博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:日中戦争期上海資本家の研究――経済構造の変容と対日関係の模索――
著者:今井 就稔 (IMAI, Narumi)
論文審査委員:佐藤 仁史・城山 智子・坂元 ひろ子・糟谷 憲一

→論文要旨へ

一 本論文の構成

 1937年7月に勃発した日中戦争により、上海が租界の一部を除き日本軍の支配下に置かれた後、1945年8月に戦争が終結するまでの間、上海の人々は長期間にわたり日本軍占領下での生活を余儀なくされた。「淪陷時期」と呼称されるように、日常生活が非常事態に置かれた当該時期の経済史は、史料収集の困難さとも相俟って長らく本格的な学術研究の対象とされてこなかった。このことは、中国有数の経済都市上海の近現代史に関する近年の研究の進展と対比するとより鮮明である。本論文は、従来の研究では十分に検討されてきたとはいい難い戦時期上海の商工業の経済構造の変容を実証すると同時に、経済活動の主要な担い手である資本家を中心とする各企業家・工場・業界団体の対日姿勢や意志決定過程、時局に対する現状認識について検討を加えるものである。研究成果が蓄積されつつある近現代上海史研究の空白を埋めるばかりでなく、日本軍占領下において上海の資本家が、資本家としての経営を維持する努力と、対日協力者(「漢奸」)として批判されるのを回避しようとする立場の狭間で揺れ動く様相を複眼的に分析する枠組に、その内実を与える有意義な論文である。
 本論文の構成は次の通りである。

序章――問題の所在
Ⅰ 中華民国期の上海
Ⅱ 戦時期の上海
Ⅲ 日中戦争史・戦時期上海史研究の課題
Ⅳ 分析対象と視点

第一部 製品の販売――近代中国のマッチ製造業と日本
第1章 日中戦争前夜中国のマッチ製造業と日本――カルテル結成をめぐって
はじめに
Ⅰ マッチ製造業の不振と生産・販売統制への道
Ⅱ カルテルの運営をめぐる対立
Ⅲ 統税脱税問題とカルテル
おわりに
第2章 日本占領下の上海におけるマッチ製造業
はじめに
Ⅰ 日中戦争勃発の影響と日本のマッチ製造業支配
Ⅱ 統制下のマッチ製造業
おわりに

第二部  原料の調達――上海綿紡織業の変容と対日関係
第3章 民国期上海綿業と日中経済関係
はじめに
Ⅰ 上海綿業の発展
Ⅱ 在華紡と中国紡――対立と協調の系譜
おわりに
第4章 日本占領下の上海における敵産処理の変遷過程と日中綿業資本
はじめに
Ⅰ 日中開戦と上海の中国紡工場の接収
Ⅱ アジア・太平洋戦争期における「新敵産」と「旧敵産」
Ⅲ 対華新政策と委任経営工場返還の挫折
おわりに
第5章 戦時期上海における中国紡の対日「合作」事業――棉花の買付けを事例として
はじめに
Ⅰ 棉花の買付けに関する「合作」成立の背景
Ⅱ アジア・太平洋戦争の開戦と日中「合作」の新展開
Ⅲ 商業統制総会の成立と日中綿業資本の「合作」
おわりに

第三部  流通の変容――上海租界の貿易構造と虞洽卿
第6章 日中戦争前期の虞洽卿におけるサイゴン米の買付け活動
はじめに――虞洽卿と上海社会
Ⅰ 戦時期社会租界の米事情
Ⅱ 戦時期上海の米行政と虞洽卿の活動
Ⅲ 虞洽卿によるサイゴン米買付け活動推論
おわりに
第7章 抗戦初期重慶国民政府の経済政策と上海租界――禁運資敵運滬審核辦法の成立過程と上海の商工業
はじめに
Ⅰ 上海経済と奥地
Ⅱ 査禁敵貨条例・禁運資敵物品条例から禁運資敵運滬審核辦法へ
Ⅲ 貿易ルートの変化と辦法の制定
おわりに

