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博士論文審査要旨

論文題目:都市社会における文化活動の研究 ―両大戦間期の創宇社建築会を中心に―
著者:佐藤 美弥 (SATO, Yoshihiro)
論文審査委員:田﨑 宣義・町村 敬志・土肥 恒之・吉田 裕

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1.本論文の構成
 本論文は、1923年に結成された創宇社建築会(以下、創宇社と表記する)を対象に、その1930年頃までの活動を、両大戦間期の都市社会での文化活動としてとらえ直し、都市に暮らす民衆の能動的な文化活動として位置づけ直すことを目的にしている。創宇社同人の活動は戦後まで続くが、分析対象時期を1930年頃までとするのは、創宇社の文化活動である展覧会の開催がこの時期までであることによる。創宇社は従来、建築史の中でごく簡単に触れられるに過ぎず、その活動を正面から扱ったのは本論文が初めてである。
 本論文の構成は次のとおりである。
序章
第1章 第一次世界大戦から関東大震災前後にかけての建築論・意匠論 
      ―その個人性と民族性
 はじめに
 1 震災後における建築界の思想状況を規定する認識枠組
 2 第一次世界大戦末期から戦後直後における建築界の思想状況
 3 分離派建築会の建築論と造形論
 4 斎藤佳三の住宅改良論 ―その個人性と民族性
 おわりに
第2章 メディアのなかの「復興」 ―関東大震災後の社会意識と展覧会
 はじめに
 1 震災後の社会意識と文化界
 2 震災後の展覧会① 帝都復興創案展覧会 ―芸術界の「復興」状況への参入
 3 震災後の展覧会② 「復興の実状」展覧会 ―メディアが増幅する「復興」
 おわりに ―社会が都市にフォーカスしていく
第3章 関東大震災後の文化活動 ―創宇社建築会の結成
 はじめに
 1 創宇社結成前史 ―MINERVA SOCIETYの活動
 2 創宇社の結成 ―主体の特徴と人的ネットワークの形成
 3 創宇社の活動の背景
 4 創宇社結成当初の活動と意識 ―既存のエリート文化からの影響とオリジナリティ
 おわりに
第4章 両大戦間期における文化活動の展開 ―創宇社建築会の1924年-1930年
 はじめに
 1 帝都復興創案展覧会における創宇社 1924年
 2 前衛芸術グループとの共同 1925年-1927年
 3 影響源としての創宇社 ―白路社の活動にみる 1927年
 4 新しい建築とマルクス主義 1929年
 5 活動観の転換 ―創案から実践へ 1930年
 おわりに
第5章 1931年の官吏減俸反対運動と創宇社同人 ―文化活動から労働運動へ
 はじめに
 1 官吏減俸反対運動の概観
 2 「生活権の擁護」 ―官吏減俸反対運動の論理
 3 逓信本省における官吏減俸反対運動と創宇社同人
 おわりに ―文化活動から労働運動へ
終章
 1 創宇社後の文化活動の見取り図
 2 各章のまとめ
 3 本論文の成果
 4 今後の課題と展望
 なお巻末には、図版やグラフのほかに、年表・主要参考文献・初出一覧などがつけられている。
 
