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博士論文審査要旨

論文題目:キルケゴールと「キリスト教界」
著者:須藤 孝也 (SUTO, Takaya)
論文審査委員:深澤 英隆・平子 友長・嶋崎 隆・阪西 紀子

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 1 本論文の構成
 須藤孝也氏の博士論文「キルケゴールと『キリスト教界』」は、デンマークの思想家キルケゴ—ルの思想を、同時代デンマークの「キリスト教界」という文脈のなかで考察することによって、前期および後期キルケゴール思想の包括的再検討を行うとともに、現代の思想状況のなかでキルケゴールがもつ可能性と限界などをも詳細に考察した、質量ともに非常に充実した力編である。
 本論文の構成は以下の通りである。

序論
第一部 前期キルケゴールのキリスト教人間学
第一章 実存弁証法と「形而上学」批判
第一節 主体性の発展
第二節 インコグニト、諸段階の関係
第三節 形而上学を拒む実存
第四節 人格、伝達、ネガティヴィティ
第二章 キリスト教主義の思想
第一節 第二倫理学
第二節 反復
第三節 前期仮名著作の「詐術」
第四節 前提としての信仰
第二部 キルケゴールと「キリスト教界」
第三章 後期キルケゴール思想の展開
第一節 近世デンマーク史
第二節 隣人愛
第三節 大衆と単独者
第四節 卑賤論の提示をめぐる煩悶
第五節 義務と恩寵
第四章 フォイエルバッハと人間主義の問題
第一節 フォイエルバッハのヘーゲル理解
第二節 投影論と卑賤論
第三節 フォイエルバッハの「新しい哲学」
第四節 投影論を超克する論理
第五節 キリスト教主義と人間主義
第五章 キルケゴールと「キリスト教界」
第一節 キルケゴールのキリスト教史理解
第二節 キルケゴールの自己理解
第三節 教会との関わり
第四節 宗教と政治
第三部 キリスト教界内の思想家としてのキルケゴール
第六章 「キリスト教界」批判とキリスト教主義
第一節 現象としての「キリスト教界」と理念としてのキリスト教
第二節 実定宗教としてのキリスト教
第三節 キリスト教主義が含む哲学的理解
第四節 奥義の思想
第五節 キリスト教界改革としてのキルケゴール思想
第七章 素朴性の問題
第一節 信仰主義の反省性と素朴性
第二節 「哲学」批判の現代性
第三節 素朴性の所在
第四節 「キリスト教界」という文脈
第八章 キルケゴールと現代
第一節 世俗化
第二節 キリスト教文化の所在
第三節 形而上学批判の諸相
第四節 哲学と歴史学
第五節 展望
結論
引用文献

2 本論文の概要
 第一部は、1846年までの「前期」におけるキルケゴールの思想が展開する人間論が扱われるふたつの章からなる。第一章では、キルケゴールの人間理解の中核をなすものとして知られている、実存の弁証法的発展段階説をとりあげ、キルケゴールの実存理解の実体に迫る。通常美的人間から倫理的人間を経て宗教的人間に至るというキルケゴールの実存段階説は、一方向的な発展段階論として理解されがちである。美的人間が自己の外部にある時間的なものに価値を見出すのに対し、倫理的人間は自己のうちに永遠なものを見出す。しかし、永遠なものという理念に関わり、永遠なものを自らの実践において実現しようとする倫理的人間の企ては、永遠性と時間性の質的差異により挫折せざるをえず、そこから、自己にのみならず、同時に神にも関わる宗教的実存への発展が可能となるとされる。本論文では、まずこれらの実存類型を単純な一方向的発展と見る見方が退けられるとともに、諸段階を媒介する「イロニー」と「フモール」の位置づけが、詳しく検討される。さらに著者は、キルケゴールの実存論的人間理解が、「形而上学」批判として呈示されている点に着目する。キルケゴールによれば、形而上学は「永遠の相のもとに」、必然性の観点から実存を「認識」するものの、実存を本当には把握せず、美的な段階にとどまらざるをえない。