終章――総括と展望

(附録)年表
参考文献一覧

二 本論文の要旨

 序章では、先行研究が批判的に整理されるとともに、論文の問題設定がなされている。従来の先行研究において日中戦争期の上海史研究は、抵抗する側の研究を中国史近現代史の研究者が担い、侵略する側の研究をもっぱら日本近現代史の研究者が中心となって進めるという傾向があった。両領域における相互交流は比較的希薄であり、研究成果も互いに十分に参照、消化されたとは言えない状況がある。かかる状況にあって、本論文は両領域で進められてきた成果を消化・統合し、統一的に把握する枠組を提出することを意図するものである。また、占領地において「対日協力」を余儀なくされた資本家を中心とする大企業家層の存在は従来、両研究領域においても対日抗戦に逆行する存在とみなされ、「漢奸」(売国奴)と見なされてきたため、客観的な学術研究はかならずしも十分ではなかった。かかる分析枠組の限界の克服をめざすべく、その客観的素材を提供することも本論文の柱の一つである。
 具体的な論点として、①戦時上海経済の実証研究、②「対日協力」の再検証、③資本家の位置づけがあげられている。第1は、戦前の経済史・企業史の領域における研究蓄積に比して、戦時期は極めて不十分である状況に対して、実証研究を進展させることにある。研究が進展しなかった一因には、戦時期の社会的混乱のなかで、統計史料や企業史料が欠如していること、残された史料も戦中戦後の混乱の中で散逸してしまったという事情がある。これを克服する方法として日本側の史料と中国側の史料を突きあわせて検証する方法が不可欠であると指摘する。
 第2は、「対日協力」の再検証である。従前の研究において対日協力者は「漢奸」と見なされ、告発・非難されるべき存在とされてきた。しかし、「対日協力」することで生存を図らざるをない状況や、日本の軍政下という限られた選択肢の中で、生存・生活するための現実的な関係を構築する主体性については看過されてきた。資本家たちの侵略に対する「生存」の側面を検証することが本論文では意図されている。
 第3は、資本家の位置づけである。資本家とは経済活動を通して利潤を獲得する存在であるため、産業構造や個別の業界のおかれた経済環境を十分把握した上で、「経済の論理」に基づいて彼らの活動を分析する必要があると指摘する。他方、郷紳層に起源を持つ中国の資本家の分析に際しては、租界社会との対抗関係や諸外国との交渉の中で、彼らの中に形成されてきた上海人意識、民族意識をも十分に考慮に入れなければならないと提起している。
 本論は全三部より構成されており、第一部はマッチ製造業と販売の問題、第二部は綿紡績業と原料調達の問題、第三部は米穀をはじめとする物資流通問題が専ら論じられている。
 マッチ製造業について論じる第一部では、中国資本が日本資本と1935年に締結した生産・販売カルテルを素材とし、戦前期から戦中期にかけてのカルテルの質的変容、及び中国資本の対日姿勢を考察することを主題としている。
 第1章では、業界最大手である大中華火柴公司の経営者劉鴻生がカルテルを結成するまでの過程と、山東省の中小資本が劉鴻生らカルテル推進派と対立した背景が考察されている。一般的に当時のカルテルの主眼には日本資本への対抗という目的があったが、マッチ製造業の場合、劉鴻生が在華日本資本に対してもカルテルへの参加を呼びかたという事態があった。これに対して山東の中小企業が猛反発をした。江南地域を拠点とする推進派にとっては、生産・販売面で日本資本の影響は小さいものであり、カルテルの実効性を高めるためにむしろ協調すべき相手であった。したがって、日本側に多少有利な条件を提供してでもカルテルを結ぶことが優先されたのである。他方、山東資本の場合、青島や天津に工場を構える日本資本とはマッチの販売の点において競合するという現実があった。すなわち、これらの地域における中国資本は小規模零細企業が多数を占め、大規模で近代的な設備を有する日本企業は脅威であり、日本側に有利なカルテルは受け入れ難いものであったのである。
