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博士論文審査要旨

論文題目:水平社未組織地域の部落差別撤廃運動  ―神奈川県青和会を事例として―
著者:大高 俊一郎 (OTAKA, Shunichiro)
論文審査委員:田﨑 宣義・渡辺 治・渡辺 尚志・若尾 政希

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1.本論文の構成
 本論文は、1920~30年代半ばにおける融和団体・神奈川県青和会(以下、青和会と表記)の活動を多面的に分析したものである。
 本論文の構成は次のとおりである。
序章
 1節 本論文の対象
 2節 研究史
 3節 本論文の課題と方法
1章 青和会設立までの神奈川の部落問題とその特徴
 1節 神奈川県における部落改善運動
 2節 神奈川県における被差別部落と部落問題の特徴
2章 青和会における思想と部落問題認識
 1節 神奈川県による部落問題対策の開始と青和会の設立
 2節 青和会指導者の部落問題認識
 3節 会員の社会認識と人生への問い
 4節 中村無外の人生哲学とその影響力
3章 啓発活動の実践と規律・訓練的権力
 1節 青和会による教化網の利用とその目的
 2節 会員の部落問題認識の深化
 3節 規律・訓練的権力としての青和会
 4節 青和会による女性教化の取り組み
 5節 教化政策の受け皿としての青和会
4章 被差別部落と融和運動
 1節 被差別部落出身会員の構成
 2節 差別に対抗する主体の形成とその限界
 3節 青和会における内部自覚運動の受容と展開
 4節 部落経済更生運動の展開と向上心の喚起
5章 地域社会のなかの部落問題と融和運動
 1節 長島重三郎の経歴と思想
 2節 部落問題対策への着手と地域社会の意識
 3節 長島重三郎による村内社会教化活動の主導権掌握過程
 4節 村政と部落問題・融和運動
終章
 1節 解散までの青和会の活動
 2節 結論
参考文献
付記

