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博士論文審査要旨

論文題目:《自己知》とは何か:「精神現象学」の方法と経験
著者:片山 善博 (KATAYAMA, Yoshihiro)
論文審査委員:嶋崎 隆、岩佐 茂、深澤英隆

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1.本論文の構成
 本論文の構成は以下の通りである。

 序説
 第一部 〈自己知〉の方法論
  第一章 意識の経験の学の方法論
  第二章 意識の経験と絶対知
 第二部 〈自己知〉の経験の歩み
  第三章 自己意識論の射程
  第四章 近代的主体性の意義と限界
  第五章 近代的主体性の問題圏(フランス革命をめぐって)
  第六章 良心論の射程
 第三部 〈自己知〉とは何か - 生と死の弁証法 -
  第七章 生命論の意味するもの
  第八章 『現象学』における〈死と再生の意義〉
 結論
 文献目録


2.本論文の要旨

 本論文は「意識の経験の学」とも題されている『精神現象学』という古典的大著に、自己を知るとは何かという著者の問題設定にしたがって緻密で周到な解釈を加えようとしたものである。周知のようにドイツ観念論の大成者ヘーゲルによって書かれた本書は、恐ろしく難解な著作として知られているが、同書は著者によれば自己とは何かというソクラテス以来の根本テーマにそくして再構成されることができる。そこでは個人(対自)と他者(対他)と共同体(即自)を媒介する論理がヘーゲルによって追究されているのである。著者は『精神現象学』冒頭の「意識」章を別として、ほとんどの章にわたって本格的に論じており、400字にして560枚にわたる本論文はその点でも力作であるといえる。

 第一部「<自己知>の方法論」では、「緒論(Einleitung)」と最終章「絶対知」の考察をとおして、『精神現象学』が意識の経験を主題にしたものであることが論じられる。そのさい、著者は、ヘーゲルの言う意識の経験には、意識の経験の歩みと意識の経験の学との二重の意味が含意されていることに注目して、両者の関係を方法論的な角度から問うのである。

 まずその第一章で、著者は、意識の経験の歩みの視点に立つ「意識にとって(fur es)」の知(現象知)と意識の経験の学の視点に立つ「我々にとって(fur uns )」の知(絶対知)との関係を、「緒論」の考察を中心に検討する。両者の関係については、従来の解釈は、現象知である意識の経験の歩みを重視して、「我々」を意識の経験の外部に押しやろうとする解釈と、学の立場に立つ「我々」が意識の経験を先導しているという解釈とに大別され、どちらもヘーゲル解釈としては一面的であることが指摘される。

 ヘーゲルにとっては、知は、たんに主観のうちに成立するものではない。それは、意識と対象との関係、およびその関係の自己吟味のうちに成立するものとされている。著者は、この知の自己吟味のあり方のうちに、意識の経験の歩み(現象知)に内在しながらも、それをのり超えていく「我々」の経験の視点を看取するのである。「我々」の経験は、意識の経験の歩みに内在しながらも、それとは位相を異にするものとされている。

 そのさい、知の自己吟味の「尺度」とされているのは、意識の内部で真理とみなされている即自である。現象知である意識の経験は、自ら真理と確信している即自が真理ではないことに気づき、自分にとっての即自(第一の即自)を否定して、新たな即自(第二の即自)を対象としていくが、この過程において、「我々」は、現象知からは区別された即自を吟味して、それを学として実現していくのである。現象知の即自からは区別された「我々」にとっての即自とは、現象の背後にある本質にほかならない。著者は、現象知にかかわる意識の経験の歩みのうちに、現象の本質を明らかにすることによって、その歩みに内的必然性を与えて学に導く「我々」の経験を看取しようとするのである。

 このような知の自己吟味の経験は、ヘーゲルによれば、たんに対象知の深化を示すだけではない。自己吟味の経験そのものが自己認識を深めていく過程でもある。著者は、この過程を自己知として特徴づける。そして、この自己知の究極のあり方を示すのが「絶対知」にほかならないとする。絶対知は、知が対象の他者性を完全に廃棄して対象を自己としてつかみとる境位(Element)であるが、そこは、「意識にとって」と「我々にとって」という二重の経験がたどりつき、一致する地点でもある。この絶対知を現象知との関係において改めて考察しているのが第二章である。

