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博士論文審査要旨

論文題目:ドイツ後期照明思想における「理性の公共的使用」について
著者:宮本 敬子 (MIYAMOTO, Keiko)
論文審査委員:平子 友長・岩佐 茂・嶋崎 隆・坂 なつこ

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Ⅰ.本論文の構成
 
 本論文はドイツ後期照明思想(1780年~1800年頃)における、哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)の「理性の公共的使用」概念を中心に考察したものである。「理性の公共的使用」とは端的には「言論の自由」に関する一つの理念である。「言論の自由」自体は18世紀を通して多くの思想家が言及しており、カントと同時代に活躍したベルリンの照明思想家たちも積極的にこれを論じていた。しかし、1780年代に最盛期を迎えるベルリン照明思想は結果的に「言論の自由」に制限を課す議論へと向かう。本論文はこうした動向に対して世界市民的観点から異議を唱えたカント政治哲学の思想史的意義を探究するものである。本論文の構成は以下のようになっている。

緒 言   問題の所在
第1章  「啓蒙」再考 
 第1節 「啓蒙」の方法としての「理性の公共的使用」
 第2節 『啓蒙とは何か』、以前
 第3節  ディルタイの隠度
 第4節  ハーバマースの隠匿
 第5節 「啓蒙」はAufklärungの訳語としてふさわしいのか?
 第6節 「照明思想」の時代区分
第2章  カントの「後見人」批判としての「理性の公共的使用」
 第1節  ベルリンの照明思想家たち
 第2節 『照明とは何か?という問いへの答え』
 第3節  言論の自由とその誤用
 第4節  プロイセンの後見人たち
 第5節  カントの「公共性」の構造転換
第3章  フィヒテの「思想の自由回復要求」
 第1節  ヴィーラントの「6つの金の粒」
 第2節  照明の階級制
第3節 踏み越えられる境界線
第4章   共生の思想としてのカントの政治哲学
 第1節 共生の思想としての『永遠平和のために』
 第2節 無党派的自律的思考としての中庸と「理性の公共的使用」
 第3節 「理性の公共的使用」を補完する「完全誤謬の否定」
 第4節 「理性の公共的使用」と「教育」
結 語 「照明思想」を楽観と軽視することの楽観