なぜなら、実存は偶然性を己のうちに含みながら「生成」するものであり、生きられるものだからである。キルケゴールの形而上学批判においてとくに重要な概念が、「人格」の概念である。倫理的実存はまさに「人格」への生成なのであり、宗教的実存もまた、「単独者」として神と人格的に関わることによって自覚されてくる。このようにキルケゴールにおいては、神は人格的交わりの対象にほかならないが、さらにキルケゴールは、読者が人格を有する存在であることにも留意し、自らの思想を他者の実存に働きかけ、その発展を促すようなかたちで伝達を行おうとする。それが、宗教的ポジティヴィティのネガティヴな伝達としての、キルケゴールのいわゆる「間接伝達」にほかならない、と著者は言う。
 続く第二章では、そうした人間理解が、キルケゴールにおいて明らかにキリスト教信仰に基礎付けを求めていることが検討される。キルケゴールを「哲学者」として捉える際にしばしば看過されることであるが、キルケゴール思想において信仰は、哲学的推論により導出されるものではなく、むしろ逆にあらゆる思考がそのうえに立つべき第一前提なのである。著者は、キルケゴール思想のこうした「キリスト教主義」的性格を、キルケゴール思想の特徴的な概念である「第二倫理」および「反復」の概念の解明を通じて明らかにしようとうする。キルケゴールは、ソクラテスの時代に見られる人間本性を基盤とした倫理を、「第一倫理」と呼ぶ。キルケゴールによれば、人間の罪性を考慮しないこの倫理は、挫折を余儀なくされる。その後を受けるものとしてキルケゴールは、人間の原罪と神の受肉のうえに立つ「第二倫理」の必然性を主張する。キリスト教思想の中核概念のひとつである「反復」もまた、著者によればこの文脈に置くことができる。一見して多義的なこの概念の根幹にあるのは、やはり神の受肉である。つまり「反復」という運動において人間は、観念と実在とを照合させ、また過去を一端廃棄しつつ自らを神に譲渡することによって、現在において未来を神から受け取り直すことができるのである。また、仮名という「詐術」を用いて行われた前期キルケゴールの著作活動そのものもまた、神への信仰という問題と切っても切れぬ関係にあった。キルケゴールは、その著作を読むことによって、読者が「キリスト者と成る」きっかけを提供することを、意図していた。仮名著者は、キリスト教的実存になお至らぬ者として設定されたが、これを読むことによって、キリスト者を自認するキリスト教界の人々は自己関係へと導かれ、自己反省へと促されるはずであった。キルケゴールの前期著作の「美的」性格は、こうした「詐術」を遂行するための手段であった。キルケゴール思想が求めているのは、キリスト教の真理の論証ではない。むしろその真理性はキルケゴールの思想作業の前提であり、その著作の意図するところは、誤ったキリスト教信仰に立つ者に反省を迫り、正しいキリスト教的実存へと教導することであった。
 第三章から第五章までで構成される第二部においては、後期キルケゴールの思想が、「キリスト教界」との関連のもとに跡づけられる。第三章では、後期キルケゴール思想の中枢概念である、「隣人愛」が考察される。この隣人愛の倫理において、キルケゴールのキリスト教主義思想が遺憾なく表れている。キルケゴールによれば、人間と人間の直接的な相互関係は、愛の関係を実現しえない。キルケゴールにとっては、人間はまず神に関わり、次いで神を経由して他者に関わることによってのみ、他者に対して愛を差し向けることができる。著者はまた、通常個体的存在様態と考えられがちなキルケゴールの「単独者」概念を子細に検討し、この概念が、神を経由して他者に関わる者を意味することを示す。つまり「単独者」は自ら神に関わることによって、他者を愛する者なのである。こうした一方、キルケゴールが「愛の業」の模範としたのが、「卑賤のキリスト」の理念である。キルケゴールにとってキリストは、永遠性に発する愛を解さぬ「この世」によって磔にされることになった存在である。後期のキルケゴールは、このような卑賤のキリストを「倣う」ことを、「キリスト者」の要件ないし義務として、強調する。もっともしばしばなされる誤解であるが、これはキルケゴールにおける恩寵論の欠如を意味するのではない。キルケゴールによれば、もし義務がないならば、それを果たし損ねることもなく、また義務を果たし損ねることがないのならば、神による赦しもまた不要のものとなるのである。
