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博士論文審査要旨

論文題目:1920年代における在日朝鮮人留学生に関する研究  ―留学生・朝鮮総督府・「支援」団体―
著者:裵 姈美 (BAE, Youngmi)
論文審査委員:糟谷 憲一・田﨑 義義・吉田 裕・木村 元

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1.本論文の構成

 植民地期朝鮮における在日朝鮮人留学生は、植民地期朝鮮の教育、思想・文化、民族運動・社会運動などの諸側面において重要な役割を果たした。本論文は、植民地期在日朝鮮人留学生に関する研究の一部として、1920年代における在日朝鮮人留学生の実態を、留学生・朝鮮総督府・留学生「支援」団体という三つのアクターを分析軸にして明らかにしたものである。本文・参考文献目録を併せると、400字詰原稿用紙換算にして約1,200枚に及ぶ力作である。
 その構成は次のとおりである。
序 論
第一部 1920年代における留学生の実態
第一章 留学生の基礎的統計分析
  第一節 留学生総数
  第二節 在東京留学生の出身地
  第三節 朝鮮における出身学校置
  第四節 在学先の学校種類
  第五節 留学生たちの専攻
 第二章 留学生の現実認識と運動
  第一節 1920年~1921年における留学生の現実認識―『学之光』
  第二節 1919年~1921年における留学生運動
  第三節 『亜細亜公論』・『大東公論』と朝鮮
  第四節 中津川朝鮮人労働者虐殺事件
  第五節 関東大震災と留学生
  第六節 関東大震災以降~1926年における留学生組織と『学之光』
  第七節 1927年~1929年における留学生組織と『学之光』
 小結
第二部 留学政策と留学生「支援」団体
 第一章 朝鮮総督府の留学生政策
  第一節 1910年代における留学政策
  第二節 1920年代における留学生政策
 第二章 日本人の「支援」団体
  第一節 3・1運動の産物
  第二節 関東大震災が転機―鶏林荘
 第三章 関東大震災以降における朝鮮人・日本人の「支援」団体
  第一節 関東大震災以後における朝鮮人・日本人の「支援」団体の背景
  第二節 力行社
  第三節 財団法人自彊会
  第四節 相愛会
小結
結 論
参考文献