2.本論文の概要
 
 序章では、本論文での分析対象の概略、融和運動と青和会の研究史の整理、本論文の課題と方法が論じられる。1節では、神奈川県では被差別部落の比率が低く、そのため部落差別撤廃に取り組むこと自体に忌避感情が強いこと、また県内に水平社が組織されず、半官半民の融和団体・青和会が部落差別撤廃運動を展開したという全国的にもユニークな地域であったことが指摘される。2節では、融和運動史研究と本論文が扱う青和会についての研究史整理が行われる。このうち融和運動の研究史については、当初は水平運動に対する敵対物と評価されていた融和運動が、1980年代に入ると、部落差別撤廃運動に果たした役割が評価されるようになり、研究史上の関心も、自主的な運動として出発した融和運動が内務省による国民統合政策に組み込まれる過程に集まるようになり、現在もなおこの延長上にあるとする。また青和会については、上記の研究史の流れに沿う形で研究が蓄積されているに過ぎず、青和会がどのようにして反部落差別意識を県内に浸透させたかという関心からの青和会の分析は行われていないことを指摘する。3節では本論文の課題と方法が提示される。本論文全体の課題は、水平運動が存在せず部落問題の比重が小さい地域でどのようにして反部落差別意識(部落差別は不当であるとする意識)が社会に浸透したかを明らかにすることにあるとし、それを以下の4つの課題を通して検討することに置かれる。第1は、青和会が設立された理由と会に参加した人々の社会意識を同時代の社会思潮などを視野に入れて明らかにする、第2は、青和会が反部落差別意識を社会に浸透させた方法を明らかにする、第3は融和運動と融和事業が被差別部落出身者に対してもった意味を問う、第4に具体的な地域社会の中での融和運動の展開過程を検証する、の4点である。
 1章では、青和会成立以前の県内の部落問題とその特徴が論じられる。1節では、県内での被差別部落の存在形態を統計的に検討し、全国的に見て被差別部落の比率が低く、分布に偏りが強かったこと、したがって被差別部落の存在が意識されにくい状況であったことが示される。2節では、青和会の成立に先だって取り組まれた部落改善運動の事例が2つ取り上げられる。一方の事例は部落外の有力者が主導した部落改善運動、他方は部落内の有力者が取り組んだ改善運動である。このうち後者は小田急の新駅の位置を巡って村内を二分する対立となり、たまたま水平運動の広がりと時期的に重なったため、県当局が水平運動への展開を警戒する契機となったことなどが示される。
 以上を前提に、2章1節ではまず青和会の設立過程とその組織上の特徴を論ずる。1924年の青和会の設立は1922年からの地方改善事業の一環をなすが、同時に水平運動防止の役割を期待され、会の役員には県知事・県内務部長・県内務部社会課長らが名を連ね、会の運営を実際に担当する理事には県内務部社会課嘱託職員と地域社会の指導者層である町村長や小学校教員らが就いたこと、また青和会の設立過程は、支部設立も含め、民力涵養運動の一環として取り組まれたことなどが指摘される。次いで2節では、1920年代の青和会は部落外の差別意識の除去に活動の重点を置いたことを示し、これが青和会を主導した円覚寺住職中村無外の、人格の絶対的な平等を強調する思想によること、また理事の県吏らも人格の平等を主張したが、それは第1次大戦後の総力戦を念頭に置いた国家構想によるものであったことを指摘する。また青和会支部長層は中村や県吏の人格平等論を受容しつつも、地方自治の安定向上を担う立場から改善主義的な部落問題認識を持ち、会のイデオローグ、県吏、地方支部長それぞれに異なる考え方を内在させつつ啓蒙活動が行われたことを明らかにする。3節では、青和会の「人格の平等」が青年層を中心とする会員になぜ受け入れられたかを会誌『青和』への寄稿を通して検討する。会員の多くは、現状の社会が人間らしさを喪失させることに問題を感じ、現状の社会に理想社会を対置し、その中でよりよく生きることを模索しており、それが部落差別を非とし、人格の絶対的平等を説く中村無外の考え方と生き方に共鳴する基盤となったとする(4節)。
 3章では、部落外の人々に対する青和会の活動の特徴が論じられる。神奈川県は融和運動に対する忌避感情が強いため、青和会は、修養団・男女青年団などの教化団体を通して反部落差別意識の浸透を図ったが、このことが青和会に他団体、とくに修養団の思想や実践方法を浸透させることにもなったこと、またその結果として、労働者や女性の教化、教化総動員や内鮮融和などを実践する主体を馴致する場ともなったことを指摘する。
 4章では、青和会が進めた融和運動と青和会会員の1~2割をしめた被差別部落出身者との関係が論じられる(1節)。2節では、青和会が掲げる穏健な手段による啓発に疑問を感じた被差別部落出身の会員が、修養団の講習会などを通して、被差別部落側の改善・向上を模索する方向に向かわせられたことに融和運動の限界を指摘する。次いで、1928年に提唱された内部自覚運動が青和会の運動を変化させ(3節)、さらに昭和恐慌対策の中で、融和運動の軸足が経済対策に移り、また青和会の運動を率いてきた中村無外が常務理事を退き、後任に報徳思想や修養団に熱心な人物が就くことで、青和会の部落問題に対する姿勢に大きな転換が生じたことなどが明らかにされる(4節)。
 5章では、青和会支部長・長島重三郎を取りあげ、行政村の中での青和会の活動の実態が、長島の日記や回想録、『青和』への寄稿文などによって検証される。長島は地元小学校の教員で政治的には社会民衆党の片山哲に共感を示す社会改良主義的な立場に立ち、学校教育と社会教化を通して地域社会の安定と向上をめざした(1節)。1922年に地方改善常務委員を引き受けて被差別部落の人々の意向を尊重しつつ部落改善事業に取り組み、翌年には青和会会員となって1925年に支部長に就任する。長島の啓発活動は自彊会支部と青和会との連携を特徴としたが、村内では融和運動に対する忌避感情が強いため、長島は地域社会への青和会の定着と社会教化活動を一体のものとして取り組んだ(2節)。小学校教員が地域社会の教化に取り組むことに積極的な校長が着任して村の雰囲気も変わり、長島が地域社会での社会教化活動の主導権を掌握する中で女子修養会が発足し、青和会支部と連携した融和運動が進められるようになる。しかし戦時体制下に女子修養会が銃後活動に活動領域を広げると部落問題への取り組みは縮小した(3節)。以上の長島の動きを検討した上で、この間の村政と被差別部落の関係を検討し、普選実施が被差別部落の比重を高めたことが指摘される(4節)。
 終章1節では、これまで正面から検討されることのなかった1930年代半ばから1941年の解散までの青和会の動きが検討され、戦時体制期下に国策に対する有用度で人間が測られるようになり、融和運動の論理が大きく転換することが指摘される。また2節では、これまでの分析から3点が引き出される。第1は、青和会の教化団体との連携が全国的な動向に対し先駆的位置を占めること、第2に、青和会が、会に集う人々の求める理想的な社会への構想の中に反部落差別意識を位置づけて、融和運動を進めたこと、第3に、青和会の活動は地域社会の人々全体を矯正する権力として機能したこと、が提示される。

3.本論文の成果と問題点

 本論文の成果は、まず第1に、神奈川県青和会の成立から解散までを、支部の動きも組み入れながら明らかにしたことである。水平運動の敵対物と見なされていた融和運動が研究の俎上に上ったのは1980年代に入ってからであるが、それ以来、各地の事例の発掘が続けられている。青和会についても先行研究があるが、その扱いは融和運動史の一事例としての扱いといってよく、本論文が展開した詳細で具体的な検証を伴ったものではなかった。本研究によって、青和会研究が深められた意義は大きい。
 第2に、これまでの融和運動史研究では試みられたことのない新しい課題と方法を用いて、新たな歴史像を提示したことである。また緻密な実証手続きが説得力を強めている。被差別部落の比重が低く分布にも偏りの大きい神奈川県でなぜ融和団体が成立し、どのようにして部落問題に対する忌避意識を克服しながら融和運動を展開したか、といった課題設定は著者の独創性を表しているが、本論文が提示した課題と方法は融和運動史研究に止まらず、他の社会運動史の分析にも適用できるものであり、その貢献は評価に値する。
 以上のように、本論文には研究史上大きな意義を認められるが、もとより今後に残された課題もないわけではない。
 まず、論文中で援用されている「通俗道徳」「生命主義」「総力戦体制」などの諸概念の著者の理解について更に踏み込んだ叙述があれば、一段と理解しやすいものになったと思われること、また本論文全体の課題を4つに分け、それぞれについて検討する構成をとっているため、運動のダイナミズムや立体感が後景に退く嫌いがあるように感じられる。
 ただし、こうした問題点は著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のことから、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、大高俊一郎氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2010年2月10日

 2010年1月27日、学位論文提出者大高俊一郎氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「水平社未組織地域の部落差別撤廃運動」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、大高俊一郎氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は、大高俊一郎氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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