2.本論文の概要
 
 序章では、本論文で分析の対象となる創宇社を概観し、創宇社を取り上げることの意義が研究史の整理とあわせて明らかにされる。
 創宇社の構成員は逓信省経理局工事係に雇員として勤務する建築技術者である。彼らは1900年前後生まれで1920年前後に実業教育機関で促成の実務教育を受け、職場では帝大出身のエリート建築家の下で製図や現場監督などの業務を分担する非エリート集団であったことを指摘した上で、創宇社を扱った建築史学を概観する。
 建築史学では、建築史の発展への貢献度を軸に叙述されるため、創宇社のような建築技術者は正面から取り上げられることがなく、創宇社の運動も、若手建築家が展開した建築運動の亜流として言及されるに止まること、また創宇社メンバーの中で戦後に名をなした岡村蚊象の戦後の回想に依拠するため、創宇社については未解明な点が多いことが指摘される。ついで史学史では、都市新中間層は文化の受動的で均質な受け手として扱われるため、彼らの文化運動を対象にした研究には見るべき成果がないことが指摘され、本研究の意義が示される。
 第1章と第2章では、創宇社の活動を理解するための前提的な事項が整理される。第1章では1910年代半ばから関東大震災前までの建築界の動きとそれがもたらした建築思想の変容、第2章では関東大震災がもたらした社会意識の変化に焦点があてられる。
 このうち第1章では、第一次大戦による建築市場の拡大が構造計算と建築技術偏重の風潮を強め、これに対し、若手建築家の間で芸術性を重視する運動が起こったとする。また、芸術性重視の傾向が建築界内だけでないことが斎藤佳三の意匠論を例に論じられる。つづいて第2章では、震災によって、社会意識の変化と画一化が起きたことを、当時の新聞報道や展覧会のあり方を通して論ずる。中でも、震災を契機とした「復興」意識の広まりで新たな都市への期待と模索が人々の大きな関心事となったこと、また「簡素」「合理的」「科学的」といった傾向の強まりが建築家を含む芸術界の危機感を強め、彼らによる展覧会活動が活発化したことを示し、こうした社会的な背景の中で、創宇社の第2回展が帝都復興創案展覧会に参加する形で行われたことを指摘する。
 第3章からは、本論文の研究対象である創宇社の活動に焦点が当てられる。
 第3章では、創宇社結成にいたる経過を検討する。従来の研究史では、創宇社結成の契機は、創宇社同人の職場の上司で分離派建築会(以下、分離派と表記)のメンバーでもある帝大出身の若手建築家の影響によるとされてきた。またここから、創宇社の活動はエリート文化の亜流・模倣と位置づけられていた。これに対し、本章では、創宇社結成前史として、1919年に京都で結成されたMINERVA SOCIETY(以下、ミネルヴァ会と表記)を検討し、ミネルヴァ会が創宇社と同じ建築技術者の集まりで、会の活動目的も、職場ではできない<建築すること>を通した自己実現のためであったことを指摘する。続いて、創宇社同人の業務内容・職場での身分と待遇、建築分野での中間技術者の登場を支えた教育機関の整備状況などが論じられ、また1922年のミネルヴァ会メンバーとの交流が、著者が収集した回想や書簡によって明らかにされる。これらの検討を通して、ミネルヴァ会と創宇社が中間技術者の集まりである点だけでなく、思想傾向にも共通点があること、さらに創宇社第1回展の会場確保にミネルヴァ会同人との人的つながりが重要な役割を果たしたと考えられることなどを指摘する。さらに創宇社の宣言文、同人の論文や展覧会への出品作品などを検討して、発足時の創宇社には分離派の影響が認められるが、分離派が前提にする高度な建築理論が創宇社には欠けていること、それに代えて、理論に縛られない自己表現への強い志向があることを指摘する。また正当な建築理論を踏まえていない点が、分離派同人とミネルヴァ会同人から正反対の評価を受けていたことを明らかにして、創宇社の分離派に対する独自性を指摘するとともに、中間技術者という職場での制約への批判意識を具体的な活動に移したのが創宇社の文化活動であったことを指摘する。
 1924年から1930年までの間、創宇社はほぼ年一回の展覧会活動を展開する。第4章では、創宇社の活動とそこにみられる同人の意識や思想の変遷などを展覧会の出品作品や同人の論文などを通して跡づける。著者によれば、1924年の第2回展から1926年の第3回展までは芸術的な表現を重視する傾向が強まり、それは1926年の前衛芸術団体・単位三科への参加と舞台芸術への取り組みで頂点に達し、この時期に登場した科学性や合理性への関心は、次の1927年から1929年にかけて、ヨーロッパでのモダニズム建築の台頭やマルクス主義の影響の下で強まるとする。しかし従来の研究で、創宇社の特徴とされてきたマルクス主義思想の影響は、エリート建築家も糾合してこの時期に結成された新興建築家聯盟の例からみて、創宇社に固有というより、日本の建築界全体に共通する傾向とみるべきであると指摘して、通説的理解を批判する。ついで1929年から1930年にかけて、創宇社の建築論は独自の展開を見せることが明らかにされる。この時期の創宇社は、流行のモダニズム建築には走らず、「プロレタリア解放の階級闘争の一つのパートを分担」すべきとする自己規定と、創立以来の展覧会活動中心の活動から同人の技術を現実社会の実践に役立てるべきとする実践重視の活動へと、その活動スタイルが転換したことを指摘する。
 第5章では、1931年の官吏減俸反対運動の中での創宇社同人の活動が取り上げられる。これまで、官吏減俸反対運動を正面から扱った研究がなく、その全貌も明らかでないため、本章ではまず鉄道・逓信・司法各省などの事例を取り上げて運動全体を概観し、つぎに官吏減俸反対運動を支えた「生活権擁護」の内容が分析される。その結果、各省ごとに運動の展開過程は異なるが、官等ごとに分かれた運動であったこと、減俸の対象となった官吏以外の職層でも運動が行われたこと、要求内容は官等や職層によって異なったことが明らかにされる。ついで創宇社同人を中心にした逓信省経理局工事係の雇傭員会の運動の経過が検討され、同人らが発行したガリ版刷りのニュースなどには、創宇社の活動にみられたと同様の意識が認められることを指摘する。この雇傭人会の運動は官吏の減俸反対運動が終わった後も続いたが、官憲の弾圧で終息し、創宇社同人の多くは退職に追い込まれ、一部は政治運動に身を投じて、創宇社としての活動は幕を閉じたことが示される。
 終章では、創宇社同人のその後の足跡が概観された後、本論文全体のまとめが行われる。1931年の官吏減俸反対運動後の同人の動きでは創宇社の文化運動を継承する動きと政治運動に身を投じた者の動きが示される。中でも、文化運動については、1932年から文化活動を再開して青年建築家聯盟(JAF)を結成し、機関誌『建築科学』と『建科ニュース』を1933年にかけて発行し、その廃刊後には『青年建築家クラブニュース』、さらに『火曜会ニュース』を発行して1935年10月まで続いた活動の跡をたどり、さらに戦後の1947年に結成された新日本建築家集団へと連続することが指摘される。次いで、本論文のまとめでは各章の概観が提示された後、本論文の成果として、都市住民の文化活動の発掘と文化活動がもった意義を明らかにしたこと、さらに従来の都市新中間層のイメージとは異なり、都市住民の中に、日常生活を批判的にとらえ、その批判意識を表現する者たちがいたことを示したことを挙げ、さらに今後の課題と展望が述べられる。課題としては、本論文で十分に展開できなかった戦時・戦後の創宇社同人の動きや192、30年代の社会思潮と創宇社の思想的な展開過程との相互連関の検討などが挙げられている。

