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博士論文審査要旨

論文題目:転換期における中日関係の研究:政府と民間、政府とビジネスという視点から
著者:李 恩民 (LI, Enmin)
論文審査委員:田中 宏、三谷 孝、田崎宣義

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1.本論文の構成
 本論文は、1972年9月の日中国交正常化から1978年12月の中国における「改革・開放」政策の開始に至る6年間の日中関係の「転換期」において、「政府と民間」「政治とビジネス」がどのように連動し、国交正常化後の両国関係にどのような影響を与えていたかという問題について実証的解明を試みた論文であり、400字詰原稿用紙にして1,220枚(図表を含む)からなっている。

 本論文の構成は以下の通りである。

 第1章 序 論
  第1節 分析の視角
  第2節 資料と構成
 第2章 新しい外交体制作り
  第1節 政治外交チャンネルの開通
  第2節 新経済外交体制の確立
  第3節 民間外交体制の強化
 第3章 民間外交の季節
  第1節 友好の花が咲く
  第2節 「飲水不忘掘井人」
  第3節 各界の協力:展覧会の相互開催
  第4節 自治体間交流:友好都市の提携
 第4章 政治とビジネス:経済交渉をめぐって
  第1節 電信と貿易に関する交渉
  第2節 空は政治なり:中日航空協定をめぐって
  第3節 明日への翼をめざして:航空ビジネス
  第4節 海運協定:政府と民間の協力
  第5節 民間漁業協定の積み上げ:政府間漁業協定
  第6節 民間運動と政府間実務協定
 第5章 中日平和友好条約をめぐって:政府、民間、財界
  第1節 「覇権反対」条項の決着
  第2節 「第三国条項」と釣魚島問題をめぐって
  第3節 「第三国条項」と政治問題の決着
  第4節 平和友好条約交渉の裏側:日本政府の狙い
  第5節 早期締結にむけての民間運動
  第6節 平和友好条約と「改革・開放」
 第6章 財界の対中資源外交:経済安全保障を求めて
  第1節 長期貿易プロジェクトの構想と初期交渉
  第2節 長期貿易協議の成立
  第3節 資源外交戦略の透視
  第4節 石油・石炭貿易の実態
  第5節 資源開発における中日協力
 第7章 「改革・開放」のプレリュード
  第1節 対外開放第一歩:プラント・技術の導入
  第2節 技術協力第一号:武漢製鉄所
  第3節 多事多難の上海宝山製鉄所建設
  第4節 新しい時代の幕開け
 第8章 日台政治関係の転換と民間経済交流
  第1節 断交前後における穏やかな経済対策
  第2節 日台接触チャンネルの切り換え
  第3節 日台航空路線の変遷
  第4節 東亜経済人会議と日台貿易
 第9章 エピローグ
  参考・関連文献

 なお、本論文で著者が対象とした時期に先行する日中国交正常化以前の問題については、著者の出身校で勤務先でもある南開大学において歴史学博士の学位を授与された論文『中日民間経済外交 1945-1972』(人民出版社、北京、1997年)で論じられている。


2.本論文の概要

 以上の構成に従って、本論文の概要を紹介する。 第1章において、著者は、戦後の日中関係を、(1)「国交なき時代」(1945-1972年)、(2)「転換の時代(転換期)」(1972-1978年)、(3)「改革開放の時代」(1979-現在)の3期に時期区分し、自らの研究課題を、研究史の空白になっている転換期における日中両国間の民間経済外交の解明と設定し、その際に使用される「民間経済外交」「民間人」「財界首脳」といった諸概念を定義する。また、戦後の日中関係全般にわたる先行研究の成果と問題点の整理を踏まえて、従来とりあげられることのなかった民間経済外交という視角からの研究は、幾多の曲折を経た戦後の日中関係の基本的特徴を把握する上で不可欠の課題であるとして自らの課題設定をおこなっている。

 つづいて第2章においては、国交正常化後の日中関係において、「国交なき時代」とは何が変わったのかという比較の視点に立って、「転換の時代」に日中両国の政治・経済関係・交渉の枠組み(体制)がどのように変化したのかについての考察が進められる。その中で日本の対中貿易窓口作りをめぐる通産省・財界首脳・覚書貿易グループ・友好貿易グループなどのそれぞれの思惑と行動を詳細に分析し、「日中経済合同委員会」「日中経済協会」等をそれぞれ窓口に想定した複数の構想をめぐって、諸機関・諸団体の微妙な対立があったことを明らかにし、こうした具体的な事例の分析からも本論文の課題である政府と民間、政治とビジネスの関わり合いを事実に基づいて解明する必要があることを主張し、本論の前提とする。