 しかしながら、以上の関係を対日妥協的な大手企業と対日抵抗に自覚的な零細企業という対立の構図のみでとらえるのは一面的であることも指摘されている。なぜならば、対立の背景には、統税の脱税問題が存在していたからである。税率の高さ、日本資本との競合、大都市から離れた工場立地、小規模経営に起因する脱税の容易さなどの条件の下で、反対派による脱税はかなり常態化していた。かかる状況の中、カルテルは、価格の維持という本来の目的以外にも、脱税の疑いのある中小企業を統制する役割も推進派によって期待されるようになったことも背景にあったことが解明されている。
 第2章は、劉鴻生らの結成したカルテル組織全国火柴産銷聯営社(聯営社)が、日中戦争勃発とともに占領地支配の一機関に変容する過程と、中国資本の対日関係の模索について検証している。
 日中戦争の勃発によって業務を停止した聯営社は、1938年、日本資本主導によって再建された。しかし、再建後の聯営社は、戦前の聯営社の設立目的と主体が大幅に変化していた。戦前は価格の維持を主眼として中国資本の主導で組織されたものであったが、戦時中の聯営社は、日本の占領地支配の必要性から在華日本資本の主導によってつくられた組織であった。やがて1941年になると、マッチ原料が火薬製造の際にも使用される重要な戦略物資であったため、軍配組合(軍票の価値維持と物資の獲得を目的とする日本軍部の機関)がマッチ製造業を直接支配下に置くに至った。
 続いて、聯営社への中国側の対応が分析される。戦前は企業経営活動を維持するために、世論の反発をある程度覚悟しながらも日本との協力関係を推進した。これに対して、戦時中は日本主導の組織に参加することを余儀なくされるという状況の下、自分たちにより有利な条件を引き出すことを常に模索しており、日本の提案を全面的に受容したわけではなかった。このように、日本との不即不離の関係を保ちつつも、合弁条件や原料の調達などで少しでもよい条件を求めて積極的に働きかけたという戦時下経済の一面に光を当てる。
 第二部は、上海工業の主力であった綿紡績業資本を取り巻く日中関係を分析するものである。
 第3章では、戦前の上海における中国紡と在華紡の関係の変遷を、専ら先行研究に依拠しつつ整理したものであり、その概要は次の通りである。第一次世界大戦中から戦後にかけて上海の中国資本紡績業は、欧米からの綿製品輸入の途絶や国産品愛用運動の高まりなどによって黄金時代を迎えた。一方、日本の紡績業は、賃金の急激な増大や太糸部門の競争力低下を背景に、第一次世界大戦終結前後から陸続と中国に進出し、上海にも多くの工場を設けるに至った。民国期上海綿紡績業が、二つの勢力の対抗や競争の中で形成された点に最大の特徴を見いだしている。
 第4章は、日中戦争期における中国紡と在華紡の関係を具体的に実証することを目的として、両工場の経営者と日本軍の関係者を交えて進められた中国紡工場の返還交渉を検証したものである。日中戦争の勃発後、〔上海の租界に対する〕華界にあった中国紡工場は日本軍に占領され、在華紡に委任経営されることとなった。また、租界内に一時的に避難した中国の資本家たちも、アジア・太平洋戦争の勃発後に日本軍が租界へと進駐し、経済活動の拠点を失ったことに伴い、軍部や在華紡と関係を持つことを余儀なくされた。
 日本側に視点を移せば、占領地政策も行きづまりをみせる中、日本側も中国紡資本家の経済力と地域社会への影響力を利用する方向に方針を転換した。中国の資本家を取り込むための中心的手段が、在華紡の委任経営する中国紡工場の返還であったのである。しかしながら、日本軍部が返還の条件を日中合弁としたことや在華紡側による強硬な反対によって、返還の理念は骨抜きとされてしまい、結局、中国紡側の支持は得られなかった。
 ところで、返還の過程においては、マッチ製造業と同様の占領下における交渉の構図が見られたという。すなわち、中国紡側は占領下という特殊な状況のもと、軍部や在華紡関係者を巧みに利用することで、なるべく有利な経営条件を引き出さんと働きかけたのである。
 第5章では、棉花の買付け事業の事例研究を通して、中国紡の戦時期の対日協力活動について検討される。アジア・太平洋戦争の勃発後、日本軍の租界進駐に伴い、租界に避難することで経済活動を継続し、戦時特需によって多額の利益を蓄積してきた上海資本家も対日協力を余儀なくされた。綿紡績工業の場合、外国棉花の輸入途絶により、日本軍支配下にある江南地方の棉花に依存せざるを得なくなった。上海資本家が「対日協力」を行う根拠となる論理とは、社会の混乱を収拾して地域住民の生活秩序を維持するためという伝統的地方名望家のそれを大義名分とするものであり、彼らが対日協力に積極的であったわけではないことが看破される。そして、かかる論理を掲げることで日本の傀儡行政機構の幹部に就任したり、経営環境の維持を求めて在華紡や軍部に働きかけを行ったりする者もいたという。