 続く第四章では、キルケゴール思想とフォイエルバッハの人間主義との比較がなされる。著者によれば、「自由思想家」としてのフォイエルバッハは、神を信じず、神学を人間学として読み替えた思想家である。ところがキルケゴールは、フォイエルバッハのキリスト教理解の正当性を認めていた。というのも、フォイエルバッハが、キリスト教の核心的理念を卑賤に見ていたからである。こうして著者は、キリスト教認識においては重なるところのある両者を比較検討し、それによってキルケゴール思想の「キリスト教主義的」性格を明るみに出そうとする。フォイエルバッハは、当時のキリスト教会がおよそ卑賤とはことなるこの世的繁栄を享受していることを指摘する。この点でキルケゴールはフォイエルバッハのキリスト教理解と軌を一にする。とはいえ、キルケゴールにとってキリスト教は、そもそも理解の対象ではなく、信仰する対象であり、実践的・人格的に関わる対象である。キルケゴールからしてみれば、フォイエルバッハは、キリスト教を理解しつつも、キリスト教に「躓いた」のである。さらにキルケゴールは、フォイエルバッハのいわゆる「投影論」の妥当性をも認める。しかしそれと同時にキルケゴールは、投影関係が見出されるとしても、そのように神が彼岸と此岸を創造したと考えることがなお可能であるとした。
 第5章では、キルケゴールの「キリスト教界」との関わりが、当時のデンマーク教会の指導的存在であった、J・P・ミュンスター監督との交渉を軸に考察される。キルケゴールによれば、外面性の宗教であるカトリシズムと異なり、プロテスタンティズムは、キリスト教が内面性の宗教であることを理解していた。しかし、内面性を強調するあまり、内面性が外面性へと転化すべきことを見損なったとして、キルケゴールは、ルターおよびプロテスタンティズムを厳しく批判する。隣人愛の実践は、外的実践として現実になされるべきものなのである。こうしたキルケゴールのキリスト教理解を確認した上で、著者は、日記等の資料に基づきつつ、当時のデンマークの「キリスト教界」を指導する地位にあったJ・P・ミュンスターとキルケゴールとの関わりを克明に跡づけてゆく。ミュンスターは、キルケゴールの父、ミカエルとも親しく、ミカエルは、キルケゴールに対しても、ミュンスターのようになるよう宗教教育を行った。キルケゴールもまた、ミカエルを敬愛し、ミカエルの意を受けて、牧師職に就くことを願っていた。しかしキルケゴールとミュンスターの間にはやがて軋轢が生じるようになる。キルケゴールは、ミュンスターを「正しいキリスト者理解」へと導くべく、著作活動によってアピールするが、ミュンスターはこれに理解することなく他界してしまう。キルケゴールは、国家教会に対して改善を迫るものの、教会制度そのものに対しては批判的ではなかった。しかしミュンスターの後任のH・L・マーテンセンとも、キリスト教理解をめぐり対立を余儀なくされた。こうした経緯から、キルケゴールは、最晩年に教会攻撃を開始することとなった。キルケゴールの執拗な教会批判の趣旨は、教会がキリスト者たることの要件である卑賤のキリストの倣いを忘却し、現状肯定的なキリスト教理解に陥っていたことへの、治療的介入であったと著者は特徴づける。
 第六章から第八章までで構成される第三部では、これまでの議論をふまえたうえで、キルケゴールを改めて「キリスト教界」内の思想家として特徴づけるとともに、現代の「ポスト形而上学」の諸思想と対比しつつ、キルケゴール思想の可能性と限界を測定することが試みられる。 