 本論にあたる部分は全6章からなっており、具体的事例の実証的分析を通して本論文の課題の解明にあたっている。第3章においては、民間外交の基本的性格を理解するために、国交正常化前後の「中日友好ムード」の内実が検討された後、国交の樹立を目指した1972年9月以前の民間外交に対して、相互理解という基盤に立脚した本格的な経済交流への期待感の増大・各自治体間の官民交流の活発化・地域間経済交流の緊密化といった転換期における民間外交の特徴が指摘される。その過程での重要な論点は、当事者間のパーソナルな信頼関係・「信義」を重視した中国の対日民間外交のあり方が市場経済原理の下で次第に変更されて、中国が「古い友人」の中小企業だけでなく「新しい友人」の大手企業とも取引するようになったとの指摘である。

 第4章では、国交正常化後に活発に行われた日中両国政府間の電信・貿易・航空・海運・漁業等経済諸協定の交渉過程が具体的に検討される。上記諸協定の多くが「国交なき時代」の同種の協定の内容を基本的に踏襲したことから、政府の正式外交と民間外交との間には不可分の関連があったことが指摘される。中日航空協定調印に至る過程での所謂「台湾ロビー」の活発な動きや、「古い友人」の代表的存在であった岡崎嘉平太が社長を勤めた全日空が日中定期路線になぜ就航できなかったのかという興味深い問題に対して、著者はその回答を当時の中国・日本・台湾の諸政府の複雑な動きの中での「政治優先」という原則に求めている。

 1978年の日中平和友好条約締結のための交渉の背景にあって、これまで論じられることのなかった経済的要因を探求したのが第5章である。この条約締結に至る交渉が難航した原因は、「覇権条項」についての意見の対立にあったとするのが従来の通説であるが、著者は、同条約の交渉過程を3段階に分けて詳細に考察し、「覇権条項」が終始条約交渉の焦点になっていたのではないこと及び交渉の難航は日本政府が尖閣列島領有権問題の日本側見解に沿った解決と中ソ同盟条約の廃棄を狙ったことによるものであったと主張し、これまでの通説を修正する。さらに、同条約の締結をめぐる日本民間・財界の動きに注目して、彼らのそれぞれの思惑・行動およびその影響を明らかにする。また、日本の経済界が、中国を将来のパートナーとして位置付け、日中平和友好と日米安全保障を両立させた上で、密接不可分な経済関係が築かれることを期待して日中平和友好条約の早期締結を推進したと主張している。最後に、同条約の意義については、従来主として「覇権条項」に関連する政治的視点から論じられてきたが、著者は本条約の締結と米中国交の樹立(1979年1月)が、「改革・開放」政策への転換のための国際環境形成に決定的な意味をもったものとして、その経済的意義を強調する。

 政府レベルの経済協定の交渉における政治的な問題を検討した第4章を承けて、民間レベルの重要経済協定の締結において、日本政府と企業・経済団体、いわば官と民との接点がどこにあったのか、日中両国の政治とビジネスがどのように結び付いていたのか等経済外交の内実を考察するために、著者は第6章と第7章において、1978年2月に調印された「中日長期貿易協議」を実例として詳細に分析している。

 「財界の対中資源外交:経済安全保障を求めて」と題された第6章は、転換期における日本の対中経済外交の重要な側面に照明をあてている。ここでは、第一次オイル・ショック前後の日中両国の経済関係においては、日本の一次エネルギー供給源の多様化という戦略から、資源輸入を中心とした経済外交が、必然的にその中心とならざるをえなかったとして、石油・石炭貿易及び渤海・南海油田の共同開発に至る経団連の動きを跡付ける。こうした経団連の対中資源外交を日本の経済安全保障の一環として理解し、民間の経済活動がこの点で政府の戦略と一致していたとする著者の視点は、この時期の日中間の政治経済関係を考える上で、従来研究されることの少なかった有意義な視点といえよう。

