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博士論文審査要旨

論文題目:「解放」後在日朝鮮人史研究序説(1945-1950年)
著者:鄭 栄桓 (CHONG, Yong-Hwan)
論文審査委員:加藤 哲郎・糟谷 憲一・吉田 裕・木村 元

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1. 本論文の構成

  鄭栄桓氏による本論文の構成は、以下のようになっている。

序章
第一節 問題の所在
第二節 視角と課題
第三節 研究史と関連する先行研究
第四節 史料
第五節 論文の構成
第一章  在日朝鮮人団体の結成と「自治」の問題 ——朝連自治隊を中心に
第一節  朝鮮「解放」と朝鮮人の「自治」
第二節  「在日本同胞の公的機関」――在日本朝鮮人連盟の結成
第三節  朝連自治隊の組織と活動
第四節  「自治」と処罰、そして分断――土浦事件
第二章  治安体制の再編と在日朝鮮人
第一節  敗戦後の「大日本帝国」と治安体制再編
第二節 刑事裁判権と警察権
第三節 帰還の送還化——「解放人民」規定の換骨奪胎
第四節 団体規制——勅令101号と朝鮮人団体
第五節 小括——1946年の「逆コース」
第三章  〈継続する戦争犯罪〉とその隠蔽構造——「寄居事件」論
第一節  はじめに
第二節  二つの「事件」
第三節  公判
第四節  小括――〈継続する戦争犯罪〉としての朝鮮人虐殺
第四章  「渡航阻止体制」と居住権
第一節 「計画輸送」終了後の危機と新たな権利論
第二節 「渡航阻止体制」の形成
第三節 「居住権」の危機
第五章 「外国人登録体制」の形成
第一節 「外国人登録体制」形成過程と朝鮮人団体
第二節 外国人登録令の法構造
第三節  外国人登録令公布後の内務省と朝鮮人団体の交渉
第四節  地方での交渉と朝連の条文訂正論への転換
第五節  外国人登録実施の「合意」
第六節 「外国人登録体制」の基盤整備――登録実施後の内務省調査局
第七節  小括――「外国人登録体制」の形成
第六章  在日朝鮮人運動の新展開——朝連における新活動家層の形成
第一節  「解放」後在日朝鮮人運動と活動家の存在
第二節  新活動家の誕生
第三節  活動家養成の具体相
第四節  新活動家層の形成と展開
第七章  在日朝鮮人運動と「二重の課題」——「階級の論理」と「民族の論理」
   第一節  「階級の論理」と「民族の論理」
   第二節  在日朝鮮人団体と参政権問題
   第三節  白武書記長罷免問題
第四節  小括——引き裂かれる「二つの課題」
第八章  朝鮮分断と民族教育
第一節  朝鮮学校の「問題」化から「非常事態宣言」へ
第二節  南朝鮮単独選挙と建青兵庫
第三節  「破壊」の1948年
第九章  戦争責任/植民地支配責任追及の隘路——在日朝鮮人の東京裁判論
第一節  東京裁判と戦争責任/植民地支配責任
第二節  戦犯逮捕から判決まで
第三節  東京裁判判決に対する在日朝鮮人の反応
第四節  小括――戦争責任/植民地支配責任追及の隘路
第十章  「外国人」と「日本人」の狭間でーー朝鮮分断前後の在日朝鮮人の法的地位論
第一節  「外国人登録体制」の強化と「外国人」処遇の否定
第二節  「正当な外国人待遇」とは何か――参政権と食糧配給
第三節  「外国人の財産取得に関する政令」をめぐる諸問題
第四節  小括——「正当な外国人待遇」論の終焉
第十一章  朝連・民青解散へ
第一節 敗戦後日本の団体規制と朝連・民青解散
第二節  深まる「分断」と朝連解散論の登場
第三節 特審局の「転回」と朝連・民青解散
第四節  朝連・民青解散とその影響
第五節  小括——朝鮮民族パージと強制送還問題