2.本論文の概要

 序論では、まず、「課題の設定と研究史上の意義」が述べられる。筆者は先行研究を次のように整理している。在日朝鮮人留学生に関する研究は、1970年代の韓国において留学生の思想、留学生運動に関する研究から始まった。これらの先行研究においては、(1)留学生の思想と運動を、朝鮮内の運動や留学経験者の帰国後の活動を規定した起源とみなす「結果論的な見方」、(2)留学生日本の思想界の影響下で欧米思想を受け入れ、それを朝鮮に持ち込んだという図式による「受動的なイメージ」で描かれるものが多かった。どのような政策と社会的状況の下で、どのような留学生社会を築き、何を行って何を伝えたかを明らかにし、当時の留学生の実態に即してその主体性を論じる分析は抜け落ちていた。
以上のような研究史整理に基づいて、筆者は本論文では1920年代における在日朝鮮人留学生社会の実態を明らかにすることを本論文の目的とし、その分析のために五つの課題を設定している。それは、(1)留学生の構成に関する実態を明らかにすること、(2)留学生の現実認識と運動を明らかにすること、(3)関東大震災時における留学生の実態、留学生に対する朝鮮総督府の対応、関東大震災が留学生政策や留学生社会に与えた影響を明らかにすること、(4)朝鮮総督府の留学生政策の推移とそれに対する留学生の対応を明らかにすること、(5)留学生に対するさまざまな「支援」団体の実態とそれに対する留学生の対応を明らかにすること、である。
ついで、筆者は本論文において使用する基本史料について、以下のように説明している。(1)留学生の現状認識に関しては、留学生組織である在日本東京朝鮮留学生学友会(以下、学友会と略す)の機関誌『学之光』を主に用いるが、『学之光』が現存していない時期については雑誌『亜細亜公論』・『大東公論』などを用いる。(2)留学生運動、留学生政策や「支援」に対する留学生の対応に関しては、朴慶植編『在日朝鮮人関係資料集成』に収録されている朝鮮総督府や日本官憲の史料、朝鮮と日本の新聞・雑誌の関連記事、元留学生や「支援」に関わった日本人などの伝記を用いる。(3)朝鮮総督府の政策については『朝鮮総督府官報』を中心にして、東洋協会の『東洋』・『東洋時報』、朝鮮教育会の『文教の朝鮮』、朝鮮教育会奨学部の『奨学部報』などを用い、文部省の政策については『文部省例規類纂』を用いる。(4)「支援」団体やそれに関わる朝鮮総督府の政策に関しては、奥州市立斉藤実記念館所蔵の『斉藤実関係文書』、学習院大学東洋文化研究所「友邦文庫」所蔵の『阪谷芳郎関係文書』、国会図書館憲政資料室所蔵の『斉藤実関係文書』・『阿部充家関係文書』を用いる。
 最後に、本論文は留学生社会の実態について分析した第一部(二章からなる)、留学生政策と留学生「支援」団体について分析した第二部(三章からなる)によって構成されることが示される。
 第一部第一章では、留学生の構成に関して、統計資料を用いて基礎的分析を行っている。第一節では、(1)1920年代における在日留学生総数の推移は、1923年の関東大震災による激減、24年からの増加、26年をピークとする減少傾向と特徴づけられること、(2)東京以外の地方の留学生が着実に増加したこと、などが示される。
 第二節では、在東京留学生の出身地別構成を検討し、(1)総数ではソウルを中心とする京畿、慶尚南北道、全羅南北道、平安南北道が多いが、後半期には平安南北道と咸鏡南道が著しく増えている、(2)女子留学生に関しては、京畿についで平安南道が多い、などの特徴を指摘している。第三節では、朝鮮における出身学校別の構成を検討し、中退者を含む中等教育経験者が徐々に増えていったことを指摘している。
 第四節では在学した学校の種類別構成を検討している。その結果、予備学校を含む各種学校の比率が高かったが、1928年以降には減少して、大学学部・予科・専門部が増えることを指摘している。第五節では専攻別の構成を検討し、法律・政治経済・文学が増える反面、商業・工業が減っていることなどを指摘している。
 第一部第二章では、1920~1930年における留学生の現実認識と留学生運動の推移を、時期別に検討している。
 第一節では、1920~21年における留学生の現実認識について、『学之光』第19~第22号に基づいて考察している。その結果、(1)人道・平和・平等・自由を追求する立場からの世界秩序に対する批判、(2)「改造」の概念についてのさまざまな議論、(3)社会主義や労働問題への関心、(4)朝鮮商業振興論、(5)儒教や両班文化に代表される旧習に対する批判、(6)民衆を運動の一つの主体とみる認識の登場、(7)教育政策や斉藤実総督の「文化政治」に対する批判を、『学之光』掲載記事の論調における特徴として指摘している。
 第二節では、1919~1921年における留学生運動における主な動きとして、3・1運動記念集会、自治運動(総督府支配下での朝鮮の「自治」を求める運動)への反対運動、ワシントン会議(1921~22年)において朝鮮問題を論議することを求めた運動について述べている。
