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博士論文審査要旨

論文題目:社会規範はどのように迷惑行為に影響を及ぼすのか ―記述的規範と命令的規範の相違と注目からのアプローチ―
著者:高木 彩 (TAKAGI, Aya)
論文審査委員:村田 光二・稲葉 哲郎・堂免 隆浩

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1.本論文の構成
 本論文は、社会規範の影響力について新しい視点から説明を試みている「規範的行為の注目理論」の考え方を社会的迷惑行為の問題に適用して、その低減を可能とする方策について実験研究と調査研究の成果をもとに論じたものである。社会的迷惑行為の増加というこれまであまり取り上げられることのなかった問題に焦点を当てて、社会心理学からの理論的検討を行い、心理学実験および社会調査を通じて実証的検討を行い、その成果を理論的および実践的な視点からまとめた研究である。その構成は以下の通りである。

第1章 序論
第2章 社会的迷惑とは何か 
第3章 注目理論に基づいた社会的迷惑の現象説明と抑止方略の検証
 3-1 規範的行為の注目理論
 3-2 注目理論からの社会的迷惑の現象説明
     研究1:注目する規範の相違が迷惑認知に及ぼす影響
 3-3 命令的規範への注目が迷惑行為に及ぼす効果の検証
     研究2:注目する規範の相違が迷惑行為の生起に及ぼす影響(1)
         ―課題遂行場面での発話についての検討―
     研究3:注目する規範の相違が迷惑行為の生起に及ぼす影響(2)
         ―休憩時間における発話についての検討―
第4章 記述的規範と命令的規範からの社会規範の影響力の再考
 4-1 記述的規範と社会的迷惑との関連について
 4-2 知覚された社会規範と迷惑行為との関連
     研究4:知覚された規範と社会的迷惑行為との関連
 4-3 研究5:社会規範の知覚‐行動間の因果関係に関する縦断的検討
第5章 社会規範の影響力を活用した迷惑行為の抑止方略は何か
 5-1 規範の影響力を用いた説得的メッセージを扱った先行研究の概観
 5-2 社会規範の影響を調整する要因
 5-3 逸脱の観点から見た社会規範と行動との関連
 5-4 記述的規範と命令的規範の不一致の解釈を調整する要因
第6章 知覚された規範の影響力を調整する要因に関する検討:重要度が果たす役割に
ついて
 6-1 後部座席のシートベルト着用問題
 6-2 研究6:社会規範の調整要因として重要度が果たす役割
        -後部座席のシートベルト着用行動における規範の知覚を題材として-
     研究7:重要度と態度強度及び道徳的基盤の関連についての検討
     研究8:ベルト着用の有効性評価と違反への罰則適用のコスト評価が着用の
重要度に及ぼす効果についての検討
第7章 総括
 7-1 結果の総括 
 7-2 本研究の意義 
 7-3 本研究の限界点と課題
 7-4 終わりに
引用文献
付録

2.論文の概要
 第1章の「序論」では、本論文の問題意識と論文全体の構成について論じている。社会規範が迷惑行為の生起に及ぼす影響は状況に応じて異なり、多くの要因に左右されるので単純ではないが、規範的行為の注目理論に基づいて理論的な解決を目ざすことを述べる。そして、社会規範の影響力を活用して迷惑行為の低減を目ざすという実践的課題を提起する。
 第2章「社会的迷惑とは何か」では、まず、社会的迷惑の心理学研究を開始した名古屋大学の研究グループにならって、「行為者が第一義的に自己の欲求充足を目的とし、結果として他者に不快な感情を生起させること、またはその行為」と社会的迷惑を定義する。他方で、社会的ジレンマや逸脱行為といった類似の概念との差異を議論する。次に、社会的迷惑の原因として、社会規範に対する個人の意識の低下が指摘されることが多いが、規範意識に世代間に差がないといった調査データなどをもとに、この考え方に疑問を唱える。他方で、何を迷惑と認知するのか、迷惑認知の問題の重要性を指摘する。社会的迷惑は、それを不快と感じる他者がいて初めて生起する。社会的迷惑の問題を考える上で、迷惑認知が生じる過程は重要なポイントであると同時に、この認知にも社会規範についての合意が影響することを論じている。