3.本論文の成果と問題点

 本論文の成果は、第1に、これまで建築史のなかで簡単に触れられるに止まっていた創宇社建築会の文化活動を、広範に収集した史料に基づいて丹念に跡づけ、あらたな事実を発掘したことである。なかでもミネルヴァ会との関係や分離派との相違点、マルクス主義の影響についての評価、官吏減俸反対運動とその後の同人の活動の掘り起こしなどは、これまでの通説的理解を大幅に書き換える成果である。
 第2に、1920年代から30年代の都市新中間層の文化運動を具体的に明らかにしたことである。本文中で著者も指摘するように、従来の都市新中間層は、とくに文化面において受動的なイメージで捉えられてきたが、本論文によってこれまでのイメージに見直しを迫ることになった。
 第3に、これまで通史的な叙述の中で言及されるに止まっていた官吏減俸反対運動の実態を明らかにした。とくに、物件費で雇用される下級の雇員に運動が波及し、官吏層の減俸反対の動きが政府の妥協によって終息した後も続けられたこと、またその際の雇傭員会の要求や主張を、彼らが発行したガリ版刷りのビラやニュース類を掘り起こして明らかにしたことは評価に値する。
 以上のように、本論文は、研究史上大きな意義を有しているが、もとより不充分な点がないわけではない。
 本論文で著者が用いる語句、例えば「建築界」「日常生活」などについてさらに具体的な説明や検討があると、著者の考えが一段と明晰になったと思われること、また創宇社同人は彼らの職場では確かに中間技術者であり、帝大出の「エリート建築家」に対して「非エリート」と性格づけられるであろうが、実業学校やさらに上級の教育機関で選科生として学んだ者を同時代の社会の中で「非エリート」と位置づけられるか、また「エリート」「非エリート」という対比は中間技術者としての自己認識を表現したものなのかなどについて、さらに踏み込んだ吟味と説明が欲しかった。
 ただし、こうした問題点は著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のことから、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、佐藤美弥氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2010年2月10日

 2010年1月28日、学位論文提出者佐藤美弥氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「都市社会における文化活動の研究」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、佐藤美弥氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は、佐藤美弥氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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