 絶対知の考察において、著者がとくに重視するのは、「絶対知」の章の直前におかれた「宗教」章である。両者を一体のものとして解釈しようとするのが、著者の立場にほかならない。ヘーゲルによれば、実体の主体化ということがテーマとなっている「宗教」章では、絶対的な内容が経験の対象となっているが、表象によってしかとらえられないという制約をもっている。著者は、「啓示宗教」を具体的に分析するなかで、たとえば、イエスの死と再生という宗教的表象のうちに、自己否定のうちにある否定的意味とともに肯定的意味をもつかみ取る意識の経験を看取することによって、「宗教」章のもつ意義を明確にするのである。

 「宗教」章では表象によってしかつかむことのできなかった絶対的な内容を、概念としてとらえるのが絶対知の境位である。概念とは、絶対的な内容の他者性を廃棄してそれを自己として把握する運動のことであるが、この運動は、「絶対知」の章では、現象知の総体が自己意識の外化(自己否定)として、それゆえ自己認識の深化として、あくまで意識の経験のレベルでとらえられたものとして展開されることになる。この点では、著者は、絶対知は自己意識において成立するものとみなすのである。また、『精神現象学』が「緒論」で言う「意識の経験の学」であるのか、「序論(Vorrede)」でいう「精神の現象学」であるのかという解釈の分かれにかんしても、著者は、『精神現象学』が徹頭徹尾、意識の経験を主題にしたものであり、「意識にとって」の側面を強調するのか、「我々にとって」の側面を強調するのかという違いがあるだけで、基本的に主題の違いはないと主張するのである。

 第二部「〈自己知〉の経験の歩み」は本論文のなかでもっとも分量の多い箇所である。ここでは、「自己意識」の章を皮切りに、近代を切り開く人類的な経験を、近代的な主体性の成立、啓蒙思想やフランス革命などの意義と限界、さらに良心論の新しい解釈などを中心テーマとして、ヘーゲル独特の粘っこい論理にそって解明しようとする。

 まず第三章では、自己と同類の他者を発見した自己意識が、欲望と享受の生命主体としてふるまう段階から、「生死を賭けた闘争」と労働や奉仕の経験をへて、さらに自己否定と相互承認の論理を媒介として自己自身の自立性を獲得する事態が描かれる。ここで著者はイポリットやガダマーのヘーゲル解釈を批判して、欲望をもった生命としての自分とより高次の自己意識としての自分のあいだには、連続性と非連続性の両面があると解釈する。本章の「結語」において著者は、自己意識の章をきわめてわかりやすくまとめている。

 第四章では、近代的主体性のさまざまなあり方、およびその意義と限界が原理的に描かれるが、これは『精神現象学』の「理性」の章のB節とC節に該当する。この箇所では、個人が「市民的共同性」をいかに規定し、自覚するかが問題とされる。ところでまず、著者は共同体の実現である「人倫の王国」として古代ギリシャのポリスを提示する。すでに近代はこれを喪失しており、近代人は再度高次元で人倫的共同体を獲得しなければならない。ここで著者はヘーゲルの叙述を丁寧に再現しながら、近代人(行為する理性)がいかにして試行錯誤を重ねながら相互の社会的共同性をかたちづくっていくかを執拗に追究する。というのも、著者が掲げる「自己知」というのは、大きくはまさにこの近代社会の形成という歴史の段階で複雑かつ具体的に示されるからである。