 実態経済の分析や軍や在華紡との具体的交渉過程を解き明かすことで中国資本の「対日協力」を検証した結果、日本による支配の中国側による受容が必ずしも全面的でなかったことが指摘されている。なぜならば、対日抗戦を放棄し、「民族性」の欠如した存在として従来否定的に見なされてきた対日協力者であるが、実際の「対日協力」の過程の検証からは、日本占領下という著しい制約をともなう環境の下でも経営条件をより有利に維持しようと積極的に活動したことがみてとれるからである。
 第三部では、経済活動のうち流通に着目して戦時上海における物資流通の変容を検討するとともに、日本軍の進駐以前に一時繁栄を謳歌した租界経済の抗日戦争上の意義を検討する。
 第6章は、汽船会社の経営者であると同時に、上海有数の名望家でもあった虞洽卿という人物の活動を上海の経済構造の変化を視野に入れつつ検討するものである。虞洽卿は、蒋介石と親密な関係を保ち、南京国民政府成立の財政経済的な基盤を提供しており、租界当局との緊張関係の中でも、中国人の主権の回復を目指して活躍するなど、民国期上海社会の指導的な立場にあった。重要な人物であるにもかかわらず、戦時期の活動については、彼の最晩年にあたることもあって、あまり関心がもたれていなかった。本章は殆ど研究の俎上にのせられなかった史実を発掘したものである。
 日中戦争が勃発すると、上海租界に大量の難民が押し寄せるとともに、近郊の農村からの米の供給が途絶えたため、上海社会は深刻な米不足に直面する。かかる事態に直面し、虞洽卿はサイゴン米の買付け活動を展開した。この活動については、米の輸入統計や配給活動など経済史的側面を加味して検討すると、難民救済を通じて上海社会の秩序を維持し、米不足から上海市民を救おうとする点において、彼の「民族性」の側面を見いだすことが出来るという。
 一方で、虞洽卿はサイゴン米買い付けの過程において不当な利益を得たことも指摘されているように、サイゴンと上海両地の米価の価格差や虞洽卿が有する経営資源は、大きな経済的利益を得ることができる条件としても作用しえたのである。ところで、虞洽卿による米取引による不当な利益獲得に対する評価の「ぶれ」には、外国米の大量輸入によって、従来の流通ルートで利益を得ていた米商人が影響を受けることから、不当利益が殊更に強調された点にも注意を向けなければならないと注意を促す。
 第7章は、対日抗戦を続ける重慶国民政府が、上海租界経済に対していかなる態度で臨み、いかなる政策を取らんとしたのかを、禁運資敵運滬審核辦法(以下、辦法)という法律の制定過程に注目しつつ検証している。日中戦争勃発当初、重慶政府は禁運資敵物品条例や査禁敵貨条例を制定し、日本軍占領地との物資流通を禁絶する策を講じた。その一環として、上海租界も物資の移出を制限されることとなった。しかし、条例制定からまもない1939年3月、移出緩和措置を求める虞洽卿ら寧波・温州〔ともに浙江省沿海部〕商人の請願に押され、国民政府は辦法を制定し、必要な手続きを経ることで上海租界への物資の移出を認めるに至った。
 政策の急転換の背景にあったのは次のような現実である。国民政府としては、戦争中も私的利益を蓄積する上海資本家は批判すべき対象であったが、新たな貿易ルートとして重要性を増した寧波・温州などの港湾から戦時経済建設に必要な物資を流通させるには、上海資本家に頼らざるを得なかったのである。辦法が、理念と現実との微妙なバランスの上に成立したものであること、すなわち、上海租界経済の戦略的な意義を国民政府が認めざるを得なかったことの象徴であると結論づけている。
 終章では、以上の研究成果を総合したうえで、上海資本家の活動を分析する際には、経済活動・企業経営の側面が有した「経済の論理」と、ナショナリズムの主体として彼らが有していた「民族の論理」の双方を意識し、それぞれの論理がいかなる状況のもと、いかにして表出したのかを検証する必要性を提唱している。