第十二章   「外国人登録体制」の確立
第一節  外国人登録令の改定へ
第二節 在外国民登録と外国人登録
第六節 小括——「外国人登録体制」の確立
終章
参考文献

2.本論文の概要
 
 序章は、本論文の視角と課題、先行研究の整理と史資料について述べている。著者は、戦後のいわゆる「在日朝鮮人問題」において、法的地位、教育問題、生活問題、帰国問題等が議論されながら、そこでは当事者たる在日朝鮮人自身の主張や立場が欠落し、もっぱら連合国、米国・日本・韓国政府などの外交交渉の客体として扱われてきたのではないか、それは何故にいかなる過程で「問題」となったのかと問いかけ、「在日朝鮮人問題」という認識枠組みそのものを本論文の対象として設定する。そこで植民地期までさかのぼり、①在日朝鮮人の形成から関東大震災「大虐殺」まで(1890年代-1923年)、②「大虐殺」から日本降伏まで(1923-45年)、と朝鮮植民地化からアジア・太平洋戦争末期までの日本政府の在日朝鮮人支配構造を概観し、その特質は、①「臣民化」、②日本国籍離脱防止の反「外国人化」、③日本人と区別された「朝鮮人化」の三本柱であったとする。1945年日本敗戦後の「解放」されたはずの朝鮮人の帰趨についても、その認識枠組みは継続され、参政権停止、外国人登録、民族教育弾圧、強制送還といった抑圧的性格が色濃く残ったこと、それは占領軍総司令部GHQと日本政府の関係でのいかなる支配権限によるもので在日朝鮮人自身はいかなるかたちでそれに抵抗しまたは受忍していったのかに注目する。そこで、自己統治=自治を含む在日朝鮮人への「統治」の在り方を、占領軍、日本政府の施策に、在日朝鮮人団体の議論や運動、抵抗や交渉の過程を加えて、1945-50 年のいわゆる占領期、朝鮮戦争開戦前までの具体的分析にとりかかる。先行研究整理・史資料については、朴慶植、大沼保昭らの先駆的研究に加え、GHQ文書や民族団体関係資料の公開・復刻が蓄積され実証研究が飛躍的に進んだ1990年代以降の諸研究(ロバート・リケット、金太基、小林知子ら)を参照し、批判的に継承するという。
 本論は、全一二章と終章からなるが、在日朝鮮人の動向と日本政府・占領当局の相互関係を時系列的に追跡する構成になっている。
 第一章では、1945-46年の在日朝鮮人団体の結成と活動について、在日朝鮮人連盟(朝連)を中心とした「自治」活動に注目して述べる。これまで日本側警察資料などから描かれた「解放」後の在日朝鮮人の姿として「朝鮮人=暴徒」観がある。著者は、こうしたイメージがいつ頃いかにして作られたかを考察するため、1945年10月15日の「在日本同胞の公的機関」朝連結成、政治犯釈放運動、旧「親日派」協和会・興生会の動向、とりわけ朝連青年部を中心とした「朝連自治隊」の全国的組織化と地方での活動に注目する。新聞報道などのさまざまな事例を検討して、これらが敗戦による日本警察権力の解体時に生まれた、「解放」された在日朝鮮人の「公的」生活防衛・治安維持の自治・自衛活動に対する、日本内務省・警察との捜査・逮捕・刑事裁判をめぐる権限紛争に起因したこととする。朝鮮建国促進青年同盟(建青)、新朝鮮建設同盟(建同)、建同の後進で46年10月3日結成の在日本朝鮮居留民団(民団)も、当初は何らかの程度で在日朝鮮人の自治・自衛組織としての性格を有していた。