Ⅱ.本論文の要旨

 各章の概要は以下のとおりである。

第1章 「啓蒙」再考
 最初にカントの「理性の公共的使用」概念の論理構造が説明される。「理性の公共的使用」は、ある人が自分の考えを「読者世界」に対して公表する際の政治的実践的な態度に関わるものであり、この理性使用に基づいて「学識者」として「本来の公衆」である「世界」に向けて自分の考えを公表することで、ある集団が自明視している現行の法や制度が批判的に吟味されることになる。それはある共同体の構成員にのみ妥当するにすぎない「理性の私的使用」の枠組みを越え出て、あたかも「世界市民社会」の構成員であるかのように振舞うことを要請する多元主義的な概念である。そこでは「世界」に配慮する公共的な議論の空間が開かれており、自分を特権化する自己本位的な主張を通すことは不可能となる。それゆえ、「理性の公共的使用」概念はナショナリズム的なものを制御する機能をもつ理性使用と言えるだろう。
 しかし、公共的な議論の論理はすでに過去の哲学者たちによって主張されており、それは例えばトマージウスやヴォルフの哲学においても確認することができる。これらの事例から、カントが過去のさまざまな思想家たちの世界市民的な言説を継承し、これを「理性の公共的使用」概念として再生させたことが推測される。ベルリンの思想家たちもまた、過去に「理性の公共的使用」に類似した思想が存在していたことを知っていたはずなのだが、彼らの議論はこの世界市民的思想を引き継ぐ方向には進まなかった。
 カントの政治哲学におけるこの重要な概念は同時代において議論された形跡がほとんどなく、また、19世紀以降になるとカントの世界市民思想そのものが忘却されたかのように見えるにもかかわらず、カントは「啓蒙思想」の代表者と目されている。その上、とくに20世紀の思想家たちによって「啓蒙思想」が操作的独断的イデオロギーとして非難される場合に、その矢面に立つのは専らカントの役割となっている。このことを後世の研究者たちによる偏ったカント解釈から生じた弊害と見る筆者は、カント政治哲学が歪曲された例としてディルタイの「啓蒙」解釈を例に挙げる。ディルタイの著作『フリードリッヒ大王とドイツ啓蒙主義』において想定されている「啓蒙主義」は、国家の成員を軍隊的規範に適合させるための道具的思想としての紀律概念である。ディルタイの考察においては、世界市民思想を核とする自律的思考としての「啓蒙思想」についてはほとんど語られていない。カントはナショナリズム的思考を妄想とし、これに代えて世界市民思想が要請されるべきと考えていたにもかかわらず、ディルタイはカントをそのような哲学者とは見ないで、フリードリッヒ2世の思想に連なる人物として扱っている。ディルタイはカント政治哲学における世界市民思想と向き合わず、また「啓蒙思想」における世界市民思想の意義を過小評価したといえる。
 この問題はハーバマースにも見られる。ハーバマースは『公共性の構造転換』においてカントの「理性の公共的使用」概念の思想史的意義を過小評価さしていると、筆者は見る。ハーバマースは18世紀の「公衆」を利益に敏感に反応する「私人」と見定め、カントの理性の公共化の論理が「私人」の利益を代弁するものであったとする。ハーバマースの議論においてカント的公共性はマンドヴィルの言う「私的悪徳は公共の利益」というスローガンの変奏と見なされ、それが私的悪徳を公的美徳へ転化させるような自由主義的モデルに依拠するものであったと診断される。ハーバマースは、カント的公共性が「利己的でない『人間』という姿をとる利己的なブルジョア」と「叡知的主体という姿をとる経験的主体」という二重の仮面をつけた「私人」によって遂行されていたと言う。ハーバマースの議論の問題点は、カントがむしろ批判の対象としていたものにカントを結合させ、さらに公共的議論の不成功の原因をカントに帰する構成をとっていることにある。ハーバマースはその論拠をカントの『理論と実践』の国法の議論に求めるのだが、そこに曲解があると見る筆者は、カントの「『理論と実践』準備原稿」を用いてハーバマース批判を行う。
 さらに筆者は、こうした後世の研究者たちがカント政治哲学を歪曲してきたのと同じように、「啓蒙」という言葉もまた誤解され続けてきた概念であると指摘する。そこでAufklärungの訳語として明治期以来使用されてきた「啓蒙」という言葉がその訳語として実際に相応しいのか、という問題が検討される。日本語の「啓蒙」には本来的に他者の「蒙を啓く」という意味しかない。しかし、ドイツ語のAufklärungが他律的な意味での「啓蒙」という概念を獲得したのはこの言葉が使用されはじめてからかなり後になってからのことである。Aufklärungは物事の本質を科学的に掴み取ることを目指す実践的自律的概念であり、他者の蒙を啓くという他律的な概念は後に派生したものであった。18世紀末の思想家たちはAufklärungをこの二つの意味で使用しており、とくにカントがその自律的側面の方を改めて強調したのであったが、日本語の「啓蒙」という言葉は他律的側面の表現にすぎず、もう一つの、しかもAufklärungの本義であった自律的思考の側面を打ち消してしまう。それゆえ本論文は第1章第5節以降において、「啓蒙」という訳語の代わりに、Aufklärungの直接的な意味である「光をもたらす」という意味を含意させた「照明」という訳語を採用する。自律的思考を主張するカント政治哲学を考察する本論文が、字義上他律的意味しか表現しない「啓蒙」の語を使用し続けることはカント哲学に悖ると筆者が考えたためである。