 まずヘーゲルは、快楽を追求するファウスト的人間、それから主観的なこころの法則を世界に妥当させようとする人間、普遍的な徳をふりかざし世間に立ち向かうドンキホーテ的人間を描き、いずれもが現実にぶちあたり挫折し、かえって現実が自分のよって立つ基盤であることを学習し、自覚するさまを叙述する。そこには実は一定の公共的な秩序があり、こうして各個人は自分のおこなう仕事(Werk)が他者との共同作品であり、すでに現実が自分自身にとってそれほど疎遠なものでないことも自覚する。ヘーゲルがさらにすすんで、「事そのもの(Sache selbst)」というとき、著者はこれにはルカーチやイポリットの解釈があると述べつつ、それを自身はフランス革命における理念のように、市民社会を支える共同性の理念ととらえるのが妥当だとする。さらにまたこの社会では、個人と社会の矛盾のみならず、諸個人が相互に欺瞞をひきおこす矛盾が見られるという。そこでは、諸個人が利己的欲求を実現しようとしながらも、全体としてそこに一定の社会システムが成立している。著者によれば、ヘーゲルはこうした近代的主体性の運動を内在的に把握することによって、そのなかから展望を見いだそうとする。この点から結論されることは、個人を社会形成の出発点とする近代的主体性の構想の限界である。さらにまた、ここで注目されるのは、著者が以上の叙述にそくして、ヘーゲルが「即自-対自-対他」の弁証法的なダイナミズムを展望していると結論することである。この弁証法的図式は、この「事そのもの」の場面においてはじめて現れるとされるが、「即自」は当該社会に存在する法則的な普遍性、「対自」は自立せる個人、「対他」は個人と他者との関係である。この三者の有機的連関こそ著者によれば、ヘーゲルのいう精神の論理構造であるという。

 第五章は以上のように原理的に展開された近代的主体性を、啓蒙思想やその帰結であるフランス革命という歴史的事件にそくしてさらに詳しく吟味しようとする。まず著者は、ヘーゲルのいう疎外的現実とは、さきの「即自-対自-対他」の諸契機がばらばらになったことであると指摘しつつ、ヘーゲルの啓蒙観を明らかにする。ここにおけるヘーゲルの叙述は錯綜しているが、いずれにしても、この啓蒙の運動が一定の積極的な意義を示しながらも、内部から矛盾を露呈するさまが描かれる。さて、啓蒙は反省的な知によってフランスの絶対王政に対抗するが、同時に信仰や迷信にも戦いを挑む。しかし崇拝物に固執する信仰を批判しながらも、啓蒙もまた地上の感覚物にとらわれ、唯物論となり、市民社会のなかで観念論と同位対立を形成してしまう。ところで、近代的主体性の思想であるこの啓蒙的な知のあり方は、世界を個別的な意志から導き出し、それをルソー的な一般意志へと重ね合わせる。こうして絶対的な自由を掲げる啓蒙的意識は、フランス革命という実践的場面でテロルへと突入する。こうして、啓蒙とフランス革命について詳細な批判を加えるなかで、著者はフランス革命の評価に関連して、「区別を再び現実的区別として展開する」というようなヘーゲルの叙述に注目する。「深読み」であるがとことわりつつ、著者はこの箇所において、新たな共同体的な実体の現実的可能性が示唆されているのではないかと指摘する。さらにまたそれと対応するかたちで、著者はこうした新しい共同体をつかみとろうとする、我々の知の生成もこのさい語られているという。後者にかんしては、以上の展開のなかで普遍性が知のレベルで問題にされているといわれ、これがさらにのちほど、道徳論として問題とされる。著者はこうして金子らの解釈を退けつつ、新たな共同体の可能性と、それに積極的に照応する道徳的な知の存在を指摘する。

 第六章における良心論では、フランス革命をのり超えて、新たな人倫的共同体を構築するための主体的な意識としての良心が論ぜられる。したがって良心とは、たんなるロマン主義的で内面的な「美しき魂」などではなく、存在する実体の自己知ないし自己意識として再解釈される。そしてまた、この良心論では、啓蒙の社会契約説による社会形成に対置させられる別の共同体形成のあり方が見込まれていると著者は指摘する。こうした構想のなかで、自己否定を契機としてはらむ相互承認論こそが啓蒙的主体性へのアンチテーゼだとしつつ、ヘーゲルはカント的な道徳意識を批判する。道徳性と自然ないし幸福とは調和すべきであると要請されるが、実はそれは単なる要請にとどまっている。結局、この立場はつねに自分の彼岸に普遍的な世界を想定し、本当の意味での統一をもたらすことはない。それを超える良心の立場は、自分自身の内部に自己確信をもっている。それは実は「即自-対自-対他」という有機的連関を内部にもち、著者の解釈によれば、ヘーゲルの良心論は他者への承認を求め、共同体形成へとむかうものである。そして最後にこの良心論では、普遍性に依拠する批評する良心と、個別性に依拠する行動する良心とがそれぞれ議論される。両者ともに自分に絶対的確信をもっているが、実はそれぞれ一面的であることがわかる。そこで両者は相互に承認しあい、ここではじめて他者との関わりを失うことなく、自己であることができる。こうして「精神」の章の幕が閉じられる。