 第二章では、1946年の治安体制の再編過程、特に朝鮮人に対する日本政府の刑事裁判権、送還権限、団体規制の推移について述べる。45年8月15日を境に植民地支配が終わり「解放国民」となった朝鮮人に対して、敗戦直後の司法省・内務省・警察など旧「大日本帝国」の支配機構は、朝鮮の独立を認めまいとする強固な意志を保持していた。在日朝鮮人の①日本警察支配からの自由、②移動の自由、送還・追放からの自由、③結社の自由、という主張と要求に対して、日本政府は①刑事裁判権及び警察権、②強制送還権、③団体規制による朝鮮人団体弾圧、で対抗しようとした。占領軍の人権指令、治安維持法廃止・特高解体、政治犯釈放によっても、日本政府による朝鮮人に対する刑事裁判権を米軍が否定するケースは希で、朝鮮人の自衛組織や朝鮮人自身による警察行為への日本政府による取締りが行われたことが具体的に明らかにされる。在日朝鮮人の朝鮮半島への帰国についても、厚生省・内務省はGHQの「計画輸送」方針に基づき、登録制や在監者釈放、朝連排除等を通して管理し、事実上の「帰還の送還化」が行われた。団体規制については、もともと軍国主義・ファシスト団体の解散指定・結成禁止をうたった「勅令第101号」が、旧植民地民に対する日本政府の統治権の再確認の手段として朝鮮人・台湾人団体にも適用され、結社登録・届出勧奨などを通じて干渉した。著者は、占領権力を後ろ盾にした日本政府によるこれら在日朝鮮人に対する特殊な警察支配構造を、「1946年の『逆コース』」と規定する。
 第三章では、「朝連自治隊」による自治活動と日本側の取締が地域レベルで衝突した事例として、1947 年夏に埼玉県で起きた「寄居事件」をケース・スタディする。村の集繭場での芝居興行をめぐる寄居町のテキ屋桝屋一家組員30 名による朝鮮人虐殺・傷害事件だが、警察は入場料問題で喧嘩した朝鮮人側にも拉致・不法監禁があったとして朝連深谷支部長他朝鮮人15名を逮捕・起訴した。ここには当時の治安秩序における日本警察のサボタージュを朝鮮人自治組織に加え日本人暴力団が補完していたことが示されているが、裁判の過程にも根強い朝鮮人差別と敗戦による「復讐」意識が関わっていた。著者は公判での弁護士布施辰治の「戦争犯罪の継続」を告発する弁論を評価しつつも、在日朝鮮人と日本人の「雑居雑婚による人種の帰一」という布施の「戦後」構想には疑問を呈する。
 第四章では、朝鮮人の帰還の動きが停滞し始めた1946年初頭以降の日本・朝鮮間の往来に関する法制度が、「渡航阻止体制」と居住権の問題として扱われる。戦前植民地時代の治安政策上の朝鮮人渡航は「選別導入体制」であったが、46 年夏頃からの「計画輸送」終了後の朝鮮人の出入国は、46年5月の朝鮮半島でのコレラ発生等も口実にして、占領当局・日本政府による出入国管理強化に向かった。「反密航キャンペーン」と合わせて大阪から「居住証明」発行の登録条例が作られ、地域社会レベルで在日朝鮮人の法的扱いが問題とされた。朝鮮人諸団体は「政府は樹立されていないとしても在日同胞は朝鮮国民」だとして一致して反対したが、「連合国民」という主張を貫く困難から「準連合国民」という自己規定も生まれてきた。
 第五章は、1947年5月2日に勅令第207号として制定・公布された外国人登録令を扱う。大沼保昭らの先行研究がある領域だが、著者はその実施過程における当事者たる朝鮮人団体の占領当局、内務省、都道府県との交渉過程、朝鮮人団体内部での態度の分岐にも目配りする。朝鮮人・台湾人の定義、植民地時代の朝鮮戸籍令との関係等をめぐり、どのような議論があり、何が論点であり、それぞれの論点についてどのような交渉がなされたかを検討する。朝連中央の6項目要求、民団外国人登録問題委員会の5項目要求、朝連と内務省の「合意」通達、内務省調査局「外国人登録事務取扱要領」等を仔細に検討し、地域での実施過程で具体的に問題になった戸口調査、一括申請、写真貼付、仮証明書発行、罰則規定などをめぐって、民団・建青は抜き打ち的に外登令受諾に向かい、改定を求める朝連と分岐していく過程を述べる。内務省は「外国人登録カード」記載事項策定や地方自治体による閲覧権の独占によって、その後の「外国人登録体制」の基礎を固めた。