第2章 カントの「後見人」批判としての「理性の公共的使用」
 ここでは「理性の公共的使用」概念がどのような思想的文脈から登場したものであったのかが探究される。第1章においてはこの概念が先達の理念を継承したものである可能性が論じられたのであったが、第2章では「理性の公共的使用」概念がベルリンの思想家たちの諸議論の影響下でさらに理論的発展を遂げてゆく過程が考察される。『ベルリン月報』に掲載されたカント論文「照明とは何か」(1784年)(従来のタイトルでは「啓蒙とは何か」)は、ベルリンの照明思想家たちの諸議論に対する応答であった。それは直接的にはJ.F.ツェルナーが同月報に寄稿した論文の中で発した「Aufklärungとは何か?・・・しかし、私はいまだこの問いの答えをどこにも見出さない」という問いに対する応答であると考えられるが、他にも例えばM.メンデルスゾーンの著作『イェルーザレム』(1783年)などの影響を指摘する論者もいる。しかし、筆者はカントの応答は理論的には同じく『ベルリン月報』に掲載されたE.F.クラインの論文「思考と出版の自由について―君主、大臣、文筆家へ」(1784年)に対して向けられていると推測して議論を展開する。
 このクライン論文はカントの「照明とは何か」の約半年前に月報に掲載されたものである。クラインは増大する「出版の自由の誤用に関する嘆き」と「出版の自由の制限に関する嘆き」、つまり「検閲」と「言論の自由」の対立を調停しようと試みる。クラインは『反マキャベリ論』などフリードリッヒ2世の諸著作を引用しつつ議論を展開する。クラインは君主が「自ら考え、行動し、話す・・・自由を有す民衆」を統治することを望んでいると述べた上で、しかしときに民衆がその自由を「誤用」することがあると言う。クラインは、検閲による言論の弾圧は市民の騒乱を引き起こしうると案じつつも、「言論の自由」に検閲とは別の制限を課し、「服従の義務」が「言論の自由」に先んじる規範であると論じた。「服従はプロイセンという国全体の魂」というクラインの主張は、フリードリッヒ2世が『反マキャベリ論』において述べた、自らの目で見、自ら支配権を握って国を統治する君主は「国の魂」と述べたことに符号するだろう。フリードリッヒ2世は私人としての道徳と、公人(君主)としての道徳を自覚的に使い分け、後者は前者に優越するという考えを表明していたが、クラインの議論はこの思想に忠実であった。そこでは私人が行使するところの「言論の自由」は、公人が何事にも先んじて遂行すべき「服従の義務」の前では声を潜めるべきとされている。フリードリッヒ2世からすると国の政策を論じることができるのは「公人」だけであり、公職に就いていない「私人」には国政を批判する能力がない。これに対してカントの「照明とは何か」はクラインやフリードリッヒ2世とは正反対の議論を行う。すなわち、「公人」は「言論の自由」に制限が課せられているために政策などを批判することが原理的に困難であり、かえって彼らの言う「私人」にこそ批判能力があると主張したのである。カントの照明思想については、プロイセンの専制主義の制約を受けているために消極的なものにとどまったという見方もあるが、カントの「照明とは何か」はむしろ上述のような議論が主流であった当時の状況に抗して言論の自由を獲得しようとした非常にラディカルな議論といえよう。そしてこれらプロイセンの「後見人」たちに対して批判的に提示されたのが「理性の公共的使用」概念であった。カントは、クラインやフリードリッヒ2世が優先した公人の道徳を「理性の私的使用」という概念によっておさえ、しかも、この理性使用はしばしば「極端に制限されることがあってもかまわない」と言い切る。フリードリッヒ2世やクラインは「理性の私的使用」的な枠組みを統治の原則とし、この規範をあらゆるプロイセンの臣民の内面に植えつけることを試みた。こうした事態をもって従来の研究者は照明思想を「合理化、紀律化」のイデオロギーと見なしたのであったが、そのような「理性の私的使用」のパラダイムを批判したところにカントの「理性の公共的使用」概念の思想史的意義がある。「理性の公共的使用」概念を構成する諸々の素材を過去の思想に見出すことは可能なのだが、この概念は当時「理性の私的使用」の論理を普遍化しようとしたプロイセンの「後見人」たちを批判するためにカントが独自に作り上げた新たな公正の論理でもあったのである。