 第三節では、1922~23年に日本で刊行され、朝鮮人・中国人・台湾人・日本人の交流の場となった総合雑誌『亜細亜公論』とその後継誌である『大東公論』の記事に基づいて、当時の朝鮮人留学生の現実認識を検討している。その結果、『亜細亜公論』の記事からは、1922年の過激社会運動取締法案に見られる思想言論弾圧への批判、朝鮮の独立運動・社会主義運動への共感が窺われ、『大東公論』の記事では弱者・民衆による運動こそが社会を動かすという認識が示されていることなどを、指摘している。
第四節では、1922年に新潟県で起きた中津川朝鮮人労働者虐殺事件に対する朝鮮人の反応を詳しく跡づけ、中津川事件抗議運動における在東京留学生・労働者の役割の大きさを示している。第四節では、関東大震災時における朝鮮総督府の留学生対策と留学生の動向を検討している。(1)朝鮮総督府は帰郷する留学生が朝鮮内に朝鮮人虐殺を伝えないよう、口封じに努め、朝鮮内の学校への転学をはかったこと、(2)大震災時における留学生の警察署への「拘留」体験の事例、(3)朝鮮人虐殺の真相を調査した留学生たちの「罹災朝鮮同胞慰問班」の活動、(4)1924年以降における虐殺朝鮮人追悼会の動き、などが明らかにされている。
 第六節では、1924~26年における学友会の活動を跡づけるともに、『学之光』第27号(1926年)の記事に現れた留学生の現実認識を検討している。留学生の現実認識についてはマルクス主義・社会主義への関心と理解は深まっていたが、社会主義に一元化されたわけではなく、多様性があったと論じている。
 第七節では、1927年から~30年の解散に至るまでの学友会の活動を考察している。その結果、(1)学友会は1927年2月に創立された「在日朝鮮人団体協議会」に参加し、その一翼として活動するようになったこと、(2)1928年の在東京朝鮮共産党員一斉検挙によって学友会も中心メンバーの大半が検挙されて機能できなくなったこと、(3)1929年にはアナーキストと共産主義者の反目などを背景として学友会内部に対立が起きたこと、(4)1930年4月に発行された『学之光』第29号には、治安維持法批判、朝鮮の社会運動と行動を共にする学生運動組織として学友会を再定義することの主張が掲載されたこと、(5)1930年12月の学友会定期総会において階級意識に基づく学生運動をめざさなければならないとして学友会の解体が決議されたこと、などが述べられている。
 第二部第一章では、1920年代の朝鮮総督府の留学生政策について、1910年代と比較して考察している。
 第一節では、1910年代の留学生政策を検討している。まず、1911年6月制定の朝鮮総督府令「朝鮮総督府留学生規程」、1916年7月の日本内務省訓令「要視察朝鮮人視察内規」の検討に基づいて、官費留学生・私費留学生に対する統制政策が明らかにされている。また留学生監督として旧大韓帝国以来の朝鮮人監督の他に、1912年からは日本人監督が置かれ、これには日本陸軍の憲兵大尉が就任して実権を握っていたことが明らかにされている。第二節では、1920年代の留学生政策が検討され、次のような点が明らかにされている。(1)「留学生規程」は1920年11月に朝鮮総督府令「在内地官費朝鮮学生規程」に改められ、私費留学生に関する規程がなくなり、私費留学は比較的自由になった。(2)官費留学生は1922年に給費留学生に改められ、その給費生も1930年には中止され、1933年には完全廃止となった。(3)1929年には朝鮮人・台湾人留学生について受験資格上の「特別取扱」が廃止された。(4)1910年代から朝鮮総督府は朝鮮人学生の留学を抑制しようとしていた。(3)留学生の監督は1920~24年には東洋協会に委嘱されたが、留学生の抵抗によって業務委託は解消され、1925年からは朝鮮教育会奨学部(朝鮮総督府学務局の外郭団体)が担当することになった。
 第二部第二章では、「内鮮融和」、朝鮮人留学生「支援」を掲げて活動した日本人団体について検討している。まず第一節では、1919年の3・1運動直後から活動した五つの団体、①向学会(設立者は平岡喜智子。床次竹次郎内相等が賛同)、②輔仁会(会長は澤柳政太郎。朝鮮群山の大地主熊本利平が出資)、③朝鮮学生会と朝鮮女子学生会(渡瀬常吉ら日本組合協会関係者が設立)、④麗澤会(会長は南波登発。斎藤実・頭山満が顧問)、⑤仏教朝鮮協会(日本仏教護国団が設立)について詳しく分析されている。これらの団体は朝鮮人留学生寄宿舎設置を中心にした「支援」事業を行ったが、朝鮮総督府や日本人大地主との関係があったために留学生に忌避されて失敗に終わった経過が明らかにされる。なお、仏教朝鮮協会の活動に関わって、仏教系留学生組織、朝鮮人・日本人連合の仏教系団体である朝鮮仏教大会(及びその後継の朝鮮仏教団)の留学生派遣事業についても言及している。ついで第二節では、1922年に設立され、関東大震災を機に拡大した留学生寄宿舎・鶏林莊(設立者は東洋協会会員の松浦淑郎)が扱われ、1925年に発覚した負債問題で松浦は退陣し、留学生自治の下に置かれたことなどが述べられている。
 第二部第三章では、関東大震災以降に朝鮮人主導によって設立され、「内鮮融和」を標榜しなかった二つの「支援」団体、力行社と自彊会の活動、について検討している。