 第六章は、「解放」後の在日朝鮮人運動の新たな基盤である青年層、新活動家層の生成を考察する。朝連の自治の一環である民族教育は、48年には全国500校の初等学院、5万人の生徒と1200人の教員を持つまでに急成長した。その教員養成のためもあって幹部養成の高等学院、朝鮮語教育や夜学の青年学院などが設立され、「イルクン」とよばれる新しい活動家層の養成機関として機能した。著者はその統計とカリキュラムなどを用いながら、活動家養成の中枢である朝鮮中央高等学院、日本共産党員を育成した三一政治学院、女性活動家の養成に重要な役割を果たした朝鮮洋裁学院などを具体的に論述し、その中から47年3月在日朝鮮民主青年同盟(民青)が生まれ、日本生まれの「二世」世代がどのような文化と生活を求め、時には朝連中央を批判するまでに急進化していくかを活き活きと描いている。
 第七章では、当時の在日朝鮮人が直面した二つの課題として、朝鮮と日本の政治的状況にいかに参加し、いかなる権利を求めるかについての在日朝鮮人諸団体の議論を、朝連内での論争を中心に「階級の論理」と「民族の論理」の問題として分析する。戦後朝鮮本国の在り方については、1945年12月のモスクワ協定、それに基づく米ソ共同委員会で信託統治が検討されたが、臨時政府の参加範囲等で米ソが決裂し、日本の朝鮮人諸団体も大きな影響を受けることになった。朝連の大枠は「親日派・民族反逆者」を除外した民族統一戦線というものであったが、中央で大きな影響力を持つ日本共産党朝鮮人部は『前衛』『解放新聞』などで、在日朝鮮人も日本にいる以上日本の独占資本・地主と闘う日本の民主主義革命こそ主課題とする「階級の論理」「人民の論理」を主張していた。他方、朝鮮の「自主独立」による建国を掲げる『朝鮮新報』などは、在日朝鮮人に圧倒的影響力を持つ朝連・民青と民団・建青の団体統一による「民族の論理」での朝鮮人運動統一を訴えていた。日本における運動についても、日本共産党は自党の選挙での思惑もあり在日朝鮮人の参政権獲得を要求しており、朝連も47年には「市民的公民権」という名で生活権と結びついた政治参加を求めた。他方、民団・建青や『朝鮮新報』は、参政権要求は「日本人化」に通じるという「民族の論理」から朝連を批判した。朝連内部でも、47 年夏の米ソ共同委決裂を受けて、朝連書記長白武が民族的利益を階級的利益に優先したとして罷免される事態となった。それは、朝鮮半島における南北両労働党間の関係、中間派合作への態度を孕んだ路線問題が、在日朝鮮人運動に反映したものでもあった。
 第八章では、南朝鮮単独選挙と在日朝鮮人民族教育弾圧の同時性に注目し、両者をめぐる日本政府の弾圧と在日朝鮮人団体の動向を、主として選挙支持派であった建青兵庫県支部を事例に検討する。民族教育弾圧としてしばしば論じられる48年春の朝鮮人学校閉鎖強行、神戸市「非常事態宣言」による「朝鮮人狩り」弾圧事件を、日本政府の教育基本法・学校教育法制定と学校認可問題までさかのぼって検討し、南朝鮮での「大韓民国」樹立にいたる単独総選挙実施が、兵庫県での朝連に対抗する民団・建青の占領当局・日本政府への情報提供・協力に影響していたことを、当時の新聞記事を詳細に整理した事例の検討から明らかにする。
 第九章は、「在日朝鮮人の東京裁判論」と副題されているように、朝鮮半島で南北分断体制が構築されようとする中で、戦後の国際体制がいかに植民地支配の問題を扱ったか、それに在日朝鮮人はいかに対応したかが、極東国際軍事裁判(東京裁判)を事例として分析する。米国メリーランド大学図書館所蔵プランゲ文庫に収録されている新聞・雑誌の検閲記録をも用いながら、在日朝鮮人メディアでも日本人の戦争責任、朝鮮人の戦争協力責任が論じられていたこと、しかし東京裁判では日本の1928年以降の「侵略」のみが裁かれ朝鮮に対する植民地支配が無視されたことについて朝連系に強い批判があったこと、戦争指導者の責任と「被害者」日本民衆を区別する視点が強かったこと、元朝鮮総督南次郎・小磯国昭の終身禁固刑には量刑が軽すぎるという批判が韓国政府からも起こったこと、などを明らかにした。