第3章 フィヒテの「思想の自由回復要求」
 カントの照明思想は国民国家思想へと移行しつつあったプロイセンの言論状況の中で特異な位置を占めている。その傍証として、ベルリンの照明思想家たちの協会「水曜会」におけるJ.K.W.メーゼンの講演(1783年)とこれに対するメンデルスゾーンの批判(同年)を取り上げ、さらにこのメーゼンの議論と類似した構成を持つものとしてヴィーラント論文(1789年)が例にあげられる。ヴィーラントの照明思想は「ソクラテスやカントから・・・仕立屋や靴屋まで例外なく」照明思想を考察することが可能であると主張した点でメーゼンの議論よりもラディカルなものであったが、そこでもまだ他律的構制の照明思想が語られている。けれどもカントの後見人批判の論点はフィヒテ論文「思想の自由回復要求」(1793年)において再び論じられることになる。この論文がカントの照明思想を継承するものとして論じられることは従来の研究ではほとんどなかったが、筆者はこのフィヒテ論文が検閲を強化していたJ.C.v.ヴェルナーらと共に、ベルリンの照明思想家たちをも批判するものであったと主張する。照明思想家たちは温情主義的なパターナリズムを有していたが、真理と誤謬の間に境界線を引く彼らの思想は「言論の自由」を阻害すると見たフィヒテは、カントの『純粋理性批判』や『実践理性批判』の議論を用いてこの境界線の思想の批判を試みる。そしてこれらの議論を前提にフィヒテはさらに独自の政治哲学を展開し、「言論の自由」を回復するために「可謬性」を承認することを要請する。客観的真理を有すると主張する「後見人」たちは真理と誤謬の間に境界線を引く権利が自分たちにこそあるとし、この考えのもとに言論を制限したのであったが、フィヒテはいかなる絶対的な境界線も認められえないこと、そして探究することは譲渡不可能な人間の権利であると宣言する。さらにフィヒテはたとえ人が考察の限界にまで到達したとしても、なおも何かが彼をその境界線を踏み越えるよう駆り立てると述べ、その「何か」が「無限に突き進む彼の理性の本質」であると論じる。筆者はフィヒテの言う理性の存在様式そのものがすぐれて照明思想的であったことに着目している。フィヒテはパターナリズムの代わりに「公正」を求め、自律的な人格を構成するための条件としての「言論の自由」を理論的に考察したのであった。フィヒテは共同討議を可能にする条件にして譲渡不可能な権利としての「言論の自由」を探究し、そこから人格の構成要素としての理性を生き生きと描き出した。フィヒテの議論は直接的にはプロイセン政府の言論抑圧政策批判であったが、その際に用いられた先鋭化された照明思想は同時に保守化した照明思想に対する批判としても機能している。それゆえ、照明思想研究において言及されることのないフィヒテのこの探究は、照明思想史の文脈の中でその思想的意義に相応しい場所が与えられてしかるべきであろうと論じられる。