三 評価と判定

 本論文は、手堅く緻密な実証面における貢献を中心として、上海近代史研究を着実に進展させた有意義な論文として評価することできる。本論文の成果は次の5点である。
第1は、古厩忠夫が提唱した「経済の論理」と「民族の論理」という分析の枠組に対して、上海資本家の活動と言説に着目しつつ、マッチ製造業と販売、綿紡績業とその原料調達、米穀をはじめとする物資流通という異なる種類の経済活動について着実な実証することを通じて内実を与えたことである。戦時期上海の資本家は、「民族資本」「買弁資本」「愛国資本家」「漢奸」等の政治的な基準で長らく分類・評価されてきたが、戦時期の上海の資本家・諸企業の動向・諸活動を「経済の論理」という視点から捉えた上で、経済史的・社会史的視野から日中戦争期の経済活動を実証的に解明する点は大いに評価できる。いわば、経済史的アプローチと社会史アプローチの併用とも言い換えることのできる複眼的な方法によって、史料上の制約の大きい戦時期上海社会の一端を立体的に描くことに成功しているともいえよう。なお、分析枠組の研磨は今なお十分であるとは言えないが、これは当該領域の研究が緒に就いたばかりであるからでもあり、「経済の論理」と「民族の論理」という枠組を用いて戦時上海以外の時期における研究にも分析を広げることが期待される。
第2は、従来「漢奸」(売国奴)として断罪される根拠であった、資本家たちの「対日協力」に関する現場レヴェルの実態を具体的に描き出している点である。日本軍占領下の上海において資本家たちは、日本軍や傀儡政権、日本企業との協力関係を余儀なくされたが、協力の実態や日本側との交渉過程を丹念に検証することによって、異なる「対日協力」像を提示している。すなわち、対日協力にふみきった資本家たちはかならずしも日本の支配を全面的に受容したわけではなく、極めて限定された状況の下、自らの企業の経営環境を改善すべく、日本側からより有利な状況を引きださんとしながら、戦時期における「生存」空間の確保を模索するしたたかさをも有していたのである。角度を変えれば、このようなしたたかさも一種の「抵抗」としてとらえることができよう。かかる指摘は、日本帝国主義史にせよ中国抗日戦争史にせよ、日本帝国主義を打倒するために武装闘争によって不屈に、果敢に戦う中国民衆という前提を一端棚上げし、戦時下の「生活者」としての角度から戦時期上海を捉える観点をも提示している。
 第3は、資本家個人をはじめとする戦時下上海人の戦時や対日協力に関する認識の実相、企業内部の意志決定過程にまで検討を及ぼした点である。もちろん史料上の制約が少なくなく、十全に行われたとはいえないが、このような着眼点による研究は今後その展開が期待される。例えば、資本家の事例ではないが、本論文においては、中国紡の中国人技術者の動向にも触れられており、彼らが民族主義的な心情を有しつつも、対日経済絶交や在華紡商品のボイコットといった急進的方法には批判的な態度をとり、経営や技術の刷新を通じての在華紡との格差を縮めていくことの重要性を認識していたことを明らかにした点は極めて示唆に富む。
 第4は、特にアジア・太平洋戦争が勃発した1941年以降を中心とする戦時統制経済が上海経済や上海資本家にもたらした影響を、「孤島」時期の租界における相対的に自由な経済活動との対比において、極めて具体的に描き出している点である。このことは本論文が、マッチ製造業、綿紡績業、米穀をはじめとする物資流通業という上海民衆の日常生活と密接な関係にあったセクターを取り上げたことの有効性を示している。他の地域や時期に目を転じれば、戦時統制は重慶政府支配下においても実施されており、また中華人民共和国建国後の経済体制とも共通点が多い。本論文における上海を対象とした実証分析は、異なる時期・地域との比較分析の素材を提供するという点においても意義を有している。
 第5は、史料操作上の戦略である。既刊の中国語史料を分析の土台としつつも、占領下・戦時下という特殊な状況のため欠落の多い統計データを中心として、日本語の一次史料を突き合わせることによってその不備を補っている。その上で、中国の関連機関に所蔵される檔案史料を活用することによって、戦時期上海経済の実態に迫っている。大陸の中国史研究者による成果が大量に公表される近年の中国史研究において、日本語史料を活用することは極めて日本人研究者にとって有効な方法であり、学界への寄与も大きいと思われる。
 