 第六章で、著者はまず、キルケゴール思想が理念と現象の二元論に立ったキリスト教主義的思想であることを指摘する。ここからキルケゴールは、理念としてのキリスト教を信仰し、それを規範として、現象としてのキリスト教界のあるべき姿を描いた。一方キルケゴールは、この二元論のゆえに、理念からずれたキリスト教界を批判しつつも、その存在を是認することができた。いずれにせよ、キルケゴールが信仰したキリスト教は、実定宗教としてのキリスト教であり、著者は、デリダやレヴィナスらキルケゴールとも縁の深い思想家とも比較しつつ、キリストにおける神の啓示を信じ、現実のキリスト教界に立脚した思想を展開した点にキルケゴール思想の特徴があることを重ねて強調する。著者はまた、キルケゴール思想の二元論的構成が、個別と普遍の関係の理解にも表れる点にも着目する。そこでは、個別性の思想であるとの通念とは異なり、キルケゴールの思想が、キリスト教主義によって普遍性のもとに包括されるような個別性を考えていることが指摘される。またその普遍性は、先在する普遍性ではなく、達成すべき普遍性、万人がキリストを介して神に関わって初めて達成される普遍性であるとされる。キルケゴールの思想は、この点から見ても、キリスト教界を改革すべく構想されたものであった。
 第七章では、キルケゴール思想に見られる「素朴性」の問題が取り上げられる。キルケゴール思想、ことにその前期に展開される形而上学批判には、現代哲学を先取りするような深い反省的思考が見られる。こうした一方で、前章でもあらためて確認されたように、キリスト教の「真理」性に関しては、そうした反省が信仰の「素朴性」のうちで停止するかに見える。著者は、デリダ、ニーチェ、フーコーなどと対比しつつ、キルケゴールのこうした両義性を浮き彫りにする。著者によれば、こうした反省性と素朴性の交錯は、キルケゴール思想が「キリスト教界」内で機能すべく編まれたがゆえに、避けがたいことであった。キルケゴールの念頭には素朴な一般信徒の存在があり、キルケゴールは、彼らと教会との調和的関係を望んでいた。ミュンスターへの働きかけの動機は、キルケゴールが、理念のもとに集う共同体を目指していたことにあった。キルケゴールは、理念を告げ知らせる立場にあるミュンスターを通じて、「キリスト教界」の改善がなされるものと考えたのである。このように、キルケゴールが企てたのはあくまで「上からの」改革であり、「民主主義的な」下からの改革ではなかったが、しばしば言われるキルケゴールの「大衆」批判ということとは別に、キリスト教信仰の次元では、キルケゴールは民衆の素朴性を肯定する立場にあった。
 最終章である第八章では、これまでのキルケゴールのキリスト教思想家としての分析を受けて,現代の様々な形而上学批判の議論との対比のもとに、あらためてキルケゴール思想を特徴づけ、その思想的射程を推し量る試みがなされる。著者はまず、「世俗化」の概念のさまざまな意味を挙示するとともに、キルケゴールのテクストにおいて、この世俗化の事態に言及がなされている箇所を検討する。これによって著者は、キルケゴールの企てが、「キリスト教界」が世俗化してゆくことに抗する試みであったことを明らかにする。またキルケゴールは、「キリスト教界」においてキリスト教が「文化」や「教養」と化している事態を、強く批判していた。幼児洗礼に代表されるようなキリスト教の文化化に対し、キルケゴールは卑賤の倣いをキリスト教者のあるべき姿として対比した。こうした一方で、20世紀におけるようなヨーロッパ世界の全面的世俗化とキリスト教の信憑性喪失はなお、キルケゴールの思想形成の文脈をなすものではなかった。すでに前章で見たように、キルケゴールは一方では鋭利な「形而上学」批判を展開したが、しかし他方では、「伝統的な」キリスト教主義の枠内にとどまってもいた。著者はこれに対して、キルケゴールの愛が、あくまでキリスト者相互の間での愛にとどまっていること、「キリスト教界」の外部が視野に入っていないことに、キルケゴールの限界をも見ている。