第4章 共生の思想としてのカントの政治哲学
 この章ではカント晩年の世界市民思想が考察される。まず『永遠平和のために』におけるカントの世界市民思想が「共生」の観点から評価される。人間は利己的な傾向性に働きかけられて、しばしば自己自身を「例外化」することを試みようとするが、これに対してカントは「互いを滅ぼしあわない」ための「公共的な安全保障」を考察する。カントの世界市民思想はこのことを可能にするためのいわば共通価値を模索するものである。ここで筆者はカントの植民地批判に注目する。従来の国法や国際法では非ヨーロッパ地域における権利の侵害を停止させることができず、それどころか権利の侵害を正当化するために法が用いられてさえいる。こうした不正が世界中で見られる以上、世界市民法はもはや空想的な法概念とみなすべきではなく、国法や国際法を補完する必要不可欠な法概念として導入すべきであるとカントは考える。「世界」の公共的福利に配慮するカントはあらゆる他者と共存するための必要最低限のルールを定立しようと試みたのである。けれども『永遠平和のために』の理念もまた19世紀以降忘却されることになる。当時この著作における世界市民法概念を評価する者も存在したが、植民地における不正の問題が論じられた形跡はほとんど見当たらない。たとえば、フィヒテは植民地における不正はしばらく止まないであろうという現実的認識を示しつつ、それでも最終的に「諸国は誰もが我慢できる状態である占有の均衡状態に達するにちがいない」という予測を行う。フィヒテはカントの理解者であったが、非ヨーロッパ地域における不正に対する危機感についてはカントとこれを共有したとは言いがたい。またカントの弟子F.ゲンツは、カントの平和構想に理論的な矛盾はないものの、仮に国際連盟が成立したとしても諸民族のもとでのいかなる永遠平和もありえないと述べている。こうしてカントの永遠平和構想は非現実的として忘却されてゆく。
 また、カントの世界市民思想は『教育学講義』においても語られている。カントは子どもの教育においてとりわけ重要なのは「子どもが自分で思考することを学ぶこと」とし、その能力を涵養する場としての「公共的教育」の理念を提示する。そこにおいて子どもは多くの子どもたちとふれあい、その過程で自己を例外化する人間の傾向性を自覚して、他者と共同することを学び、市民的体制に迎え入れられる準備を行うとされる。しかし、公共的教育には障害があるとカントは言う。それは両親や君主が、「理性の私的使用」的な枠組みを越え出る世界市民的思想からは子どもや臣民を遠ざけるという障害である。「教育計画のための構想は世界市民主義的に立てられなければならない」とするカントは、世界の公共的利益というものがたとえ祖国の利益にならなくても、また自らの個人的利益にならなくとも、子どもは世界の公共的利益を「祝福できるようにならなければならない」と主張する。世界市民思想は教育によって大人から子どもへと伝達されないことにはその命脈を保つことはできないと考えていたカントにとって、「道徳化」の時代はまだ遠く、また現状では「国の繁栄とともに人間の悲惨さが同時に増している」という認識を有していた。カントの公共的教育はこれを段階的に改善し、「人類の将来的に善い状態」に適合するために構想されたものであった。
 こうしたカントの一連の世界市民思想的構想を大学において制度的に組み込もうとした試みがカントの『諸学部の争い』である。神学部、法学部、医学部などの上級学部は政府から下達された規約によって制約を受けているが、そうしたものに縛られることのない下級学部の哲学部は「理性が公共的に語る権利」を有しているため、上級学部の遂行することに対して批判的に考察することが可能であり、それは哲学部の責務でさえあると考えられている。カントは哲学部に「理性の公共的使用」的なあり方を制度的に遂行させようとしたが、このカント大学論の核心部分についても後の大学論に反映されなかったと見られる。カントの世界市民思想は、政治においても、法においても、そして教育においても試みられなかった。こうして18世紀を通してさまざまな照明思想家たちによって探究され、最終的にカントによって理論化された世界の公共的な福祉を目指す思想は19世紀の到来と共に衰頽したのであった。
 しかし、本論の結語において筆者は、照明思想を楽観と見なすこと自体が楽観ではなかったかと問いかける。現代においてもなお、多くの不正を孕んだ戦争が遂行されているが、そこでは「理性の私的使用」の力学が作用し続け、先進諸国は「不正を水のように飲みながら」繁栄している。だが現在ではこの「理性の私的使用」のパラダイムの限界に人々は気づきだしている。カントの「理性の公共的使用」概念の見直しが可能な時期の到来といえよう。筆者は世界の公共的福祉に配慮する最低限の共通価値を模索することは可能なはずだと主張する。そのような価値観を共有する世界では極端な格差が徐々に解消されてゆくだろう。この将来の平和に向けて、カント哲学はいまも世界の公正を問いかけている。