 まず第一節では、まず、斉藤実総督の「文化政治」のスローガンであった「内鮮融和」に対して、朝鮮人側からそれは差別を解消するものでないという批判が起き、「内鮮融和」を掲げておくだけでは在日朝鮮人・留学生を管理、統制、「支援」できなくなったことが論じられている。ついで、斎藤総督とそのブレーンである元『京城日報』社長阿部充家が、留学生の一部に対して選択的個別的に学資、就職斡旋などの「支援」を行うピンポイント作戦を展開したことが詳しく論じられている。ただし、この作戦が成功したかどうかは、留学生のその後の経歴を見通して長期的な視野に立って慎重に分析しなければならず、対象となった留学生のすべてが「懐柔」策に包摂されたとみるべきではないとしている。
 第二節では、1924年に朝鮮人の元留学生姜昌基が中心となり、頭山満・小泉又次郎らの後援の下につくられた力行社の活動を検討して、次のような点を指摘している。(1)力行社の寄宿舎に入るには東京在住者の保証書が必要などの条件が付され、入舎後は生活を厳しく統制され、卒業後も力行社の発展を援助する義務を課せられていた。(2)会費を納めて財政基盤を提供した会員の大半は日本人会員であり、歴代朝鮮総督・政務総監を含む朝鮮総督府関係者が多く加入していた。(3)東洋拓殖会社・朝鮮殖産銀行など朝鮮関係の企業、財閥系企業が賛助団体となって財政を支援していた。(4)朝鮮人会員は十数名であるが、大物財界人、中枢院参議・道評議会員・京城府協議会員などの有力者で構成されていた。
 第三節では、1924年に閔奭鉉・阪谷芳郎・清水一雄(建設会社清水組の社長)らが中心となってつくられた自彊会の活動を検討して、次のような点を指摘している。(1)朝鮮人のみで構成される理事会が留学生の入会を決定する権限があったが、その多くが天道教関係者であった。(2)日本人は維持会員・賛助会員として参加したが、財閥関係者、銀行関係者、建設業関係者を含む実業家が多く、自彊会に堅実な財政基盤を提供した。(3)自彊会の学費支援には自彊会給費生と賛助会員給費生があり、後者は一時金50円以上を出した賛助会員が特定留学生に奨学金を支給する方式で、清水一雄の奨学生が最も多かった。(4)自彊会の朝鮮人会員・留学生には天道教関係者が多く、留学生のうちでは平安北道出身者が特に多かったことは天道教の勢力分布に照応した面がある。(5)自彊会は大学専門部以上の高学歴者を重点にして、学資を長年提供し、苦学生には仕事先を、卒業生には就職先を斡旋したので、自彊会留学生の多くが大学院を含む上級学校への進学を果たした。この節の末尾には、「自彊会留学生会員の在学先および進路」というA4版9頁に及ぶ表があり、以上の分析を補強している。
 第四節では、1921年に朴春琴らによって設立された在日朝鮮人を対象とした「内鮮融和団体」である相愛会について、1924年に苦学生寄宿舎「相愛館」を設けていたので、検討対象とし、相愛館の事業、相愛会と一般朝鮮人労働者・留学生との対立の様相を明らかにしている。
結論においては、まず、序論において設定した五つの課題に沿って、本論文を通じて明らかになった点を、以下のようにまとめている。(1)留学生の構成に関しては、東京と地方の留学生総数、出身地、出身学校、留学生の学校の種類、専攻別構成における特徴を明らかにできた。(2)留学生の現実認識と運動に関しては、『亜細亜公論』・『大東公論』を取り上げることによって、1920年代初頭から1920代末まで留学生の現実認識が変化を遂げる過程、すなわち「改造」や正義・人道・平和に対する理解が理想的楽観的なものから、しだいに具体的実践的価値を持ち、民族・社会運動と密接な関係を持つものに変わっていた過程を明らかにした。(3)関東大震災をめぐる問題に関しては、朝鮮人虐殺隠蔽のための朝鮮総督府による帰郷留学生対策、残留留学生による真相調査・追悼のための組織的活動、1924年以降における留学生社会の再活性化などの諸側面を明らかにした。(4)朝鮮総督府の留学生政策と留学生の対応に関しては、総督府の留学生政策は一貫したものではなく、留学生の抵抗や関東大震災などによって変更を余儀なくされたことを明らかにした。(5)留学生に対するさまざまな「支援」団体の実態とそれに対する留学生の対応に関しては、日本人「内鮮融和」団体では留学生の反発を買うのみで、「効果」がないことが示され、そのような背景の下に「内鮮融和」を標榜しない「支援」団体が現れたことを明らかにした。
ついで筆者は、以上を総合して言えることとして、留学生、朝鮮総督府、「支援」団体という三つのアクターの相互関係に注目することによって、留学生の主体性のあり方を実態に即して包括的に把握することができたと論じている。具体的には、次のような点を指摘している。(1)留学生は総督府の留学政策に一方的に規定されたのではなく、積極的に対応して、その政策を転換させもした。(2)一方で「支援」を願い、受けている留学生もいた。それは「支援」が留学を成立させるために必須であったからである。留学生は「支援」をめぐって、「支援」する側の意図との葛藤の中から、請願、受容/利用、抵抗などさまざまな対応を行ったのであり、抵抗以外の対応も主体性の発露の一形態であったと考えられる。
最後に、筆者は今後の課題として、次の三点を挙げている。第一は、『亜細亜公論』・『大東公論』の内容分析を深めることである。第二は、力行社・自彊会に関して更なる史料調査と分析を行うことである。第三は、研究の対象時期を延ばし、1930年代以降も含めて植民地期全体の留学生について分析していくことである。