 第三部「<自己知>とは何か―生と死の弁証法―」において著者は、第一部および第二部を通じて、とくに「自己否定」による自己実現の過程として考察をすすめてきた自己知の問題を、また別の角度から掘り下げてゆこうとする。ここで問題となってくるのが、「精神」章までの否定性から、「宗教」章における経験の肯定的把握への転換である。「宗教」章では、経験の総体が「必然性」をもったものとして肯定的に把握されるに至るが、著書はこの否定性から肯定性への契機となる「必然性」の性格と論理を探ろうと試みる。著者はここで「生命」の問題系をとりあげ、この必然性を支える論理を、「生命」の論理に基づく「精神」および「宗教」の構造のなかに見いだそうとする。

 第七章において著者はまず、「自己意識」章冒頭の生命論に着目する。ヘーゲルは、生命レベルにおいては個体の自立と個体の廃棄が同時的であり、また個体間の相互否定において生命の全体性と流動性が成立すると考えるが、著者はこの「否定的運動」にヘーゲルが「類の生成」を、さらにはその類の自覚に自己意識の成立を見ていることを明らかにする。ここからすれば、生命の自己知の作用が自己意識であることになるが、このことは同時に、自己意識が生命であると同時に「生命からの自立」という二重性をもっていることを示唆している。ここで著者が特に注目するのは、この生命と精神の運動の相同性と、さらに両者の決定的な差異である。つまり、精神の運動は外ならぬ「自己知」を決定的な基軸としており、精神は否定性のなかに身をおき、それに耐えることによって、つまりは「死」の自覚のなかでこそ生の充実を達成・維持してゆくのである。これは同時に、「否定の否定」ともいうべき「死と再生」のプロセスとも特徴づけることができる。

 こうした展開を受けて、第八章で著者は、ヘーゲルにおける「死」と「死の自覚」の意味を探ってゆく。すなわち著者は、ヘーゲルが「死」を「消滅にすぎない死」と「精神的なものに転化する死」との二重性でとらえており、こうした両面的プロセスを通じての「自己知」の生成こそが『精神現象学』の大きな主題を形づくっていると見るのである。著者の分析の主たる対象となるのは、「精神」章および「宗教」章に展開される「ギリシア共同体」「芸術宗教」および「啓示宗教」の叙述である。ヘーゲルによれば、古代ギリシアにおいては、生と死が一体化するかたちで共同性の基盤になっていたが、そこには「死」の自覚が欠けていた。その自覚のきっかけとなるのが、ギリシア共同体の崩壊であり、ヘーゲルは「芸術宗教」の生成に神の死をも読み込んでいる、と著者は見る。この神の人間化ないし死と自己知の形成の問題は、著者によれば「啓示宗教」をめぐるヘーゲルの考察に引き継がれる。著者はヘーゲルによる三位一体の教義の解釈に、三重の意味での死と再生の主題化を見、キリスト教の再解釈を通じて精神の無限性の自覚を叙述するヘーゲルの立場を明示する。さらに著者は、ヘーゲルのキリスト教団論にも、自覚的な精神の共同体としての人倫的共同体の構想がひそむことを指摘する。ギリシャ的共同体の喪失や神の死は、著者によれば「実体の喪失」であるとともに「実体の主体化」を表している。かくして啓示宗教における「死の自覚」、すなわち自己の有限性の自覚は、同時に実体の主体化の自覚に支えられた教団=共同体の意識へと結びついてゆく。このように著者は、否定性=死に媒介された生と再生の論理を、経験の総体に必然性を見いだし、それを肯定的に引き受けて行く論理として、また新たな、自覚的な共同的生を導き出す論理として特徴づけるのである。