また、著者はキルケゴールの思想の現代的意味を、その形而上学批判の分析を通じて探り出そうとする。デリダ、ヴィトゲンシュタイン、ローティらの思想との対比を通じて明らかになるのは、20世紀の哲学史に見出される形而上学批判の見方からすれば、キリスト教主義としてのキルケゴール思想は、いまだ基礎づけ主義的であり、普遍主義的であり、本質論的であるとの事実である。こうした性格をキルケゴール思想が残したのは、それがあくまで「キリスト教界」の内部で編まれた思想であったことによる。異文化間の衝突と相互理解の可能性について思考することが現代哲学の枢要な課題となっているのに対し、キルケゴールにおいては、キリスト教界内部に見出される問題のみがもっぱら考察され、キリスト教界の外部については、ほとんど考察すべき事柄とは見られなかった。しかし、こうした現代との不一致は、何らキルケゴール思想それ自体の欠陥を示すものではない。著者は、むしろ、いかなる意味で共同体は思想の条件となるのか、今日における共同体と思想の共軛関係をいかに理解すべきか、といった問いに際して、我々はキルケゴールとキリスト教界との関係を一つの範例として用いることができると述べる。
 論末の「結語」において著者は、これまでキルケゴールはその都度の読者によって「現在的」に読まれることが多かったとの事実を指摘し、キリスト教形而上学的、実存哲学的、および現代哲学的キルケゴール論の妥当性を検証する。まずキリスト教形而上学的な読みは、キルケゴール思想に、キリスト教の有する真理の普遍的正当化を読み込むという過ちをおかしている。また実存哲学的読みは、キルケゴール思想のキリスト教主義を軽視し、単なる人間主義の思想と解釈しがちである。さらに現代哲学的読みは、キルケゴールにおいて確かにヘーゲル批判に見られるような形而上学批判は見いだされるものの、キリスト教の「真理」性への確信にもとづく普遍主義や絶対主義や基礎づけ主義もまた見いだされるということを十分に考慮していない。こうした点を確認した上で著者は、キリスト教の形而上学による正当化を批判しながらキリスト教の正当性を信じていたり、教会を批判しながら教会を信頼していたり、卑賤を要求しながらそれを果たせないことを容認していたり、絶望を語りながら敬虔な信仰を堅持していたり、反省的な著作を書き残しながら素朴な信仰を称揚していたりと、キルケゴール思想がなお様々な局面において両義的な姿を見せることを認める。しかし、著者はこれに対して、現代の文脈からキルケゴールを眺めたときに、それが両義的な存在に見えるとしても、キルケゴール思想それ自体は、決して両義的であるのではなく、この世的なものとあの世的なもの、人間的なものと神的なもの(あるいはキリスト教的なもの)、時間的なものと永遠的なもの、等々の二項対立を「弁証法」的につなげ、またその両項の一方を高める仕方で論じるものであると指摘する。その際、高次の項は、もともと神にその起源を見出すのであり、そしてまた、両項は同一性へと解消されることもない。というのも、低次の項は、他方の項を上に押し上げるために、機能し続けるからである。
 このように、一見したところ分裂して見える状況に遭遇しても、キルケゴールは、神とキリストの物語から演繹的にこれを理解することができると信じていた。したがって、キルケゴールの立場からすれば、キルケゴールのうちに見出される両義性は、むしろキルケゴールに両義性を見出す眼差しのうちに存することになると著者は言う。キルケゴールは、世俗化のような状況に直面しても、キリスト教主義的弁証法によって、キリスト教の立場から状況を記述し続けることができる。こうして、キルケゴールを理解しようとする者は、自身を理解するよう促される。キルケゴール研究の現代的意義は、このようなキルケゴールとの対峙に、キルケゴールからの照り返しを我々が真摯に引き受けるところに存すると著者は言う。キルケゴールを理解しようとする作業は、我々がいかなる存在であるのかを問い直す作業と表裏をなすのであり、キルケゴール思想の特徴付けは、我々自身の特徴付けとなるというのが、本論文の最終的結論である。
