの「征服」に関する慣習の違いである。一八三五年にモリオリは、ンガティ・ムトゥンガによって征服され、当時一六〇〇人いたとされるモリオリのうち三〇〇人が虐殺、生き残った者たちは奴隷として従属させられ、一八六二年の奴隷解放の時点でモリオリの人口は一〇一人にまで減少していたという。しかし、マオリにとって武力による征服は、土地を支配する際にもっとも有効な方法であり、なおかつ慣習的に認められた正当な行為であった。ンガティ・ムトゥンガは、適切な手続きでモリオリを征服することによって、チャタム諸島の土地を手に入れたということを、原住民土地法廷で主張したのである。一方被征服者であるモリオリは、モリオリの慣習では、戦い、とくに死にいたらしめる戦いが禁止されており、征服に際してモリオリは無抵抗を貫いたことを主張する。モリオリは、征服に際して必要のない血をながさせるに至った、ンガティ・ムトゥンガの落ち度を突く戦略をとったのだった。ところが、このモリオリの論理は、法廷では受け入れられることなく、チャタム諸島の土地の九七パーセントの所有権がンガティ・ムトゥンガにあたえられるという、モリオリに対して圧倒的に不利な裁定が下された。モリオリが長期間奴隷におとしめられたという供述も、ンガティ・ムトゥンガがだれにも邪魔されることなく占有を継続し、英国王室の支配が確立する一八四〇年以降も征服時の状況を維持してきたということの絶好の証拠になった。ここに、モリオリが無力な犠牲者であることを主張すればするほど、ンガティ・ムトゥンガによる征服の確からしさがますます強化されるという、論理の一致が成立した。両者は土地の所有権をめぐって対立しながらも、歴史表象の上では、マオリによるモリオリの征服という整合性のとれた物語を、一体となって紡ぎあげたのだった。
 四章では、時代下って一九九〇年代に、モリオリとンガティ・ムトゥンガがワイタンギ審判所で繰り広げた漁業権をめぐる争いが分析される。ワイタンギ審判所は、一八四〇年のワイタンギ条約でマオリに対して約束された諸権利付与の不履行や行政上の過失などについて、意義申し立てを可能にする機関として一九七五年に設立された。漁業権の経済的価値は、一九八〇年代後半にアジア向けの輸出市場が開けることで一挙に高まっていた。ところが、一九八六年に漁業権割当制度が導入されると、漁業権はチャタム島外の水産企業によって買い占められる。この事態にモリオリとンガティ・ムトゥンガは、それぞれ、英国王室によるマオリ財産の保護を明記したワイタンギ条約に対する違反だとして、異議申し立てをすることになった。原住民土地法廷から一二〇年の時を経たワイタンギ審判所の係争で際立ったのは、モリオリが漁業権の権利主体として自らを立ち上げるとき、「文化」という鍵概念を用いた点である。長くニュージーランドでは、最後の「純血」モリオリが死去した一九三三年をもって、民族としてのモリオリは消滅したと考えられてきた。ンガティ・ムトゥンガ側が主張したように、漁業権問題が発生するまでチャタム諸島にはマオリ対モリオリという構図は意識されなかったし、事実モリオリ側も固有言語を失い、他のマオリや白人と混血し、まして社会組織を維持してきたわけでもなかった。ところが「文化」の概念は、根源的な差異の発生源として、自明に尊重し保全しなければならない対象を浮かびあげることになったのである。「文化」概念の登場とともに注目されるのは、「文化」をめぐる係争のなかで当事者たちが、同時代の文化人類学者と同じ論理で、あるいは見方によってはそれを先んじる形で、係争相手の主張の矛盾や根拠の不確かさを突こうとした点である。この点から著者は、モリオリ側の指導的人物であるマウイ・ソロモンと、ンガティ・ムトゥンガ側の当事者スザンヌ・トーマスの対決を詳細に分析している。双方とも、これまで秘伝とされてきた新情報を提出し係争を有利に進めようとしたが、裁定に大きな影響を与えたのは、トーマスが提出した資料の信用性を失墜させる際のソロモン側の手際の良さだった。トーマスは秘伝の書をもとに、ンガティ・ムトゥンガがこれまで語られてきた一八三五年のはるか以前よりチャタム諸島に在住してきたことを証明し、漁業権割当で有利に立とうとするが、ソロモンは「秘伝」とされる書の記述内容が、すでに学術的にその信用性が疑われている20世紀初頭の人類学文献や、モリオリ側に有利に書かれたより最近の歴史書の情報に大きく影響をうけていることを、逐一明らかにしていったのだった。この過程で浮かびあがってきたのは、先祖が過去の係争で証言した内容や、先祖について書かれた大量の学術資料を念入りに検討し、それらとの論理的整合性に配慮しながら、細心の注意を払って係争に臨む必要性だった。以上を指摘したうえで著者は、マウイ・ソロモンが次々と繰り出した批判的語り口が、第一章で検討されたハンソンらの「文化の構築主義」の立場にも近似していることに、読者の注意を促す。ソロモンは、人類学者であろうと係争相手であろうと、敵対する者たちを伝統の「粉飾/創造」者として批判し、自らの主張の正当性を確保しようとしているからである。しかし、その過程でソロモンは―そして彼の先人ともいえる二章のファタホロや、三章の土地法廷の当事者たちもまた―、外部から距離をとって傍観する人類学者がまったく予期できなかったような結果を導き出してきた。彼らは、人類学が広めようとしてきた論理を時には先取りしながら、むしろ人類学者を導くような協同的な関係のなかで、自らの民族の境界や「文化」を構築してきたのである。