 第十章では、1948年の南北朝鮮分断後の日本政府、占領当局、朝鮮人諸団体、日本共産党などの朝鮮人の法的地位をめぐる議論を、外国人登録令、参政権問題、外資政令などの個別法令に則して検討する。外国人登録令と食糧配給通帳の連結、居住証明発給などを通じて49 年3月には約60万人の在日朝鮮人が登録・管理され、朝連も48年9月の朝鮮民主主義人民共和国創建を受けて「正当な外国人待遇」を求めるようになったこと、そのさい食糧配給には柔軟に対応しながらも、日本共産党の主張する「真の愛国者=日本共産党員」規定を媒介にした参政権要求との整合性の問題が再浮上したこと、49年2月「外国人の財産取得に関する政令」においても在日朝鮮人商工業者の適用除外をめぐって「正当な外国人待遇」論自体が矛盾を孕み挫折していくこと等が詳しく論じられる。
 第十一章では、団体規制の問題が1948年以降、いかなる論理で展開していくかを考察し、その延長上に49年9月の朝連・民青解散を位置づける。勅令第101号の主務官庁であった内務省は解体されたが、48年2月に法務省特審局が設置され、民族教育弾圧と併行して在日朝鮮人団体、特に朝連・民青の結社届提出が団体規制の焦点になった。いわゆる冷戦の進展に伴い、49年4月には勅令第101号が団体等規制令に改定され、特審局は「反共シフト」を完成し、旧軍組織や宗教団体への規制は緩和され、「暴力主義」や「破壊工作」を理由に暴力団と並んで朝鮮人団体への監視・取締に用いられた。著者は朝連・民青解散の影響を、物的金銭的被害、公職追放の人的範囲、マスコミや共産党・民団・建青などの対応として分析し、「朝鮮民族全体に対する公的領域からパージ」で強制送還に連なるものだったと位置づける。
 第十二章では、1949年12月の外国人登録令改定による切替制度の導入と韓国における在外国民登録との関連を検討し、「外国人登録体制の確立」と位置づける。それは占領軍による朝鮮人再登録要求を背景とし、強制退去権限の日本政府への完全移譲と仮証明書廃止など手続きの厳格化を伴うもので、朝鮮人諸団体は改定過程から一切排除され、執行過程では解散を免れた日本朝鮮解放救援会(解救)や在日本朝鮮民主女性同盟(女同)、日本人団体などが交渉に加わった。旧外登令制定時は、在日朝鮮人は外国人か日本人かが争点であったが、この新外登令への改定時には、朝鮮民主主義人民共和国か大韓民国かの国籍選択問題に争点が移行し、民団や駐日韓国代表部は外国人登録原票への国籍表示の表記法での意見表明に留まった。実際の登録にあたっては、韓国における徴兵制施行が在日朝鮮人の選択に影響した。
 終章は以上のまとめで、戦後日本における在日朝鮮人支配には、戦前植民地時代の①「臣民化」、②「外国人化」阻止、③「朝鮮人化」の論理が形を変えて継承され、朝鮮人自身の自治と組織・運動、とりわけ新活動家層の運動による抵抗があったものの、基本的には「外国人登録体制」として完成され、朝鮮戦争期に入っていくことが示される。

3.本論文の成果と問題点

 以上に要約した鄭栄桓氏の本論文の成果は、おおむね以下の三点にまとめられる。
 第一に、本論文は、政策史でも運動史でもなく「在日朝鮮人史」とあるように、1945-50 年の在日朝鮮人の歴史を、連合国・GHQの占領政策のたんなる客体・帰結としてではなく、占領軍を後ろ盾としつつ、米国とは相対的に異なる植民地時代からの朝鮮人観・管理政策を継承する日本政府の支配と、「解放国民」としていち早く自治組織を立ち上げた在日朝鮮人諸団体の生活と権利を求める主体的抵抗運動の所産として、重厚に描いた実証的労作である。その密度は、第一次資料を用いて制度史だけではなく生活史・運動史を組み込み、一方で朝鮮半島の動きに目配りしながら他方で地域レベルの様々な動きにも注目する、具体性・実証性に富んだものである。