 第3章の「注目理論に基づいた社会的迷惑の現象説明と低減方略の検証」では、まず、アメリカの社会心理学者チャルディーニたちが提唱した、「規範的行為の注目理論」の概要を紹介する。この理論では、社会規範を記述的規範と命令的規範に分類する。記述的規範とは、所与の状況で多くの人が何を行っているかを示すもので、効果的で適応的な行動を提示することによって行為を動機づける。他方、命令的規範とは、その状況で何をすべきであるのか提示するもので、社会的報酬や罰の予想に基づいて行動を動機づける。従来社会規範と呼ばれてきたものは後者の命令的規範であるが、私たちは記述的規範からも影響を受けやすく、どちらに注目するかがその影響力を規定すると論じられる。また、命令的規範や記述的規範にはさまざまな内容のものがあって、相互に矛盾する場合もあるが、この注目理論では、その状況でもっとも注目された規範から私たちは影響を受けると考える。たとえば、ゴミが数多く捨てられている状況におかれた人は、「ゴミをポイ捨てしてはいけない」という命令的規範に注目がいけばそれに従うが、状況の手がかりから「ゴミを捨てる」という記述的規範に注目すればその行為を行いやすいと予想される。
 次に、注目理論の予測に基づき、行為者と認知者が注目する命令的規範の不一致によって、社会的迷惑という現象が生起する可能性を実験研究によって検討した。その研究1では、行為者と認知者が注目する命令的規範の内容が異なることが、社会的迷惑の発生につながることを示した。実験では、行為者にはコミュニケーションマナーの規範(「聞きやすいように話す」)に注目させ、認知者には同じ規範に注目させるか、公衆道徳の規範(「他人の妨げとなるおしゃべりは慎む」)に注目させるかの操作を行った。そうすると、公衆道徳の規範に注目していた認知者の方が、コミュニケーションマナーの規範に注目していた認知者よりも、行為者のおしゃべりの声を「迷惑だ」と感じやすかったことが示された。このように、注目する規範が異なることで同一の行動に対する解釈が異なり、社会的迷惑の認知に差を生み出すと考えられる。研究2と研究3では、行為者が注目する命令的規範を認知者のものと一致させるか否かを操作することにより、迷惑行為が起きにくくなることを示そうとした。しかし、いずれの実験の結果も予測に反して行為者が公衆道徳の規範に注目した場合でも、コミュニケーションマナーの規範に注目した場合と同程度の声の大きさで会話し、それゆえ同等の迷惑認知が周囲の者に生じたことが示された。この結果から、行為者に注目させる命令的規範を変えただけでは、社会的迷惑行為の低減が困難であると議論している。
 第4章の「記述的規範と命令的規範からの社会規範の影響力の再考」では、従来から議論されてきた命令的規範よりも、記述的規範の影響を検討する必要性が論じられる。そして、迷惑行為を低減させるには、記述的規範の影響力を活用した方が効率的であることを検証する。研究4では、質問紙調査を実施して、さまざまな迷惑行為の生起頻度と、その行為についての記述的規範の認知、命令的規範の認知、そして迷惑認知の程度を調べ、相互の関係を検討した。対人的迷惑行為、発話に関する迷惑行為、そして公共場面での迷惑行為の生起頻度をそれぞれ従属変数として重回帰分析を実施した結果、記述的規範の影響力は一貫して高く、周囲の人々が頻繁に行うことを認知していると認知者自身もその迷惑行為を行いやすいことが示された。他方で、命令的規範の影響力はそれより低く、公共場面での迷惑行為においては有意な関連が認められなかった。この結果は、他者がその行為を望ましくないと評価していることを知っていても、必ずしもその行為を抑制しないことを意味している。そして研究5では、縦断的調査を実施して記述的規範の持つ影響力についてさらに検討を行った。同一の学生に2ヶ月の期間をおいてパネル調査を実施して、交差-時間差データを媒介分析して、迷惑行為の頻度と記述的な社会規範の認知の因果の方向を検討した。その結果、時点1の迷惑行為頻度が時点2の迷惑行為頻度に及ぼす影響は、時点1の記述的規範の認知に媒介されていることが示された。他方で、時点1の記述的規範認知が時点2の記述的規範認知に及ぼす影響は、時点1の迷惑行動頻度に媒介されていることも示された。このように、記述的規範の認知と迷惑行動の頻度の間には相互に影響を及ぼしあう関係が存在したが、命令的規範の認知と迷惑行動との間にはこういった明確な関係は認められなかったのである。この結果は、記述的規範の認知を変えることによって、迷惑行動が低減する可能性を示唆するだろう。