 「結論」において著者は、あらためて本論文の中心的主題であったヘーゲルの「自己知」の方法論と、それを主題化するさいの自らの視点を整理・約述するとともに、ヘーゲルの哲学作業の特質と、その背後にある問題意識を指摘する。著者によれば、ヘーゲルは自己意識における自己知に学としての知の生成を見たわけであるが、その生成の運動は、さまざまな対象と関わりつつ、自己意識がそれを自らの契機としてゆくことにあり、それは同時に自律的自由と他者との共同という一見矛盾したあり方のうちに、自己意識が「精神の自己化」を成し遂げつつ、共同性を自覚してゆくことでもあった。著者によれば、これは分裂と疎外のなかにある近代社会においていかにして「承認」概念を構想しうるかという問いにたいする、ヘーゲルの回答であった。いずれにせよヘーゲルは、自己知の問題を意識内在的に問うのみでなく、歴史的社会経験の自己吟味というかたちでとらえ返した。著者はヘーゲルの『精神現象学』におけるこの方法論的特質に、ヘーゲル哲学のアクチュアリティとリアリティを見るとともに、知の「情報化」、「生命倫理」、「他者関係」などの今日的問題にたいするヘーゲル哲学の応用可能性を示唆しつつ、本論文を結んでいる。


3.本論文の成果と問題点

 本論文の第一の意義は、『精神現象学』という難解きわまる大古典を素材として、まずその基本性格や現象学独自の方法論(「我々にとって」と「意識にとって」の区別の問題など)から始めて、内外の多数の研究文献を参照・批判しつつ、このテキストを周到に、かなり広範囲にわたってきわめて説得的なかたちで読解した点にある。このテキストの読解に注ぎ込んだ著者のエネルギーには膨大なものがあるが、それによってはじめて綿密で粘り強い解釈が可能となったと思われる。第二に、『精神現象学』を「自己知」の形成・発展として読み込もうとした著者の意図はおおむね成功しており、その意図のもとで、「即自-対自-対他」の弁証法や良心論の解釈など、従来の解釈を超えて、新しい見方が打ち出されているように考えられる。第三に、『精神現象学』の中心テーマとして、おもに近代的主体性の問題と、生と死さらに再生の弁証法とを扱い、その箇所を丁寧に詳論したことは、この著作の性格からいってきわめて適切かつ興味深いものとみなされる。というのも、近代的主体性の是非こそ時代がヘーゲルに課した大問題であり、また生と死のダイナミズムの議論こそ、もっとも弁証法的といえるからである。こうして著者は、従来の『精神現象学』の解釈の歴史に新たな一頁を加えることができたといえよう。またこの二つの問題は、現代的観点からも依然として大きな意義をもつものと思われる。

 ただし問題点もなくはない。第一に、さらに巨大なヘーゲル哲学体系の存在を考慮に入れると、その全体系のなかでの『精神現象学』の位置はどういうものなのかというような問題が提起され、解明されてしかるべきであった。こうした試みがさらにいっそうこの著作の性格づけを明らかにすると考えられるからだ。こうした場合にはじめて、一般にヘーゲル弁証法が「即自-対自-即自かつ対自」(『大論理学』)と規定されることとのかかわりで、著者が提起した「即自-対自-対他」の図式の意義が正当に論じられるものと思われる。さらに第二に、ヘーゲルを離れて、こうした試みが現代においてどういう意義と射程をもちうるのかを展開してほしかった。この点では著者は、「結論」において生命論や自己と他者の問題などを示唆しているが、残念ながら具体的展開はない。だが、以上のような不十分性はあるものの、これらの問題は将来の課題とみなしてよいだろう。

 以上において、審査委員会は、本論文が博士の学位を授与するのに必要な水準を満たしていることを認定し、片山善博氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

1999年6月28日

 1999年5月14日、学位論文提出者片山善博氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、提出論文「〈自己知〉とは何か ―『精神現象学』の方法と経験 ―」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのにたいして、片山氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は、片山善博氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判定した。

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