 終章では、ワイタンギ審判所が事実上のモリオリ勝利の勧告を示したことを振り返った後に、本論文全体の総括が示される。著者は、民族が「創られた」という指摘が、しばしば真偽の問いに縛られ、「いかに創られたのか」という過程についての問いを覆い隠してしまう点に注意を促す。「創造」の結果を見ることが容易いのに比して、その結果を生み出した当事者たちの複雑で創意に富む作業は、その細部のひとつずつを丹念に追う気の長い取り組みこそが浮かびあげるのだという。近年では、モリオリを含めたマオリの先住民運動を利益団体あるいは企業体として批判する論者もあらわれはじめている。しかし、こうした見解に対しても、一部のエリートが自由自在に言説を操作して利権をせしめたかのように見えるのは、「創造」の結果を事後的に眺めるからに過ぎないという。過程を追うとき浮かびあがるのは、多様な思惑をもったプレーヤーが、必ずしも当初の公算通り進まない予測不可能な過程のなかで、相互に交渉を繰り返す姿であった。この過程は、たしかに「文化の構築」ないし「伝統の創造」の過程と呼びうるだろう。しかし著者は、この過程が、人類学者になじみ深い「大きな物語」、すなわち、植民地主義の認識論的な支配に対する反省や批判という枠組みでは決して汲み取ることのできない、不確定極まりない過程であることを指摘し、本論を結ぶ。

三. 成果と問題点
 本論文の成果として、まず何より、歴史人類学研究として本論で提示された歴史資料の厚みに言及しなければならない。モリオリとンガティ・ムトゥンガの法廷闘争をめぐる数万ページにもおよぶ証拠資料を渉猟し、そのうえでその中から議論を組み立てる際に集中的に分析する個別資料を選定する作業は、著者の本研究に対する執念と情熱がなければ決して成し得なかったであろう。また、各章が、それぞれ時代を異にする具体的事例を取り扱っており、それぞれ独立した論文として提出できる性格を有しているにもかかわらず、各章の事例と分析を有機的に関連付けてみせた手際の良さも高く評価できる。第一章で、現代人類学の理論的潮流のなかに本研究を位置づけることで示された問いが、各章で形をかえて繰り返し検討されるばかりでなく、第二章の起源伝承に第三章の原住民土地法廷の事例が歴史的文脈を提供し、第一章から第三章までが、第四章のワイタンギ審判所の事例に一二〇年という長いスパンの歴史的文脈を提供している。こうした手際は、本論文の結論部で提示される見解に学術的な説得力をもたせており、書き手としての前田氏の類まれなセンスと力量を、読者に確信させるものである。
 著者が、本論文の執筆にあたって調査の段階から採用してきた方法論と、それが導き出した理論的な帰結も、現代人類学の最新成果として高く評価できる。オセアニア地域、とりわけニュージーランドにあっては、植民地主義状況下の認識論的暴力に対する人類学者の自己批判が、現地の原住民運動の担い手から批判をうけるという悪循環からなかなか抜け出せないできた。結果的に研究者は、現地の運動主体と没交渉になるか、逆に現地の運動主体にオーソライズされた資料をそのままに提示するかの、生産的とは言いがたい二者択一を迫られてきた。そのなかで、著者が本論文の議論の根幹をなす資料として、モリオリとンガティ・ムトゥンガの法廷闘争の記録を資料として選定したことは、たいへん的確な判断だったといえる。当事者たちの証言を含む法的記録は、公にされているばかりか、まさに公にされることを目的に文書化されるのであり、著者はこうした資料の性質を最大限に活用しつつ、先の二者択一を超えた学術的成果を生み出した。通常の人類学研究が、分析対象となる資料をフィールドワークの過程で自ら産出するのだとすれば、著者はあえてこの資料産出者としての役割を禁欲し、資料編集者としての役割に徹している。しかし、この編集作業は、それ自体きわめて創造的な作業だったといえる。一二〇年間にわたる歴史過程を、ひとつの包括的視野に収めた研究はこれまでに存在せず、しかもこの包括的視野が、各章で扱われる個別事例に新たな理解をもたらしている。本研究は、この点で、政治的利害関係が複雑に絡み合うポスト(ネオ)植民地状況で、人類学が産出しうる豊かな知のありようを例示するものといえよう。
 著者は明示的に関連付けしないものの、本論文は歴史学の立場から先住民運動を追うジェイムス・クリフォードらの諸成果に、人類学の立場から応答するものであるともいえる。人類学的知が、文化的アイデンティティを模索する諸主体に流用あるいは活用される状況を前に、人類学はかつてのように研究対象との間に安定的な距離を確保することが難しくなりつつある。しかし、だからといって人類学は、その学知の外側にアルキメデスの点を求める必要はないし、また、それは不可能に違いない。著者が説得的に実演してみせたように、当事者たちが人類学知を取り込みつつする文化の「客体化」は、それ自体、人類学知による「客体化」の対象になりうる。ところが、この「客体化の客体化」の試みすら、再び当事者たちの「客体化」作業のうちに捉えられることになろう。著者が結論部で述べるように、人類学は終わることなき「客体化の弁証法の運動」に巻き込まれ続ける運命にある。そして、まさに、この内が外を引き寄せ、外が内に組み込まれる終わりなき過程こそを、著者はチャタム諸島の一二〇年を追うことで浮き彫りにしたのだった。しかし、彼が同時に明らかにしたのは、当事者たちの手による「客体化」が絶えず同時代の人類学知の予想を裏切り、また人類学者として著者がする「客体化」もまた、彼らの「客体化」とは違う結果を生みだすことであった。つまり、本論文は、文化の「客体化」が決して飽和点や収束点をもたないことを私たちに教え、今後の人類学研究が向かうべき一つの方向性と、その豊かな可能性を照らし出しているのである。