 第5章の「社会規範の影響力を活用した迷惑行為の低減方略は何か」では、前章までの結果を受けて、記述的規範と命令的規範の影響力を活用して、社会的迷惑の低減策をどう講じるべきかを議論している。まず、社会規範の影響力を活用した説得的メッセージの研究を概観して、飲酒や喫煙といった健康阻害行動の場合には、記述的規範を利用した説得メッセージが有効であることを紹介する。しかし、現実の問題には複雑な要因が交絡しやすく、さまざまな調整要因によって有効性は限定されていることを説明する。特に、社会的に望ましくない行動が蔓延していることが明白な状況下では、迷惑行為の低減にはかなりの困難が伴い、未解決な問題として残っていると問題提起する。そして、迷惑行為の低減は、記述的規範が迷惑行為を奨励し、命令的規範が相反する行為を奨励する不一致状況で、行為者がその状況をどう解釈するかに依存すると議論する。すなわち、行為者が記述的規範と命令的規範の不一致状況を、迷惑行為の抑止を動機づける方向へ解釈することによって問題が解決される可能性を提起する。その上で、迷惑行為を抑止する方向に解釈される上で、「重要度」という要因を検討する意義について論じる。 これは対象となる行為を重要視する程度であって、先の調整要因として取り上げられたものの1つである。
 第6章の「知覚された規範の影響力を調整する要因に関する検討:重要度が果たす役割について」では、第5章で提起された問題を実証的に検討した。ここでは、広い意味で社会的迷惑行為と考えられる、後部座席のシートベルト非着用問題に焦点を当てる。このシートベルト着用行動は社会的支持を得ているものの、実際には着用が普及していないという社会規範の不一致状況(着用を支持する命令的規範と着用を支持しない記述的規範の不一致状況)が存在する。この状況で、行為者がベルト着用を重要視する程度が高ければ、ベルトの非着用という迷惑行為が抑制されるという予測を検討する。研究6では、運転免許を取得している成人440名を対象にウェブ調査を実施した。シートベルト着用に関する命令的規範の認知、記述的規範の認知、着用の重要度、着用の頻度などについて回答を求めて、着用頻度を従属変数として、3つの変数、その交互作用項を独立変数とした階層的重回帰分析を実施した。その結果、記述的規範と重要度の主効果が示されるとともに、3つの変数による3次の交互作用項の有意な効果が示された。この内容は、周囲でシートベルトを着用する頻度が低い(記述的規範が低い)と認知しているとき、シートベルト着用への賛成度が高い(命令的規範が高い)と認知しているほど、本人がシートベルト着用を重要視している場合に限って、着用頻度が高まるというものであった。同様の調査は研究7と研究8でも繰り返され、異なる対象者でも同じ分析結果が得られた。研究7・8の調査時期は、高速道路での後部座席のシートベルト非着用に罰則が導入された後であり、命令的規範の直接的影響も認められたが、問題となる重要度を含む3次の交互作用は一貫して認められたのである。
 第7章の「総括」では、まず、この研究の成果を要約して紹介している。次に、その成果に基づいて、この研究が社会心理学の基礎研究および社会問題の解決のための実践研究に対して持つ意義について自ら説明している。その上で、この研究の限界と残された理論的および実践的課題について述べている。

3.本論文の成果と問題点
 本論文は、規範的行為の注目理論の考え方を社会的迷惑行為の問題に適用して、その低減を可能とする方策について実験研究と調査研究の成果をもとに論じたものである。新しい視点から社会的迷惑行為の問題をとらえ、実証的研究データに基づきながら現実問題を改善する方策を提案したもので、理論的にも実践的にも、この分野の研究に多くの貢献が認められる。その貢献の内容について、少なくとも以下の5点を指摘できる。
 まず、従来考えられた社会規範(命令的規範)を意識させることによって迷惑行為を低減する方法が、必ずしも有効でないことを実証的方法で示したことである。研究2と研究3では、公衆道徳の規範を意識させる条件を設定して、そうでない条件と比較する実験を実施したが、公衆道徳の規範が活性化したと考えられる場合でも、迷惑行為の発生は特に減少していたわけではなかった。命令的規範のみに注目し、その規範意識を高める方略が、十分には有効でないことを示したことが本研究の第一の貢献であろう。
 他方で、社会的迷惑行為の発生を考える場合には、記述的規範の影響力を考慮することの重要性を説明し、実証的な証拠を示した点も重要な貢献である。記述的規範はその場で適切な行為についての情報であって、本来そうすべきであるという情報(命令的規範)よりも、状況の具体的変化に即応している。命令的規範はその状況ではすでに形骸化している可能性もあるだろう。また、社会的状況から強い影響を私たちが受けるとすれば、記述的規範から受ける影響はその中核の1つだと考えられる。実際、研究4と研究5の調査データを分析して、迷惑行為の実施回数と記述的規範(周囲の人がその行為をどのくらい行なっているか)の認知の間に、強い相関関係があることを実証した。