Ⅲ.本論文の成果と問題点
 本論文の成果として、以下の諸点があげられる。
 第一に、ドイツ啓蒙思想の歴史を、17世紀末トマージウスによって開始され、18世紀前半ヴォルフらによって継承され、18世紀後半、レッシング、メンデルスゾーンをはじめ、ビースター、ゲディケによって編集された『ベルリン月報』、プロイセン王国の行政・宗教政策に深く関与した官僚・聖職者・知識人が組織した「水曜会」などの諸活動によって最盛期を迎え、1790年代のカントの政治哲学によって最後の輝きを放ち、1800年を境として国民国家意識の高まりとともに終焉を迎える長期に亘る思想運動として把握し、1784年「啓蒙とは何か」をもって開始されるカントの政治哲学をこのようなドイツ啓蒙思想の主潮流との関わりの中で位置づけていることである。ドイツを後進国とみなす従来の社会思想史の枠組みの中では、ドイツ啓蒙思想は英仏啓蒙思想の受容によって初めて成立したとする発想が強かった。またヘーゲルの『哲学史』の影響を色濃く受けた19世紀以降の西洋哲学史の枠組みでは、ヴォルフからカントに至るドイツの哲学者を通俗哲学者として過小評価する傾向が支配的であった。カント以降のドイツ古典哲学を、それらが成立した思想史的脈絡を捨象して、『全集』の精緻な読解によって解釈するという哲学研究の支配的スタイルが、このような一面的理解に拍車をかけてきた。本論文は、この意味で、ドイツ啓蒙思想の歴史的再評価のための貴重な貢献であるとともに、従来型の『全集』解読本意の哲学・思想史研究のあり方に対しても反省を促す研究である。
 第二に、本論文は、理性の私的使用、公共的使用という対概念を切り口として、カントが18世紀ドイツ啓蒙思想の中で果たした独自な役割を解明していることである。理性の私的使用、公共的使用の関係を如何に把握するのかという問題自体は、同時代の啓蒙思想家に共有されていたが、その際、理性の公共的使用とは国民国家に公人として奉仕するために理性を使用することとして理解されていた。古典古代以来の概念使用においても公共性とは、まずもって自身の所属する政治的共同体に関わる活動を意味していた。カントの独自性は、ネイションの構成員として「公的」に理性を使用することを敢えて私的使用と表現し、世界市民としての立場から発言する言説のみを理性の公共的使用と呼んだことであった。カントが公共性を巡る概念史の伝統からも、また同時代の「常識」からも訣別して、理性の公共的使用を世界市民社会と結合したことの背後には、カントの眼前で繰り広げられていた西洋文明諸国による植民地獲得競争、とりわけ先住民の迫害の上に成立したアメリカ合衆国の暴力に対するカントの激しい批判があった。西洋植民地批判の文脈の中で理性の公共的使用を把握した思想家としてカントの独自性を解明したことが、本論文の意義である。
 第三に、以上の思想史的検討をふまえた上で、著者は、ドイツ語のAufklärungに対して「啓蒙」(蒙を啓く)という訳語を充てることが誤謬であること、Aufklärungの原義は、「照明」であり、思想史的には、聖書の啓示に依らず、経験的知見と厳密な論理に基づいて推論すること、さらにこうして獲得された諸思想を自由に議論しあう知の営みを意味していた。Aufklärungの主体および対象は、第一義的には、このような知的営為に参加する資質を備えた広義の知識人たちであった。蒙昧な民衆の蒙を啓くという意味でAufklärungに「啓蒙」という訳語を与えたことによって、17~18世紀西洋の「啓蒙」思想の本質的な意味を誤解する伝統が形成されてしまった。著者は、このような誤解を克服するためにAufklärungを敢えて「照明」ないし「照明思想」と訳し、それを論文のタイトルにも使用した。 
 本論文の問題点は、以下の二点である。
 第一に、ドイツ啓蒙思想の歴史的流れの中でカントの政治哲学のもつ独特な意義を解明したことの意義は高く評価されるが、三批判を含めカントの哲学理論体系全体のなかで彼の政治哲学の占める位置づけの解明が弱いことである。また「啓蒙とは何か」をはじめとする1780年代の政治哲学から、フランス革命を経験し、西洋列強による植民地化に対する批判を明確にしていった1790年代のそれへのカント政治哲学それ自体の歴史的発展を解明する作業も必ずしも十分であるとはいえない。
 第二に、明治以来百年以上にわたって使用され続けてきた「啓蒙」という訳語を本格的に克服するためには、lumen naturaleをはじめ西洋諸言語における「啓蒙」に対応する諸概念の更に詳細な概念史的検討が要求される。
 
 しかしこれらの問題点は、本人のすでに自覚するところであり、むしろ今後の研究課題とすべきものである。審査員一同は、本論文がドイツ啓蒙思想およびカント研究に極めて挑戦的かつ斬新な論点を提供したことの意義を高く評価し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2010年2月10日

 2010年1月7日、学位論文提出者宮本敬子氏の論文について最終試験を行なった。試験においては、提出論文『ドイツ後期照明思想における「理性の公共的使用」について』に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、宮本敬子氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は、宮本敬子氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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