 とはいえ、本研究に若干の問題点が指摘できないわけではない。第一に、本研究をオセアニア地域研究あるいはニュージーランド・マオリ研究としてみた場合、先行研究の整理と本研究の位置づけが充分にはなされなかった点があげられる。研究対象である当事者たちが係争の過程で人類学的成果を取り込んでおり、彼らの発言や知の枠組みを追うことが、すなわち先行研究と本研究の関係を一定程度明らかにするという著者の立場は理解できるものの、本研究が採用する理論的枠組みの把握を容易にし、多様な研究成果との接続可能性をより明示的にするためにも、具体的な歴史資料の分析からは独立した、より十全な先行研究の整理があってしかるべきだった。
 第二に、用語の使用に関して、その語がもつ理論的背景に対する配慮が不足している場合や、語の使用に際して理論的視座が首尾一貫していない場合が散見された点を、指摘できる。たとえば、本論の鍵概念として頻繁に使用される「脱構築」の語は、ポスト構造主義の諸議論との接続が不可欠であり、それがなかったことは惜しまれるところである。また「道具」の語が、いわゆる「文化道具主義」を否定する場合にも、肯定する場合にも用いられており若干の混乱が認められる。さらに、「真実」「事実」の語の使用に際しても、より周到かつ厳格な理論的考察がなされるべきだった。この点は、本論の理論的主張の評価とも密接に関係している。「文化の構築」過程を追う際に、「真偽」の基準には縛られないとしながらも、その過程を「編集」し「事実」として提示する著者の立場性(ポジショナリティ)を、どう評価するかという問題である。「真実」が「虚偽」との対立で絶対化される傾向をもち、「事実」が歴史的に相対化しうるものであるという著者の立場を、議論の流れから汲み取れなくはないものの、そうであるならば著者が本論で「事実」として提示した事項が、どのように今後当事者たちに相対化されていく可能性を有しているのかについて、結論部で若干の考察があってしかるべきだった。
 第三に、植民地支配やネオ植民地主義的な国際的システムの権力性に対する配慮不足が指摘できる。確かに原住民土地法廷やワイタンギ審判所は、当事者たちの諸権利の認定を可能にする肯定的な機能を有してきたものの、それらの機関が具現し、また反復再生産する、構造的制約ないし抑圧機構が存在していることは容易に想像できる。この点が併せて議論されたならば、本論文の議論はより複層的でニュアンスに富んだものとなっていたであろう。
 第四に、法廷闘争の記録から追うことのできる彼らのディスクールと、法廷の外の日常生活におけるディスクールや営みとの関係について、著者が一切触れていない点があげられる。すでに本論文の評価で述べたように、法的文書をほぼ唯一の資料として用いることは、著者の方法論的選択であったことは理解できるし、また、その選択が生みだした成果は高く評価できるものの、この方法論的選択そのものについてさらに踏み込んだ議論があってしかるべきだった。そうした議論は、他の研究成果との比較可能性を開くと同時に、いまだ試みられていない「他に可能な」研究の方向性について、読者を深い省察へと誘ったに違いない。
 もっとも、これらの問題点は、論文が全体として提示する成果の学術的価値をいささかも損なうものではなかった。また、著者も問題点を強く自覚し、今後の研究の課題としているところである。さらなる研究の進展を期待したい。

四、結論
 審査委員一同は、上記のような評価にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与すること大なるものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2010年7月14日

 二〇一〇年五月一七日、学位請求論文提出者前田建一郎氏の論文についての最終試験を行った。
 試験において審査委員が、提出論文「ニュージーランド、チャタム諸島における民族の生成-原住民土地法廷と、ワイタンギ審判所をめぐる先住民モリオリとンガティ・ムトゥンガ族の紛争を手がかりに-」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、前田建一郎氏はいずれも充分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は、前田建一郎氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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