 第3に、社会的迷惑行為の認知は、行為者と認知者の注目している規範の相違に由来する場合のあることを、心理学実験を通じて実証したことを指摘できる。ある人が他者のためを思って行なった行為が、他者にとっては「迷惑」と思えてしまうことがある。同様に、一定の社会的規範に則って行なった行為でも、その規範と異なる規範に注目している人からは「迷惑」とされることがある。このように、社会的迷惑は行為者、行為の受け手である認知者、あるいは第三の認知者といった立場の違いに応じて、相対化して捉える必要があるだろう。実験データからその証拠を示したことが、もう1つの貢献である。
 上述の規範の不一致は命令的規範の中の不一致であったが、現実の社会的迷惑の問題を考える上では、記述的規範と命令的規範の間の不一致について考慮することも重要である。この点を指摘したことが本論文の第4の貢献である。筆者の議論によれば、社会的迷惑が蔓延している状況は、迷惑を抑止する命令的規範がありながら、記述的規範が迷惑行為を支持している場合に相当する。この状況では、命令的規範は行動基準として用いられるに値しないと解釈されやすく、迷惑行為を抑止することがかなり困難となる。迷惑行為が蔓延する状況を規範的行為の焦点理論の概念を援用して、このように特徴づけたことに本論文の重要な意義があるだろう。
 社会的迷惑行為がすでに記述的規範となっている状況を改善することは至難の業であるだろう。しかし、記述的規範と不一致の命令的規範の解釈を方向づける要因として、命令的規範が奨励する行動の「重要度」の役割を明確にすることが、迷惑行為低減に結びつくと筆者は議論する。そして、命令的規範に賛成する程度に応じて、その場に蔓延する迷惑行為に反する行為を行うのは、その行為の重要度を高く評価する人に限られるという予測を検討する。研究6~8では、後部座席でのシートベルト着用問題に関する調査データを分析して、この予測を繰り返し実証した。このように、社会的迷惑行為の低減を可能とする方策の1つについて、実証的なデータをもとに示したことが5番目の貢献である。筆者はここから、命令的規範の遵守を目ざす場合には、その規範が奨励する行為の重要度を訴える必要があり、そのためにはなぜその行為や規範が重要であるのか、論拠も含めて理解を求める啓発活動が重要であると論じている。
 本論文は以上のように多くの成果を得ているが、問題点が残されていないわけではない。まず、研究6~8はウェブ調査という新しい手法を用いているが、調査対象者の属性について詳しい情報が欠けていて、しばしば問題とされる「サンプルの偏り」といった批判に対して十分に反論できない可能性がある。また、最後に取り上げた「命令的規範が奨励する行動の重要度」という要因は、「命令的規範に賛成する程度」という要因と、概念としても測定結果においても関連性が高く、十分に独立した要因なのかどうかには疑問が残っている。さらに、「シートベルト着用問題」という法律に関わる行為を社会的迷惑行為の一部として検討したことが、社会的迷惑行為の定義をあいまいにしてしまい、問題をさらに複雑にしてしまった可能性がある。加えて、調査研究で測定されている「記述的規範の認知」と「命令的規範の認知」が、実際の状況で影響を及ぼす「記述的規範」「命令的規範」そのものと同等である保証はまだ十分ではない。
 しかし、これらの問題点は著者もよく自覚するところであり、今後の継続的な研究の積み重ねによって、少しずつ解決されていき、考察も深められていくと思われる。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究の進展に貢献する十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2010年7月14日

 2010年6月22日、学位論文提出者 高木 彩 氏についての最終試験を行った。
 本試験においては、審査委員が提出論文「社会規範はどのように迷惑行為に影響を及ぼすのか-記述的規範と命令的規範の相違と注目からのアプローチ-」について、逐一疑問点に関して説明を求めたのにたいし、高木彩氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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