 つづく第7章では、日本の資源外交に対応する中国側の「プラント・技術外交」に重点をおいて、脱「文革」の方向に歩みつつあった中国社会が、日本の先進的なプラント・技術を導入したことで、どのように変化せざるをえなかったのかという問題について、武漢製鉄所・上海宝山製鉄所を具体例として検討される。著者は、日本からのプラント・技術の導入と「円借款」の受け入れが中国の「改革・開放」政策に対してカタリスト(触媒)の役割を果たしたものと評価し、「改革・開放」政策は自主的に「設計」されたものではなく、先進工業国との経済外交、特に近隣の日本との緊密な接触の中から生み出されたものであり、「対外開放」は「対日開放」から開始されたことを明らかにしている。

 1972年秋に日中間の正式な外交関係が樹立される過程は、その反面において必然的に日台間の正式外交が民間外交へ反転する過程にあたっている。東アジアにおける日・中・台三者の政治的関係が連動しているという点からも、また三者の経済関係が相互に関連しているという点からも、日中経済外交を考える際には同時期の日台民間経済外交に関する検討が不可欠となる。第8章はこの要請に答えたものである。この章において著者は、日台接触のチャンネルが政府から民間へと切り換えられた際の台湾当局と民間諸団体の対応策を考察し、報復措置をとらなかった台湾当局の冷静な対応が日台双方の経済に悪影響が及ぶのを最小限に止めたことを指摘するとともに、日台航空路線の断絶と再開・東亜経済人会議と日台貿易の関係を検討する。その中では、政治的激変に伴う日台経済貿易の民間レベルへの移行過程で変更された点と継承された点を明らかにし、日台空路の復航をめぐる日本の航空業界の角逐及び政府の決定に至る過程等の事例から、日台関係においても政治とビジネスとが切っても切れない関係にあったものとする。

 第9章は、「転換の時代」の民間経済外交を、「国交なき時代」のそれとの対比で考察を試みたものであり、本論文の結論にあたるものである。ここで著者は、転換期は日中関係史上において比較的摩擦の少ない緊密な関係の時期であったとし、それは決して政府間の関係の強化だけによって生まれたものでなく、民間経済外交を担う者の努力や民間の強い支持があってはじめて実現されたものであるとする。さらに、こうしたケース・スタディの上に立って、国際関係史の研究において民間経済外交というアプローチのもつ重要な意義を主張し、民間経済外交論が広く議論されることを期待して本論文を結んでいる。


3.本論文の成果と問題点

 戦後の日中関係は、日米関係・日台関係と密接に関連しながら複雑な軌跡を辿って展開し、東アジアの国際関係の中で基軸としての重要性を有していたために、さまざまな立場の人々がこの問題を論じてきた。しかし、膨大な量にのぼる時事的評論や年表風叙述は蓄積されたものの、研究史から見れば戦後の日中関係についての研究は主として外交史研究の立場から行われてきたといえる。本論文は、このように研究が立ち遅れていた戦後日中関係を、その「転換期」に政府の正規の外交と並行して重要な役割を果たした民間の経済交流の視角から実証的に解明することを意図したものであり、前述の『中日民間経済外交 1945-1972』の続編にあたる。

 本論文の第一の成果は、日本においても中国においてもまだ十分に明らかにされていないこの6年間の日中関係の実像を、実証的研究としてきわめて細密に描き出した点にあり、さながら「転換期」に関する日中関係百科事典と評しても過言ではない程豊富な事例が記述されている。現在から溯っても20数年しか経過していない時期の問題を対象としたために、この研究は資料収集の面で大きな困難に直面せざるをえなかった。外交文書等の重要な資料の多くが公開されていないという制約の中で、著者は、外交資料館・経団連・日中経済協会・日本貿易振興会等の関係諸機関・民間諸団体を訪問して精力的に各種資料を博捜し、日中両国の新聞の関連記事を照合して検討するとともに、直接日中経済外交に携わった関係者からの聞き取り調査も行って実情の解明に努めた。聞き取り調査の対象となったのは、初代駐中国公使(代理大使)林祐一・駐日本公使丁民・元外相故園田直夫人園田天光光・日中協会事務局長白西紳一郎・元日中経済協会会長故稲山嘉寛三男稲山孝英ヤナセ社長の諸氏をはじめ十数人の関係者である。この労を惜しまない著者の努力によって、岡崎嘉平太・稲山嘉寛ら経済人がどのような期待と心情を抱いて日中交渉に臨んだのかについて、従来の記録には見られない情況が細部にいたるまで明らかにされ、また日中・日台空路の就航をめぐる全日空と日航との攻防や財界首脳と日中平和友好条約の関係などには従来あまり論じられなかった論点も示されている。