3.本論文の成果と問題点

 本論文の第1の成果は、留学生、朝鮮総督府、留学生「支援」団体の三つのアクターの相互関係に注目し、三つのアクターそれぞれの動きについて時期を追って系統的に跡づけることによって、1920年代の在日朝鮮人留学生史を全体として立体的動態的に把握していることである。また、これによって、関東大震災が在日朝鮮人留学生史にとって大きな転換点であったことが説得的に示されている。
 第2の成果は、在日朝鮮人留学生の社会と生活の実態を具体的に明らかにしようとしていることである。第一部第一章における留学生の構成に関する基礎的分析、第二部を通して扱われている寄宿舎問題に関する分析に、その努力がよく現れている。
 第3の成果は、『亜細亜公論』・『大東公論』の記事を検討することによって、『学之光』が現存しない時期についての史料欠如という困難を克服して、在日朝鮮人留学生の現実認識の変化の過程、またその多様性を明らかにしたことである。
 第4の成果は、第二部第三章において、さまざまな留学生「支援」団体について詳細に考察したことであり、新知見を提供したものとして高く評価できる。
第5に、以上の成果を生んだ基礎として、『亜細亜公論』・『大東公論』、阪谷芳郎文書、斉藤実文書、阿部充家文書などを活用したのをはじめ、史料を博捜し、よく解読・分析していることであり、その実証性は高く評価できる。
 本論文の問題点は、第1に、なぜ日本へ留学したのかについて分析を深める必要が残されていることである。そのためには当時の朝鮮における就学状況、日本の学校制度などに関してより深い理解が必要であろう。
 第2に、留学生「支援」団体の「懐柔」策とそれへの留学生の「包摂」をめぐる議論に関わって、「対日協力」の問題について、台湾や東南アジアにおける事例とも比較検討して、分析を深める余地が残されていることである。
 しかし、以上の点は、本人も自覚しており、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した大きな成果を損なうものではない。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究の発展に寄与する充分な成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2010年2月10日

 2010年1月22日、学位論文提出者裵姈美氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「1920年代における在日朝鮮人留学生に関する研究―留学生・朝鮮総督府・「支援」団体―」に基づき、審査委員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、裵姈美氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は裵姈美氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。

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