3 本論文の成果と問題点
 本論文の成果としては、以下の諸点を指摘することができる。
 まず著者は過去から現在に至るキルケゴール研究史をふまえたうえで、キルケゴールをめぐる諸論争を整理し、自らの議論のポジションを明確に設定している。またその際に「キリスト教主義の思想家」としてキルケゴールを見るという著者の観点は、キルケゴールの思想実践の核心に迫る点で有効であった。
 さらに著者がこうした観点から、キルケゴールの全体像をとらえようとしたことも、大いに評価できる。すなわち著者は、「キリスト教界の思想家」という視座設定により、通常いずれか一方に比重がおかれがちな前期および後期の思想、さらには実践者としてのキルケゴールの営みの全体を、一貫したかたちで主題化することに成功している。
 第三に、論者はキルケゴールを同時代デンマークの「キリスト教界」という文脈において、この意味では歴史的過去の諸事実に照らしつつキルケゴールの思想と実践を克明に跡づけるとともに、「ポスト形而上学」の時代とも言われる現代の思想状況においてキルケゴールの思想がもつ意味と限界をも立ち入って論じている。その際安易にキルケゴールの思想を現代化することを慎み、一度キルケゴールの思想と実践をコンテクスト化したうえで、著者の言い方で言えれば「間接的に」現代の諸思想家と比較対照している点は、大いに評価されていい。
 第四に、著者がキルケゴールの豊富な引用文をすべてデンマーク語原典より自ら訳出している点も高い評価に値する。これによってキルケゴールのテクストが元来もつ微妙なニュアンスが、読む者に十分伝わったと言っていい。
 一方、今後の課題とすべき点もいくつか見いだされる。
 まず著者は、キルケゴールを「キリスト教界」内の思想家として描いている。これはこれまでの研究史がキルケゴールを超歴史的な哲学者として解釈しがちであったことを考えると、重要な試みである。つまり本論文ではいわば内と外という二分法的分割がなされ、その一方にキルケゴールが位置づけられているのであるが、すでにキルケゴールの時代がキリスト教への懐疑に満ちた時代であったことや、またキルケゴールのしばしば両義的なテクストの、単純な信仰主義とは言いがたい性格を考えるならば、この内と外という二分法は、もう一度、少なくとも部分的には相対化して考える必要があると言える。
 第二に、著者はキルケゴール思想を同時代の文脈に位置づけて論じており、その点が本論文の強みでもあるが、やはり著者の議論の主眼が思想という側面にあるため、デンマーク史や、キルケゴールの時代のキリスト教界の具体的状況についての記述は、いささか表面的なものにとどまっていると言わざるをえない。また著書『現代の批判』で展開されているような、キルケゴールの同時代批判についても、あまり詳しく言及されていない。もちろん精細な社会史や制度史・教会論争史が論の主眼ではないとはいえ、こうした点で今少し立ち入った記述がなされてもよかった。
 とはいえ、こうした問題点は著者もよく自覚するところであり、本論文の学問的成果を損なうものでは全くない。

4 結論
 審査員一同は、上記のような評価と、2010年1月20日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2010年2月10日

 2010年1月20日、学位請求論文提出者須藤孝也氏の論文についての最終試験を行った。試験においては審査委員が、提出論文「キルケゴールと『キリスト教界』」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、須藤孝也氏はいずれも十分な説明を与えた。
  よって審査委員一同は須藤孝也氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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