以上のように本論文の成果が学界に寄与する点は多いが、同時に今後克服すべき幾つかの問題点もまた指摘できる。
第1は、本論文が対象とする日中戦争期が、アジア・太平洋戦争の勃発した1941年を画期として前後で大きく状況が異なることを必ずしも明示的に論述しているとは限らない点である。上述した通り、日中戦争勃発後も租界は、特殊な状況下において繁栄を謳歌したものの、1941年以降の日本軍占領後は戦時統制下に置かれている。本論文では、かかる時期区分が曖昧なまま日中戦争期全体として記述する傾向にあるため、1941年前後の変化が明確に現れているとは言い難い。
第2に、上海資本家が交渉・協力を余儀なくされた日本側に対する分析が不足していることが指摘できる。日本占領地における統治制度を十分に明らかにしたとは言えないため、統治の主体、政策決定過程の位置づけを読者にはっきりと示すことができていない。本論文の目的の一つに「現場レヴェル」での日中関係を標榜しているからには、上海資本家が現場において対応せざるを得なかった相手が制度上どのような立場にあったのかを分析することは不可欠であろう。
第3は、上海資本家の社会的側面の位置づけについてである。地方エリートとしての顔も有する上海資本家に地域社会の秩序維持や民衆保護の役割が期待されたことが文中において言及されている。かかる役割が期待された背景を実証的に示すには、上海資本家の具体的な人間関係が明らかにされる必要があろう。本論文で言及された虞洽卿や劉鴻生が有していた力量の源泉の一つとして寧波同郷会が推測されるが、両者の関係や動向を分析することもその一つの鍵となるように思われる。
なお、本論文で引用された漢文史料の読解には妥当ではない箇所が存在していたことを指摘したい。日中双方の史料を突き合わせることによって史料の読みの深化をはかる本論文にとって、基本的な誤読は論証の土台を崩しかねない。刊行までに修正されることを希望する。
本論文はかような課題を残しつつも、これらは全て本人のすでに自覚するところでもあり、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。緻密かつ丁寧な実証によって少なからぬ新事実を明らかにした本論文は、上述の問題点を克服すれば公刊に値する水準に達していると思われる。
以上のように、審査員一同は本論文が当該分野の研究に大きく寄与しうる成果を挙げたと認め、今井就稔氏に対して一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2010年2月10日

 平成22年1月21日、博士学位請求論文提出者今井就稔氏の論文に対して最終試験を行った。試験においては、提出論文「日中戦争期上海資本家の研究――経済構造の変容と対日関係の模索――」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対して、今井就稔氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は今井就稔氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

このページの一番上へ