 第二の成果は、「転換期」の「民間経済外交」を、それを取り巻く国際環境・日本政府の外交政策との関連だけでなく、経済外交を担った民間の人々の思惑・経済諸団体の行動・日中友好運動の展開にも目を配って広い視野から周到に考察したことにある。「転換期」であるために、「古い友人」も「新しい友人」も含めてさまざまな機関・団体が一斉に活発な活動を展開したために生じた複雑多様な事態を、「民間経済外交」という包括的な枠組みを用いることによって一つの全体像としてまとめ上げた点、また個々の論点についての分析もおおむね説得的である点において、本論文が日中関係史研究へ寄与するところは大きい。

 第三の成果は、戦後の日中関係を考察する際に、それを支えたものとして看過できない民間人・民間団体の動向も含めて、その諸特徴を解明する方法を提示しえたことにある。本論文が、従来の政府レベルの政治外交史の研究方法を踏まえた上で、民間レベルと経済的側面からのアプローチによる「民間経済外交」という方法を提起している点は、今後の日中関係を考える際にも、また日中関係史を研究する上でも有意義なものがある。「民間経済外交」に関わる活動は世界のどの地域にも多かれ少なかれ存在するものであろう。しかし、戦後の日中関係においてその活動は特に活発かつ顕著なものがあった。著者は日中間の「民間経済外交」を研究することによって、そこから得られた「民間経済外交」の概念を提示して、経済外交の政治的意義と経済的利害との関係についても独自の見解を示している。ここで試みられている定義や概括にはさらに検討すべき余地があるが、著者のこうした努力は評価されるべきであろう。

 このように本論文は、問題設定と方法、史資料の収集、そして結論を導き出す実証作業、のいずれの点においても十分な意義を有する貴重な研究成果であり、国内外を問わず初めて当該時期の「民間経済外交」に関わる主要問題を解明した本格的研究として高く評価することができる。

 最後に、本論文では論及されなかった問題・今後の課題について指摘しておきたい。第一に、本論文の対象とした時期は、「民間外交」から正規の外交への、国交のない国との「経済外交」から本格的な経済交流への過渡期にあたっているために、著者の言う「民間経済外交」の正規の外交を補完する面での存在意義は時間の経過とともに後退していくものと思われるが、「民間経済外交」という視角で日中関係全般にわたる問題を整理しうる時期・条件の限定について必ずしも明確にされていないことは、「民間経済外交」の理論化を目指す著者にとっては今後の重要な課題となろう。第二に、中国側の対日外交政策に影響を及ぼしている中国の内政問題を分析することも今後の課題となる。たとえば、著者は「覇権条項」の解釈に関して中国側の姿勢が1977年末に柔軟になってきたものと指摘しているが、こうした中国の内政についての立ち入った分析は行なわれていない。第三に、この転換期に日中関係の改善と並行して展開した米中関係も、先進資本主義国との経済外交という意味においては日中の関係と共通の問題を含みながらも、国際政治の中での彼我の関係・歴史的地理的条件の相違のために、たとえば台湾問題の処理などにおいて明確に異なっている。今後、こうした相違を念頭に置いて比較・検討を進めるならば、日中経済外交の特質の解明も一層進展するものと思われる。また、日中両国とも関係の深い東南アジア地域をも視野に入れた考察がなされることも期待したい。しかし、こうした問題点は著者も自覚しており、その研究能力や着実に成果を積み重ねてきた従来の実績からみても、将来これらの点についてもより説得的な研究成果を達成しうる可能性は大きく、今後の研究に期待するものである。

 よって、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに相応しい業績と認定する。

最終試験の結果の要旨

1999年6月28日

 1999年6月28日、学位論文提出者李恩民氏の論文についての最終試験を行った。
 試験においては、提出論文「転換期における中日関係の研究-政府と民間、政治とビジネスという視点から(1972-1978)」に基づき、審査員一同から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、李恩民氏は、いずれにも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、李恩民氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判定した。

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