 第二に、本論文は、戦前日本の朝鮮植民地支配を「臣民化」「一般外国人化拒否」「非日本人としての朝鮮人化」として構造的に抽出し、敗戦直後から朝鮮戦争前夜まで日本政府はそれらをかたちを変えて保持しようとし、朝鮮人自身の生活防衛・自治・解放の運動との対抗の中で「外国人登録体制」になっていく過程を、ダイナミックに描いたものである。「寄居事件」と布施辰治の弁論の論理、「1946年の『逆コース』」や「渡航阻止体制」、在日朝鮮人運動内部の「階級の論理と民族の論理」、在日朝鮮人の東京裁判論の論点析出等は、占領期日本の歴史評価にも関わる、重要な問題提起となっている。
 第三に、著者が修士論文執筆時以来取り組んできた当時の在日朝鮮人の生活史の発掘、とりわけ青年活動家層(イルクン)の養成システムと実践活動・文化活動、世代間問題やジェンダーへの注目は、本論文でも効果的に生かされている。「朝鮮人=暴徒・暴力主義」イメージの形成が、もともと敗戦時の自治・自衛組織、日本警察の「公的」秩序機能の空白から生まれたとする事例分析をもとにした記述などは、これまでの研究の死角を衝くもので、プランゲ文庫を始め丹念に当時の第一次資料にあたって在日朝鮮人の生きた歴史を再発掘してきた著者ならではの、オリジナルなものである。
 このようにすぐれた本論文にも、博士論文としての問題点が、ないわけではない。
 第一に、対象時期が1945-50年期に限定され、戦前植民地支配との継承性が強調されたためか、戦前の政策や運動との関係は随所で言及され説得的に展開されているのに比して、朝鮮戦争からいわゆる「帰還運動」、日韓条約に連なるその後の歴史への展望については、さまざまなかたちで暗示され萌芽的に示唆されてはいるものの、禁欲的な叙述になっていることである。例えば第十一章末尾の「日本政府の朝鮮民族パージと強制送還構想」などは重要な論点であるから、もう少し踏み込んで論じてほしかった。
 第二に、せっかく在日朝鮮人の生活史や民族教育・ジェンダー・世代間問題まで論及したのであるから、朝連等在日朝鮮人団体の公式記録にも現れないさまざまな矛盾や葛藤にも、さらに踏み込んでほしかった。戦後の焼け跡・闇市や地下経済でのトラブル、旧親日派・戦争協力者たちの在日朝鮮人コミュニティでのその後、民族教育の中で教師やこどもたちがかかえた問題、等々。著者の示した成果が大きいだけに、今後の公刊の際にでも、ぜひ補足してもらいたい点である。
 しかしながら、こうした問題点については著者自身が十分自覚しており、今後の研究の方向性も明確で、学術的に高い水準での貢献が期待できる。
 よって審査委員一同は、本論文が当該分野の研究の発展に大きく貢献したものと認め、鄭栄桓氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2010年2月10日

 2010年1月20日、学位請求論文提出者、鄭栄桓氏についての最終試験をおこなった。
 本試験においては、審査委員が提出論文「『解放』後在日朝鮮人史研究序説(1945-1950年)」について、逐一疑問点に関して説明を求めたのにたいし、鄭栄桓氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は、鄭栄桓氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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